瓜二つの男があった。片方は生きており、片方は死んでいた。


呪詛まじない返し
M. K. ザムコフスキイ 著
夕凪 瑞穂 訳


 ペテルブルグの大路を出て、西に30露里(訳注:約32km)ばかり行き尽くすと、榛や松の茂る向こうに、ペテルゴフ外郭の長閑な町並みが見えてくる。皇帝一家の夏離宮や、ロイヒテンベルク公爵の館よりは手前の、いまだ開化の波が押し寄せていない界隈である。道は石畳でなく、轍の跡がくっきり残る泥地だ。道端にはからす麦だの、紫色をした草藤だの、花の終わった雛菊だのがわんさと茂り、灰をまぶしたような空に向かって、及ばずながら抵抗の色を見せている。そうした遠慮を知らぬ野生の交歓から身を潜めるように、朽ちかけた納屋がぽつねんと蹲っていたり、籐編の揺り椅子なんぞが寄る辺もなく、時折吹き付ける生温い風に吹かれて、ぎいぎい音を立てていたりする。
 男の死体は斯くの如き田園の外れ、ルゴヴァヤ通りの端に立つ家の中にあった。家といっても、工場勤めの石工や細工師が住むような長屋ではない、粋な英国仕込みの破風までついた、別荘小屋ダーチャと呼ぶには立派な屋敷だ。平屋ばかりの一円にあって、この館だけが二階建だった。南向きの大きな窓にはぴたりと雨戸が下ろされ、不心得者どもの野卑な目を頑なに拒んでいる。門柱に寄り添う鬼百合の花は、数日前まで威勢よく咲いていたに違いないが、今や家庭を襲った不幸に胸を引き裂かれ、くすんだ色に萎れては頭を垂れていた。
 この屋敷の心臓、冬になれば赤々と燃え盛るだろう暖炉ペチカの前で、男は事切れていたのである。傷もなければ、病のあとも残さず、細君や親族、巡査、医者、その他の奉公人たちに取り囲まれて――そして、アレクセイ・ネーモフが本庁からここまで呼び付けられた経緯いきさつも、全てはこの死せる男と、瓜二つのもう片割れにあるのだった。
 
 それは紛れもなく季節の変わるときだった。陽光煌めく夏は、入り組んだ運河の隅々までも照らそうとするうち、都の底冷えする悪徳に嬲り者にされ、すっかり力尽きかけていた。堂々としたシベリヤ杉や黒松たちが、揺るぎなく青い葉をつけたまま聳えているとしても、その陰に入って一息つこうという気魄すら、もう残されていないのだ。あと一月ばかり辛抱すれば、此度はふくよかで派手好きな秋が、楓や白樺の枝に光り輝く吊るし飾りを渡しながら、彼の最後の吐息を引き受けてゆくことだろう。それまでは、疎まれ者の刺草いらくさが辛うじてこさえてくれた寝床で、這い回るとかげや蜘蛛たちにすら気にも留められず、ただ薄れ果ててゆくほかない。
 ――自分の運命もまた同じだ、とアレクセイは独りちた。彼は25の、いよいよ盛りの時を迎えようという若者だったが、その未来に望みを抱くどころか、人生のうちで最も幸福な季節は過ぎ去りつつあるのだという考えを持っていた。ペテルブルグからの委任状を携えて、紋章つきの三頭立馬車トロイカに乗り込むときさえ、彼はいつでも怏々として身を強張らせ、馭者とろくに話もせずに、細長い指の爪を噛んでいるばかりだった。

 ――面構えだけなら、――アレクセイは胸のうちで呟き、六角形のタイルで張られた床に横たわる男を見下ろした。祭壇に飾られた聖母子像ほどには暖かみも憐れみもない目で。
 ――この男もおれと同じく、冴えない星回りをたまわった身の上と見えるがねえ。
 これは半分ばかり本心ではなかったが、もう半分は客観的に見て正しいというのが彼の思いだった。死んだ男は痩せて額が広く、黒髪はまだ艶々としていたが、掻き毟ったように乱れていた。目は暗く窪んで、眉間にはっきりと皺が寄り、薄い唇はかさついて、生前でさえ活き活きとした血の色を宿したことはなかったろうと感じられる。四十路に差し掛かっていよいよ安穏というものを得られず、暗い下町で独りウオツカを呷っている、そんな風体であった。ところが正体のほどはそうでもなかったのである。
「しかしね、同じ年、同じ月、同じ日の同じ時に生まれたといって、兄弟は同じにならんものですな」
 遺体の傍についていた中年の巡査が、あまり遠慮の見られない声で言った。
「パーヴェル・イワノヴィッチ、兵学校を出て中央銀行勤めでしたかな。25にもならんのに、こうも大層な別荘を構えられるたあ、実にご御立派なことだ」
 深く感じ入るように巡査は言ったが、アレクセイは夕刊の三行広告でも眺めるように気のない顔のままだった。それから、とても年下とは思われぬ男の風貌を今一度じろりと見た。――虎の子の500ルーブルを信託しようという時に、応接へこんな男が顔を出したなら、客もさぞ財布を取り出すのを躊躇うことだろう。
「畠も広びろだし、奉公人もみなよく働くしで、やはり徳なんでしょうな。ぜんたい、細君からして器量よしだ。ひきかえ……」

