週に6回の休日は、なるべくなら贅沢に使い潰したいものだ。最適解の一つがこれだ。

匂い立つ渇欲 -Vocal Aphrodisia-

 土曜の夜遅くだった。レイトショーは閑古鳥。この島の住民には、古典ホラーのリメイク版に愛を注げる者がそこまで多くないらしい。或いは単に映画館へのアクセスが悪すぎるだけだ。全世界ロードショーにいつも乗り遅れるお国柄もある。翻訳の手間がないのだから、同時公開してくれたっていいものを、配給会社に金がないせいか、良くて半年遅れ、悪ければAmazon Primeに追加されるほうが早い。
 そんなわけで閑散としているロビーに、全身パーティー仕様で着飾った若者がいれば嫌でも目立つ。周りの者がTシャツにサンダル履きの出で立ちにも関わらず、往年のハリウッド俳優のようなピンストライプ・スーツだ。「華麗なるギャツビー」あたりでお見かけしませんでした? それか「ゴッドファーザー Part2」。
 全米がピエロ恐怖症に泣いたフィルムの上映後、再びロビーに人が散見されるようになっても、やっぱり若者の姿は浮いていた。所帯じみた布かばんを肩から下げた女性たちが、胸ポケットに絹のチーフを挿した男に、二度三度と目を奪われては慌てて顔を背ける。ヨーロッパの片田舎を地で行くセントエラスムスの映画館(それも「シネマ・コンプレックス」等という御大層なものではなく、上映室が辛うじて二つある程度の代物)で、これほど人目を引いているのは彼と私だけだ。なお後者については私の類稀なる美貌と溢れ出る才気によるものなので、特に不思議な点はない。
 二十歳そこらに見える若者は、およそ庶民の代表と言うべき人々を横目で見送っていた。かと思えば、やおらバスを待つ私のほうへと歩み寄ってきた。近付いてみると、遠目に見たより背は低い。この国の平均程度だ。ステフぐらいは上背があるように見えたのは、きっと胴体と手足のバランス故だろう。
「ちょっと訊きたいんだが」
 聞こえてきたのは張りのあるハイバリトン。島の訛りではない綺麗な英語だ。だが英国人の喋り方でもない。「イギリス英語を学んだ外国人」のそれ。
「この時間からでも食事のできる店が近くにないか。喫煙可なら尚のこと有難いね」
 観光に訪れたはいいものの、主要な商業施設の閉店時間が早すぎて途方に暮れている、といった風情。さもありなん、国民の96%がローマ・カトリックの信徒で、郵便局や交番よりも教会のほうが多い国を侮ってはいけない。セントエラスムスという町の夜遊びに対する不寛容さたるや、目抜き通りのバーが軒並み午後10時に閉店する様を見れば明らかだ。私がその旨を伝えてやると、若者は灰色の目を見開いて、デュッセルドルフじゃ考えられないぜと呆れた声を上げた。彼はどうやらドイツ在住らしい。
 幸い、目新しさや華やかさを重視さえしなければ、深夜まで営業しているレストランや酒場も無いではない。私が居を構えるラナンキュラス通りにも「青銅の梟」がある。店名と所在地およびメニューの傾向、分煙だが一応は喫煙可であること等を述べるなり、彼はそこに決まりだと指を鳴らした。問題は、ラナンキュラス通りを経由するバスがいつ来るのか誰にも分からないことだ。時刻表には22:58に最後のバスが到着すると書いてあるものの、今はその40分前であり、そしてバスが定刻通りに到着する確率と、2月のラナンキュラス通りに雪が降る確率はほぼ等しいのだから。
 ちなみにこの国ではイギリスからの独立後、人為的手段によらない降雪は一度も確認されていない。

