それにしても、ネヴァ川をおいてペテルブルグを語ることのなんと難しいことか!


  • スフィンクスに憑かれて
    M. K. ザムコフスキイ 著
    夕凪 瑞穂 訳


  •  我らが大詩人も歌っているだろう――文学をやる者なら誰でも諳んじる、あの《堂々たるネヴァの流れと 御影石の岸壁を》というくだりだ、――この時に荒々しく、時に慈しみに満ちた大河は、東のラドガ湖から流れ出て、鬱蒼たる沼地からルーシに轟く都へと下り、万人をあまねく潤しながら、リチェイヌイ橋の辺りで枝分かれして、北から順に大ネフカ、小ネフカ、小ネヴァ、と異なる流れになってゆく。そうして最も南にある大ネヴァの流れに入ると、河畔に女帝の権勢を偲ばすエルミタージュ宮や、黄金に輝く海軍本部の尖塔などを飾りつけ、緑ゆたかなアレクサンドロフスキイ庭園を過ぎれば、もちろん《青銅の騎士》が西陽を受けて凛々しく照り輝いているわけだ。
     ところで、これらは全て本土の話であり――大ネヴァを挟んだ向いには、言うまでもなくワシーリエフスキイ島の姿がある。この島と本土を結ぶニコラエフスキイ橋のそばには、これも《青銅の騎士》に負けず劣らず有名な像が建っているが、こちらが勝ち得た評判というのは、前者と些か趣を異にしていた。否、大詩人が物した叙事詩がいかに結末するかを思えば、大差はないと言えるかしれないのだが、それでも市民の目からすれば違うのだ。いずれも偉大な王を象ったものでありながら、川向うの像は――遠くアレクサンドリヤからフランスを経て、ペテルブルグの「大学河岸」へと辿り着いたスフィンクスは、人々から愛と称賛を注がれるというより、一種の畏怖と恐懼の眼差しを向けられているのだった。

     大学河岸を歩くとき、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ・ネーモフは、いつでも塞いだ気分になった。スフィンクス像があるからではない。大学があるからだ。ばかりか河岸に行き着くより前、大ネヴァに架かる宮殿橋を渡ろうという時分から、もう足取りが重たくなり、川風が肌にぴりぴり障る思いがし始める次第だった。うつむいて歩いていれば、悠々と過ぎゆく藍色の流れを、ちっぽけな小舟や、また二人組で漕ぐ川船が、気持ちよさそうに滑り去るのが見える。彼らは光きらめく夏を先触れするかのように、港を目指して颯爽と漕いでゆく。その航跡を目で追えば、湾に集う帆船たちの姿もわかる。マストに掲げたとりどりの旗は、さながら紺碧の外套につけられた数多の勲章だ。なんと晴れがましい景色であろうか! しかし、こうしたペテルブルグの華やかな夕刻さえ、アレクセイの心から灰色の雲を拭い去ることはできなかった。
     橙色に浮かび上がった橋を渡りきり、通りを行き交う人の群れに交じると、アレクセイの胸はいよいよ押しつぶされたようになった。大学河岸というからには、その人群の多くは若者たちである。黒い詰襟を着た帝国の担い手たちが、小脇に分厚い本をいくつも抱え、賑々しく論を交わしながら、彼の横を通り過ぎてゆく。瀟洒な造りの石壁を背にして、学者ふうの男と青年たちが語り合う。そして道の右側には、紅白のれんがで美しく化粧した、12棟の学院館が――かつて彼が過ごした学び舎が姿を現すのだ。生まれてから今までで最も幸福だった、あの驚きに満ちた日々の象徴、永久に喪われた過去の栄光が。
     まだ学生であったころの彼は、同じ法学部の教室にいた友人たちと大差なく、将来に希望と喜びを見いだしていた。どの程度まで輝かしいかは予測しかねるとして、輝かしいのは間違いないと無邪気な期待をしていたし、少なくとも将来があることは信じていた。なにしろ法学校を出るのだから、9等官までは約束されたものであり、弁護士にだって判事にだってなれるし、高等中学ギムナージヤの教師を務めるもよし。俸給だってたんまりだ、今は威張って学生を追い散らしているような、そこらの小役人など目じゃあない、――等という当時の思い上がった幸福感こそ、とある拍子にまったく裏返ってしまい、25歳のアレクセイに人目を憚らせ、骨ばった指の爪を噛ませているそのもとなのだ。深緑の背広は形こそご立派、けれども襟につけられた一つ星は、洋々たる航海を導く明星とはとても思われない。どころか彼にとってはこの襟章そのものが、囚人にはめられた首枷と等しかった、――この者14等官なり、卑賤なること農奴と選ぶところなし、と。
     かくて学院館の門前に差し掛かる頃には、彼の頭は鬱屈した考えにすっかり取り憑かれていた。それでも彼は行かねばならない。なぜって、アレクセイ・ドミートリエヴィッチは14等官であり、つまり役所勤めの連中のうちでもどん尻の使い走りで、上役の8等官殿が言いつけしだい、都のどこへなりと赴く義務があるからだ。

     ところが、二つめの橋を遠目にする辺りで、彼はおかしな様子に気がついた。大学河岸がやかましいのはいつものことだが、その騒ぎの質が違うのだ。前に通り掛かったときには、少々の喧嘩も耳にした。学論が白熱して掴み合いになるということもあった。そんな中でも近傍のパン屋が、熱い金物の箱を担いで、
     ――あつあつのピロギーはいかがあ! ジャム入りで5コペイカ、肉入りで10コペイカだよお!
     等と呼び売る声が、朗々と聞こえてきたものである。だが、今はそうした活気と日常、騒々しくも狂いのない流れは感じられない。向いからやってくる人々の顔つきは、どうも不安や恐れや、本質が掴めぬことへの苛立ちが抜けず、自らが来た道を幾度も振り返っては、何を見過ごしてきたのだろうかと確かめようとしている……
     彼は静かに足を早めた。うつむいて歩くのもやめた。橋のたもとに10人ばかりが寄り集まって、石畳にしゃがみ込み、そこにある何かをめいめい伺っている。黒い僧服リヤサらしき裾を、地面に広げた姿もある。
     ――坊さんがお出ましとなれば人死にか? このところ、血を見るような学生暴動のきざしはなかったと思ったが。

     折しも彼の隣を急いでいた男が、やはり人だかりが気にかかったらしい。通行人を呼び止めて尋ねるのが、彼の耳にも聞き取れた。
    「何の騒ぎです。また学生が抗議でもやったんじゃないでしょうね」
    「いいや旦那、暴動じゃありません。身投げですよ、身投げ! 誰か若いのが、橋のとこから飛び込んだんですよ……」
     男は顔をしかめて短く答え、十字を画きながら行ってしまった。アレクセイの心臓が、どきんと一度跳ね上がった。
     歩みはいよいよ駆け足に近くなった――人垣は街灯の下に築かれており、その最中に誰か倒れているのが見えた。そこらの石畳が濡れて黒ぐろと光っている。どうやらあれが身投げしたという若者らしい。格好からしてやはり学生だろう。アレクセイも一度は着たことのある、帝国大学の制服だ。
     ざわめき、ささやきあう人群の中、傍に屈み込んであれこれと手をやっていた、黒服の僧侶らしき人物が、強張っていた身体の力を抜いたように思われた。その後ろ姿、とりわけ頭に載せた茜色の僧帽スクフィヤに、彼は見覚えがあった。と、人影がふいに立ち上がり、彼のほうを振り返る。
    「おやまあ、リョーシャじゃないかね!」
     確かな老いが刻まれた顔の中、それに負けぬ意志を感じさせる目が、丸く見開かれて彼を見た。
    「あ、ええ、まあ」
     彼はとたんに背筋を伸ばすのをやめ、再びうつむき加減になって、ぼそぼそと曖昧な答えを返した。この人物に見られたことが気まずいのではない。僧侶の声に伴って、好き勝手にあちこち向いていた人々の目が、いっせいに彼へと据えられたからだ。
    「いや、ありがたい、これはまたとない幸運だよ。いよいよおまいさんのところへ報せにいかにゃと思っていたんだ。聞きつけて来てくれたのかね、それとも……神さまが引き合わせて下すったのだとしても、お前さんには感謝しなくっちゃあな」
     僧はいたく感激したように、繰り返し合点合点をしていたが、アレクセイには何も答えようがなかった。いや、引き合わせたのはおれのとこの8等官殿だね、とは思っても口にしなかった。周りの人々も初めこそは、お坊さまが有り難がって声を上げるほどだから、いかなる大人物かと思っていたようだが、彼の襟章を見るや興味をなくし、てんで無遠慮な噂話に戻っていった。
    「……報せにって、どうしておれのとこに報せがいるんだよ。大学と親許に使いをやるのが先だろう。それと医者も」
    「お医者は呼んだとも。近くだったのは幸いといえば幸いだ、じきに来てくださるはずさね。飛び込んだこのお若いかたが誰なのか、まだ今のところ知る人はいないが、これもそう遠くないうちに解るだろう。……何をもってお前さんの力が要るかといえばだ、つまり、多すぎるんだよ」
    「多すぎる?」
     まだ完全には白くなっていない眉をひそめ、一段低い声で僧は語った。ただ多すぎるなどと言われたところで、事情が解らぬ身には疑問が増えるばかりだ、なんとか始めから説明してくれ、――とアレクセイは思ったし、言いかけた。しかし、すぐに考え直して口を開く。
    「スラーヴァ、それは、……身投げが?」
     普段見知っている顔よりも、ずっと峻厳な面持ちで、重々しい首肯が返された。彼は再び顔を上げた。いくらかまばらになった人山の向うに、赤砂の色をしたスフィンクスが、川面へ下りる石段をじいと見下ろしていた。

