がたつく木戸を後ろ手に閉めると、冷たい風の音はほとんど聞こえなくなった。


  • 水に流せば
    M. K. ザムコフスキイ 著
    夕凪 瑞穂 訳


  •  奥行きは十分にあるが、やけに窮屈さを感じる空間だった。それは天井の過ぎた低さのせいか、照明と呼べるものが数個の石油燈しかなく、部屋全体が薄ら寒い暗がりに包まれているせいか――否、戸口に誰かが姿を現したのに、誰一人として歓迎の意を口にしない愛想の悪さのためかもしれない。三人四人と固まって煤けたテーブルに就く、赤ら顔の男たちのほとんどは、軋んだ戸の音に振り向きもしないどころか、予定外の来客に舌打ちさえする始末だ。
     とはいえ客のほうも、暖かなもてなしを受けるために訪れたわけではなかった。高い上背を屈めながら入ってきた青年、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ・ネーモフは、普段ならばこんな界隈に寄り付いたりはしない人間だ。けれどもよんどころない事情が生じ、とある人物に接触しなければならなくなった。といって互いに見知らぬ相手だから、まずは本人を探し出す必要がある。その人物がよく見かけられる場所というのが、ここフォナルニイ小路にある一軒の酒場だったというわけだ。
    「兄さん、ここじゃ見たことねえな」
     入ってすぐの段を下りてゆくなり、脇に控えていたたっぱのある男が、低い声で尋ねてきた。淀んだ褐色の目は、アレクセイの黒いごわごわした外套を、上から下まで舐めるように見ている。
    「待ち合わせだ。相手がここだと言った」
    「ふん、じゃあそこの《台》を使いな。何をやるんだ」
    「何を――」 彼はとっさに聞き返しかけて、すぐさま相手の言わんとするところを思い直した。 「ビールを」
     節くれだった手が、彼の背を《台》に向けてぐいと押し出した。

     ぜんたい、フォナルニイ小路という時点でやめておくべきだったのだ、――ふらついた体をなんとか立て直しながら、アレクセイは内心でそう独言した。ここは赤燈フォナルニイの名に恥じず、またその名を恥じることもない、都の悪徳という悪徳を塗り固めた魔窟なのである。昼日中にはひっそりと静まり返り、犬の鳴き声一つ聞こえてこないが、秋の日が急ぎ足に西へと去ってゆくや否や、公娼館を示す赤い灯が、ごみと汚物にまみれた灰色の敷石を照らし、酔漢のわめき散らす野卑な響きに、どこからか漏れ聞こえる調律の狂ったピアノが折り重なる。悪臭の漂う長屋の戸口には、まだ何も脱いでいない婦人が嬌声を上げて、通りすがる男たちの袖を引いては、酒だのたばこだの、旦那衆のお好みが全て揃っていると強調する。ここからほんの1露里も行かないところに、あの絢爛豪華にして開化的なユスポフ公の宮殿や、チャイコフスキイとリムスキイ=コルサコフを擁した音楽院があるなんて、一体誰が信じられるだろう? だが、ペテルブルグとはそうした街なのだ。ひとつ通りを挟むだけで、現代ロシヤの頂点が秩序のどん底へと変わる……
     広々とした都全体に思いを馳せるのを止め、彼は改めて室内に視線を巡らした。手元の《台》はこれが正にちっぽけな台で、小瓶チェクーシュカ一本と小皿を一枚置けばお手上げといった風情、おまけに脚の覆いがひとつ外れているためか、明らかに傾いているのが判る。向いには黒ずんだ壁しかない。横手にはもう少し使いみちのありそうなテーブルがいくつも並んでいるが、どれ一つとして輪に加わりたいと思えるものはなかった。隅のほうにある角台では、かるたの賭けが行われているらしく、胴元らしき船乗り風の男を囲んで、貧相な身なりの博徒たちが、盛んに賭け金や札のやり取りをしている。少し手前では、どこを見ているのか判らぬ目をした若い女が、引き攣ったような笑い声を上げながら、年嵩の男に抱かれている――彼は眉間に深く皺寄せた。あの男が被っているのは官帽じゃあないか。自分と同じ役人だ、それも帽章からして国民教育省の!
     彼は呻いた。一刻も早く帰りたくてたまらなかったが、それでも辛うじて目的遂行への意志が競り勝っていた。音と臭いの織りなす混沌に目を光らせて、求める相手を――四十路半ばで立派なあごひげを生やし、常に獅子頭の杖を携えているという男を探し出すのだ。しかし、視野の範囲にそれらしき姿はない。念のため卓より上だけでなく、床にもじっくり目を凝らしたが、すっかり正体を失くした連中の間にも、やはり見当たらなかった。家を出る間際には、一晩中でも粘ってやろうという決意を固めていた彼は今や、あと五分待っても会えなければ即座に立ち去ろう、というところまで厭気を催していた。

     その時だ。人を食ったような顔の飲料係が屯する横木の向う、ちょうど黒い幕が掛けられた奥のほうから、何やら不機嫌そうな女の声が聞こえてきた。酒焼けしている上に調子っ外れの、耳が痛くなるような非難の声だ。
    「馬鹿だね、そういうことはもっと早くにお言いよ、マツーシュカ……何年ここに置いてやってると思ってるんだい……」
    「だがよう、あの面じゃ出ても青紙幣あおさつ(訳注:5ルーブル紙幣の別称)がやっと……」
    「お黙り、マツーシュカ、もう余計な口を利くんじゃあないよ!」
     話し声は近づき、やがて形になった。階段脇にいた例の男が出てきたと思うや、それを押しのけるようにして、赤黒のドレスを着た四十がらみの女が、まっすぐにアレクセイの元へと突っ込んできた。
    「まあまあ、本当に失礼をいたしました、旦那さま! 初めていらっしゃるかただのに、ろくなおもてなしもしませんで……よく言って聞かせますから……」
     そのまま台ごとなぎ倒されるのではと危惧し、彼は身をかわしかけたが、幸い女はすぐ手前で足を止めた。近くで見ればきちんと化粧もして、服に乱れたところもなく、なかなかに貴婦人ふうの体裁が整っている。しかし、その話しぶりがいやに優しく、いかにも自分の寛容なところを見せんとしているような声遣いであるのが、彼にはどうしても気障りでならなかった。絶対に本心から出た言葉てはなかろう、そう確信できた。
    「それで、当店のビールはもう召し上がりまして……」 女は愛想よく尋ねてくる。
    「いや、まだだ」
    「あらまあ、あらまあ! 本当に気の利かないことですよ。全く手の回らない……でも、それならひとつご提案がありますのよ、旦那さま。ビールではなくてひとつ、当店自慢のきいちご酒マリンコエをお試しになりませんこと?」
     しかめ面の彼を懐柔するかのような、甘ったるく浮ついた響きだった。彼の脳裏にすぐさま欠けたグラスが浮かんだ。中には女の口紅のような、濁った紅色の液体がなみなみ注がれている……
    「きいちご酒だと?」
    「ええ、旦那さま。誰だってきいちごはお好きでございましょ。夏に摘んだのをたっぷり漬け込んだもので、今がちょうど飲み頃でしてよ」
     字面だけを取り上げるなら、とても魅力的な言葉ではあった。けれども、これを親切な申し出として受け取るには、彼の猜疑心は大きく育ちすぎていた。容易に筋書きが浮かぶ――その「きいちご酒」を受け取ったが最後、5コペイカそこらのビール代が帳消しになるかわり、目の飛び出るような料金を請求されることになるのだ。たとえ一滴だって飲まなかったとしても、言質を取られればお終い、財布にそれだけの額がなければ、何を対価として求められるか!
    「いや、結構だ」
     彼は口早に述べ、片手で押しやるような仕草をした。 「ビールだけでいい」
    「遠慮なさることありませんのよ。そう……お代のことを気にしてらっしゃるんでしょ。ご心配なく、今回のお詫びとしてご馳走させて頂きますから……」
    「結構だと言っている」
     重ねて断言したが、女のほうに諦める気配は微塵もなかった。界隈に不慣れな新客から、なんとしても骨の髄まで搾り取るのだという魂胆らしい。彼は舌打ちを堪えながら、すぐさま辞去するための言い訳を探した。目的の人物はやはり現れない。彼の頭からはもはや、帰る以外の選択肢が掻き消されていた。
    「おれは待ち合わせをしているだけなんだ。それなのに……そう、肝腎の相手がまだ来ない。悪いが、様子を見に行く必要がある」
     彼が考えついたのはそんな理由だった。なかなかに出来のいい文句だと思ったが、同時に時計を取り出して、文字盤を検める素振りを見せたのは明らかに失敗だった。彼は数秒経ってから気がついたのだ。これでは金目のものを持っていると宣言したも同然ではないか――実際のところ、彼の有する金目のものといえば正にこの品、兵学校の卒業記念に授与された懐中時計より他になく、財布の中には小銭で50コペイカ少々しか入っていない体たらくだが、それでも貴金属は貴金属だ。
    「ねえ、旦那さま、呑んでくださいよ。お断りになるなんて、それは不義理というものでしょ……」
    「いいや、呑まない。おれは自分の食事には責任を求めるんだ。しつこい真似をするな」
     押し問答をしつつも、彼は女の周囲から目を逸らさなかった。先程に押しのけられていた男が、いつの間にか女のすぐ後ろに立って、彼に剣呑な視線を注いでいる。まるで、次に酒を注いで断ったが最後、無理矢理にでも口にジョッキをねじ込んできそうな……
    「そうだ、こう致しましょうよ、旦那さま。お会いになれなかったお友達の代わりに、とっておきの女の子をお付けしますから――」
    「恥を知れ!」
     立ち去るために有効か否かを考えるより先に、彼の口からは真の心が飛び出していた。このような場面で胸襟を開くことなど決してするまいと、つい数分前までは固く定めていたはずなのに――まずいことになるのは目に見えているからだ。事実、彼が声を荒らげるや、背後の男がずいと前に進み出てきた。右手は何かを強く捉えるときの形だ。彼は体を硬くした。