 巡査のやっかみ半分といった調子を聞き流しながら、アレクセイは死人から目を逸らし、ちらと壁に掛かった鏡を窺った。豪奢ではないが十分凝った金枠の中に、生白い肌の若者がいて、びいどろ玉みたいな緑の目を一点に据えている。彼はなるほど、床に倒れた男よりは年若に見えたが、顔つきに表れ出る病んだ気配といったら、死人と大差のない塩梅であった。頬にも首にも大した肉は付いておらず、ふっくらした健康的な張り等とは全くの無縁だ。父親譲りの金髪は早いうちから色褪せて、金というよりかは真鍮のようになり、骨がちな額に張り付いている。左のこめかみは、すぐ傍を強い力で何か通り過ぎていったように抉れているし、眉もなんだか萎びて薄く、まして雄々しい口髭などは望むべくもない。
 死せる男とアレクセイの間には、風采のほかにもいくらか共通点があった。例えばアレクセイだって、兵学校は出ているのである――ロシヤで随一を誇る、ペテルブルグの陸軍貴族幼年学校を卒業したばかりか、続けて大学にさえ行った。軍隊ではむろん士官の位を得た。本当ならこの時点で、まあ9等官ぐらいの望みはあったはずなのだ。けれども二者の運命はここで枝分かれし、前者は誰もが羨む高給取りの銀行員になったが、後者は兵役から戻ってこのかた、ずっと14等――つまり、およそ役人と呼ばれる者たちの中では最下等――で、俸給も年に215ルーブル止まりなのだった。
「……兄のほうは、ま、この御時世にまじない師なんぞと名乗っておるぐらいですからな、手元不如意で不思議はない。弟が死ねば、むろん最初に細君へ遺産がいきますが、それを除けば親も子もない身だ、次に多くもらうのは兄ですよ。遺産目当てというのは十分に有り得る」
 ここへ来て一転、巡査の口ぶりが他人ごとじみて、ぞんざいに突き放すばかりとなった。アレクセイは鏡のうちから注意を引き戻し、巡査のぴかぴか光った金ボタンを睨みつけ、
 ――小役人めが。
 と、口には出さないまでも胸の内で吐き捨て、低く唸った。とはいえ、一堂に介したペテルブルグ市民の中で、いちばんの小役人はといえば、アレクセイ・ネーモフに相違ないのであった。なにしろ、彼が馬車を降りて門前へ姿を現したとき、たまたま玄関のところに立っていた巡査は、この若者の肩章にたったの一つしか星がないのを見、しっしっと片手を振って追い払おうとしたほどなのだ。だが、それも彼が本庁からの書状を見せるまでのことだった。
「いや、いや、しかし無駄話の時間はまったくありやしませんからな、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ。書面ではもうご承知でしょうが、ひとつその現物をご覧になっては。ちょうど検分も済んだ頃合いでしょう。下手人もまだおりますからな、何なりと尋問ができますよ」
 ひとくさり兄弟の暮らし向きについて高説をぶってから、巡査はアレクセイに向き直り、居間を出てゆく扉を指して慇懃に勧めた。
「ああ、そうするよ、旦那」
 アレクセイはぶっきらぼうに答えると、床に下ろしていた革かばんを取り上げて、くたびれた長靴を踏み鳴らしていった。白とベロ藍とで見事に塗り分けられた床に、穴の空きかかった靴底は耳障りな軋みを立てる。後ろから巡査が胴間声で、
 ――寝室ですよ、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ! 道にお迷いなさるなよ!
 と世話を焼いたが、彼はもう一言だって耳を傾ける気にはならなかった。

 幸いにも寝室はすぐに見つかった。階段をのぼって二階へゆくと、戸の前に別の巡査、これはアレクセイと同じほどの年ごろだったが、襟章や肩章に彼より多くの星をつけて、しかめ面で立っていたからだ。アレクセイが委任状を手に、大差のない仏頂面で挨拶をすると、若い巡査はすぐに戸を開けてくれたが、その目つきには、なんだって14等官ふぜいがこんな所に威張ってくるのかという、見くびりや不信がありありと浮かんでいた。
 アレクセイは努めて見ないように心がけながら、巡査をやり過ごして、十字も画かずに中へ入った。正面に広びろとした、もとい、開放されていれば広びろと感じられたろう出窓がある。むろん今は分厚い緞子が下ろされて、わずかな光さえも差してはこない。窓枠の脇に、これも下っ端とみえる巡査が二人、片方は分厚い帳面に鉛筆でもって書き物をし、もう片方は物々しく光る太い鎖を手繰っていた。その鎖に繋がれているのが、先の死人と瓜二つ、背丈から肩の幅、目の窪みぐあいから頬の痩けぐあいまで、判で押したようにそっくりな男なのだった。
 アレクセイの眼差しは、男どもの冴えない様子になど注がれなかった――より必要のある側へと向けられたのである。彼は落ち着き払った態度を装って、部屋をぐるりと見渡せるよう、数歩進み出た。窓の手前に大きな空間がぽっかりとあって、板張りの床に柔らかな絨毯が、半分ほどまくった形で敷いてある。隅には丸い形のへこみがあり、これはもともと寝台が置いてあった証と見えた。
 が、重要なのは家具の類ではなかった。その、まくり上げられた絨毯の下にも当然、ぴかぴかに蝋の掛けられた床板があるのだが、深みのある栗色を呈したそこに、すっかり乾き切って赤黒くなった何かの塗料で、異様なものが描かれてあったのだ。