      * * *

     ワシーリエフスキイ島にあるいくつかの聖堂のうち、僧スラーヴァ――神品としての聖名はミハイルというが、アレクセイはいつも俗名で呼んでいる――は、マーリ大通り近くの生神女福音聖堂で奉仕を行っていた。四層造りの立派な鐘楼と、それに負けず劣らず背の高い白樺とが、遠くからでもよく目立つ建物である。周りは言わば屋敷町で、大きなアパートやら、商人の邸宅やらが立ち並んでいるが、ここに集うのはなにも裕福な人々だけではなかった。この荘厳な神の家は、同時に貧しい人、病める人、行き場をなくした女性、学ぶことのできぬ子供たちのための家でもあったのだ。
     だからアレクセイが――門をくぐるときに脱帽もせず、十字も画かず、誰とも目を合わせようとしないような若者が、僧侶に連れられて入ってこようと、奇異なものとは受け取られなかった。そうして、それぞれの用向きを済ませた二人は、司祭たちの暮らす離れの一室に腰を落ち着けることができた。
     質素な木の椅子に背をぴたりとつけ、机の上に片手を置いてから、アレクセイはしばらく黙っていた。どう話を切り出せばいいのか、それより相手が先に話し始めてくれやしないかと、思いがあちこちをさまよっていた。部屋に漂っている乳香のにおいも、彼にはどこか落ち着きをなくさせるものと感じられた。
    「それじゃあ、詳しいところを話そうかね。さっき僕は多すぎるといったが、その身投げがどんなものかという話さ」
     幸い、スラーヴァのほうでも彼の内心は読み取れたらしい。沈黙が気まずくなるほど長引く前に、自分から口火を切った。身投げという言葉を声に出すとき、少々心苦しそうにしているのが彼には解った。
    「もちろん、僕たちは神さまならぬ人間だからねえ、迷うこともあれば苦しむこともある。生きることでなしに死を選ぶことだって、悲しいことだが、いくらもあることだ。……だが、ほんの2週間で6人というのは、さすがに頻繁にすぎると思いやせんかね。それもほとんど同じ場所から」
    「2週間で6人?」 アレクセイは顔をしかめた。
    「同じ場所というと、あの橋からか」
    「正確にはニコラエフスキイ橋だけじゃあないがね、例えば堤防の縁だとか、手漕ぎ舟の上だとか――たまたま見つけた人によれば、石段からざぶざぶ川に入っていって、そのまま沈んでいこうとしたというのもあるそうだ。ただ、はっきり共通していることといえば……」
     聞きながら、彼は現場の景色を眼裏に思い描く。わけなくできることだ、なにしろ毎日歩いていたのはそう遠い昔でない。ほどなくして思い当たった。
    「みんなスフィンクス像が見える場所だ。……スフィンクス像から見られる場所でもある」
    「そうだ。それで誰もが噂しとるわけだよ。像の呪いじゃあないかといってね」
     
     スフィンクス像の呪い、といえばペテルブルグに縁遠い人々は、都の暗がりに隠された、恐るべき歴史や陰謀を思い描くかもしれない。だが、深読みはしないで頂きたい! そもペテルブルグは貴族の街、役人の街であると同時に、芸術家の街でもある。街中を走る運河には、いくつもの橋が掛けられているが、その橋詰に何かしらの彫像が建てられているというのは、さして珍しいことでもないのだ。
     さらに言うなら、スフィンクス像だってただの一つではない。大ネヴァの南、フォンタンカ川にはその名も「エジプト橋」という、古代の情緒あふれる彫刻入りの梁がついた吊橋があり、そのもとには一対の、麗しい女の顔をしたスフィンクスが、川を渡る者へ凛とした面差しを向けている――それでも、ペテルブルグっ子が単に「スフィンクス」の話をするとき、その語が指すのは大学河岸のスフィンクス像以外の何物でもないのだった。
    「呪いね、呪い……確かにあれは、エジプト橋にあるのと違って、新しく彫ったものじゃあない、古代の本物だ。でも、その像が傍にあっただけで、すなわち事件に関係がある、というのは短絡的すぎないか」
     アレクセイが疑問を呈すると、僧もすぐさま合点して、
    「それは全くもって、お前さんの言うとおりさね。ぜんたい、故郷から持ち出されて、こんな寒いところに飾られているといって、像がただの通行人を恨むとも思えない。何か他に原因があるのかもしれない――実は身投げでないのかもしれんしなあ」
     と所見を述べた。
    「そうだな、例えば手漕ぎ舟の件なんか、たまたま重心が傾いて、船縁から落ちてしまっただけかもしれない。自分から川に降りていったのだって、本人はそこまで深いと思っていなかったかもしれない、――単なる勘違いや事故でなかったとしても、スフィンクス像より先に疑うべきは、人間の仕業だ」
    「堤や橋の上から、誰かが突き落としたというわけだねえ。そういった心無いものがペテルブルグにいるというのも、大層悲しむべきことだが、可能性は十分だ。しかし……」
     相槌を打っていた僧は、そこで顎に手を当て、ぐっと深く考え込むように下を向いた。眉間には今までになく皺が寄っている。 「どうした、スラーヴァ?」
     アレクセイが尋ねても、僧はしばらく黙り込んでいたが、やがて口を開きかけた――、とたん窓の外から晩課を告げる鐘が賑々しく響いてきたので、声を出すにはもう少し待たねばならなかった。鐘楼から下界まであまねく鳴り渡る音色は、やがて近傍にある別の聖堂から聖堂へ、さらにペテルブルグの外側へと、水面に立つ波紋のように広がってゆく。都の中心たる聖イサアク大聖堂から、神の恩寵と主の教え、そして人々の祈りをどこまでも伝えるように。

    「リョーシャ、明日の昼はこちらに出てこられるかね」
     僅かな残響までもが黄昏に消え入り、辺りが再び静けさを取り戻したころ、やっと僧が言葉を発した。
    「明日?」
    「うん、――というのは、この不思議に関わりのある人が、朝の奉神礼に出なさるはずだからね」
     持って回った言いかただった。アレクセイは怪訝な顔をしたが、すぐに思い当たった。
    「まさか、身投げをした――」
    「そのうち一人が、ここに通っている人だったのさね。だが、いくら手がかりになるかもしれないといって、本人の許しも得ずに話してしまうのは良くないことだ。聖堂は秘密の守られる場所であるべきだから。それで、僕は明日その人に会ったら、自分が経験したことを説明してくれるよう頼んでみるさ。もしその人が引き受けてくれたら、お前さんに紹介しよう」
     彼にとっては理解できる説明だったが、不安がないとは言えなかった。身投げ騒ぎはここ2週間のことだと聞いた、とすればその人物というのも、2週間以内に川へ飛び込んだばかりということになる。そんな人間がいきなり他人を紹介されて、まともに受け答えのできる心を持っているだろうか? それとも、――僧が先刻、身投げではないかもしれないと言ったのは、この一件が理由なのだろうか。生き残った当人が、自分はなにも死ぬつもりはなかったと言ったとか?
    「解った、スラーヴァ。ええ、……昼過ぎぐらいでいいのかな」
    「ああ、一時ぐらいを目安に来てもらえれば、僕も手が空いている頃合いだろう。守衛さんには声を掛けておくから、きちんと名乗って入れば問題はないはずだ。もし僕が見当たらなかったら、事務室のところでミハイル輔祭をと呼んどくれ」
     予定を申し伝えて、僧は席を立ちかけた。が、その前にふと動きを止め、アレクセイの顔をつくづくと眺めてから、長く息を吐いた。
    「お茶でも飲んでゆくかい」
     鐘が鳴ったということは、これから晩の祈りに出なければならないのだろうに、何をそんな悠長なことを言っているのかとアレクセイは首を傾げた。ややあってから、もしかすると自分のことを、例えば顔色が悪いとか受け答えが鈍いとかいった兆候を見て、心を落ち着けたほうがいいだろうと慮ってくれたのかもしれない。もっとも、ごくまれに調子のいい日を除いて、彼の顔色はつねづね悪いし、大抵の場合やり取りだってぎこちないのだが。
    「ありがとう、でも別にいい」 彼は淡白に答え、席を立った。椅子が机の脚にぶつかり、がたがた鳴った。
    「……そうかね。じゃあ、僕は務めがあるから行ってくるよ。真っ暗にならんうちに、気をつけてお帰り」
     僧は窓の外をちらと見てから、再び彼の顔に目を据え直し、真心のこもった声で送り出した。戸を開けてみると、吹き込んでくる夕風はまだ少し冷たかった。

     帰り道ではもう騒ぎにはあわなかった。河岸に群れていた人々は既に解散し、元のとおりの行き来が戻っていた。ニコラエフスキイ橋を渡っている最中も、とりたてて不思議なことは起きなかった。とはいえ、水難があったばかりの場所だから、警邏によこされたと思しき巡査が一人、浮かない顔でそこらを往復しているという違いはあったが。
     彼はそれから、モイカ川、またエカテリンスキイ運河と続けざまに橋を渡り、三階建の屋敷へと行き着いた。門柱のところに錆びついた金版が張られてあり、辛うじてだが《樺ノ木館》と読める――この古ぼけた、ペテルブルグ建立の時分からあるのではと思える建物こそ、彼が間借りしている当座の住まいなのだった。借りているというよりは、月々5ルーブルと引き換えに、家主のお情けで屋根裏に隠れ住むことを許されている、といった具合ではあったが、それでも家には違いなかった。
     どれだけそっと足を乗せようが、必ず呻き声のような音を立てて軋む階段を、彼はゆっくりと上り切った。かつてこの館が貴族なり大商人なりの邸宅だった時分、使用人が寝起きしていたのだろう部屋はもちろん狭苦しく、粗末な寝台ひとつに小卓がひとつ――これは役所から持ち帰ってきた書き物のためだ――と、少ない洋服を詰めておくための、背の低い箪笥があるばかりだ。彼は荷物を下ろし、公僕の証たる背広をみなみな脱いで、寝間着と呼ぶのもためらわれるような、寸法の合わないシャツに着替えた。彼が軍隊にいた時分はぴったり合っていたのだが、今となっては袖口も前身頃もぶかぶかだった。
     一枚きりの毛布に包まる前、彼は静かに寝台へ腰かけて、手帳に明日の予定を書きつけた。蝋燭をとぼすのはやめた。窓からの光が僅かにある。ここに暮らし始めてからというもの、彼はほんの薄暗がりの中でも、およそのことはやりおおせるようになっていたのだ。
     最後に彼は、裏の見返しのところを開いて、そこに挟んである一枚の印画紙をじっと見た。いくらか変色した、刷られておよそ20年にはなろうかという銀塩写真を――頬がふっくらとして、目に星のような光があり、口元から笑みがこぼれんばかりの幼子と、上品な格子柄のドレスを着た、母親らしき若い婦人が写った画を。
     痩せた頬と濁った目を持つ若者の、薄い唇がかすかに震え、間を置かずしてぎゅっと噛み締められた。彼は毛布を引っ被り、枕に顔を押し付けて眠りについたが、明かり取りの窓から陽が差してくるまでに、都合4回も目を覚ましてしまった。

     * * *

     翌朝、アレクセイはまさに奉神礼を告げる鐘の音で目覚めた。華麗な音階を伴って鳴り渡る、言わば旋律で綴られた聖句によって迎える朝は、清々しく誇らかな、感謝すべきものであった、――多くの人々にとっては。否、アレクセイの心にも、少なからずこの鐘への感謝はあった。朝のただ湯を逃さずにすむからである。
     顔を洗い、制服に着替え、薄いが熱い茶を一杯飲んで、彼は革かばん片手に家を出た。《樺の木館》からワシーリエフスキイ島の生神女福音聖堂までは、道半ばで何も起きなければだが、歩いておよそ一時間かかる。昨日よりは日差しの弱い空の下、ニコラエフスキイ橋を渡って――幸い川面は平穏そのものだったが、人通りは少し減っていたかもしれない――、聖堂の門まで来るまでの間にも、鐘は何度か鳴った。彼は大して注意もせずに、荘重な音色を聞き流していた。
     奉神礼はまだ終わっていなかったので、彼は昨日と同じ部屋で半刻ばかり待たされたが、退屈など覚えている暇はなかった。情報が不足しているせいで、考えはいくらでも思案の横道に迷い込むことができた。事実、扉が開く音を聞き取るまで、彼は一度も我に返ることがなかったのである。