    「なんだよう、おい、こんな所にいやがったのか!」
     だが、男の腕よりも先んじて、アレクセイの肩を掴むものがあった。高く出し抜けな声に、男も女も目を丸くして動きを止めた。アレクセイは肩越しに振り向いた。
    「ほとほと気の短いやつだよ、お前は! 人を5分だって待ちきれないんだからさあ、とんだ馬野郎だ!」
     彼よりもずっと小柄な、線の細い人影だった。飾り気のない蝋引きコートを着て、深く頭巾を被った姿だ。彼にはまるで見覚えがなく、また声にも聞き覚えがなかった。こんな子供じみた声の男には――あるいは声の低い女なのかもしれないが――縁がない。
    「ペトローヴィッチ!」
     我に返ったように口を開いたのは男のほうだった。 「おめえの知り合いか」
    「そうさ。センナヤ広場で待ち合わせるっていうから、わざわざ出ていってやったのに、こっちがほんの数分遅れたぐらいですぐこれだぜ。短気にもほどがあるってもんだ」
    「だが、こいつは店で待ち合わせと言ってたぞ」
    「なんだって――ちくしょう、それじゃ勘定は遅れたほうが持つとでも言ったんじゃないか。へっ、これじゃ馬どころか鵞鳥だな!」(訳注:「馬」「鵞鳥」はそれぞれ働きすぎの人間、狡猾な人間を表す俗語)
     アレクセイが言葉を失っている間に、小柄な影はさっと前に進み出て、まくし立てるように受け答えした。アレクセイには断固として口を挟ませぬというような口ぶりだった。
    「とにかく、それだからきいちご酒は無しだ。これから話をまとめなきゃならないんだからな。奥のテーブルをもらっていいか」
    「ま、もちろんですとも!」
     女もようやく気を取り直した。すぐさま脇にいた男をどやしつけ、二人分のウオツカとコップの準備をさせにかかる。合点がゆかないのはアレクセイである。彼一人が事態を露ほども把握できていない。この馴れ馴れしい闖入者は自分を誰かと勘違いしているのか、それとも間違いなくアレクセイ・ドミートリエヴィッチだと解って話しかけてきたのだろうか? 
     悩んでいる暇はなかった。奥で支度が整ったと見るや、小柄な客はアレクセイの肩から腕へと手をずらし、ずんずんと引っ立てていったからだ。体格のわりには強い力だった。彼は抗おうかと思ったが、すぐに思い直した。今は「きいちご酒」を免れただけ幸運だ。機を見なければならない。

     こたびのテーブルは先刻の《台》より遥かにましだった。口の欠けていないコップが二つに、真新しいレッテルの貼られたウオツカの瓶が揃えて置いてある。アレクセイの腕を離した客人は、そのまま手前にある椅子を引き、自分は壁を背にした向いの席についた。アレクセイも従った。
    「危ないところだったね」
     卓の上に片肘をついて乗り出すや、客は頭巾の縁を僅かに上げて言った。1アルシン(訳注:約71cm)も離れれば喧騒に掻き消されてしまうだろう、低く幽かな囁きだった。
    「そうだな、具体的に何が起きたかはともかく、まあ確実にまずいことになっていただろう」
    「きっと想像通りだと思うよ。他に何も飲み食いしてないだろうね?」
    「いや、水一杯たりとも」
     答えながら、彼は対面にある顔に目を凝らした。暗くて面立ちはよく判らない――けれども、瞳の大きく灰色をしているのだけは窺うことができた。やはり成熟した大の男というより、少年か若い婦人のような趣だ。
    「それはよかった。つまり、あなたは良識に救われたわけだ……」
     もしここに壁のランプを持ってきて、下からじっくり照らしたのなら、きっと得意げな訳知り顔が見えるのだろうと思える声色だった。
    「それは解っているし、助け舟を出してくれたのには感謝するが、あんたはどうしておれに――」
    「ただの親切心と、それを甘くするための利己心ってやつさ」 客が小さく肩をすくめる。 「あなたはお役人なんだろ」
     何故それが判る、と彼が聞き返す間もなく、言葉は続いた。
    「ここへはどぶ浚いにきたの? それとも甘い汁を吸いに?」
    「……いや、人を探しにきた」
    「ふうん」
     彼の返事を聞いて、客は密やかな、くっくっと喉に籠もったような笑いを漏らした。馬鹿にしているのかと彼は思ったが、少しばかり受ける感覚は違った。あまり冷たさがない、純粋に好奇をもって見ているらしい笑みだ。
    「人か。まさか、ぼくのことを探しているんじゃないだろうね」
    「間違いなくあんたじゃあない」
     言い切ってから、彼は少し考えてこう言い添えた。
    「ただし、あんたがその言動で四十路過ぎの男だというなら再考の余地はある」
     これが完全に蛇足だったらしいことは、それから数秒の間まるで返事がなかったあたりで彼にも察せた。客は片方の手を顎に添えたまま、もう片手で焦げ跡のついた卓をこつこつと叩いていた。薄汚れてはいるが白くほっそりとした、節くれだったところのない指だった。
    「そう。じゃ、あなたのほうではぼくに何の用もないわけだ」
     たっぷりとした間の後で、やっと客が口を開いた。と、手遊びをしていた指先がさっと動いて、外套の内側に差し入れられる。彼が何か言うより早く、その手は再び卓上へと戻ってきた。銃や匕首であったらどうしようかと思ったが、幸いにも違った。
    「それなら……ぼくをここで見たってことは、できれば内緒にしておいてくれると嬉しいね」
     ただし、凶器でなかったことが、そのまま手放しで褒められることだとも限らない。彼は差し出された手を見て目を剥いた。折り畳まれた痕のあるそれは、双頭の鷲が描かれた札びら、しかも赤紙幣あかさつ(訳注:10ルーブル紙幣の別称)だったからだ。