 それは大人が手のひらを広げたほどの、欠けたところのない円だった。ぐるりには復活大祭パスハの賛詞、あの「ハリストス死より復活し、死を以て死を滅ぼし、墓 に在る者に生命を賜へり」という文句が、鏡写しに、一字一句逆向きで書かれてある。円の中には正方形がぴたりと収まり、そのまた中には不吉な記号がびっしり。よくよく目を凝らすと、合間に「ビール2樽」と読める文字もあった。そして、正方形を挟むようにして、何者かの名が――これは上が呪われるべき者の名、下が呪いをかける者の名で相違ない。
「なるほど」
 アレクセイは円の傍らにしゃがみこんで、これらの書き付けをじっと観察していたが、はあと息を吐いて立ち上がった。それから部屋にいる者のうち、自分と年の近そうなほうの巡査に向かって、
呪詛まじないの痕に間違いない」
 と言った。
 とたん、鎖に繋がれた男が激しく身じろぎし、アレクセイのほうへ噛み付いてこようとした。巡査がすかさず手元を引き締めたおかげで、男はそこから二歩も先に進まなかったが、鎖はけたたましい響きで鳴り渡り、部屋じゅうに耳障りな余韻をいつまでも残した。
「ふざけやがって――14等官ふぜいが、ちらっと見ただけでおまわりと同じことを言いやがる。てめえら役人どもはみなそうだ」
 手にはめられた鉄輪をがちゃがちゃ言わせながら、男が憎しみに燃える声でわめいた。巡査が後ろから舌打ちまじりに鎖を引き立て、男を壁のほうへと押し付けようとした。
「魔術のことなぞ何も知らないくせをして、よくも傷心の男にそんな口を利いたもんだ。だがな、こちらにはちゃあんと潔白の証明があるんだ。連れてくるならせめて予審判事ぐらい寄越しやがれ、このど素人がっ」

 アレクセイはそもそも、この髭のない悲劇詩人みたいな男の言い分を、同情して聞いてやるつもりなどさらさらなかった。かといって、怒りにまかせてやり返すつもりも当然なかったが、男の口から「素人」という言葉が飛び出すにいたって、その考えを引っ込めずにはいられなくなった――彼はもう一度床に膝をつくなり、置いたままの革かばんを引き起こすと、金具のたぐいを全て外してしまった。
「おい」 とアレクセイは男に迫るような声を上げる。
「おれのことをいま素人と言ったな。魔術のことなぞ何も知らないと」
「言ったとも。お前のごときは書類の写しを作るぐらいにしか能のない、木っ端の14等官ふぜいだと言ったさ」
「それじゃ、もう一つ聞くがな」
 革かばんに右手を突っ込み、中でぐっと拳を握り締めながら、彼はますます低い声で続けた。
「木っ端の14等官ふぜいの荷から、こんなものが出てくるのをなんと説明するんだ、え?」
 
 アレクセイが右手を引き抜くと、男の目が眼窩いっぱいまで大きくなり、乾いた唇があっと言わんばかりに開かれた――二人の巡査まで驚いたらしい顔をしたのは、アレクセイにとっていささか不本意だったが、ともあれ彼は身の証となるものを掴み出したのである。
 彼の手に握られていたのは、一本の棒だった。それもただの棒っきれではない、白樺から削り出してきれいにやすりをかけた、一尺ほどの杖である。ワニスは塗られていなかったが、それと同じくらい色艶よく光り輝いていた。先は細く尖っていて、柔らかいものになら軽く刺さりそうに見える。かたや根元のほうは丸みを帯び、やはり樺の油でなめした革ひもで、円い刻み模様の入った古い神の印が、しっかりと括りつけてあった。
「きさまが本物の魔術師だと名乗るんなら、ええ、これが何かは言わなくたって解るだろう。星一つの制服を着て黒いネッカチを締めて、白木の杖を持った男というのが、ペテルブルグにただ一人しかいないのも解っているだろう。そうだな?」
 部屋にとぼしたロウソクに、神の印が金の光を帯びるなか、アレクセイはわざと勿体をつけて体を起こし、ゆっくりと男に迫った。このちょっとした演出の、思いのほか大きな効果を上げたらしいことが、彼にはすぐに見て取れた。目の前にいる男が、顔をミルクみたいにほとんど真っ白くし、背中をなるたけ部屋の角まで寄せようとしはじめたからだ。
「てめえ」 男はこわばった肩に首を埋めるようにしながら、喉首を掴まれたような声で言った。
憲兵団ジャンダルメリヤの誓願魔導師か」
「正しいところを言えば、憲兵団の所属ではないし、おれはその《誓願魔導師》とかいう、さも神に証を立てたみたいな呼び名は嫌いだね」
 真冬のエカチェリーナ運河を映した目で、アレクセイは男をはすから見下ろした。
「だが、それできさまが恥じておのれの運命を悟るというんだったら、いくらでもそういうことにしておくさ」
 男の手はぶるぶる震え、鉄の輪が触れ合ってかすかな音を立てていたが、足はかろうじてまっすぐ立っていた。あとは時間の問題、などと軽く見ることはできそうもない。だいいち、進退窮まった人間というものは、どんな頓狂なことをやりだすか知れないのだ。もう少し脅しつけておくか、さもなければ懐柔するか、どちらかの手を講じたほうがいい。
「この世に呪詛のやりかたというのは無数にあるが、きさまが使ったのは《悪いやつ》を喚び出して、望みの相手に入り込ませる方法だ。人を惑わせるには一番いいものだ」
 円をなぞるように杖を動かしながら、彼はそこから読み取れることを口に出していった。
「巡査! その男の右手を見てくれ。小指の先に傷がないか」
 鎖を持っているのと違う巡査が、言いつけのとおりに男の右手を掴んで開かせた。男はできる限りの動きでもって抵抗しようとしていたが、両手首を繋がれているのだから、結局は無駄に終わった。
「あります、魔導師殿」
「それみろ! 良いか、《悪いやつ》に仕事をさせるために、魔術師はまず右の小指を切るんだ。そこから流れる血や、燃えさしの煤を混ぜてインクを作り、契約を書く。それが今ここにある印だ。この契約によってきさまは、哀れな故パーヴェル・イワノヴィッチを死に至らしめた」
 勢いを強めて言えば、どうやらこれは正鵠を射たと見え、男は狼狽して顎を引いた。この調子だ――彼は手応えを感じ、次なる証拠を突き付けようと考えた。