     はっとして顔を上げると、そこには見知った僧が微笑みながら立っていた。祈祷が終わってからここまで直行したのだろう、まだ白地に金刺繍の入った祭服ステハリを着て、肩からは斜めに聖帯オラリを掛けたままだ。
    「やあ、リョーシャ! よく来とくれたねえ。待たせてすまないことをした。――さ、お入り、コースチャ」
     僧は肩越しに振り返り、伴っていた者に声をかけてから、揃ってアレクセイの前までやってきた。奉神礼の間じゅう焚かれていたのだろう、香炉の煙のようなにおいが漂った。
    「リョーシャ、この人が今日お前さんに話して下さる、コンスタンチン・エフゲーニエヴィッチだ。帝国大学の学生さんだよ」
     進み出てきたのは、年のころ二十歳かそこら、アレクセイよりは若い顔立ちの青年である。栗色の髪は丁寧にくしけずられていた――些か丁寧すぎるほどに。背はそこまで高くないものの、身体つきは引き締まっており、黒い背広にきちんと収まっている。
    「ご紹介にあずかりました、コンスタンチン・リュビーモフです」
     青年が会釈し、その後を僧が引き継ぐ。
    「お前さんの勇気に感謝するよ、コースチャ。こちらがアレクセイ・ドミートリエヴィッチ、内務省にお勤めだ。お前さんの話を聞いて、きっと役立てて下さるはずさ」
    「初めまして、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ。……ぼくの体験したことが、何かの手助けになるのであれば、いくらでもお話しします。覚えている限りですが」
     アレクセイは彼らに合わせて起立したものの、気の利いた自己紹介などできるはずもなく、ただ目玉をあちこち動かしながら、口の中でああとかうんとか呟いているばかりだった。
    「さあ、立ち話で済ませるような軽いことでもない。みんな一緒に掛けよう。リョーシャはそっちに座ってくれるかね」
     結局のところ、仕切るのは年長者の役目であった。質素な机を挟んで奥にアレクセイが、手前にコンスタンチンと僧スラーヴァが、それぞれ着席することとなり、とりあえずの場が整った。

    「どこから始めればいいのか、――話は月曜日のことなんです。長輔祭さまがおっしゃったとおり、ぼくはサンクトペテルブルグ大学で歴史を学んでいますが、その日は暮れ方までずっと学院館にいました。友人たちと教授とで話し込んでいて……」
     卓の上に置いた手指を、ときおり揉み合わせるように動かしながら、青年は淡々と話し始めた。
    「外に出たときにはずいぶん暗くなっていました。時刻は正確には覚えていませんが、まだ明かりなしでも歩けるほどの頃合いです。ぼくたちは4人ほど連れ立って、河岸通りを歩いて……そのまま全員でニコラエフスキイ橋を渡りました」
    「渡りきったのか?」 アレクセイの眉間に皺が寄った。 「それまで何も起きなかったと?」
    「はい、ぼくの下宿はモイカ川そばにありますし、他のみんなも川向うですから、しゃべりながら渡ってしまいましたよ。それで、橋の南詰で別れて……」
     つとめて冷静を心がけていたのだろう語り手が、そこでふと顔を曇らせる。いよいよ説明のつけがたい、不可思議のくだりに差し掛かったとでもいうように、擦り合わせていた両手がぎゅっと組み合わされ、青い目がじっと彼の顔に据えられた。
    「本当なら、そのまま横丁のほうへ入って、下宿にまっすぐ帰ればいいだけの話です。けれども、その日に限ってなんだか――すぐには帰りたくないというんでしょうか、誰かに引き止められているような気がして」
    「具体的に何がとか、誰がといったことまでは解らないか」
    「そこまでは生憎と。呼ぶ声が聞こえたとかいうこともありませんし、何かがこっちを見ているとも思いませんでした。強いて言うのならですが、川から離れがたかったのかもしれません」
     段々と曖昧になってゆく語り口に耳を傾けながら、彼は知らず卓に肘をつき、自分の胸元を見るような格好で考え込んでいた。思い当たる節が出てきたのだ。だが、話を最後まで聞かぬことには、早合点して間違った結論を出しかねない。今から下手にあれこれ訊いて、本人の思い違いを誘ってもまずいことである。
    「いや、それならいいんだ、続けてくれ」
    「解りました。といっても、お話しできることはもうそれほど多くないのですが……とにかく、ぼくは引き返して、もう一度橋を渡りはじめました。中ほどまでは行ったと思います。向う岸に外灯がずらっと並んで、それが川面に映って、とてもきれいに見えたのは覚えています――」

     また声が途切れた。アレクセイが目をちょっと上げてみると、互い違いに組まれた青年の指は、辛うじて解るほどにだが震えていた。
    「――でも、それきりです。気がついたらぼくは島側の、あの石段のところに寝かされていて、周りには人がたくさん……服はずぶ濡れで、ひどく寒い思いをしました。その時になってようやく解ったんですよ、ぼくは川に落ちたんだって」
    「つまり、自分で飛び込んだわけじゃあないんだな」
    「まさか!」
     彼が確認を取ろうとするなり、青年は顔をしかめて反駁した。
    「だってそんな、危ないですよ、そんなことをしたら。――というのも、ぼくはほとんど泳げないんです。確かに、小さい時分には、もっと浅いところで水遊びぐらいはしましたがね、あんな流れの深いところに入っていこうなんて、絶対に考えはしませんよ」
     それからふと部屋を見回し、隣に座る僧の顔を一瞥してから、ふと押し黙る。先と比べて口早に、ほとんど一息で言い切ったはいいものの、やにわ不安になってきたらしい。
    「いえ、知っています、周りの人たちがみな、ぼくが自分から入水したと言っているのは……自分ではわけが解らないうちに、とんでもない心得違いをして、神さまに背いてしまうことも、もしかしたらあるのかも……」
     聞き取っているアレクセイはアレクセイで、どう答えてやればいいのやら、頭に混乱を生じていた。彼自身としては、身投げをしたこと自体を咎めている気などまるでなかったのである。それが今や、痛悔を受ける司祭のような役回りを負わされている気分がする。彼もまた目を部屋のあちこちへやり、終いに知己の僧へと行き着いた。
    「心配することはないよ、コースチャ。本当にお前さんの意志でなかったのなら、神さまは間違いなくそのことがお分かりになっているからね、――リュキアのミラで無実の人が罪に問われたとき、主が奇蹟者ニコライを遣わされて、処刑から救われた話はお前さんも知っているだろう」
     自らに向けられた眼差しを感じ取って、祭服を纏った僧は物柔らかに、奉神礼で司祭が行う説法よりも親しげな調子で話し始めた。青年は口元を引き結び、皺の刻まれた顔にじっと目を注いで聞いている。アレクセイはといえば、これで聴取が上手く再開できれば幸いだと思ってはいたが、話の中身そのものには全く気を留めなかった。僧はそれから罪の意識と悔い改め、青年自身の生命に対する慈しみなどについて触れながら、不安と怖れを宥めるように話し続けていたが、そう長く時間を取るつもりもなかったようだ。
    「さあ、だからお前さんは今できることをおやり。これ以上、神さまのお導きから外れる人の出ないことが肝腎だ。騒ぎが収まって、ネヴァの流れが人々の恵みそのものになれば、お前さんの心も晴れるだろう」
     親切にも、僧はアレクセイが割り込みやすくなるよう、解りよい話の区切りまでつけてくれた。おかげで彼は、せっかく和らいだ場の空気を再び暗くしてしまわないために、あれこれと口出しの文句を苦心して考えず済んだ。彼はただ咳払いをして青年に向き直り、「それでは……」と切り出すだけでよかった。

    「それでは、事件が起きたところまではいいとして……その後で何かおかしなものを見たり、聞いたりは?」
    「いいえ、特に変わったものは何も。お医者さまが呼ばれて、とりあえず学院館の医務室に入れてもらっただけです。ぼくも動転していて、周りを見る余裕はありませんでしたし……」
     しかしながら、場が落ち着きを取り戻したといって、手がかりが順調に見つかるというものでもない。アレクセイは再び聞き手に戻ったものの、中身はあまり芳しくなかった。
    「医者は何か言っていたか? 肉体や精神に何か異変があったとか」
    「それも特には。大量に水は飲みましたし、体も冷やしたから、下痢や感冒に気をつけるようにとはおっしゃいましたが」
     彼は改めて青年の顔体つきを伺った。緊張の色は変わらないものの、やはりよい環境で育ち上がり、苦しみよりは楽しみのほうが多い生活を送っている風である。1週間前に死にかかった人間とはとても思われない。外面だけで比べるのなら、自分自身のほうが遥かに死にそうと見えよう。
    「そうか。――これは念のために聞いておくが、橋を渡るときにスフィンクスを見たか?」
    「スフィンクスですって?」 青年が目を丸くし、間髪入れずに渋い顔になった。
    「アレクセイ・ドミートリエヴィッチ、まさかあなたまで、あの呪いとかいう話をなさるんですか。申し訳ありませんが、それだけは絶対にないと言わせて頂きますよ。ぜんたい、スフィンクスを長く見続けていると発狂するなんて、それじゃあぼくたち帝大の学生や海軍の士官候補生は、みな頭がおかしいということになるじゃありませんか」
     厳しい口調で反論され、彼は押し黙った。自分でもいまひとつ信用できないことを、わざわざ口に出すことはなかったと、心のうちで反省したが、それを解ってもらうための言葉はすぐに出てこなかった。
    「ごもっともだ。だがね、コースチャ、世の中には『絶対』ということはないのだよ。どんなにありえそうもない話でも、必ず一度は考えてみるのが、刑事や判事といった人たちの仕事だからねえ。気を悪くしないでおくれ」
     ありがたくも僧がとりなしてくれたものだから、彼は何度も頷きたいのをぐっとこらえて、一度きり重々しく首肯するに留めた。自分の職分については訂正せずにおいた。この流れで魔術師だなどと言おうものなら、青年の信用をどれだけ失ったか知れない。
    「ああ、ただの確認だ。しかし……これ以上のことを質問すると、ますます話が混乱するように思えるな」
    「すみません、――ぼくとしても、話すべきことを整理してきたつもりですが、いざ聞かれると答えにならないものですね。もっと役に立つ話ができればよかったのに」
    「あんたのせいじゃあない。自分が気づかないうちにしたことは、誰だってうまい説明はできないだろうよ。もし何か思い出したり、考えつくことがあったら、また教えてくれればいい」
     ここらが引き際だろうと彼は考えた。一度に全ての情報が得られるとは思っていない。
    「悪かったな、手間を取らせて。おれはその――ミハイル長輔祭とよく顔を合わせるから、伝言があるならそっちにやってくれ」
     彼はそう言って、念のためにと下宿の所番地も書き残したが、書簡なり電報なりをもらうよりは、知己の口から聞くほうがよほど確かだという気はしていた。そうして僧の聖名を忘れかけながらも、とにかく彼はなんとか話を結ぶことに成功したのだった。
    「よろしいとも。さあ、今日は本当によく承知してくれたねえ、コースチャ。何か別のものに足を取られないよう、気をつけてお帰り」
    「はい、ありがとうございます、長輔祭さま。それに、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ」
     僧に続いて席を立った青年は、年長者たちそれぞれに丁寧な礼をし、踵を返した。その背中に向かって一度、帰路を安んじるように十字が画かれた。正午を告げる壮麗な鐘の音が、塔の天辺から光のように降り注いできた。