     ようやく冷めつつあった苛立ちや憤りが、彼の胸中で再び熱を熾しはじめた。彼は今度こそ鋭い舌打ちをし、何枚か重ねられた札を手ではねのけた。
    「どいつもこいつも」
     声量を辛うじて押し殺しながら、頭巾の奥を睨めつけようとした。客はきょとんとしているようだった。すぐに言い繕ったりしないところだけは、感心に値するかもしれないが、それ以外に彼を宥めるものはなかった。
    「帝国の法を何だと思っているんだ……尊厳を……おい、おれが役人だと解っているなら、今したことが何を意味するかも解っているんだろうな」
     醸し出せる精一杯の威圧感でもって、彼は机上に身を乗り出しながら凄んだ。残念ながら、闇酒場に出入りするような人間に対し、いくらかでも脅迫になったどうか怪しい――突き返された札を手で弄びながら、客はまた笑いだした。今度はもっと柔らかな声で。
    「ふ、ふ、ふ! 解ってるさ、だからわざとやったんだ。もしあなたが受け取ったら、ぼくのほうでも無かったことにするつもりだった」
    「それはどういう……」
    「あなたはほら、あそこで酔い潰れてる、ゴドゥノフ10等官殿とは別種の人間なんだ。ひとつ安心したよ」
     客が頭をちょっと横向ける。それに倣って目線を動かすと、床に転がった人影が彼にも見えた。傍に落ちているのは例の官帽だ……すぐさま彼は顔を背けた。つんとした吐瀉物の臭いが漂ってくる気がしただけでなく、自分より官等が4つも上であるのが、一体どれほど堕落した人間か見るに堪えなかったのだ。
    「この金はもちろん渡さないさ。その代わり、もしあなたの良識が本物なら、聞いてほしいことがある」
     紙幣が再び客の懐へと戻るのを、彼はため息と共に見送った。
    「請願か陳情か」
    「そんなところさ。袖の下抜きのね……これは千載一遇だ。ぼくにとっても、あなたにとっても」
    「まあ、例の酒を飲まずに済んだからな」
    「それに、ここから無事に出してもあげられる」
     言われて彼は目を瞬き、はっとした。そういえば結局、一切の飲食をせずに帰れるような理由を他に思いついていなかった。「待ち合わせ」の相手が全く別のところから現れたもので、完全に棚上げになっていたのだ――そして今、実に好適な存在が目の前にいる。
    「解った。ただし店を離れ次第、あんたが何者かは詳らかにしてもらうからな」
    「もちろんだとも」
     話はまとまった。まず客のほうが席を立ち、頭巾をしっかりと被り直す。店の入り口へと歩いてゆく、その後を彼も遅れないようについていった。なるべく気丈そうなしかめ面をし、視線をまっすぐ前に据えながら。
    「や、邪魔をしたな! 話はまとまったぜ。席をありがとうよ」
     先導する客は店員たちへと片手を挙げ、今までと打って変わった胴間声を張った。ドレスの女がこれ以上ないほどの愛想と共に進み出てきた。
    「いいえ、いいえ、この上ない喜びですわ! 良い話になりましたこと……」
    「おかげさまで上首尾さ。ほら!」
     客が女の手に何か握らせた。後ろから覗き込んでみると、それは先程アレクセイに差し出されたのと同じ赤紙幣だった。ただし一枚だけだ。
    「何かあればまた沙汰をするから、とりあえず今日はこれで帰る。後は頼んだぜ――ほら、ワーニャ、何を突っ立ってるんだ! 待ってたって釣りは出てこねえよ……」
     どうやら事はうまく運んだようだ。しかし茶番とはいえ、やたら馴れ馴れしく粗雑に扱われるのだけは、どうにも彼の気に触った……だが、それも店を出るまでのことだ。客が再び彼の腕を掴み、短い段を一気に上ってゆく。扉がやかましい音を立てて外れるように開き、木枯らしが塵を巻き上げながら吹き込んできた。

     フォナルニイ小路の暗がりに改めて立つと、何より気に障るのは生臭く重たい空気の臭いだ。近くを流れるエカテリンスキイ運河から立ち上る、いまだ死にきっていない汚泥のそれである。自分の住んでいる界隈だってお世辞にも清らかとは言い難いが、ここまで醜く濁ってはいない、――アレクセイは考えながら、腕を引かれるまま通りの端まで行った。ほんの数分のことだ。目の前にはモイカ川にかかるフォナルニイ橋が見えている。ここを渡りきってしまえば、いよいよ都の中心部、海軍省や聖イサアク大聖堂、またアレクサンドロフスキイ庭園などが占める端正な街並みに入るのだ。
    「長居はするもんじゃないよ、ただの人ならね」
     角に立てられた外灯の下で、先導役はやっと立ち止まった。手を離して振り返りざま、ずっと被っていた頭巾をするりと脱ぐ――赤い光の中に顔かたちが晒される。現れたのは彼が予想していたよりずっと若い、もとい幼いと言ったほうがよい容貌だった。波打つような栗色の髪に縁取られているのは、年の頃15か16ほどの、まだ十分に可愛らしい少年の顔だったのだ。それも粗く荒んだところはひとつもない、マリインスキイ劇場の特等席に座って澄ましていそうな、磨かれた優美さのある目鼻立ちだった。彼は自分自身が通っていた、陸軍貴族幼年学校の同級生たちを思い出した。
    「もう少し人に優しい場所に行こう。モイカ河岸通りの――ちょうどゴロホヴァヤ通りと交差するところに、《コンタン》ってレストランがあるのは知ってるかい」
    「知っている」
     若者の顔をしげしげと眺めていた彼は、その一言で我に返って答えた。
    「それなら、さっきまでいたのとは違う、阿漕なところはまるでない店だというのも知っているだろ。そこで座敷をもらおう。あそこなら静かに話ができるから」
    「いや――」
     彼はまごついた。《コンタン》がどれだけ分不相応な場所か――高級ホテルの一部であり、非常に格式高く洗練されていて、美食家たちの間でも名を轟かせ、内務省要人たちの会食にも使われる等――よく解っていたからだ。先の酒場で果実酒一杯に1ルーブル取られれば、ぼったくりだと訴えることもできようが、《コンタン》で同じだけ請求されたなら、疑いなくそれだけの価値がある。まして座敷を取ったなら、席代も余計にかかるわけであって……
    「フランス料理はお気に召さないみたいだね?」 若者がくすくす笑った。
    「違う、ただ――」
    「下心の有無を問わず、とにかく接待されたくはないと。良いよ、あなたが構わないっていうなら、人気のない吹きさらしの公園で立ち話でもするさ」
     彼にそれだけの財力、少なくとも現在の持ち金がないということは、相手にも容易に察せたらしい。役人の俸給というものは、よほど高位でない限り微々たるものだ。だからこそ袖の下などが通用するわけだが。
    「逆戻りにはなるけれど、ユスポフスキイ庭園まで行こうか。この季節なら、夜は人が寄り付かないから」
     相手の提案は現在地よりおよそ10分、例のユスポフ公の宮殿そばにある広々とした緑地だった。もうあと二月ほどすれば、降誕祭を祝う市民たちが盛大に花火を打ち上げたり、またスケートを楽しむ人々で賑わったりと、夜まで賑やかになる場所だが、今時分はその需要もない。
    「解った。ただ、その前に」
    「うん?」
    「《ペトローヴィッチ》ではないんだろう」
     酒場で若者が呼ばれていた名について、彼は疑いと共に問いただした。灰色の目がぱちりと瞬き、ああ、と短く応えがあった。
    「セーニャさ」
    「セーニャ。……セミョーンか? それとも、――おい!」
     愛称から名を推測する試みは、残念ながら中断された。若者はもはや彼の手を引くこともなく、素早い動きで向きを変え、河岸通りを東へと駆け出したからだ。いくら都の名所といえど、夜道を一人で迷いなく辿り着けるとは限らない。彼は慌てて足を早め、小柄な背中を追いかけた。白いリボンで一つに束ねられた栗毛が、からかうように揺れているのが見えた。

     燈火の浮かび上がるモイカ河を左に見ながら、若者はずんずん進んだ。マリインスキイ宮殿のところで角を曲がって、まっすぐ南へ――サドヴァヤ通りまで出てしまえば格段に明るく道幅も広い。都でも屈指の繁華街の一つであるからして、この時間でもそれなりに通行人の姿が見られた。多くはネフスキイ大通りやゴロホヴァヤ通りの方面から、一杯引っ掛けるために立ち寄った後、それぞれの家路を急ぐ人々である。すると、そうした顔ぶれを目当てにして、商売人たちも遅くまで居残る者が多くなる。御影石の路面を叩く靴音に混じって、呼び売りの声がまばらに聞こえてくる。
     ――遅いお帰りですね、旦那? 奥さまとお嬢さまのために花をお忘れなく!
     ――呑んだ後にはキャベツだ! 熱々のシチーが10コペイカ、肉も馬鈴薯も入ってるよ!
     若者、セーニャはそれらの声を軽くあしらいながら突き進んでいたが、ある外灯のそばでやっと立ち止まった。おかげでアレクセイも追いつくことができた。見ればガス燈の下に、覆いをかけられた大きな金物の箱が置いてある。これにはアレクセイもしばしば、ネフスキイ大通りやセンナヤ広場などで出くわしたことがあった。ピローグ売りだ。
    「やあ旦那、二つおくれよ。肉入りのが残ってるといいんだけど」
    「豚や鶏のはないがねえ、臓物もつ入りはあるよ。まだ温かいし、肉入りと違って一つ8コペイカでいい」
    「ようし、もらった! 紙に包んでくれるよね。これからもう少し歩かなきゃならないんだ……」
     耳当てつきの革帽子を被り、白い前掛けをした売り子の手に、ぴかぴか光った銅貨が数枚まとめて渡される。と、引き換えに彼の掌ほどもある、油の染みた雑紙の塊が二つ返ってくるのだ。目当てのものを手に入れた若者は、満足そうに笑って辞去の挨拶をすると、また庭園への道を早足に進み始めた。遅い夕食のつもりだろうか、しかしあの大きさを二つも喰うとは食べ盛りだ、――アレクセイは考えながらも、遅れないようについて行く。人々の行き交う足音や、箱馬車の上げるやかましい車輪の音、寒空に響く呼び売りの声はやがて遠ざかってゆき、しんと冷えた空気とインクのような夜闇だけが、彼の痩せた体を取り巻いた。
     庭園のすぐそばまで来れば、辺りに人影はほとんどなかった。宮殿の警衛に立つ巡査と、道中で2、3すれ違ったきりだ。ていねいに刈り込まれた生垣の前で、若者がようやく足を止めた。