 その考えを実行に移そうとしたところで、アレクセイは不意を打たれた。男がやにわに顔を上げ、ぎらぎら光る血走った目を向けると、彼の鼻をかじり取らんばかりにこう叫んだのだ。
「そうだな、まったく大した魔導師殿だよ、てめえは! そんならどうだ、お偉い憲兵さまなんだから、その印をとっくり見直してみりゃ、呪われたのは俺だってことも解るだろうよ!」
 アレクセイは咄嗟に床の印を顧みた。それから再び腰を落として、そこに書かれたものを隅から隅までよく読み込んだ。正方形の上には――ピョートル・イワノヴィッチ・サハロフ、下には――パーヴェル・イワノヴィッチ・サハロフと、二人ぶんの名前が記してあった。パーヴェルというのが死んだ弟の名だから、つまりこの陣は、弟のほうがビール2樽の捧げものをして、悪魔に兄を呪い殺させようとした、その名残ということになるのだ。彼は何かの間違いではと思い、男の顔と記された名とを何度も見比べた。
「……きさまは自分をピョートル・イワノヴィッチと、確かにそうだと誓って言えるのか?」
「言えるね!」 と男が合点した。
「魔術師はまことの名を隠すもんだが、それでも確かにと言い切るか。ふん、それならひとつ証を見てやろうじゃないか……」
 アレクセイは杖の先を男に向け、まず円を、続いて交差する三本の線を画いた。白樺の枝が素早くしなったと思うや、そこから一筋、青白い光がほとばしり出た。
「痛てえ!」
 男が身悶えした。真冬に窓の金枠を触ったときのよう、ぱちりと火花の跳ねる音がした。
「ようし、ピョートル・イワノヴィッチ」
 彼はなんでもないように声をふるったが、実のところはずいぶん落胆していたのだった。これで彼は改めて、呪詛がどうしてあべこべに掛かったのか、兄には本当に罪があるのか、きちんと論を立てなければならなくなったからだ。
「身の証を立てることには、どうやら成功したようだ。では、われに罪なしとのたまう者、もしもその誓いを破ったものなら、必ずやふさわしい災いを被ると思え。――巡査、その男はいつごろまで家に留まるのか?」
「今晩にはペテルブルグへ移送の手はずです」 と巡査。
「それじゃあ、日の出ているうちに一段落させなければな」
 しかつめらしい顔を作って彼は言った。だが目前にある呪詛のあとをどう取り扱ったらよいか、とっさには何も言うことができない。二人の巡査がちらちらと窺ってくるのを患わじく思いながら、彼はまた唸った。

「アレクセイ・ドミートリエヴィッチ!」
 救いの手は予期せぬところから差し出された、というのは部屋の外から、一度はアレクセイを追い払おうとした例の巡査が、またぞろ胴間声を上げてこう呼んだのである。
「ペテルブルグからお坊さまがいらして、あなたのことをお呼びですがね、お会いになりますかね」
「名前は?」 アレクセイは扉に向かって尋ね返した。
「俗名のほうはわかりかねますがね、ワシーリエフスキイ島の生神女福音聖堂、ミハイル長輔祭さまとおっしゃるんですが」
「すぐ通してくれ!」
 胸を撫で下ろしながら、アレクセイは呼びかけに答え、さらに部屋にいる巡査たちに指示を飛ばした。自分は客間へいって話をしてくるから、この場は呪詛のあとはもちろん、家具ひとつ、シーツ一枚だって動かしてはならない、兄ピョートル・イワノヴィッチだけを鍵のかかるところに移して見張りを立てて、必要になるときまで待っていろという次第である。それから彼は革かばんを肩にかけ直し、「では失敬」と気取りがちに言って、肩をそびやかしながら部屋を出ていった。それも全ては安堵したからだ。彼に面会したいという長輔祭、これは間違いなく彼の顔見知りであったし、どころか内心、到着を心待ちにしていた人物だったのである。