 利害関係のない観光客と雑談をする趣味は無いのだけれど、車を待つ間の暇は暇なので、私は話に付き合ってやることにした。彼はウィリアムと名乗り(ドイツではヴィルヘルムと呼ばれているのだろうが)、デュッセルドルフ在住であること、だが生家はドレスデンにあること、現職はヴォードヴィリアンであること等を語った。ヴォードヴィリアン――それなら隣の上映室に「グレイテスト・ショーマン」が掛かっているのだから、そちらを見れば良かったのにと思ったが、私と同じくオフに仕事の話を持ち込みたくないタイプなのかもしれない。
「まあ、日頃は歌かミュージカルが主だ。キミは何か、少なくとも銀行員や医者には見えないが」
「この国で転職したくない業種のトップ3が銀行員と医者とホテルマンですね」
 等と言った矢先から仕事の話だ。私はぞんざいな声を出す。職業について嘘偽ることもあまりないので、正直に答えてやることにしよう。
「調香師です」
「へえ?」
 釣り込まれたように細い眉が上がる。色の白い顔が少しばかり踏み込んできた。鼻先を僅かばかりの息が掠め、続いて身じろぎによって起きた空気の流れが――そこに体臭とは違う匂いの付いているのが判る。かといって煙草の臭いでもない。滑らかで僅かに甘く、端正だが光り輝いてはいない、仄暗い香りだ。深い色をした口紅の匂い。無論、この若者は口紅など引いてはいない。化粧はしているようだけれども。
「いわゆるニッチ・パフューマリーか。まあ、イタリアが近いんだから文化流入の余地はあるよな。どんな香水ジュースを?」
「ご興味が?」
「知り合いに香水狂いがいるんだ。が、はるばる地中海までバカンスに出かけて、エルメスの『地中海の庭』を土産に持ち帰るんじゃ、何の自慢にもならないだろ」
「そのお知り合いの好人物度合いにもよるでしょうが、私なら当人が帰った後、哀れみながらeBayで売りますね」
「そうか、ではキミよりは好人物だと言っておこう。……是非とも作品にお目にかかりたいね」
「生憎ですが昨日店を開けたので、もう来週まで営業はしませんよ」
「不定休か?」
「不定営業です」
 弟子からはさんざ「世間を舐めきっている」と評された勤務形態に、彼は薄い唇を微かに釣り上げて笑った。どうやらお気に召したらしい。それが勤務形態についてなのか、私の世間を舐めきった態度についてなのかは判然としない。
「それに私の香水はみな誂え仕立てビスポークですからね。要するに、サプライズには向きません」
「渡す本人を連れてこいというわけか。まあ、実のところを言えば渡すつもりも無いんだ。見せびらかすだけ見せびらかして品はやらないのが一番の対応だからな」
「どうも私とあなたの好人物度合いは似たり寄ったりのようですが、お知り合いは本当にお知り合いなのですか」
わたくしと同じ立場なら、奴だって同じことをするだろうよ」
 要するに、知り合っているからといって仲がいいとは限らないわけだ。いかにも敵を作りやすそうな見た目と言動だし、と私は思う。そういえば同じ台詞は私に向けられることも多い気がする。一体何の話だろうか。私は敵を作っているのではなく、味方を作っていないだけなのに。
「じゃあ、奴のための香水は別にいいとして、……もしキミが私の香りを作るなら」
 黙って微笑んでいれば優形で通るだろう、垂れがちな目がこちらを覗き込む。試すような灰色の瞳、いや、よく見たら無彩色じゃあない、深い深い紫だ。それで思い当たった。だからこの匂いなのだ。スミレとアイリス、それに僅か、バニラと麝香の甘く重たい香りが重なっている。
「――どんな匂いにする?」
「ご存知ないかもしれませんが、『私をイメージしたカクテルを』はバーテンダーに嫌われる注文トップ10の常連です」
「よくご存知だとも。その点、シンガーは『私のために一曲』と言われたら、とりあえず『愛の讃歌』を歌っておけばいい」
 私の素気なさに呼応するかのように、彼も大変ファンに優しくない台詞を吐いた。それから実際に、フランスの歌姫を象徴するシャンソンの節を――最も甘く熱い旋律のいくつかを口ずさんだ。大したファンサービスだ。「あなた」が不倫相手のうえに飛行機事故死する前提じゃあないか。

 ただし、嫌に納得は行った。――その声だ。
 よく「音や文字に色を感じる」という人がいる。共感覚というやつで、アルファベットのSは赤色だとか、ヴァイオリンのG線でB♭を弾いたら深緑色になるとかいうものだ。私には生憎、リストのピアノソナタを聴いても輝く金色は見えないが、――彼の声からは匂いがする。
 口臭の話をしているんじゃあない。この距離では吐息など感じないし、感じたところで恐らくバターポップコーンとコーラのジャンクな臭いがするだけだろう。鼻ではなく耳を震わせるもののことだ。今しも夜の空気に解けたばかりの変ホ長調、そこに私は確かなものを嗅ぎ取った。ただ花の香り、甘い香りというだけでなく――黒いベルベットと白い絹とが重なるあわいに、一つ二つの露を載せたまま、薄明かりに浮かび上がるような匂いだった。すべすべとした花弁は手招きするように開いて、誰かに抱擁されるのを待っているようでもある。花屋がセロハンとリボンで花束を作るような、丁重極まりない包み方ではなくて、もっと衝動的な……

  わたし、国だって捨てるわ
  Je renierais ma patrie,
  友達のことだって
  Je renierais mes amis,
  あなたが望むのなら
  Si tu me le demandais.
  人にどれだけ笑われようと
  On peut bien rire de moi,
  わたし、何でもしてみせる
  Je ferais n’importe quoi
  あなたが求めてくれるなら…
  Si tu me le demandais.