    「こんなところかな。本当は噴水のあたりまで入りたいところだけれど、あそこは暗すぎる気もするし……」
     木々のたもと、煉瓦で組まれた花壇の縁に腰掛けながら、若者はそう言って見上げてくる。すぐ近くにあるガス燈のおかげで、顔や表情はしっかりと確認できた。血色のよい唇が、人懐っこそうな弧を描く。
    「さて、それじゃ約束どおりに話をしないと。ぼくがあなたに何をしてほしいのかについてね」
     こうして見ればなかなかの好男子と言おうか、いかにも人好きのしそうな顔である。だからといって、若者をまるきり信じるつもりはアレクセイにはなかった。少なくとも今はまだ、相手が何者であるか一切解っていない。
    「あんたが自分の素性について明らかにするのが先だ。名前や本当の職業や、何故あのような場所にいたのかを。……要するに、どうもあんたは、ひどく不法そうな酒場なんかに出入りしていそうな顔じゃあない」
    「よく言われるよ」 と若者が肩をすくめる。 「これでも18なんだけどな。りっぱな成人だぜ」
    「いや、年齢のことを言ったわけではなくて……その、ああいった店は、堅気の人間が出入りするようなところではないと……」
     口に出してみながら、なんと無益な弁解だろうかと彼は思った。だいたい、自分だって必要に迫られたといえ、堅気の代表格のような――実態はどうあれ名分は確かにそうだ――役人という立場でありながら、あの場に居合わせたではないか。
    「一理あるかもね。でも、そういう考えがあるんなら、理由なんか聞かなくてもよさそうなものだ」
     相手も眉を上げてさも愉快そうに答え、どうだい、と言わんばかりに片手を延べた。その間違った考えをわざわざ口に出させようとしているのだろう。アレクセイは己の迂闊さを呪い、口ごもりながら言葉を返した。
    「……堅気の人間ではないから?」
    「ま、場合によりけりってところさ」
     若者は先程よりもっと音高く、けらけらと開けっぴろげに笑った。表情はまさに少年のそれだった。
    「もっとも、大プーシキンやトルストイ翁を『堅気の人間ではない』呼ばわりしたら、詩女神たちムーサイからどんな災いを送り込まれるかしれないけれど」
    「プーシキン……トルストイ……」
     挙げられた人名を復唱し、彼はとうとう思い当たった。 「あんたは作家か」
    「大当たり。小説家であり、詩人でもある……知的創造が生業というわけだ。残る懸念は、あなたが《断章》誌や《北方報知》なんかをよく読む人かどうかだね」
     ピローグの包み紙を解きながら、作家を名乗る若者が勿体をつけるように言う。揚げ油と小麦、それに仄かなにんにくと玉ねぎの匂いが流れ出し、空っぽになった彼の胃袋をいじめにかかった。
    「ペトルーシュキンさ。アルセーニイ・ステパーノヴィッチ・ペトルーシュキン」
     今から肖像写真でも撮るかのように、顎を引いてしゃんと背筋を伸ばしたうえでの名乗りは、あたかもこう言っているかのようだった、――いま知らなくったって構やしないさ。じきにロシヤでは知らぬ者のいない名前になるんだから!
    「ペトルーシュキン……А. С. ペトルーシュキン……」
     さて、彼は今しがた列挙されたようなもの、つまり文芸誌を進んで購入するような人物ではなかった。だが、告げられた名前には覚えがあった――雑誌ではなく新聞で。
    「もしかすると……以前《ペテルブルグ新聞》か何かで書いていたことがないか。紙名まではっきり覚えてはいないんだが」
    「ああ、書いたよ。というより、ぼくのデビュウは新聞小説だもの。《ペテルブルグ新聞》なら、あなたが読んだのは《進退伺》か、それとも《И. В. サネーエフの殉難》か――」
    「どれにしろ、全て探偵小説だ」
     彼は素早く答えた。眼前の作家がどうしてフォナルニイ小路の闇酒場になど居座っていたのか、はっきりとした理由にとうとう行き着いたのだ。
    「取材だったんだな。何かその種の、犯罪や不正が行われる現場について」
     ところが、この回答も文句なしの及第とはいかないようだった。作家は灰色の目を細め、とりあえずの満足を示すよう頷いたにも関わらず、次に口を開いたときの文句は、
    「まあ、半分がとこ正解だね」
     だったからだ。そのまま黄金色のピローグにかぶりつく姿を、アレクセイは合点のいかない顔で眺めた。こってりした脂の匂いが鼻をくすぐる……バタと卵が生み出す焼き色のうるわしさが目に染みる。作家は大変うまそうにものを喰う人間で、ふわふわした皮をちぎって口に入れるや、とろりとした幸福を顔いっぱいに広げ、茶色い細切れの具がこぼれ落ちぬよう上手く持ち替えると、二つの油脂にまみれた指をぺろっと舐める……
    「じゃあ、残る半分は……」
    「きいちご酒」 てらてら光る指先を包み紙で拭いながら、作家は答えた。
    「作家仲間の一人が、あの手でやられたんだ」
    「詐欺に遭ったのか」
    「もっと酷い」
     油の染みた雑紙がぐしゃりと潰れ、白い手の中で丸くなる。何のことはない動作だが、そこには不必要な力がこもっているように思われた。
    「手というのはこうさ。懐が暖かで、しかもフォナルニイ小路に不慣れそうな客を見つけると、乾杯のときにあれを飲ませるんだ。中には薬が入っていて、飲めばたちまち正体を失くしてしまう。きいちごマリンカは麻薬の隠語でね」
    「麻薬……」
    「後はお察しだよ。札や銀貨はもちろん、値がつきそうなものは片っ端から剥ぎ取って、中身・・は棄ててしまうんだ。都合よく、店のすぐ裏にはエカテリンスキイ運河が走ってる――」
     訳知り顔の若者が、赤い唇をちょっと舐めてから続ける。 「読んで字の如く、《水に流す》ってわけ」

     アレクセイの脳裏には、ここ数時間で経験してきた様々なことどもが渦を巻いた。「出ても青紙幣がやっと」、やたらに友好的で寛大そうな貴婦人ふうの女、懐中時計、そして「きいちご酒」……もしアルセーニイ・ステパーノヴィッチが割って入らなければ、自分は首根っこを掴んででも飲まされていたことだろう、毒入りの飲み物……《水に流す》とはよく言ったものだ。あんな汚泥の中に沈められてしまえば、身寄りも知人もほとんどない自分は、探し出してもらえるかもわからない……
    「あんたの仲間については……気の毒だった。だが、どうして委細が解ったんだ」
    「そりゃあ、まずは本人から聞いたのさ。本当に運が良くってね、その時ちょうどよその人が――正義感と良心ってものを持った人が、運河のそばを通りがかったんだ。で、大声を上げて人を集めてくれたから、彼もすぐに引き上げてもらえたのさ。もっとも、流感をもらって一週間も寝込んだけれどね。それに右耳もやられてしまった」
    「ああ、流感で耳を患うのは多いな。今も回復しないのか」
    「おかげさまで全くさ。愛する帝劇を二分の一しか楽しめなくなった、なんて嘆いてる」
     作家は肩をすくめて事の顛末を結んだ。
    「ずいぶん逞しいんだな、その作家は」
    「物書きなんて図太くなけりゃ食ってはいけないよ。少なくともペテルブルグではね――前置きが長くなったけれど、ここからが本題だ。つまり、あなたへの願い出さ」
     外套の胸に引っかけてあった手袋を、元のとおり両手へはめながら、作家がいよいよ神妙な顔になった。アレクセイも口元を引き締め、聞き取りに備えた。といっても予測はついていたのである。これまでの話からして、例の酒場にがさを入れ、悪党どもを然るべき場に引き出してくれというのだろう、と。