  * * *

 寝室を辞したアレクセイが居間の前まで戻ると、ちょうど扉が半分開いて、首までぴったり覆う黒い僧服リヤサを着た、明らかにそれとわかる男性が独り、十字を画きながら出てくるところだった。年のころはもう老境にあり、元は黒ぐろとしていたのだろう髪には、大分と白いものが混じって、肌にも皺が重々刻まれているが、背はぴんと伸びて、いかにも矍鑠とした風情である。顔立ちは穏やかで、会う人誰にでも心からの祝福をしてまわる人物と解ろう。もっとも目元をよく見れば、ただ柔和で争いごとを避けるだけでない、必要ならどんな強大な力にでも立ち向かってやろうという、凛々しさ、志の強さが表れていた。
 ひとつ不思議なことがあるとすれば、格好だけはまったき正統派の僧侶だというのに、髭を生やしていないのである。さても徳の高そうな坊様と見えるが、髭がないのじゃあ有難さに欠けるねと、何のわけも知らぬ不心得者には陰口を叩かれそうなものだ。だが、この僧を慕うところの、ワシーリエフスキイ島の生神女福音聖堂に通う信徒たちは――さる聖人が「豊かな髪と髭には神のお力が宿る」と述べていたとしても――本当の信仰が見かけで決まるなど、あり得ぬことだと承知していた。

 さて、その僧侶は――先に巡査が述べたとおり聖名せいなをミハイルといい、教会では長輔祭という役目についているが――アレクセイの顔を見るなり、口の端をちょっと上げて、
「やっとるね、リョーシャ」
 と合点合点した。僧は扉を静かに閉めて、廊下の床板を少しも軋まさぬよう、靴音だって鳴らさぬよう、ゆったりした動きで数歩ばかり行った。アレクセイもそれについて行った。
「生神女就寝祭のために、ずいぶんと会わず来てしまったが、息災だったかね? おまいさんがきちんと日々の糧を受け取って、休みには魚の塩煮セリャンカを食べられていれば、僕は十分安心するんだがね」
 アレクセイは何も答えなかった。といっても、別にこの僧侶から馴れ馴れしく、子供にでも話すように言葉を掛けられて、気分を害したからというのでない。確かに、いくら14等官とはいえ役人だから、ふつう人は彼を「アレクセイ・ドミートリエヴィッチ」と、名を出さぬにしても丁寧に「あなたヴィ」と称する必要があって、間違っても「リョーシャ」とか「アーリャ」とか、「おい、ネーモフ!」等と呼び付けては無作法にあたる。アレクセイだって、例えば先の若い巡査にそう呼ばれれば、――なんだ、自分だってまだ平の警官で、おれの仕事を知りもしないくせに、生意気な、――と思ったに決まっているのだが。
「さて、ひとつお祈りは済ましたが、お前さんのほうはまだこれからだろう。遅れて来た坊主のために、魔法使いの口から言葉を聞かしてくれんか」
 結局、アレクセイが黙っていたのは、何とも答えようがなかったからである。食事のことなどは――少なくとも相手を喜ばせるような返事はできっこないのだ。僧のほうがそれを察したか、違う質問に移ってくれたのはまことに幸いだったと言うべきで、ようやく彼は自分の見聞きしたこと、巡査の説明から寝台の下の印、その痕を残したらしい男の態度までを、訥々と語ってのけたのだった。

「ほう、ほう、呪詛のあべこべにかかる印とはなあ! いや、それとも印は正しかったが、他の誰かしらが呪詛を曲げてしまったのかね?」
 アレクセイが語り終えるころには、もう寝室の前だった。立ち番の巡査は黒い僧服を見るなり、うんと低いお辞儀をして扉を開けた。僧もまた会釈をしてこれに応え、十字を画きながら中へ入った。
「あれがその痕だな。窓のところからまっすぐだ」
「そうだ。そうしておけば、《悪いやつ》が出入りするのに都合がいいんだよ、スラーヴァ。やつらが飛んできて、すぐ人の中に隠れられるから。今はこの通りだが、今朝まではここに寝台が載ってたらしい」
「つまり、ご亭主はゆうべ印の上に寝ていたわけだ。そうなると、眠っている間には無防備だったことだなあ、玄関や祭壇に十字が飾ってあっても、印はその内側にあるんだから。ちょっと寄って見てもいいかね、リョーシャ?」
「どうぞ」
 傍についている若者が、およそ教会の聖なる礼儀を果たそうとしないばかりか、「長輔祭さま」とか「ミハイル師」などと敬意を示さぬことにも、この僧は寛容だった。部屋についている巡査は、彼ら14等官と長輔祭とが、まるで古くからの友達のように言葉を交わすものだから、ずいぶん怪訝に思ったことである。
「ふむ、これは確かに呪詛の痕だな。お前さんたち魔法使いの手わざというのは、僕たちが知っている営みを、すべて引っくり返すことだと聞かしてもらったことがあるね。引っくり返しの術か!」
 アレクセイに「スラーヴァ」と呼ばれた長輔祭は、塗りつけられた印を踏んだり、円をまたぎ越したりしないよう、一歩引いたところから言い、顎を撫でた。その目はとりわけ、逆さ文字に書かれたパスハの讃詞を気にしているようであった。
「それでも、引っくり返したらそれっきりじゃないんだ。おれたちに言わせりゃ、世界はずっと動いて、巡っているからさ。裏返しにできるものは、また表に返すこともできる。おれも前にそういう仕事をしたことがある――呪詛返しだよ」  彼は両の手首をくるくると回して、平たいものを表裏と返すようなそぶりをしながら述べた。世に魔法使いチャロデーイとか、魔術師コルドゥーンとか、また単にまじない師ヴェドゥーン等と呼ばれる者たちは、なにも人を呪うばかりが仕事ではなく、彼のように呪いから人を守るための術も多く心得ているものだ。あの恐ろしい魔女の婆さんバーバ・ヤガーだって、時にはイワン王子を助けることもある。
「となると――弟に呪われた兄さんが、その呪詛返しを使って、《悪いやつ》を送り返した、とも考えられるか。その場合、兄さんを罪に問うわけにもいかんだろうねえ」
「ああ。だが弟は魔術師ではないし、兄に呪いをかける動機もなかった。貢物の準備もしていなかった――大樽が2つも家に運び込まれたんなら、奉公人の誰かしら気が付くだろうに。今も家屋敷じゅうを検分して周ってるところだろうが、弟のやましい所は出てこないんじゃあないか」