    「これが事の顛末というわけさ。お前さんにとって有用ならいいんだがね」
     青年の足音が遠ざかって暫し、先に口を開いたのは僧のほうだった。
    「今のままじゃあなんとも言えないが、仮説はいくつか思いついた。しかし、よく今日出てくると解ったもんだな。あんなことがあった直後なのに」
    「それは、水曜日に本人から直接聞いたからねえ。日曜の奉神礼には必ず出ますと。きっと僕に記憶してもらうつもりだったんだろう。一種の保険さね」
    「保険、――そうか、今後もし同じようなことが起きたとして、それは自分の意図するところではないから注意してくれ、ということか。本当に二度目がないといいんだが」
     今しがた青年が一人で帰っていったばかりの戸口を、アレクセイはちらと見て嘆息した。単身帰して良かったものだろうか? 否、行きがかりに何もなかったのだから、そこまで過敏にならずとも、他のことに注力して構わないのかもしれないが。
    「とにかく、彼の勇気を無駄にしないよう、僕たちも励もうじゃあないか。お前さんはどこから始めるつもりだね?」
     そう尋ねられても、彼はすぐに返事をしなかった。額の中ほどに指先を当て、目を閉じたり開いたりしながら、その内側に沸き起こるもやのような考えを、一つのしっかりとした塊にまとめ上げようとした。――しかし上手く行ったとは言えなかった。善後策などすぐさま思いつく頭は、残念ながらアレクセイには与えられていなかったのである。
    「まずは観察することからだ。おれは現場にたまたま居合わせただけで、状況をじっくり見たわけじゃあないからな。それに、昨日の天気や人通りの具合ぐらいは解っても、ここ2週間の事例を全て把握できてはいない」
    「うん、うん、それはその通りだ。百聞は一見に如かずとはよく言ったものだよ。僕にも何か手伝えることがあれば言っとくれ」
    「そりゃあ、あんたにもついて来てもらうさ」
     協力してくれるだろうと期待はしていたが、果たして僧からは快い援助の申し出があった。追い風を得た川船のように、アレクセイも立ち上がって進み出そうとした。
    「喜んで行くとも。ただ、その前に着替える時間だけは取らせてくれると、僕としてはありがたいんだがねえ」
     浮き立った足取りを留めたのは、あくまで穏やかな知己の声だった。およそ水場の探索どころか、聖堂の外へ出ていくこと自体に向いていない、重たそうな祭服を彼はまじまじと見た。
    「――いや、そうだった。おれも備えはしていく必要があるしな。後でまた落ち合おう。日が傾く前から、完全に暮れるまでいるのが一番良いか」
    「じゃあ、晩課(訳注:午後6時頃)の鐘を合図にしようかね。今時分ならその頃でもまだ明るいから。それまでに支度をしておこう」

     こうして話はまとまった。扉を開けてみると、から午後の陽が柔らかく差し込み、板張りの床に落ちかかった。アレクセイにとって、いったん家に帰るというのは面倒だが、だからといってそこらで暇を潰すには長すぎるという時分である。――いいや、暇など潰している余裕があるものか。彼は辞去の挨拶をするや、早足に聖堂の門を出ていった。調べておくことなど山ほどあるではないか……

      * * *

     ペテルブルグの空じゅうに澄んだ青色が溶け込んで、石畳に清々しい風が吹き始めた頃、アレクセイは再び聖堂へとやってきた。折しも年老いた鐘守が、時を教える音色を島の隅々まで響かせようと、高楼の最上部まで梯子を登ってゆくところだった。
     こたびはミハイル長輔祭の名を出す必要もなかった。知己の僧は既に門の前、平時どおりの黒い僧服を着て、彼の到着を待っていたからだ。彼が軽く手を挙げてみせると、あちらからも両手を揃えた丁寧な礼が返ってきた。
    「たびたび済まなかったねえ、リョーシャ。こちらの支度はもう終わったよ。お前さんはどうかね、昼はきちんと食べたかね?」
    「食べたよ」 と彼は口早に嘘をついた。僧が何か言いかける前に、高らかな鐘の音が木霊し始めた。
    「――それなら、出発しても構わないわけだね。とりあえず橋のほうへ行くかい、それとも他に考えが?」
     僧が腹具合についての疑問を長引かせなかった、もとい、疑念を深めてはいるのかもしれないが、大っぴらに問い質さないでいてくれたことを、彼は内心感謝した。そして、もう一つの質問には本心から返事をしようと、準備していた答えを頭の中でまとめ上げた。
    「ああ、現場をひとつひとつ見て回るつもりで――ニコラエフスキイ橋での件数が一番多いから、それが優先になるな、――でもそれより先に、やることがある」
    「そりゃあ何だい」
     首をかしげる僧から、彼は一度口を閉じて顔を背けた。彼の目は頭上、聖堂の丸屋根ポーチカに掲げられた十字架に向いた。日差しを浴びて黄金色に輝く、それらの神聖なかたちは、天から注ぐ神の御意志そのままに、まっすぐ彼を見つめ返しているようだった。
    「ここじゃあ無理だ。スラーヴァ、少し遠回りになるけれども、スモレンスコエ墓地の近くまで行こう」
    「おや、墓地まで? 知恵者の幽霊にでも助言を頼むつもりかい」
     この質問は明らかに冗談だった。だから彼も洒落た冗談の一つや二つ返すことができれば、ひとかどの文化人と名乗れたかもしれない。実際に彼ができたのは、ただ静かに首を右左と振って、
    「墓に用はないんだよ。人のいない所に行きたいだけだ」
     と答えることだけだった。

     マーリ大通りを西へしばらく歩いてから、アレクセイは横丁のほうへさっと入り込んだ。人も馬車も多く行き交う表通りと違って、この辺りは道幅も狭く、そもそも人が足を止めるようなものもない。彼らはやがて、三方を背の高いアパートに囲まれた、細長い空き地のようなところへと出た。正面には屋敷の裏口らしき、鉄細工のついた門が見えている。
    「この辺りでいい。――これから川を見に行くのに、一つ用心をしておきたいんだ。あんたのことについて」
     敷石の上に立ち止まって、彼は同行の僧を振り返った。
    「僕について?」
    「あんたは坊さんだから、祈りと十字架があればそれで十分と信じているだろうけれど、おれはそうじゃないと考えてるんだよ」
     彼は珍しくはっきりとした口ぶりで述べたが、中身のほうは言葉足らずであった。彼がそれに気付いたのは、しばしの間を置いてから僧が、
    「これから起きるかもしれない不思議への備えが、ということかね」
     軽く覗き込むようにしながら、そう自分なりの推察を述べたときだった。彼は合点を返した。
    「だから魔術師としての守りを固めておくべきだと思って、――もちろん、あんたが異教のまじないについて、他人が使うだけならともかく、自分までこうむるのはいやだと言い張るなら別だ」
     数十年の献身をもって長輔祭に叙せられた老僧は、言うまでもなく正教と共に生きる篤い信仰の人だったが、隣人の申し出をすげなく断りはしなかった。若い魔術師の言い訳じみた前置きに、かすかな苦笑とまっすぐな眼差しを向けただけだ。
    「僕は僕自身のしゅを持っているがね、リョーシャ、違うあるじに仕える人々のためにも祈るし、彼らからの祈りもまた謹んで受け取るよ。お前さんにとって一番だと思うことをやっとくれ」
     アレクセイは胸を撫で下ろし、肩にかけていた革かばんの留め金を外して、中から小さな麻袋を掴み出した。片手に収まるほどのそれを開くと、彼は中身を左の手のひらに空け、胸の前でぐっと握りしめた。さらに彼は腰を落とし、右手で長靴の銅から細いナイフを引き出した。柄も鍔も古びているが、刃だけは陽光にきらりと輝いて、手入れのほどを誇っていた。これら二つのものと共に、彼は僧のほうへ数歩寄っていった。
    「そこを動かないでいてくれ。そんなに時間は取らないから」
     間を置かずに合点が返ってきた。彼はナイフの刃を僧に向け、くるりと大きな円を中空に画いてから、いつもより力を入れて声を上げた。

      ――ああ、セミーク、トロイツァよ……
      金のナイフで 線を引け、
      自分の周りに 円を画け、
      深淵オームトのものたちから 身を守るため!

     複雑ではないが、ある程度の抑揚のついた節回しで歌うように、彼はまじないの文句を唱えた。刃先でもう一度、こたびは下に向けて円の形をなぞり、続いて握り込んだ左手を前に突き出す。

      ――草を 踏みつけろ、
      草を もぎ取れ、
      自分の周りに まき散らせ
      畑の母なる ライ麦を、
      光り輝く からす麦を、
      そして 房になった ホップの花を!

     彼は勢いをつけて左から右へ、手を開きながら握っていたものを振りまいた。今しがた歌ったのと相違ない、干したライ麦やからす麦、房飾りのようなホップの毬花を。穀物は宙へと舞い上がり、まるで昼の光を砕いたようにまばゆく輝いて、僧の周りを漂いながら消えた。
    「こんな所だよ。まあ、おれの知る限りではだけれども」
    「いや、ありがたい限りだよ。お前さんがいてくれることが何よりの力づけさね。それじゃあ、僕たちはまた出発しようか?」
    「そうだな、『左から右に』。――備えすぎるってことはないはずだが、無用な心配に終わってくれれば一番ありがたいね……」