    「まず――誤解されていそうだから断っておかないと。その作家にしろ、ぼくにしろ、例の酒場自体を憎く思っちゃいないんだ。あの連中を一人残らずシベリヤだかサハリンだかに送って、二十年の苦役につかせろだとか、そんなことは望まないね」
     結果はこの通り、彼の推察はまたしても外れたのだった。ということは犯罪を見逃せと頼んでいるのか、それはまっとうな役人として断固受け容れかねる要求だ、恥知らずにも程がある、――彼の脳裏にそんなせりふが閃いたが、自分はどうも他者の胸中を見抜くに難のある人間らしいと、もう重々思い知らされた後なので、黙って聞き続けることにした。
    「ただ、金や命や道理より、彼にとっては大事なものがあったのさ。それが失われたままだから、取り戻さなくちゃならない」
    「それとは何だ……」
    「指輪さ。間違いなく薬指にはめていたのに、引き上げられたときには影も形もなかった」
     作家が右手をさっと顔の横に掲げ、薬指を数度動かしてみせた。なるほど、命より大切というのは大げさでもあるまい。
    「下手人の身柄はどうあれ、品だけはなんとしても回収しろと。まあ、どのみち店員は取り押さえることになろうが……」
    「結局のところはね。とにかくこちらの要求は指輪だけさ。後の首尾についてとやかくは言わない」
     そこで一旦言葉を切り、作家は立ち上がってアレクセイの顔に目を据えた。といって背丈がずいぶん違うため、やはり見上げるような格好にはなっていたが。
    「さ、これでぼくのほうは丸きり事情を詳らかにしたぜ。残りはあなたが話す番だ」
     正直なところ、彼はまだ少しばかり納得が行かなかった。眼前の人物が間違いなくアルセーニイ・ステパーノヴィッチだと証明できたわけではないし、指輪さえ戻れは後はどうでもいい等という話を、一体どこまで信用すれば――だからといってこの場で握り潰すのも心ないわざだ。しばしの逡巡の後、彼はとりあえず立場を明確にしておくことにした。
    「おれは――名はアレクセイ・ドミートリエヴィッチ・ネーモフだ。あんたが察したとおり役人で、官等は14等、所属は……その……」
     しかし新たなる問題が生じた。自分がいかなる役目をもって公に奉仕する者なのか、一般市民に説明するのはなかなか困難である、という点だ。彼はすぐに良いせりふが思い浮かばず、言葉尻を曖昧に濁らせたが。
    「別に構わないさ、そこまで具体的に答えてくれなくたって。ほら、さる作家も書いたことじゃないか。《ある省のある局に――といって、なに局とはっきり名指さずおいたほうがよいようだ》……」
     幸い、相手は他人の人品骨柄にそこまで頓着しない、もとい、注意深く観察はするがあれこれ見咎めはしない性質のようだった。反面、人をからかい、試すことを楽しむ性分でもあるようだ――言葉を切りざま、いたずらっぽく彼に目配せをよこしたのだ。幸運にも彼はその続きを知っていた。
    《というのは、およそ官房だの、連隊だの、事務局だのといった連中、一口にいえばお役人階級ほど怒りっぽいものはないからである》……全くだな」
    「でも何かに怒れる人じゃなくっちゃ、ぼくの話だって聞いてはもらえなかっただろう。あなたは真っ正直で、怒りを忘れていない人だ。それなら、あとは名前と官等ほどが分かればいいのさ――十中八九、フォンタンカ河岸の内務省本館にお勤めなんだろうとは解ってるしね」
     ゴーゴリの一節を諳んじて安堵している場合ではなかった。また図星だ。――ぜんたいどうしてこうも、自分の職業だの所属だのを言い当てられるのだろう? いくら探偵作家だからといって、当人が探偵のごとき鋭敏な推理を即座に披露できるとは考えがたいものだが、――彼は当惑したものの、言い淀んでばかりもいられなかった。
    「ご明察だ」
    「人探しだったかな。上のお言いつけってやつ」
    「使い走りがおれの役目だからな……そうだ、あんたが例の店によく居座っているなら、見たことがあるかもしれない。四十がらみであごひげの立派な、いつも獅子頭の杖を持っている男なんだが」

     作家は顎先に手を当て、考えるような間を置いた。実際のところ、苦心して思い出しているというよりは、即答するのも勿体ないという風だったが。
    「良い知らせがあるよ」
    「何……」
    「明日から、あなたはわざわざフォナルニイ小路まで無用な危険を冒さずに済む」
     アレクセイがどれほど失望したか。つまり――例の人物はもうそこにいないのだ。さらに言うなら界隈のみならず、恐らくこの世のどこを探しても。彼は何度目かの舌打ちを堪え、あくまで神妙至極な、官吏らしい無愛想な面を作って頭を振った。 「同じ手なのか」
    「現場は見ていないよ。見ていたら止めるからね。ただ、あなたの言う杖が……黒い軸に金鍍金めっきの獅子頭がついて、その獅子が琥珀をくわえている格好なら、連中が売値の算段をしているのを聞いた」
    「間違いなくそれだ。畜生――いや、ある意味ではあんたにとっても良い知らせだろうさ。手配している人間がそこで消えたとあっては、本庁だって動かないわけにはいかないはずだ」
    「じゃ、聞き入れてくれるんだね?」 作家が期待に満ちた目で彼を見た。
    「出入りをする件はな……指輪については、被害を受けた当人の証言がないことには立件できない。その作家仲間とやらに対面する必要があるんだが、どこかで都合がつかないか」
    「もちろんさ。そうだね、明日の晩は役所でなにか予定があるかい」
     彼はすぐさま、自分の帳面に記した予定を頭の中から引っ張り出した。
    「終業間際に何かが飛び込んでくるのでなければ、夕方には帰れるはずだ」
    「それなら良いや。仕事が片付きしだい行ってほしいところがある。サドヴァヤ通りの74番地……新ペテルゴフスキイ通りとか、モギレフスカヤ通りとか呼ばれる道路と交差するところだけれどね、その角に二階建のお屋敷があるんだ」
    「そこに住んでいるのか」
    「いいや、彼はもっと身の丈にあった長屋住まいだよ。そうじゃなくて、そこのご主人がいわゆる――ひとかどの知識人というやつでね。文学クラブを開いてるんだ。《木曜会》さ」
     いかにも社交の上手そうな作家の口から出たのは、彼とおよそ縁遠い単語だった。彼は単純に群衆の中に割って入るのが苦手だったし、おしなべて会合とか、クラブとか、サロンとかいったものは、どうしても多種多彩な技能――豊かな才覚と存在感の誇示、洒脱な服装、赤の他人にさえ勝手知ったる顔で世辞を述べる厚かましさ等――が要求され、それを有していない自分には参加の権限がないのだと、勝手に思い込んでさえいたのである。
     ゆえに彼は、クラブという言葉が耳に飛び込んできた瞬間、協力への意欲を少なからず失った。被害者が自ら役所に出向いてくれるのではいけないのかと、訴えるような視線を送ってもみたが、恐らく相手には通じなかったろう。それに、もしかすると被害者は被害者で、役所だの省庁だのといった行政の場がしごく苦手なたちなのかもしれない。なにしろ作家だものな――彼はそう無理に納得を決め込んだ。
    「ディーマ小父さんには――主催者のことだけれどね、ちゃんと伝えておくからさ。門のところでセーニャが呼んだと言ってくれれば、すぐに入れてもらえるよ」
    「頼んだ。おれは制服を着ていないと、方々でごろつきに間違われる人間だ」
    「ふうん、それならぼくはずいぶん見る目のある人間ってわけだね」
     彼を初見で役人と見抜いた作家は、口角を上げてにやりと笑った。
    「あいつもきっと、ぼくの慧眼に重々感謝するだろうさ。頼りにしているよ、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ」
     一方、頼みにされたほうはしかつめらしい顔を変えなかった。
    「……父称をつけて呼ぶのはやめてくれ。好きではないんだ」
    「おや、そう? だったら何か考えないとね。ふむ、アレクセイだから――アリョーシャ、アーリャ、リョーハ、レークシャ……」
     指の逆剥けを摘み取るような陰気臭い表情のまま、彼は思案する作家を凝視し続けた――最初に思いついたのがアリョーシャなら、きっぱりそれと決めてしまえばいいのに、どうしてこうも悩む必要があるのだろう? まあ、物書きというのは言葉の響きや印象について、事細かに気にせずにはいられない生き物なのだろうが。
    「アリョーカ、レクセーイカ、アレクセーイカ……うん、これだな。アレクセーイカだ。よし、ぼくはあなたを――」
     好適な愛称を思いついてご満悦らしい作家は、にこにこしながら両手を背に回して宣言しようとしたが、はたと間を置いた。考え込むような、あるいは名付けられた側が訝しむために置かれたような間だ。
    「いいや、あだ名までつけておいて《あなた》というのもなんだか座りが悪いな。つまり、今日からぼくはきみ・・をアレクセーイカと呼ぼう」