 事実そのとおりだった。死せるパーヴェル・イワノヴィッチはまさしく善良の人で、泣き伏す細君も悄然とした奉公人たちも、誰一人悪く言うものはなかった。酒も煙草も、博打もやらない、毎日きっちりとした時間に寝起きして、勤勉に仕事をする。たびたび金を無心しにくる弟にも、嫌な顔一つせず接していたし、そうだといって家を傾けるほど金をばらまくこともしないという。
「昨日だって、旦那さまは弟さんをにこにこしながら迎え入れておりましたよ」
 と、これは女中をつとめる中年の婦人が語ったことである。アレクセイは髭を剃ったエドガー・アラン・ポオのような故人が、にこやかな顔で玄関に立つさまを想像しようとしたが、どうしても叶わなかった。
「それでね、あのかたは本当によくできたおかたですから、弟さんに気を遣ってこう仰ったのです。――肉親のためなのだから、ぼくはいくらやったって気にしないのだが、お前のほうはただ貰うだけでは気が咎めるだろう。ちょっとばかりうちの寝室を掃除してくれるのはどうだい、その対価として今日のぶんを渡すというのは、――と」
「それで中に入ったわけだ。寝台を動かしたようだったか?」
「ええ、お部屋のほうで重たいものを引きずる音は聞こえましたよ。家具の下やら裏やら、きれいにするところはたくさんあると仰ってね。確かに、出て行かれた後のお部屋は、それはもうすっかり美しくなっていましたよ」
 答えながら、婦人はそっと目頭を抑える。 「それなのに、ああ本当は! わたくしがもっと気を付けておけば!」
「己を責めてはいけませんよ、お嬢さん。心を強くお持ちなさい。さもないと、あなたまで悪魔に入り込まれてしまいましょうから」
 僧スラーヴァは彼女の背に優しく手を置き、そう言葉を掛けてやっては宥めようとした。アレクセイはといえば、すっかり印と呪詛との関係に気を取られてしまっていた――恐らくその、寝室掃除のおりに印は書かれたのだ。寝台をちょっとどかして、小刀かなにかで指を切りつけて、持ち込んだ煤やら何やらの材料と一緒に床へと塗りつける。もちろん最中を目撃されればただでは済むまいが、女中の口ぶりからするに、誰も正真正銘の時を目にはしなかったのだろう。
「たといあなたが見なくとも、神さまが全てをみそなわしておいでです、お嬢さん。旦那さまのためにお祈りなさることですよ。呪いの苦しみから救うため、主はかの人を御許みもとに召したのだから……」
 低く落ち着き払った、我が子の悩みを真摯に聞く父親のような声も上の空に、アレクセイはただただ考え続けた。――あるいは弟が予め、寝室に印を書いておき、兄が掃除の最中それに触れるよう仕向けた? いや、その計略までは良いとして、《悪いやつ》、すなわち悪魔チョルトとの契約には、やはり何かしらの代償が必要だし、契約書である印の中にビール2樽云々と書いたのなら、そのとおりのものを用意しない限り呪いは成立しない。しかし用意した形跡がない。悪魔に物をやるといったって、大きな樽がいきなり現れて、また煙のように消え失せたりはしないのだ。
 となると呪いではないのか? どんなに頑健な人間だって、何の前触れもなく、訳も解らず死ぬということが、全く有り得ないとは言い切れまい。印は単なる悪戯だったのやも、――いや、しかし、どちらが書いたにしてもたちが悪すぎる。あの書き方は本式だ。当人にその気がなくとも《悪いやつ》が出てきてしまう。あんな込み入った印は偶然で書けるものではなし。

「――しかし、誰もかれも、困ったことだなあ。僕たちも一度考え直してみるかね、リョーシャ。――リョーシャ?」
 かくも考え込んでいたものだから、アレクセイは僧と女中の会話が終わったことも、彼女を下がらせた僧が自分を呼んでいることにも、てんで気がつきはしなかった。肩を二度三度叩かれて、ようやく彼はハッと息を飲み、深緑色をした制服の前を軽く締めた。
「お前さんがそうやって、どんな物事も深く捉えようとするのは、とても素晴らしいことだよ」
 スラーヴァは言ったが、苦心する14等官にとってはさしたる慰めにもならなかった。奉公人たちの使う控室には、嘆息を希釈したような空気がわだかまり、人々を重たく取り巻くばかりだった。
「だがね、考えごとというのは、何もかも一人でやるばかりではないと覚えておくことだね。それから考え通しじゃなく、めりはりを付けるというのも大切だ」
「……それはそうだろうよ。あんたを呼ぶのだって、一人よりずっといいと思うからだ。ただ――」
「リョーシャ、少し提案があるんだが」 眉をしかめたままの若者に、老僧は微笑みかけながら続けた。
「しかし、ここではなんだから場所を変えるかね。お前さんに良いものを持ってきたんだよ」