     こうして、若い魔術師と老僧の二人連れは、屋敷町の住人たちに不審がられる前に出立し、再び聖堂の前を通って、8番街をずっと下ってゆき、大学河岸通りまで出た。日曜の夕方とはいえ学生たちの姿は絶えないし、眼下には行き交う舟もちらほら見える。白夜の近づく頃合いで、昼がとても長いだけ、人々も遅くまで外に出ているのだ。学者連中の住む三階建のアパートの前には、熱心にも教えを乞いにきたのだろうか、背広を着た若者が取次を待っている。――やはり日常とはこうしたものである。河岸にずぶ濡れの男が横たわり、その周りを人垣が取り囲んでいるなど、誰だってぞっとしないはずだ。
    「やあ、しかし天気が崩れないのはよいことだ。これで小雨のひとつも降っていたら、誰かに話を聞くにも、川のそばへ寄るにしても、ずいぶん難儀したろうからねえ」
     僧スラーヴァが目を細めて言い、アレクセイも同調するように顔を上向けた。ニコラエフスキイ橋は言うまでもなく、その彼方には聖イサアク大聖堂の黄金色をした屋根が、碧空とのあわいにくっきりと見えている。
    「どうする、先に橋の上を見て回ってから、島へ戻ってこようか。それともスフィンクスのほうを最初に見た後、現場を一つ一つ検めるか」
    「そいつはお前さんに任せるよ、リョーシャ。僕はペテルブルグに住んで長いだけで、調べ物は専門ではないからねえ」
     老僧は謹んで手綱を彼に委ねた。そうか、とだけ彼は答え、少し考え込んだのちに後者を選んだ。堤防そばの敷石に沿って、彼らは橋の前を通り過ぎ、遠くに見える一対の石像へと歩いていった。右手に見える瑠璃色の流れは、滔々として波音を立てながら、ばら色の岸壁を洗ってゆく。はるか上流のほうで誰かが、藍染めのびろうど布を揺らしているように、午後の陽を白く照り返しながら……
    「こうして見ればペテルブルグも、大詩人が詠んだとおりの都と思えるんだがな」
     川風で額に張り付いた髪を、わずらわしそうに指でのけながら、アレクセイはそう独り言ちた。
    「うん?」
    「プーシキンだよ。《ピョートルの造りしものよ、我は愛する、なんじの典雅にして峻厳たる姿を、堂々たるネヴァの流れと 御影石の岸壁を》――」
    「――《なんじを縁取る精巧な 鋳鉄の柵のはざま飾りを、なんじの思慮深き夜と 月なくして輝く夕映えを》。ああ、全くだねえ……こうして広びろと眺める都の、なんと美しいことだろう。この川や、運河や、横丁のすみずみまでも、神さまの力が光となって行き渡れば、もっともっと輝かしい場所になるだろうにねえ」
     真実のペテルブルグがどれほど生きてゆくのに厳しい場所か、むろん二人ともがよく知っていた。僧は頭を振りながら、風雨に磨かれた岸壁にそっと触れた。
    「だが、こうして僕らが今日の務めを果たすことで、ひとつ呪いが解けるのなら、望みはまだまだあるさね。さあ、もう芸術アカデミーだ。スフィンクスもすぐそこだ」

     彼らの目前で、堤防が数サージェン(訳注:1サージェンは約2.1メートル)にわたり途切れていた。というのは波止場があるからだが――その両脇で向い合い、石段を守るように佇むのが、例のスフィンクス像なのだった。獅子の体に人の顔を乗せ、頭にはファラオの冠を戴いた、古代の王権を思わす見事な彫像である。材には石英が含まれているとみえ、陽を浴びる中でちらちらと、銀のかけらをまぶしたようなきらめきを帯びている。像の台座には象形文字ヒエログリフが刻まれ、支えとなる石碑には、こちらは我々のよく知るロシヤの言葉で、像の来歴が彫り込まれてあった。
    「みだりに触ると呪われる、か」
     西側にある像のもとで彼は立ち止まり、その滑らかで彫りの深い顔を見上げた。かつて青緑色をしたナイル河を眺めていただろう、瞳の入れられていない目は、今や寒々しい色をした大ネヴァのさざなみを物言わず睥睨している――自分をアレクサンドリヤから運んできた流れを。1832年、この都にスフィンクス像をもたらした帆船は、フランスへと戻る途中で海難に遭い沈んだというが、真偽のほどは定かでない。
    「日の出ているうちと沈んだあとで顔が変わる、という話もあったかねえ。昼間は守護者で、夜は怪物だと」
    「エジプトのスフィンクスとギリシヤのスフィンクスを一緒くたにしてるんじゃあないのか、それ。……そういや、今日話したコンスタンチン・エフゲーニエヴィッチは歴史学をやってるんだったよな。ひょっとして専攻はエジプト史だったりしないか、聞いておけばよかった」
     ぶつぶつ言いながら、彼は歩みを再開し、石段を桟橋のほうへと降りていった。水中に打たれた木の杭に、空の小舟が何艘か繋がれている。一連の事件の中には、ここから川へと分け入ってゆき、そのまま沈んだ者がいると聞いた。また小舟の上から飛び込んだ者の話も。
    「あんまり入ってゆかないがいいよ、リョーシャ」
     後ろから僧が声を掛けてきた。彼は肩越しに振り返り、解っていると言わんばかりに眉を上げた。
    「どこから深くなるか分かったもんじゃあないからな。おれもそんなには泳げないし、――よほど訓練していないと、大抵の人は服を着たまま、流れのあるところで、とっさに泳ぎだすなんてのは無理なんだ」
     彼は兵学校時代を思い出した。彼がいたのは陸軍だが、水練は当然やった。それこそネヴァの流れに身をひたし、海軍の士官候補生たちと鉢合わせぬよう苦心しながら、夏の盛りを懸命に泳ぎ尽くしたものだ。――と、回想してみればまたぞろ彼の心は塞ぎ、あの華やかな日々を何一つ持ってこられなかった我が身が辛くなる。彼は僧に聞かれぬよう小さく舌打ちをし、踵を返して河岸通りまで上がってきた。

     調査はまるではかどらなかった。アレクセイは僧を先導して、知られている限りの事故現場を順繰りに回っていったが、それらしき手がかりは一切なかった。人目も灯りもある場所ばかりだから、ちょっと通行人を呼び止めてみれば、自分も居合わせたとか、同日の別時にはそこにいたという話だけならたんと出てくる。ところが、人間の転落事故に結びつきそうな談話は聞かれないのだった。ただある瞬間に、なんとなくその場にいた者のうち一人が、慌てたり思いつめた様子もなく、ふらっと堤を乗り越え、まるで風呂にでも入るかのように気安く、夕日に照り輝く水面へと没してしまう、そんな牧歌的な――身投げに牧歌的も何もあってたまるかという向きはあろうが、一種のんきさすら覚える話ばかりなのである。
    「誰か一人ぐらい、具体的なことを覚えている当事者がいればいいんだが。誰に聞いてもみんな、川に入る少し前までと、助かってからの話しかしない。溺れたことにすら気付かなかったなんて人すらいるんだ」
     確かなことなど悉皆掴めないまま、彼らは大学河岸をすっかり往復して、再びニコラエフスキイ橋の北詰まで戻ってきてしまった。アレクセイが懐中時計――これは兵学校の卒業記念に授与されたものだった――を取り出してみれば、もう8時を回っている。けれども辺りは硝子器のような薄青色に包まれ、向う岸に建つ宮殿の、れんがと漆喰とが織りなす模様さえはっきり見えた。夏の近づくペテルブルグは黄昏が長く、9時を過ぎても水平線には薄明かりが残っているという塩梅、カンテラに火をとぼさずとも、辺りを見渡すのに支障はないのである。
    「コースチャもそう言っていたねえ。かといって、周りの人もおかしなものは見ていないの一点張りだからなあ」
     僧も首を傾げるばかりで、およそ現実的な要因には思い当たる節がないようだった。
     かくなる上は、身投げの瞬間を目撃するほか――否、そのようなことは破れかぶれにでも願うものではない、次の被害者を出さぬべくしての調査なのだからと、アレクセイは己のみにくい思いを叱咤した。なに、実地を確かめるとなれば、こうして暮れかかってきた今からが本番だ。
    「もう一度、本土に向かって橋を渡ろう、スラーヴァ」
    「そうさねえ、何度確かめたって過ぎるということはないだろうよ」
     異論が呈されることはなく、彼らはまたも水上の人となった。等間隔に据えられた外灯の光を浴びて、欄干に施された唐草模様や、奇蹟者ニコライに捧げられた小さな御堂の飾り屋根が、青インキを透かしたような空気に浮かび上がって見える。もっと遠くでは、宮殿にとぼされたいくつもの灯が、琥珀粒や真珠玉めいて岸辺を飾り立て、目もあやな景色を作り上げている。知らず彼は立ち止まり、爪を噛むのもやめて、数多の詩に詠まれた都の夕暮れにひととき見入った。彼のすぐ横を、紋章つきの箱馬車がやかましく通り過ぎていった。

     その時である。蹄と車輪のがらがらいう響きに紛れて、アレクセイはふと異質な音に気がついた。それはただの物音というより、意味を持った言葉のようであり――さらに言うなら自分の名を呼んでいるようであった。彼はとっさに振り返った。同行者が目に入ったが、この老僧の低く柔和な声とは明らかに違うものだった。
    「どうしたね、リョーシャ?」
     上背のある彼の顔つきを窺うように、僧は軽く顎を上げて尋ねたが、はっきりとした答えなど返しようがなかった。彼はただ、「いや」だか「ううん」だか、さしたる意味のない呻き声を漏らして立ち尽くした。雑踏と呼ぶほどでもない人の流れから生まれる、引き波のようなざわめきに耳を澄ませた。両手を欄干に乗せ、目は淀みないネヴァの流れに凝らしながら。
     やがて、彼の耳朶をもっと音楽的な、抑揚をつけた響きが打った。と同時に、彼はあっと声を上げかけた――目を注いでいる先、白く立ち上る水泡のあわいに、大きく一度、黒金色のしぶきが跳ね散らかされたのを、――その最中から躍り出る小魚のように、ほっそりとした手指のようなものが覗いたのを見たからだ。
    「ルサールカだ!」
     息を呑みながら言葉を発するというのは難しいもので、彼の叫びはかそけき掠れ声にしかならなかった。だからといって、改めて声を張り上げようという気にもならなかった。彼の眼前、橋桁から10サージェンばかり東へ行ったあたりへ、目を凝らすのに必死だったのである。水のしぶきが吹き上がり、細い白糸となって流れ落ちると、その一筋一筋がもつれ、絡まり合いながら、振りほどかれたお下げ髪になった。川面を照らす淡い灯は、なめらかな線を描いて、むっちりした肩と二本の腕になった。水のしずくが二つ、光の中にきらめいて、大きな緑色の瞳に変わった。藍色の毛布をけとばして、新しい朝をことほぐ小娘のように――波間からひとつの影が顔を出した。長い髪を白い裸体にからめた若い娘が。