     こうして二人は互いの呼び名と、翌日の再会を定めて別れた。セーニャことアルセーニイは宮殿の側へ出て、粋な馭者のついた辻馬車を拾ったが、懐に余力のないアレクセイはとぼとぼ歩いて帰る羽目になった。とはいえ、彼の下宿はユスポフ宮から懸隔の地にあるわけでもない、内務省本館から帰るよりも近いぐらいだ。といって、かの瀟洒な宮殿と同じほど文化的な界隈でもない。これは先に述べた通りで、ペテルブルグとは通りを一つか二つ挟むだけで、治安や経済の度合いが様変わりしてしまう街なのである。
     下宿の屋根裏に戻って寝支度をしながら、彼は今日のできごとについてつらつら考えた。あたら命の危険を冒してしまったことには、今後いっそうの注意を払うとして、まさかこんな機会に作家と知り合いになろうとは! おまけに会ったその夜からもう、アレクセーイカ、なんて呼ばれることに――彼はなんだか妙な気分がした。父称を付けて呼ばれるのは嫌だと言ったのは彼自身だし、あだ名など最初に思いついたものでいいだろうと頓着せずにいたのも彼だが、冷静な頭で考えてみると、アレクセーイカというのはどうにも――決して老婦人が幼な子を呼ぶときのような、可愛らしく甘ったるいそれではないが、かといって同輩への敬愛を込めたものでもない、どこか小馬鹿にしたような気さえある。否、それも親しみあってのことで、本当に相手を卑しむなら、もっと口汚い呼び名がつこうが、それにしても――名前の響きというのは存外に大問題なのだと、彼はつくづく思い直すことになった。
     ――そういえばまだ小さい時分、乳母がいつまで経ってもアリョーシェニカ、アリョーシェニカと呼ぶものだから、「もう子供じゃあないんだ、これからはリョーシャと呼んで」なんて、小生意気なことを言ったことがあるな……
     眠りに落ちる寸前、彼はそんな記憶をまどろみの底に見出していた。そのためかは知れないが、久方ぶりに幼年学校時代の夢を切れ切れに見たもので、翌朝の寝覚めはしごく寂しいものとなった。

      * * *

     あくる木曜日は好天で、風こそ氷のように冷たかったが、太陽の熱が人々の歩みをいくらか助けていた。フォンタンカ川は金色の光を千々にきらめかせ、数多の詩にも詠まれた秋のペテルブルグに、僅かばかりでも華を添えていた。
     そんな景色には目もくれず、アレクセイは河岸通りを内務省本館まで急ぎ、昨夜の次第を上役の8等官殿に報告すると共に、家宅捜索の必要を訴えた。はじめ上役は、たかが貧民窟の酒場ひとつ潰したところで何にもなるまい、と素気ない態度だったが、例の探し人が手にかかったと聞くや顔色を変えた。
     かくて、アレクセイも驚くほどのとんとん拍子に事態は運んだ。その日のうちに話はまとまり、もろもろの令状・調書のたぐいが整えられて、さらに上役の5等官殿へと捧げ渡された。必要な書類を作り上げながら、14等官は複雑な心地だった。作家の口ぶりからして、通常の、すなわち警察を経由しての訴えは効き目がなかったような気配だったが――やはり、官位も何も持たぬいち市民が届け出るのと、最下等とはいえ役人が直々に上申するのとでは、同じ請願でも重みが違うということだろうか。ことの次第を正直に伝えたら、これぞお役所仕事と皮肉の一つも言われそうだな、等と自嘲しつつ、彼は終業までの時間を目一杯に働いた。
     聖イサアク大聖堂の鐘楼から、四つの鐘が晩課(訳注:午後6時頃)を知らせる頃には、アレクセイも職務から解放され、件の《木曜会》が開かれるという屋敷に向かっていた。クラブの会場というから、アレクセイも一応はしみったれた制服でなく、一張羅と呼ぶにふさわしい黒のフロックを出そうと思い、下宿に立ち寄って着替えかけたのである。ところが、部屋に据え付けられた小さなたんすから、折り畳まれた毛織物を引き出したとたん、彼はそれを最後に着たのが母親の葬式であったことをまざまざと思い出した。誰も咎めやしないのに、居たたまれない気持ちになった。それで結局、彼は昨日フォナルニイ小路へ着ていったのと同じ、辛うじて白いと言えるシャツに綿の上着を羽織り、煤けた黒外套を引っかけて、サドヴァヤ通りまで繰り出すことになったのだ。

     教えられていた所番地に着いてみると、なるほど表通りにフランス風の窓をいくつも並べ、上には金の風見を戴く、なかなかに垢抜けた屋敷が建っていた。都に名だたる《宮殿》たちと競べてしまえばさすがに見劣りするが、ひとかどの人物が住むに恥じるところのない門構えである。玄関口の段を上って呼び鈴を鳴らすと、すぐに奥から足音が聞こえ、程なくして扉が開いた。
    「やあ、まだまだ人が足りないころだったよ、ようこそ……」
     奥から出てきたのは、アレクセイと同じほどの歳と見える青年で、やってきた冴えない風体の男を見るなり、おやっという顔つきをした。アレクセイはたじろいで視線を下向けた。相手のつやつやしたエナメル靴と、底の外れかかった自分のぼろ靴とが同時に目に入った。
    「セーニャが……その、アルセーニイ・ステパーノヴィッチに招待された、アレクセイ・ネーモフだ」
     彼はやっとのことでそう言った。とたん、青年は納得したように手を打って、
    「なるほど、あなたが例の。いや、確かに聞いているよ、ディーマ小父さんからね。セーニャは今何をしているんだったかな――とにかくどうぞ、入って」
     と扉を大きく引き開け、彼を迎え入れた。暖められた空気がいっぺんに流れ出し、冷え切っていた彼の頬を痒くさせた。
     赤い長絨毯の敷かれた廊下を抜け、通されたのは広びろとした居間だった。暖炉には薪があかあかと燃え、その上には何かの賞と思しき記念の品、たとえば勲章や優勝杯のたぐいが飾ってある。火の周りには布張りの揺り椅子やら長椅子やら、人々がくつろぐための調度が揃えてあり、卓には果物とサモワールが準備万端整えてあった。財力や美的感覚を周りに誇示するためというよりは、客人が気兼ねなく、まるで自宅にいるかのように落ち着いて楽しめるよう誂えられた風だ。
     客はアレクセイのほかにも何人かいた。壁際に置かれたピアノのそばで、二人の紳士が親しげに言葉を交わしている。片方は椅子に座って鍵盤に手を掛け、もう片方は2、3枚重ねた紙と鵞ペンを手にしている。してみると、あれは詩人と音楽家なのかもしれない。また別の壁際では、五十も近そうな男と帝国大学の制服を着た若人が、同じ本を抱えて熱心に語り合っている。あれは文学論でも戦わせているのか、それとも師が後進に教えを説いているのだろうか?
     また驚いたことには、集っている客は紳士だけでないのだ――卓に用箋を広げ、ペンの軸を握り締めたまま考えに耽っているのは、暗緑色のドレスを着た妙齢の婦人である。廊下のほうにも別のドレス姿が見える。おまけに、彼女らの誰もが誰かの細君として、紳士たちに伴われてやってきたとか、あるいは会に雇われた歌姫のたぐいだとかいうのでなし、一個の作家として会に参加しているらしかった。
     かくの如く《木曜会》は、クラブといっても秘密的な、また選民的なところのない、ずいぶん公平で開かれた雰囲気の場であった。だからといってアレクセイが気負いなく分け入ってゆけるかといえば、それは全く否なのである。この暖かで落ち着きのある空間、誰かと出会い話し合うのが好きな人々といったものは、彼の心を和ませるどころか、却って萎縮さえさせた。
    「セーニャ、セーニャはどこへ行ったかい? お客さんが来ているんだが、もう上に行ってしまったかな……」
    「アルセーニイ・ステパーヌィチなら、さっきまで娯楽室にいたんだがね、そっちは探してみたかね」
     周りの客たちも呼びかけに答えて、例の作家を探す手助けをしてくれるのだが、その親切さえも彼の居たたまれなさを増幅させていた。これら捜索の試みに対し、当の作家本人が、
    「よう!」
     と片手を挙げて、奥の間からすんなり出てきてくれたのは、まあ不幸中の幸いと言うべきで、無用の焦燥をこれ以上味わわず済むことに、彼は内心喝采したくなったものである。