 アレクセイとスラーヴァは中年の巡査に許しを得て、荷物をいったん引き取り、母屋から表へ出た。相変わらず空は曇っているが、締め切られた屋敷の塞いだ空気に比べれば、生ぬるいとはいえ新鮮な風があるだけ大いにましだった。馬番の少年が、庭用と見える木椅子を二脚貸してくれ、二人は門の前に並んで腰掛けた。
「それで、良いものというのはだね、これなんだが」
 すっかりくたくたになったキャラコの物入れから、僧は包みを取り出した。ここ数日のものだろう、新聞紙で丁寧に巻かれたそれは、大人の手のひらほどもあり、受け取ってみるとずっしり重い。
 アレクセイが開いてみると、中から香ばしいバタの香りが立ち上ると共に、黄金色に焼かれたパイの皮が、雲間から覗く太陽のように顔を出した。切り口からはキャベツとじゃがいも、刻んだ玉子、それに鱒だか川かますだか、魚の身らしき姿まで窺える。
「スラーヴァ、これ――、ああそうか、あんたらは断食明けか、土曜日だから」
「そうとも。それで兄弟たちが包み焼きクレビャカを作ったんだがね、みな謹んで譲り合うものだから、一切れ二切れと残ってしまうんだな。そのまま放ったらかして無駄にしてしまうのは、主の御心にも適わないことだから、是非お前さんにと思ってね」
 夏と秋の境にあって、急に降誕節スヴャトキがやってきたのではないかというほど、包み焼きの香りは高くふくよかだった。一切れで満腹になるようなごちそうだ。アレクセイはむろん腹が減っていたのだが、このようなぜいたく品――もとより僧侶たちの間では最大級のものだろう――のおこぼれにあずかるのは、いくら餓えていても後ろめたさが勝った。彼は小さな椅子の上でさらに身を縮め、手元を見、それからスラーヴァの顔を見、さらに二度か三度その顔色を確かめ、やっと一口かじった。
 言うまでもなく美味だった! 皮は歯ざわりが良く、その裏にはナイフを差し込む隙間もないほどにぎっしりと、多種の具が詰まっているのだ。魚は鱒だった。真冬ほどではないが、ふっくらとして味のよい身だ。キャベツは甘いし、ほくほくした玉子とじゃがいもには、香草の匂いがしっかり染み込んでいる。それらをいちどきに噛みしめたとき、染み出してくる旨味といったら、空腹によって割り増しされたぶんを勘定に入れたとしても、まあこの世で有数のものに違いない。
 彼が無言で食べ進めているのを、スラーヴァもまた口をつぐんで微笑ましそうに眺めていた。胸のうちではもしかすると、急いで食べて喉に詰まらせやしないか、頬や舌を噛みやしないかと気を揉んでいたかしれないが、ともあれ満ち足りた様子だった。
「スラーヴァ」 最後のひとかけらを飲み込んで、丁寧に口元を拭ってから、アレクセイは嘆じた。
「ありがとう、――旨かったよ」
「そりゃあ良かった。兄弟たちも喜ぶだろう。帰ったら伝えてやらんとな。それで……」

 その時、二人のいる門に面した通りを、向こうから自転車がやってきた。またがっているのは若い男で、紺の官帽をかぶって外套を羽織り、肩から大きなかばんを下げている。そして道々で止まっては家の呼び鈴を鳴らし、出てきた者にかばんから取り出したものを手渡す。葉書や封書である。郵便配達だ。
「ああそうだ! それで思い出した、郵便だ。帰るまでに出してこにゃならんのだった。すっかり忘れていた」
「手紙を?」 とアレクセイが聞く。
「うん、書いたはいいが切手の予備がなくてな、出かけるついでに買おうと思ったんだよ。聖堂というのもなかなかどうして、ほうぼうに書簡を出す仕事だのに、うっかりしたことだなあ」
「スラーヴァが生まれたころには、切手も郵便箱も無かったろうからな」
 新聞紙を畳みながら、彼は軽く笑った。これは言うまでもなく冗談のつもりだったが、相手はそうは受け取らなかったらしい。
「いやいや、お前さんそれは心得違いだよ。もちろん僕の生まれたころにだって――いや、ほんの小さい時分には確かに無かったが、それでも僕たちにとって、手紙というのは切手を貼って郵便箱に入れるものだった」
 という、静かな抗議でもって返されたのだった。アレクセイは肩を竦め、制服の返しに畳んだ紙を突っ込んだ。
「しかしその前は、……つまり僕の両親ぐらいの頃は、手紙を出すのにいちいち局まで行って、その場で宛先ごとに10コペイカ、20コペイカと支払っていたのだから、不便とはいえ確かだったことだなあ。料金をごまかそうと思ったら、局員をなんとかだまくらかすより他にないわけだから」
「どうしたよ、いきなり」
「なに、切手というんでもう一つ思い出したのさね。これは僕が兵隊に取られていたころの話だが」
 目の前を通り過ぎてゆく自転車を、十字を画いて見送ってから、僧は懐かしむように話しだす。
「兵隊というのはロシヤ中から来るものだから、みなみな善人とはいかないわけだな。で、まだ出征の前に教練をやっている時分、ある人が僕たち新兵を数人前にしてこう言ったものだ、――ただで手紙を出す方法を知っているか、と」
「なんだ」
 アレクセイの口から、知らず嘲るような笑いが漏れた。
「そうなると……あんたが従軍してたときだから、つまりここ30年かそこら、ロシヤ人の道徳は進歩してないってことになるな。多分それ、兵学校でおれも同じのを聞いたよ」
 僧は目を丸くし、続いていくらか眉を曇らせた。ははあ、という嘆息が昼下がりの道を転がってゆき、通りの端までは届かずに消えた。
「それも道理だろうかね。便利になればなるほど、人の心には余裕ができる。余裕ができれば、そこに悪魔が入り込む……」
 ――そして悪魔に打ち勝てる人間は、自ずと余裕のない心をしていると。
 心に余裕のない若者は、喉元まで出かかった悪態をそっと飲み込んだ。目の前にいる年嵩の友には当てはまらぬことだからだ。代わりに、現代の兵隊と30年かそこら前の兵隊が、果たして本当に変わりないものかを確かめようとした。
「まあ、もしかして現代ロシヤ人への失礼があるかもしれないから、確認だけはしておくけれども、要するにあれだろ? 手紙を書いて封筒に入れたら、宛先のところに自分の名前を書いて、裏に――」