    「スラーヴァ」 とアレクセイは呼び、後ろにいた僧の左手を掴んだ。 「誰にも耳を貸すな!」
     いつもなら凪いだ真夏の蓮池のような、どんより濁った彼の瞳も、この時ばかりは剣呑にぎらついた。僧もただならぬ気配を感じ取り、素早く合点をした。若い魔術師は掴んだ手を引き、橋を一直線に引き返した。娘の目がそちらの岸へと向けられていたからだ。
     2週間にわたって不吉なできごとの続く最中である。夜の川面に若い娘の姿があれば、すわ新たな水難ではと、たちまち騒ぎになって不思議はないはずだ。ところが、大学河岸を経て家路につく人々は、誰一人として青墨色の流れを気にしたふうもない。いくら日が落ちかかっているといえ、橋や岸辺からの燈火がいくつも伸び、白波のひとつひとつがくっきり解るほどだというのに。
     人々から気に留められずいるのと同じく、娘のほうでもまた、陸を行き交う人間たちのことは意にも介していないようだった。小狡いかささぎよりも素早く、泳ぎ自慢の川かますたちよりも揺るぎなく、娘は湾へと向かう流れをかき分けてゆく。まっすぐに引かれた軌跡を目で追って、アレクセイはいよいよ口元を引き締めた。その先にあるのはスフィンクスの守る船着き場だ。できれば彼は耳を塞ぎたかったが、そうはいかなかった。片手で僧の腕を引き、もう片手は背広の合わせに差し入れて、いつでも必要なものを取り出せるようにしなければならなかったからだ。橋のアーチが下りにさしかかる間にも、波しぶきの音は渦を巻き、背中から頭の先までをくすぐって、新しい旋律を生み出しているようだった。言葉はないが、聞く者にあらゆる詩を思い起こさせる音色を――
     彼らが橋の北詰に戻ってくるのと、娘の白い手が石段の下にかかり、ふっくらとした体が波から立ち上がるのとは、ほとんど同じ頃だった。アレクセイは再び振り返った。僧は右手に十字架のついた数珠チョトキを手繰り、《主、憐れめよ》の祈りを唱え続けていた。
     その響きを意識から追い出しきれぬまま、アレクセイは河岸のあちらこちらへ目を配った。今の歌声こそが、娘をただの娘でなく、ルサールカの名をもって呼ばしめるゆえんの一つなのだ。ひとたび彼女が歌えば、耳にした人間はたちまち魅入られ、どんな深い淵にでも誘い出されてしまう。連日の身投げ騒ぎも、たまたま間の悪かった者が聞き惚れてしまい、水面にたゆたう歌い手をひと目見ようという、ただその一心で起こしたものと考えられるのだ。であれば、今宵こそ惨事を未然に阻み、急ぎ助け出してやるのが彼の役目である。
     だが、果たして彼女は誰を誘っているのだろう? ――さすがにこの時刻になってまで、くだんの噂を確かめようという度胸の者はないらしく、船着き場に留まる人影はない。昼間はちょうど東側にあるスフィンクスの元に、大きな瓶(かめ)を携えたクワス売りが居座っており――こうした者こそ真っ先に呪われそうなものであるが、商売人は得てして怪異の類を怖れないのだ――、アレクセイも追い払うのに苦労したが、今はその姿もない。二輪馬車の馭者たちも、仕事じまいの支度を始める船頭たちも、何かに気を取られてはいないようだ。

     ――もしかして、――彼はそう漏らし、像の足元をじいと見た。裸の娘は御影石の碑へくすんだ頬を寄せ、愛おしそうに濡れた手で撫でながら、言葉のない歌をうたい続けていた。甘くやるせない響きはまるで、寝入った赤子にいつまでも子守唄を聞かせ続ける寡婦やもめ、つれない人をなんとか引き留めようと袖にすがる乙女、あるいは晩課の鐘がもう鳴ったのに、いつまでも幼友だちと別れたがらない子供のようだった……
     けれども、とうとう別れの時は来た。遠く鐘楼から日の最後の鐘が、痛悔を済ませて臥所に入る時をおごそかに告げた。ルサールカは石像の首へ両手を回し、名残惜しそうに一つ二つの節を口ずさんだが、やがて濡れた石段を滑るように駆け下り、水鳥のように湿った空気の中で跳ね、穏やかな淵にさっと姿を消してしまった。

      * * *

    「そうか、そうか、ルサールカがねえ」
     半刻ほど後、彼らは生神女福音聖堂の一室に戻り、オート麦の重湯キセーリを吹きさましながら、今しがた見たものについて語り合っていた。聞き手となるのは僧侶のほうだった。
    「僕には何も見えなかったし、聞こえなかったがね、やはりお前さんには魔法使いの目があるのだなあ」
    「それはそうさ。あんたはハリストスの祈りで守られていたからだ。それに、ルサールカだっていつでも人の目に見えるわけじゃない。そもそも人の多いところには出てこないんだ。ただ、夏至が近づいて、ちょうどセミーク祭の週になると……」
     アレクセイは言って、部屋のどこかに暦表が張られていないか見回したが、生憎とどこにもなかった。
    「ええと、今年でいうと5月の終わりになるんだが、その頃にはルサールカたちが陸に上がって、人間の住みかの近くまでやってくるんだ。で、人間が彼女らに惑わされることも多くなるわけだな。今回ばっかりは、どうも人が目当てじゃあなさそうだけれども」
     黄昏に浮かび上がる乙女の姿を、彼は眼裏にそっと蘇らせた。水の娘、ルサールカが呼んでいたのは、河岸をゆくどの人間でもない、あのスフィンクス像に間違いなかったのだ。
    「執着しているものを与えてさえやれば済む、と言うだけならただなんだがな! 二体あるんだから片方ぐらいくれてやれ、なんて問題じゃなし」
    「いやいや、お前さんそれだけは無理な話だよ。今は雨ざらしの石像だって、何千年も前の人が魂を込めたものなんだから。それこそ呪われてしまってもおかしくないよ」
     僧は渋い顔をして、若者の思いつきをたしなめたが、アレクセイとて本心から口にしたわけではない。ルサールカから人間を守る法は数あれど、石像を守る法などついぞ教わったことがないのだ。芸術アカデミーの建築家に、風水害から石材を守る法を聞き出したほうがまだ確実だろう。
     しかし、全く見込みがないわけでもなかった。あの娘がなぜ半月にわたってスフィンクスに係っているのか、あるいは歌声の魔力にもかかわらず、なぜもっと多くの投身が起きないのか、思い当たることがあったのだ。

     折しも、僧がここまでの会話を振り返るように、アレクセイにこんなことを尋ねた。
    「そういえば、お前さんはさっきセミーク祭のことを言ったが、それにしてはいくらか早いんじゃないかね。まだ5月に入ったばかりだよ」
    「それなんだ」 と彼は身を乗り出した。
    「だからおれが思うのは――あの娘はまだまことのルサールカではないんじゃあないか、てことだ」
     僧も釣り込まれたように顔を近づけてきた。彼の口ぶりと、少しばかり鋭くなった眼差しに、解決の緒を見たのかもしれない。
    「色んなおとぎ話にある通り、ルサールカは水の精、露の精だが、もともとはただの人間だった。恋人と結ばれる前に死んだとか、親に罵られたとか、川で溺れたとか……とにかく呪いの中で死んで、死んだ後も弔いの式を挙げられなかった乙女の魂が、行き場をなくして精霊になる」
    「ああ、それは僕も知っているよ。小さい時分には、そういった話をいくらも聞いたからねえ」
    「で、この死んだ魂が真のルサールカになるまでには、地方や言い伝えによって差はあるが、少なくとも4年はかかるんだ。そこまで行けばもう自然そのもの、草葉の露や雨のしずくと同じものになる。でも、それまではまだ誘惑の力も弱いし、人間だったころの記憶も少しは残っている……」
     ははあ、という溜息が僧の口から漏れた。アレクセイが言わんとすることを汲み取ったようだ。穏やかな目に灯る光がいくらか増した。
    「つまり、この不思議が起きるようになる少し前、大ネヴァで亡くなった娘さんがいるか知れないのだね。その人の魂が、神さまから忘れ去られかかっているのだと」
     アレクセイは正解と告げるかわりに、眉をちょっと上げて小さく頭を振った。まだ憶測にすぎないが、他に何も有力な手がかりが出てこなければ、当たってみる価値はある。
    「手近なところから探してみよう。おれは明日、勤めの後で市の公報ヴェドモスチをさらってくる」
    「うん、それはいい。僕も新聞を、自分で溜めてあるぶんだけでも調べてみよう。信徒のみなにも協力してもらえば、一ヶ月ぶんぐらいはなんとか見渡せるかもしれない」

     明くる日、アレクセイはまだ一時課(訳注:午前6時頃)の鐘も鳴り出さぬうちから――というのは、単に朝の光が早すぎて目が覚めてしまったからであるが――起き出し、フォンタンカ川までの小路を突っ走って、河岸通りにある内務省本館へと出頭した。そして、ここ数ヶ月でもまれに見る速さで書類仕事を片付け、三階建のビルディングを上から下まで飛び回り、昼食も取らずに用聞きを務めた。彼の働きがあまりに素早いので、いつもは制服の手入れがなっとらんだの、鵞ペンの先がうまく削れておらんだの、用箋の端が折れているだのと、微に入り細に入りけちを付けてくる上役の8等官殿でさえ、
     ――きみ、今日はずいぶんはりきるなあ。
     と、驚いたように目を丸くするばかりであった。普段のアレクセイであれば内心、見たか、と冷たい優越に浸るところであったろうが、今日の彼にはそんな暇さえなかったことである。
     万事きちんと片付くと、彼は革かばんを引っ掴んで本館を飛び出し、ネフスキイ大通りにある市庁舎へと向かった。もちろん、こたびも駆け足だ。のっぽの時計塔がある市庁舎は、通りのどこからでもよく見える。10分ばかりひた走って、玄関口に飛び込むと、彼は珍しく淀みのない口ぶりで、ここ一ヶ月ほどの公報を残らず見せてくれるよう頼み込んだ。
     白黒の紙束はすぐに到着した。彼は手袋の甲で額の汗を拭いつつ、日付を遡るようにして、双頭の鷲のもとに綴られた文字を読んでいった。重点を置くのはやはり事件欄と死亡欄だが、それ以外の些細な囲みも見逃すまいと目をこらした。なにぶんペテルブルグは大都会であるから、100万の人が住んでおり、それが日ごと増している裏で、誰かしらもまた日ごとに死んでいる。真心に満ちたお悔やみから、直截な死亡通知、また無慈悲にも黒ぐろとした数字のみで示されるものまで、新聞に訃報が載らぬ日というのはありえない。それがひと月ぶん、土曜と日曜を除いて積み重なっているのだから、検分して回るのは大した労苦であった。同じ内務省の、検閲をやる部門の役人だって、これほど熱心に新聞の一行一行、活字の一字一句を読むことはそうないだろう。おかげで彼は、都じゅうの悲劇と安らかな人生の終えかたというものに、ちょうど若い詩人――何かにつけ露の命だの、人生のみじめさだのについて苦吟しがちな――と同じほどには詳しくなったが、さて肝腎の、ニコラエフスキイ橋ちかくで没したであろう婦人についての報せは、ついに見つけることができなかった。
     彼はがっかりしたが、まだ意気消沈したというほどでもなかった。もしかしたら見落としがあったか知らんと、再びいちから紙面を検めようとした。ところが、そこで彼を受け付けた職員がつっと戻ってきて、もう閉庁の時間だから明日また来いと言ってのけたのである。