     さて作家、セーニャことアルセーニイ・ステパーノヴィッチは昨晩のように質実な、裏通りにいても不思議のない格好はしていなかった。繻子織の拝絹がついた燕尾服に、黒真珠の色をしたネッカチを締め、襟には花を、白いチョッキには時計の鎖をつないだ、いなせな姿……文筆家という職業には存外洒落者が多いことを、アレクセイは今になって知る運びとなった。考えてみればかの大詩人プーシキンも、常に流行りの衣装を身に着け、社交界の大物にも引けを取らぬ色男ぶりだったという話だから、それに敬意を表しようというのか知れない。作家は持っていたグラスを青年に押し付けると、燕尾の裾を広げて膝を曲げ、婦人のようなお辞儀を一つした。
    「早かったじゃないか。ぼくはもうずいぶん待つかと思ってたぜ……玉突きなんか、あと10戦ぐらいしても足りないだろうってね」
    「だいたいのお客が揃うのは、晩の9時を回ってからなんですよ」 青年が言い添えた。
    「ま、思ったよりも早く始められそうなのは何よりだ。よく来てくれたね! この分なら乾杯の前には戻ってこられるだろうさ」
     挨拶もそこそこに、作家は彼の左手を掴み、廊下の反対側へと引っ立ててゆく。見知らぬ相手と世間話を続けなくていいのは何よりだったが、いかんせん彼我の背丈が違いすぎる、アレクセイのほうが1ピャージ(訳注:約17.78cm)ばかりも高いせいで、不格好な姿勢のままついて行く羽目になった。傍目にはさながら、元気の有り余った飼い犬に引きずられてゆく痩せっぽちの飼い主だ。後ろから聞こえる青年の、
     ――今夜の乾杯にはラーニンの特級が出ますよ! くれぐれも逃さないように!
     という声が半笑いだったのもむべなるかな、去ってゆく彼の姿に賓客らしさは一つもなかった。

     彼らはそのまま廊下を折れて階段を上り、吹き抜けの手前にある部屋までやってきた。元は子供部屋だったらしく、戸板にはかわいらしい花模様が浮き彫りにされている。
    「フェドゥーシャ、ぼくだ!」 ノックするなり、作家は返事も待たず扉を開けた。
    「さあ、パンと塩で歓迎してくれよ。きみの天使さまを連れてきてやったんだから」
     中にはもちろんレース編みの寝台飾りだとか、陶器の人形だとか、小さな木馬といったものはなく、落ち着いた色合いの談話室に改装されていた。先の居間と比べれば手狭だが、清潔な布のかかったテーブルに大小の椅子、優美な銀線細工を思わす柵つきの暖炉、それに蓄音機なんてものまで置いてある……その合間からひとつの影が、長椅子から立ち上がりかけていた。灰色の三つ揃いを着た黒髪の男で、歳はアレクセイよりも一回り上だ。
    「ああ、セーニャ! 待ってたんだ。信用してもらえないんじゃないかと思って――それで、この人が例の、ええと……」
    「アレクセイ・ドミートリエヴィッチ・ネーモフだ」
     彼はつとめて表情を引き締め、真摯な態度を取ったが、相手に誠実さが伝わったかどうかは定かでない。社交の雰囲気に倦んでいることは隠しようがなかったからだ。
    「そうだ、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ。初めまして、フョードル・イワノヴィッチと申します……そのう、大体の話はお聞きかと思うんですが」
     名乗り終わって右手を差し出しながら、男はいささかためらいがちに尋ねてきた。握手と共にアレクセイが頷いてやると、隣から若い作家も言葉を続ける。
    「本当に大体のところだけどね。例の手口についてと、きみがやられたときの話と……いや、ともかく一度みんなで掛けよう。《酒中に真あり、足中に真なし》だ」
     立ちっぱなしだった三名は、揃って同じテーブルを囲むこととなった。綿のたっぷり詰まった肘掛け椅子に腰を下ろすと、さっそくフョードル・イワノヴィッチが話を切り出した。
    「こうして来てくださったということは、私の願いを容れて頂けたということですよね」
     そうであってくれという思いのにじむ口ぶりだった。卓に向かう体もどことなし前のめりだ。
    「少なくとも着手はするつもりだ。芳しい結果を伝えられるかは別だが、おれに可能な限りのことはしよう」
     ああ、と絞り出すような声が彼の耳に入る。年嵩の作家は胸に手を当て、何かを抑えるように二度三度と押し付けた。その薬指にはやはり何もない。本当ならそこに指輪があったはずなのだ。
    「大切なものだというのは解る。結婚指輪だろう、奥方もさぞ悲しんでいるはずだ」
     感じ入るさまを目の当たりにして、彼も成し遂げるべき務めを今一度噛み締め、気持ちを新たにした。ところが、妻という言葉を耳にするや、指輪を失くした男は妙に言い淀み、
    「はい――あ、いえ、妻はその……妻はですね、もうおりませんので……」
     と切れ切れに答えた。彼は喉元をぐっと掴まれたような心地がした。――どうしてそこまで思い至らなかったのだろう?
    「済まないことを言った、……なんとしても手づるを掴まなければなるまい、形見の品となればなおさら……」
    「あっ、違うんです、違います。いいや、これは私の言いかたが間違いでした。いないというのは、つまり、死んだということではないんですよ。形見ではないんです。要するにですね……そのう……」
     男はなおも言葉を濁しながら、察してもらいたげに彼の顔をちらちらと窺っていた。果たして、彼の胸中には一つの答えが浮かび上がりつつあったが、直截な形で口にするのはずいぶんはばかられた。彼は彼で、他人の生活や関係について言及するのに多分な遠慮があったのだ。かくて客間には、卓を挟んで向い合いながら、曖昧に首を傾げ、目を泳がせつつ、さも上等な返事の用意があるかのごとく口をもごもごさせる二人の男という、世にも間抜けな光景が誕生した。二人のはす向うに座った若者が、呆れたように溜息をついた。
    「まったくお恥ずかしいのですが、……愛想を尽かされたんで」
     数分も続いたかと思われる沈黙の後、ようやく当人の口から答えが聞かれた。
    「恥ずかしいことなのかい! 互いに納得ずくだったろうにさ。きみはおかみさんと娯楽とを天秤にかけて娯楽を取ったんだ。それで、あっちも夫と自由とを較べて自由を選んだのさ」
    「いや、そうは言ってもねセーニャ、お役人の前で胸を張るようなことじゃないだろう……」
     若者はすでに焦れてきたのか、単簡明瞭に言い立てたが、男やもめは歯切れの悪い弁解を続けようとした。アレクセイが咳払いをしなければ、もうあと数分はこのままだったか知れない。
    「婚姻の失敗についてはもういい。おれはまだ指輪の詳細について聞いていないのだ。物がわからぬことには探しようもない。材質や装飾、径の大きさ、捜索の目当てになることは全て教えてもらおうか」
     結局は物怖じなどせず、「役人らしい」態度で臨むのが最良だったのだ。彼は二度と持って回った真似などするまいと決め、いま知るべきことをきっぱりと聞いた。

     最初より大分と縮こまってしまった男から、アレクセイが念入りに聞き出した中身をまとめるとこうだ、――指輪は正教会の伝統にのっとった銀製で、表面には特に飾りもなく、宝石を据えたりもしていない、小ざっぱりしたものである。純度としては62ゾロトニク(訳注:銀の純度を表す単位。62ゾロトニクは純度約64.5%)で、その旨が製造元を示す《ТН》の頭文字や、ペテルブルグの市章と共に刻印されている。そして何より重視すべき点として――内側に《М. АからФ. Иへ》と彫り込んであるのだと。なるほど結婚指輪らしい誂えだ。これら刻印は確かな手がかりになるだろう。とうに融かされていなければの話だが。
    「遺失物については解った。それで、被害に遭ったのが10月7日の夜――あるいは8日の未明、フォナルニイ小路……」
     アレクセイは帳面に逐一書き付けながら、繰り返し自分の頭に覚え込ませた。これらの記述を元にして、警察部だか憲兵団だか、今回の手入れを行う部署に追加の指示をしなければならないのだ。
    「酒場に入るまでの経緯も尋ねておこう。詳細があったほうが通りもよい」
     しかし、彼がこう聞いたとたんに男の顔色が変わり、体もびくっと震えたように見えた――どうやらあまり触れてほしくない事柄らしい。
    「ええと、経緯ですか……経緯といいますと、それは……」
    「全く何の当てもなしにフォナルニイ小路へ入り込む者はいないだろう。酒を飲むだけなら、もっと安全で安価な場所がたくさんある。強引に連れ込まれたとか、相手が言葉巧みで騙されたとかいった理由があるなら聞きたいというのだ」
    「はあ、確かにそうです、私も危ないところだとは知っていますよ――ペテルブルグっ子なら誰でも。それに誓って《寛容な家》(訳注:娼館の隠語)に用事もありませんし……」
    「といって、単なる好奇心だとか――ないしはアルセーニイ・ステパーノヴィッチのように取材の目的があったというのも違うようだが」
    「ええ、私はそういった趣旨のものは書かないもので。ただ何分……その晩はなんというか、なにしろ酔っていたこともあって……」
     アレクセイは尋問官としての対応を考えさせられた。しどろもどろの相手にあくまで付き合う必要はない、というのは先にも思い知ったことだが、届けを通して欲しくば全て話せと強く迫った結果、頑としてだんまりを決め込まれるのもよくない。彼はなんだか子守でもしているような心地になりつつあった。「怒らないから正直に言ってごらん」というやつだ――しかし彼は役人なので、事によっては叱責せねばならぬのだ。この膠着をどう進めたものだろう? それがすんなり判るようなら、彼も内務省の14等官などという立場に就きはしなかったろうが……