「良いフランス語の響きだ。本式だな」
 ――はたと思考が止まる。シャンソンの歌い手が目を細めていた。今のはつまり私の声について言ったのだろう。
「一応は話者ですのでね。……ええ、何の話でしたっけ? あなたの香水を作るなら、と。そう」
 肩を竦める。これがつまり彼の匂いだ。「私はあなたのために何でもする」と、甘い声で語り掛け、また同じ言葉を返させてしまう匂い。もちろん、私はこの自意識過剰な「好人物」とは初対面で、彼の人となりなど私並みに人付き合いが悪いことぐらいしか理解していないが、きっと彼は本当に「何でもする」のだろう。彼の興行の間だけは。
「バターの香りにしましょう。トーストしたての白パンへ、砂糖と一緒に塗りつけたような」
 ふうん、と上向いた鼻が鳴らされる。続けてくれ、とばかりに細い指が動いた。爪の先は美しく削られ磨かれていた。私ならそこに黄色と紫色を塗るだろうが、彼は素の色味を大切にする主義らしい。
「ああ、白パンがお気に召さなければ、ライ麦パンでもブリオッシュでも何でも結構ですよ。今日びグルマン香料は一大分野として確立されましたからね。それにアーモンドと蜂蜜とラム酒を。水仙ダフォディル沈丁花ダフネも足しましょう。黒いさくらんぼのジャムにココナツ、スミレの砂糖漬け」
「クリスマスケーキでも準備してるのか?」
「あなたのお国じゃクリスシュトーレンでしたかね。――良いですか、人が甘味を求める理由も様々なら、香水を付ける理由も様々です。安らぎを得るため、自分に自信を持つため、誰かに好かれるため」
 閑散としたバス乗り場(という名目で用意された、恐らく元はゴミ置き場か何かだったのだろうスペース)に、私たちの声はよく響いた。通りすがりの人間が見たら、演劇の練習でもしているように思えるかもしれない。セントエラスムスの路地において、私たちの格好は普段着というより衣装か仮装だ。
「あなたの場合はね」
 だから私の台詞も芝居がかっている、という訳ではない。 「人の腹を空かせるためでしょう」

 次にその口から漏れ出したのは、さも愉快そうな低い笑い声だった。経験からいって、人がこんなふうに笑うのは物事が首尾よく運んだとき、とりわけ罪のない悪戯や謎掛けの種明かしをするときだ。鼻先に感じる馨香けいきょうに僅か、饐えた獣のにおいが混じった気がした。
「鋭いじゃないか。ああ、つまりキミは満ち足りている側の人間なんだろう、それに気が付くということは」
「比類なき人生を送っていますのでね、幸いにも」
「それはおめでとう。だが、可哀想に世間一般の連中はそうじゃないんだ。そして人間というものは、飢えと渇きを満たしてくれる相手に限りなく弱い生き物なんだよ……」
 解っている。彼の声にはそれだけの力が――自らが求めてやまないもの全てを、胸の奥から肚の底まで充たしてくれるに違いないという、強固で強烈な期待の源がある。ある意味ではセイレーンやローレライのそれよりたちが悪いかもしれない。彼女らの歌は青酸カリだが、彼の歌は阿片とアブサンだ。
「遭難中に海の水を飲むぐらい愚かな話ですよ。まあ、そんなあなたが万一、本当に私の香水を欲しいと思うなら、その時は良心的な手加減の上で調香して差し上げますがね」
「手加減」 は、と短く高い笑声。 「芸術家に怠慢は命取りじゃないのか?」
「お望みなら最大限に『お腹の空く』香りにしても構いませんけれど」
 通りの角からヘッドライトが差し込むのを横目に、私は欠伸を一つした。
「およそ碌な結果にはならないと思いますね。『香水 ある人殺しの物語』という映画をご存知ない? 確か原作者はドイツ人でしたよね、あれ……」

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