     今度こそ意気消沈して、アレクセイは庁舎を出た。一応は食い下がってみたのだが、全くの無駄骨だった。なにしろ市議会の連中というものは、頭の上に大時計を戴いているのだからして、時間についてはごまかしが通じないのだ、――彼はそう自身をなだめようとしたが、真実でないのは解っていた。表はまだこんなに明るいのだから、もうあと半時間でも長く開けてくれたっていいものを、どうしてこうも融通が利かないのだろう、と思いもした。けれども、もし自分が本庁の退勤時間を迎えた折、例の8等官殿からしかつめらしい顔で、きみ、夏の間は日暮れが遅いのだから、8時までは机について働きたまえ、等と言われればどうだろうかと考え直した。ひどく立腹するに決まっている。
     このまま家へ帰ってもよかったが、彼の足は大通りを引き返すのではなく、直進するほうへと向いた。不首尾に終わったとはいえ、今日の次第を僧スラーヴァに伝えようと思ったのである。西陽に光り輝く宮殿の前で海軍通りへと入り、例の橋を使って島へと渡る。幸い今夜も大きな騒ぎは起きていないようだった。
     取次を受けて部屋に通されてみると、僧は書き物机の上に紙束をいくつも積んで、まさに調査の最中と見えた。自分の思いつきにさっそく取り掛かってくれていることを、彼は大変嬉しく思ったが、なおのこと不首尾を申告するのが心苦しくなった。晩の挨拶のほか、どう話を切り出していいのかに迷い、
    「しかし、思ったより溜め込んでるんだな、新聞を」
     と、結局はこのような意味もない言葉で始めるはめになったのである。
    「おや、リョーシャ、お役所の帰りかい。わざわざ遠回りをさせてしまったねえ」
    「いいや、大した距離じゃあない」 彼は首を横に振ったが、実際はやはり一時間ばかりの足労であった。
    「まあ、そこの椅子におかけ、リョーシャ。せっかく来てくれたのに悪いんだが、僕のほうは何も見つけられていないんだよ。まだ全て見終わっていないから、この先に光があると信じたいところだがね」
     僧は手にしていた《サンクトペテルブルグ日報》の一部を畳んで、机上の山のうち右端にあるものへと載せた。その動きを横目にしながら、アレクセイは机の左手にある、勧められた木の椅子へと腰を下ろした。
    「それでもなんとか、4月のなかばまでは読み通したよ。お前さんならもっと早く読めるんだろうが、僕はもうずいぶん目が悪くってねえ」
     等とこぼす僧は、紐つきで縁のない鼻眼鏡をかけている。日頃は矍鑠として足取りも軽く、若者と共に何時間でも歩き回るような人物だが、それでも間違いなく老いてはいるのだと、アレクセイは少しばかり悲しい思いがした。
    「スラーヴァ、だからおれが手伝いにきたんじゃあないか」
     彼はさっと手を伸ばして、机上の山のうち一つを取り上げた。楕円のレンズの向うで、僧の目がぱちりと一度またたいてから、ゆっくりと細くなった。
    「実にありがたいことだ。お前さんのような人を友に持ったことが、僕は本当に嬉しくてならないよ、――それじゃあ頼もうかね。僕は引き続き《サンクトペテルブルグ日報》をやるから、お前さんはその隣の山をやっとくれ。《ペテルブルグ新聞》だ」

     かくして調査は再開された。アレクセイはさすがに慣れたものであり、慣れているからこそ目を滑らさぬよう注意しなければならなかった。いくら健康な目を持っているといえ、今日だけで何万の活字を読んだか知れないのだ。また、事件とは間違いなく一切関わりのない記事――要するに文芸欄であるが、こうした誘惑者に気を引かれぬことも肝要だった。なにしろ《ペテルブルグ新聞》といえば、いまだ駆け出しだった時分のチェーホフが、文筆の才を顕した紙なのである。新聞小説というものは玉石混淆なれど、そのうちから玉を拾い上げた喜びこそ輝かしいもので、アレクセイもかつては学生寮の居室に、そういった名文ばかりを切り抜き、綴じ込んだ帳面を持っていたほどである。
     彼は精神を研ぎ澄まし、血色の悪い顔のほか、指先にすら目があるような注視ぶりで、新聞紙の束を次から次へと繰っていった。風刺画がでかでかと一面を覆っていたりすれば、これで得られる情報が減ったと舌打ちをしかけては、すぐ隣に僧が座っていることを思い出し、慌ててこらえた。そして広告の多さにも辟易したが、これなくして新聞は立ち行かぬのだから堪忍するほかなかった。鉄工場の広告、競売の告知、鼻眼鏡の宣伝――ここで彼は僧の横顔を一瞥した、――開業医の売名。いや、気を取られてはいけない、次に進まねば……
     彼が気分を切り替えるように伸びをした瞬間だった。右隣から、あっ、という短い声が上がったのは。彼はとっさに振り向き、立ち上がって机に乗り出した。
    「どうした、スラーヴァ」
    「ううん……いや、『橋』『悲劇』の文字が見えたもんだからね、さてはと思ったんだよ。だが、これはニコラエフスキイ橋の話ではないねえ、リチェイヌイ橋のほうだ」
     僧は眉を寄せながら答えたが、アレクセイは構わず、記事を読ませてくれるよう言った。受け取ってみると、そう大きくも太くもない見出し――《橋上の悲劇》と題された下に、小ぢんまりと仔細が語られていた。

     ――本日正午すぎ、リチェイヌイ橋にて中年の婦人が突如として欄干を乗り越え、眼下のネヴァ川へ投身するという事件が起こった。自殺をはかったものと見られる。目撃者に聞き取りを行ったものの、婦人の身元については判然とせず、周囲からは遺書も発見されていない。当時、付近を航行していた渡し舟の船頭によれば、誤って転落したと見て漕ぎ寄せ、手を差し伸べたものの、その手を振り払うようにして、泳ぎながら沈んでいったとのことである。現場に到着した警察官および有志らの手で、現在も婦人の捜索は続けられている。

    「スラーヴァ、これだ」 彼はやっとのことでそれだけ言った。声は震えていた。
    「どうしたね、リョーシャ?」
    「これだよ。だって、リチェイヌイ橋だろ。あの橋はニコラエフスキイ橋より上流にあるんだぞ。しかも昼間に飛び込んで、その日の夕刊が出る頃にまだ見つかっていないんだから、すぐ近くの岸に着いてはいない、ずっと下まで流されたかもしれないじゃあないか」
    「ああっ、そうだ」 はっとしたように僧も膝を打った。
    「ということは、続報だ。この夕刊が――」
    「4月の17日だ。同じ新聞なら、半月ぐらい事件を追いかけても不思議じゃあない。翌日には終わっているかもしれないが、とにかく探す甲斐はあるぞ、スラーヴァ!」
     探すべきものが死亡報告である手前、彼らは表立って活気づきこそしなかったが、記事を追う勢いはにわかに増した。幸い、事の顛末は四日後の朝刊で明らかになっていた。 「《去る17日にお伝えした中年婦人の投身事件について、当局は昨夜9時過ぎ、大ネヴァ川下流のワシーリエフスキイ島沿岸にて、当該人物と思しき女性の遺体を発見した。遺体はモスコフスカヤ区在住のА. П女史、当時40歳とみられ、》――モスコフスカヤ区のА. Пだな。モスコフスカヤのА. П……」
     アレクセイは背広の返しから小さな帳面を取り出し、素早く要点を書きつけた。大きな前進だ。この婦人の身元をはっきりさせ、遺族に話を聞き取ることができれば、故人が何に執着しているのかも解るか知れない。
    「まあ、ペテルブルグには100万人が住んでいるんだ……モスコフスカヤ区に限ったって、アンナ・プリュシチェンコАнна Плющенкоやら、アレクサンドラ・パヴロワАлександра Павловаやら、沢山いるだろうが、21日以降に死亡届の出たА. Пなら、調べればきっと解ることだ……」
     ぶつぶつ言いながら、彼は明日以降の段取りを詳しく考えはじめたが、ふと僧のほうに顔を向けた。老僧はこの大発見を歓迎したくもあり、かといって手放しにも喜べないという、なんとも煮えきらぬ表情を見せていた。
    「しかし、いや、坊さんが自殺者の家に押しかけていって、あれこれ説法をするなんてのもな」
     彼は頭を振った。 「おれが行くよ、スラーヴァ」
    「すまないねえ。僕にしても、なるべくならお前さんの責任を肩代わりしてやりたいんだが、僕は良くてもあちらさんが気まずい思いをするだろう……かといって、お前さんが気を悪くしないというわけでもないだろうに」
    「良いんだ。言ってみれば、これこそが本来のお役人の仕事ってやつだ」
     帳面を懐にしまい入れ、椅子をきしませぬよう静かに立ち上がって、彼はかすかに笑ってみせた。あるかなしかの笑みではあったが、それが彼の顔面にとっては精一杯なのだった。

     火曜日の朝、アレクセイは昨日よりもいっそう早く床を離れ、本庁のいかめしい門が開くよりずっと前から、フォンタンカ河岸に着いて待っていた。開館時間になると、彼は同僚たちが無為な挨拶を交わしているのを横目に、猛然と今日の書類を片付けにかかった。彼のいる部署だけあまりに書類の仕上がってくるのが早いので、連絡係が目を丸くしていたほどである。そして休憩時間になるや、彼は上役の8等官殿をすっ飛ばして、実働に関するもろもろの採決を司っている役人――これは5等官なのだが――のもとへ行き、一週間分の会話文を5分間で使い果たすかのごとき語勢で説得にかかり、首尾よく死亡証明書の閲覧と、それにかかる追加調査の許可を取り付けた。
     5等官殿の委任状があるのとないのとでは、市庁舎の受付係も態度がまるで違った。一組の書類はしごく丁寧に差し出され、それによって彼はくだんの婦人につき、本名がアナスタシヤ・イワノヴナ・プラトーノワであることや、モスコフスカヤ区以下の詳細な住所、また死亡届を提出したのが親兄弟ではないらしいこと等を知った。もろもろの手続きを終え、役所の門をくぐったちょうどその時、聖イサアク大聖堂の晩課の鐘が鳴りだした。
     