 そしてアレクセイの言葉は中途で凍りつき、いくらか暖まった喉の奥へと引っ込んでいった。彼は宛名書きをするゼスチュアを止め、隣に座るスラーヴァへと向き直った。――隣人もまた彼の顔をじっと見つめていた。思い出という金庫の奥から、それこそ小悪魔でも飛び出してきたかのように呆然とした顔で。
 西風が吹いた。二人はどちらともなく、椅子を蹴飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。14等官は革かばんを振り回し、長輔祭は僧服の裾を両手でさばきながら、一目散に屋敷へと飛び込んでいった。

  * * *

 居間に駆け戻ってみると、中年の巡査は卓の一部分を拝借のうえ書き物をしており、飛び込んできた二人連れに、大儀そうな息を吐きながら顔を向けた――が、両者の目が輝いているのを見るや、鵞ペンを置いて、釣り込まれたように身を乗り出した。
「どうも吉報のようですな」
 期待を込めた眼差しで巡査が訊くと、老僧のほうがまず微笑みながら、
「いや、それがまだ吉報と定まったわけではありませんがね。なにしろ我々の思いつきに過ぎないのだから……しかし話してみる価値はあろうと思いますね」
 と合点合点をする。
「さて、ここに一通、書簡があります。――おっと、これは何も、サハロフ家の醜聞には何ら関係のない、ただ私が出がけに書いてきたモスクワ宛の手紙ですよ。帰りに切手を買わねばと思っているところでして」
 僧が取り出したのは、言葉に違わぬ分厚い封筒だった。表にはなるほどモスクワ市内の住所が正字で書かれてあり、宛先がタガンスキイ区にあるニコライ堂の司祭と示している。
「この通り、表にも裏にも宛名書きがしてあります。あとは料金きっかりの切手を貼って差し出せば、局のほうでペテルブルグの消印が押されて、郵便馬車に乗せられて、モスクワまで一週間かかるかどうか、といったところでしょう。まあ、私は郵便のことは専門ではないから、厳密にどのような計らいがあって、相手方に届くのかは存じませんがね。それで……」
「それで巡査、例えばこの封筒の」
 封書を表裏と返しながら、僧は穏やかな調子で話し続けていたし、巡査は何の話だろうかと些か不思議そうな顔をしつつも、神妙な態度で聞いていた。が、アレクセイは待たなかった。彼は横から卓に手をついて、しかし苛立ったような風でもなく、ただ早口に割り込んだ。
「裏にパーヴェル・イワノヴィッチ・サハロフ、表にピョートル・イワノヴィッチ・サハロフと書いてあったら、一体どちらに届く」
 彼が真顔で郵便法の基礎を尋ねるものだから、巡査は吹き出しかかり、慌てて口を抑えたものの、笑い声だけは堪えることができなかった。
「へ、へ、へ! 何です、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ。表のほうが宛先なんだから、当然ピョートル・イワノヴィッチに届きましょう」
「では、同じ封筒にたったの一枚、1コペイカ分も切手を貼らずに郵便箱へ入れたらどうなる」
「そりゃあ、局員だって馬鹿じゃあないんだ、普通に送り出されはしませんな。料金不足で差出人に戻りますよ」

 そう請け合って一拍の後、巡査はのんきな笑いをはたと引っ込め、アレクセイらの顔をまじまじと見た。先に二人がそうしたように。沈黙はぴったり6秒の間続いた――というのは、静まり返った居間の中で、誰の耳にも置き時計の秒針の音がはっきり聞こえたからである。
 6秒の後、役人たちの顔に笑みが戻った。からかい混じりのものでなく、進展に対する強い期待と、少しばかり慎み足らずと言える興奮が入り混じり、口の端など左右ちぐはぐに上がったような、満ち足りた笑顔だった。
「よろしい! もう一度尋問をやりましょうや、魔導師殿。なんだったら本人の前で実演をしてもらっても構いませんぞ。大したほらを吹いたものだ、あのまじない師とやら、とうとう刈り取りの時だぞ!」
 巡査は勢いをつけて立ち上がり、拳を威勢よく突き上げて、せかせか廊下へと出ていった。部下たちを呼び集めて支度をするつもりなのだ。アレクセイはその様を、まあ何と調子の良いやつだろう、頭からおれのことを小馬鹿にしていたくせに、と思いながら送ったが、自分の思いつきがいよいよ解決に紐づくかと考えれば、笑顔を保つのにそこまでの苦労はしなかった。そして一人、老僧だけが暖かな落ち着きを揺らがせることなく、ただ成り行きを静かに見守っていた。

go page top

inserted by FC2 system