     書類にある所番地を訪ねてみると、そこそこの年季が入っているといえ、造りは立派な屋敷だった。街なかであるから庭はそれほど広くないが、門扉も堂々として味がある。呼び鈴を鳴らすと、少しして女中らしき老婦人が顔を出した。教育の行き届いた女性らしく、彼女は丁寧に用向きを伺ってきたが、アレクセイが書状を見せつつ、委細を話し始めたとたん、はっと顔色を変えた――細い眉が見る間に曇って、彼の顔をきっと見上げた。
    「ええ、お伝えすることはございます、お役人さま。ですがここでは悪うございますの」
     掠れてはいるが、はっきりとした意志のある響きだった。と、玄関口のほうから、扉こそ開きはしないものの、家人らしき者の呼ぶ声がする。誰が来たのか、客なら早く通さぬかといったことだ。老婦人は声を張り上げて、いえ何も、ただ知り合いが訪ねてきたもんですから、すぐに追い返しますわと返答した。
    「静かにいらしてください、さあ、こちらへ」
     彼女は辺りをはばかるように言い、アレクセイを招き入れた。どこへ通されるのかと思えば、敷地を少し行ったところに離れがある。なるほど、そこが奉公人たちの住まいなのであろう。あんのじょう中は手狭で、壁紙も床も古ぼけており、彼自身の住まいと大差のないありさまであった。
    「あなたさまが新聞でお知りになったのは、間違いのうございます、アナスタシヤお嬢さまのことですよ。お嬢さまがお亡くなりになってから、わたくしどもがどれほど消沈しているか、それはこの気配のさまをご覧になってお分かりでしょう。ああ、かわいそうなお嬢さま……」
    「とてもよく分かる」
     目頭を押さえる老婦人に合わせて、アレクセイは可能な限り沈痛な面持ちを作ったが、気もそぞろであったため、うまく面に出せたかは怪しいものである。
    「それで、さっきも言いかけたんだが、聞きたいのは動機……あの、要するにだ、当局は自死であったかについて今一度調査せよとのお達しだ。本人に全く何の意志もなかったなら、ともすれば重大事故か、殺人の可能性を考える必要があるわけだから。遺書もなかったことだ」
    「わたくしがお伝えしたいことというのも、まさしくそれでございます」
     彼女はきっぱりと合点した。 「これは間違いのうございますが、お嬢さまは自ら死をお選びになったのです」
    「詳しい事情を知っているのか? 本人から打ち明けられたとか」
    「直截にお聞きしたわけではありません。ですが、20年前のことを考えれば、何らの不思議もないことでございます。お嬢さまにとって最も大切なもの、それは20年前からずっと、あのネヴァの流れに沈んだきりになっているのですから」

     アレクセイの心には、彼女の言わんとすることがくっきりと浮かび上がりつつあった。「後を追った」のだ。
    「そのお嬢さま、ええと――故アナスタシヤ・イワノヴナは、もしかすると婚約かなにかしていたか?」
    「はい、非公式に」
    「つまり、親には認められていなかったのだな?」
     老婦人は重々しく首を振り、ちょっとの間考えていたが、ゆっくりと話を続けた。
    「帝国大学の学生さんでございました。若いけれどもたいそう立派な、紳士と呼ぶにふさわしいおかたでしたよ。なんとかいう貴族家のパーティーでお知り合いになって……ですが、仲良くするまではよろしくとも、プラトーノフ家はあくまでも無官の商人、あちらは貴族ですから。結婚なぞとは成り立たぬ話だったのです」
    「続けてくれ」
    「それで、お嬢さまとお相手のかた――わたくしはアンドレイさまとお呼びしておりましたが、そのお二人はとうとう駆け落ちなすったんです。わたくしもお供いたしました」
    「駆け落ちに?」
     彼は目を瞬いた。駆け落ちに使用人がついていくというのもあまり聞かない話である。あるいは、この老婦人がそれほどまでに、故令嬢に信頼されていたということだろうか。
    「ええ、ポーリャも――わたくしはポリーナと申しますもので――ぜひ一緒に来てくれるようにとのお申し出でしたから。それで、三人でサドヴァヤ通りちかくに部屋を借りて、つましく住み始めたのでございますが、すぐにも資金は底をつきました。働かなければならなくなったのです」
    「それは解るが、だからといって二人とも、ほいほいと労働者に転身はできなかったろう」
    「もちろんでございます。お嬢さまは言うまでもありませんが、アンドレイさまにしても、学習院(リツェイ)こそ出てはおられますが、大学は途中でやめてしまったのですから、簡単に割のいい口が見つかるわけもありません。ですが、あの時分のペテルブルグでは、ちょうどリチェイヌイ橋の架け替え工事のため、広く人足を集めておりました……」

     今やアレクセイは身震いするほどになり、老婦人の物語る話がどう結末するかさえ、ありありと思い描くことができていた。リチェイヌイ橋! そうだ、ネヴァ川にまつわる呪いといえば、なにもスフィンクスに限ったことではなかったのだ……
     ネヴァの分岐点そばに架かるリチェイヌイ橋は、今でこそ堅牢な石橋だが、かつては木で造られた簡素な浮き橋だった。都の南北を行き来するには、それで十分に事足りると思われていたのだ。ところが現実はそう簡単ではなかった――そもそも「ネヴァ」というのは、フィン人の言葉で「沼」という意味であり、そのネヴァの流域たるペテルブルグはかつて、都にするにはとうてい向かぬ沼沢地だったのである。言わずもがな、水の魔(ヴォジャノーイ)がちょいと機嫌を損ねただけで、荒れ狂う川はたちまち堤防を乗り越え、都じゅうを浸し、橋という橋を押し流した。先だっての大氾濫の折など、ワシーリエフスキイ島は完全に沈んでしまったほどである。このあたりは、それこそ我らが大詩人によって、《青銅の騎士》に歌われたとおりだ。
     そのリチェイヌイ橋は1875年、長きにわたる住民の嘆願がついに実を結び、新たに固定橋として架け替えられることと決まった。シュトルーヴェ工兵大佐の指揮下、工事は4年にわたって続き、1879年9月30日、一ヶ月遅れでようやく完成した。多大な犠牲を払って。
    「大体は解った」 彼は呟いた。 「2回の事故のどちらかに巻き込まれたのだな」
    「はい、お役人さま。本当に、本当に痛ましいことですよ。わたくしはお止めするべきだったのかもしれません。確かに橋梁工事の人足など、雇い入れにあたって身上調査などいたしませんから、身分を隠して働くのには好適です。それでも、あの場にいたばっかりに、アンドレイさまはある日とうとうお嬢さまのもとへ帰れなくなってしまったのです……」
     アレクセイは幼年学校時代を回想した。市史を習うにあたって避けては通れない事故だ。公式な発表によれば、橋梁の完成までに出た死者は25人である。そのアンドレイ某が25人に含まれているのか、それとも身元すら解らぬ状態で計上されなかったのかは判然としないが、結果としては同じことだ。
    「それで、アナスタシヤ・イワノヴナは?」
    「結局、ご実家に戻ることになりました。わたくしが外へ働きに出ようかと思ったのですが、そこまではさせられないと……それから20年、お嬢さまはずっとお屋敷に籠もりきりでした。年頃ですから縁談はいくらも来ましたが、それらは全て断っておしまいで、旦那さまから強く迫られたときなど、『どうしても結婚しろというなら、ネヴァに身を投げて死んでやる』とおっしゃったほどです。その時はわたくしも、よもや現実になろうとは思いもしませんでしたが」
    「だが実際は」 彼は息を吐いた。 「先日の次第というわけだ」
     もう40にもなる婦人が、親に逆らって独身を貫きながら、しかし親のもとには留まり続けるというのは、実家の気性にもよろうが辛いことだろう。とうとういたたまれなくなって、自死を選んだのかもしれぬ。
    「これは実に尋ねにくいことなのだが、その……アナスタシヤ・イワノヴナの、むろん埋葬はもう済んだと思うが、それにあたって聖堂の埋葬式は……」
    「いいえ」
     悔しそうに唇を震わせながら、老婦人は首を振ってはうつむいた。
    「ほうぼう走り回って、頼み込んだのですよ。わたくしどもはみなお嬢さまのことが大好きでしたから、――けれども、本土にある聖堂はどこへ行っても、自殺者のために奉神礼はしないと」
     自然、アレクセイの目も下を向いた。彼にも大いに覚えのあることだからだ。数年前の彼もまた、北の都を飾る無数の十字架を、隅から隅まで尋ね歩いては、同じことを繰り返し頼んで回ったのである。あの焦燥と、憔悴と、靴底が一夜で擦り切れたのかと思えるような足の痛み、それら全てがまざまざと思い起こされ、現在の彼を踏みつけにした。
    「でも、まだしも良かったのです。聖堂でおざなりに式をされて、お嬢さまを手ひどく扱った人々と同じようにされるよりは。今頃きっと、お嬢さまは愛するアンドレイさまと共に、暖かな眠りについておられることでしょうから」
     老婦人がふっと息をつき、自分自身に言い聞かせるように述べた。アレクセイは返事に迷った。そのお嬢さまの魂が、永遠の眠りにつくどころか水の妖女となって、夜な夜なスフィンクス像と逢瀬を重ねているなぞと知ったら、相手はひっくり返るかもしれない。
     ともあれ、これで概ねのことは解った。やはり自死した女性の魂がルサールカとなり、生前の強い執着をある程度残したまま、死地であるニコラエフスキイ橋のあたりに出没しているのだ。恐らくスフィンクスの顔を恋人と思い込んでいるのだろう。石像の顔というものは、ある程度広い範囲で誰かに似ていると解釈できるものだから、特に不思議なこともあるまい。アレクセイは最後に一度、老婦人に丁寧な礼をした。とりわけ、死者に対して心を砕き、果たせる限りの供養を果たしたことに対して。
     彼女の手引きで門前まで戻ってくると、外の通りはすっかり水色の黄昏に包まれていた。やるべきことはあと一つ、死せる魂が真のルサールカとなり果てる前に、自死者を受け入れてくれる僧侶を見つけ出し、生前の信仰に沿った埋葬式を挙げることだ。そして幸い、今のアレクセイには心当たりがあった。

      * * *

    「添わせてやらにゃなあ」
     老僧スラーヴァ、あるいはミハイル長輔祭は、アレクセイの語る一切を聞き取った後で厳かに言った。同じ日の晩のことである。すっかり閑散とした生神女福音聖堂の庭で、僧は確固たる面持ちで合点したのだ。
     そして日曜日、普段どおりの奉神礼が終わった後、ニコラエフスキイ橋の北詰にはちょっとした人だかりが生まれていた。もう身投げ騒ぎが理由ではない。黒い祭服をまとった司祭を先頭に、振り香炉を持った長輔祭、そして粗末な黒服を身につけた、歳も性別もばらばらの人々――身なりからしてどこかの屋敷の奉公人と見える――が続き、きちんと列をなしていた。通りすがる者は誰でも、それが葬列だとは解ったろうし、連日の騒ぎにおける犠牲者の供養と思った者もいようが、実のところは違っていた。
     長輔祭の祈祷に続いて、《永遠の記憶》が唱えられるなか、アレクセイは官吏の制服ではなく古いフロックを着て、橋詰から少し離れたところに立っていた。これから先、永久に何の水難もないとは間違っても言えないが、少なくともスフィンクスの汚名はひとつ晴らされた、そのことを確かめるためだ。彼は御影石の石碑に身をもたせ掛け、穏やかな午後の日差しにきらめく川面をじっと見つめていた。そして、かつて自分が、同じ司祭と長輔祭との三人きりで、あまりにもさびしい葬式を挙げたときのことを思い出しながら、心のうちでそっと祈りを唱えた――正統派の経文ではなく、古い異教の、不幸な魂への追善供養トリーズナの文句を。

      ――女王 ルサールカ、
      美しい 娘よ、
      死者たちに 安らぎを、
      魂を 破滅させないで
      首吊りなんか させないで……

    go page top

    inserted by FC2 system