     ところで、会話に参加している当人同士はなんとか耐えられる停滞も、傍目に見ている者には到底我慢がならない、ということはあるものだ。この場で最も年若の作家は、若いからということもあるまいが、年嵩の者たちよりも気が短いようだった。
    「なんだよ、さっきからその物言いはさあ……フェドゥーシャ! きみ、我が身と指輪とどっちが大事だ!」
     脚を組んで椅子に収まっていた若者は、卓を蹴り飛ばさんばかりの勢いで身を起こし、叫んだ。これにはアレクセイも目を見張ったし、口籠っていた男など完全に動転した声で、
    「指輪です!」
     と悲鳴を上げる有様だった。とはいえ、この一喝が男に心を決めさせたらしい。なんとか姿勢を正した男は、若者の顔をちらりと窺い、それから辺りをはばかるように、
    「実は……かるたの賭けができる、と誘われたものですから、つい……」
     絶え入るような小声で、やっと事実のほどを述べたのである。
    「賭けは、――賭けかるたについては、所定の場で行うもの以外は全て違法だ。承知しているだろうな」
    「もちろんです、私だって元々は公営のクラブでやっていましたよ、会員証のあるような――それだって独り身になってからは止めていました。もう二度とは、と。それなのに……」
     彼の脳裏には、例の酒場で見た光景が蘇りつつあった。暗がりに集まって牌を切り、胴元を囲んでやり取りをする男たち。積み上げられたコペイカ玉に金物の盆、皺くちゃになったルーブル札――あのような胡乱な場を、政府が公営の賭場と認めるはずもない。この男は被害届を却下されたわけではなく、そもそも届けすら出していなかったのだ。自分まで罪に問われることを恐れて。
    「それで、店では賭けをやったのか」
    「覚えてはいません。本当です、《きいちご酒》からのことは何一つ覚えていないんです……」
     男の顔は蒼白になっていたが、口ぶりは先刻よりもはっきりしていた。ごまかしや先延ばしを試みているふうではない。となれば、問い詰めたところで無駄だろう。店から帳簿か何か出てきたら、そこで確認することになる。
    「本当に、本当に私の落ち度だったんです。前々からこんな……妻に追い出されたのも当然です。それで残ったのが指輪だったのに……」
    「もういい、フョードル・イワノヴィッチ。仔細がそれで全てなら、おれからは以上だ。本庁に戻って処理し、追って沙汰をやる」
     男がとうとう顔を伏し、すすり泣きを始めたので、アレクセイは話を打ち切らざるを得なくなった。どうしてこうも湿っぽくなったやら――始末に困って、彼も若者の顔を窺うことになる。
    「フェドゥーシャ、きみには説教よりまず気付け薬が必要だよ。下でお茶を淹れてもらってきな。ミーシカもラーニャも来ているはずだからさ」
     若者は勝手知ったる様子で男に指示を出し、肩を叩いて室外へ送り出した。場に残しておいては話が進まないと、あちらのほうでも思ったらしい。男が出ていくと、部屋にはなんとか落ち着いた空気が戻った。

    「こんな次第さ」
     若者が肩をすくめ、先程まで男がいた席に就いた。 「これで本当に全部」
    「理解はした。もう少し整然とした話し合いを期待してはいたが。……違法と知って入り込んだなら、自ら招いた災難じゃあないのか」
     彼は何の気なしに呟いたものの、とたん若者の目がすっと鋭くなったので、言葉を補う必要に駆られた。
    「いや、連中が悪いことに変わりはない。それは確かだ。人を連れ込んで酩酊させ、身ぐるみを剥いだあげくに溺死させるなんてのが、非道でなくて何だというんだ。だが……」
    「フェドゥーシャ悪いっていうんだろう。少しは恥じるべきだと。ぼくに言わせれば、恥や自責の念なんて何の役にも立たないね」
     言いかけた彼を遮って、若者はぴしゃりと否定した。
    「酔っていてもいなくても同じことさ。博打うちは一度賭けと聞いたら、そのことしか考えられないんだよ。連中だって、そういう人間が引っかかるのを待ってるわけだ」
    「確かにそうだろうとも……」
    「ぼくだって似た性分だからよく解る。本当に止めたきゃ、誰かの介入が必要だってことも」
     彼は目を瞬いた。同じ性分、という件にである――この稚顔をした若者が、賭博や酒色に溺れている様など、想像しようにもできなかった。
    「それであんたが名乗りを上げたわけか。……しかし、どうしてまた」
    「どうしてとは何だい」
    「本人に対処する力がないのは解る。またぞろ良いかも・・になるだけだろう。当座のところは誰かが動くしかない。ただ、別にそれはあんたじゃなくとも――」
    「いけないかい、助けちゃ」
     若者は何のてらいも勿体もなく、ただ平然として答えた。 「きみのことも助けちゃいけなかったかい」
     彼は返答に窮し、ただ灰色の目を見つめ返すことしかできなかった。
    「たまたま誰かが――今回は知り合いだったけれどもさ、失くした指輪を取り戻したいと思っていた。で、ぼくならなんとかできそうだった。それだけだよ。ぼくはあなたほど善人でもなければ、怒りっぽくもないしね……」
     若い作家はそう言うと、押し黙ってしまったアレクセイの顔を、幼い教え子でも見るかのように眺めた。唇にうっすらと笑みを浮かべながら。
    「おれは、……別段怒りっぽいわけじゃあないし、善人でもない。義務があるだけだ」
     気の利いたせりふなど何一つ思いつかず、彼はただ短く否定だけを返した。 「もう帰る」
    「ああ、呼びつけて悪かったね。そうだ、もし何か必要になったらこれを」
     話を引き伸ばされなかったのは幸いだった。作家は懐から一枚の紙片を取り出し、彼の手に握らせただけで、それ以上あれこれと足止めを試みてはこなかった。燕尾の裾を翻しながら、彼に先立って扉を開ける――階下で演奏されているのだろう、ピアノの音が彼の耳に入ってきた。

     一階まで戻ってみると、アレクセイが到着した時よりもずいぶん賑わっていた。ピアノを弾いているのは、先程も同じ場所にいた音楽家らしき紳士である。暖炉の傍では見覚えのない青年たちが握手を交わしているし、長椅子には婦人が三人ばかり腰掛け、金縁模様のカップでお茶を飲んでいる。飲み物を手にしていないまた別の婦人――栗色の巻毛を短く切り揃えている――は、若い作家の姿に気付くや、扇でそっと口元を隠し、深意のありそうな目配せを寄越す、といった具合だ。それに愛想を振りまく作家の傍ら、アレクセイはいよいよ帰りたくなってきた。
    「やあ、お話は終わりですか、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ。それにセーニャも。だいぶ人も揃ってきたところでね、ついさっき小父さんも顔を出したよ」
     最初に彼を迎えてくれた青年が、間口のところまで迎えに出てきた。彼はとっさに目を反らして、ああとかううとか言葉を詰まらせた。
    「一段落ってところさ。それより、フェドゥーシャのやつはちゃんと下りてきたよな」
     社交の努力をほとんど放棄している役人に対し、作家は何でもないように首肯してから話し始めた。
    「ああ、いくらか前に。彼にしてはなんだかしょげていたようだけれど、何か手厳しい批評でもしたのかい。いくら彼が論客に強いといったって、あんまりけなすと落ち込みもするよ」
    「そんなことはしないさ……いや、頼まれたらもちろん批評はするけど、作品のことでそこまで責めやしない」
    「それなら良いんだけれどね。まあ、彼については追々慰めてやろう。それより、君たちも早く参加したまえ。ちょうど今からくじを配ろうとしていたところなんだ」
     青年は手早く話をまとめつつ、二人を何かしらのくじ引きに誘った。贈り物の交換でもするのか、それとも会食の席次でも決めようというのだろうか? とうに帰るつもりでいたアレクセイは、当然のごとく数に入れられていることに困惑し、慌てて頭を左右に振った。
    「いいや、おれはもう戻るんだ、済まない……」
    「えっ、もうお帰りになるんですか。まだお茶の一杯も召し上がっていないのに。せっかくお出でになったんですから、乾杯まででもいてくださいよ」
     驚きと残念さとが入り交じる声で、青年は留まるよう勧めてきたが、アレクセイはもう一分だって長居するものかという心地だった。脳裏にあの酒場女と《きいちご酒》が過ぎった――否、この青年は何らの企みもなく、ただ楽しみのことごとくを遠慮して帰ろうとしている客に、全くの善意から勧めているに違いないのだが、彼の気分はますます萎えた。
    「良いんだよ、エルネスト。ぼくらのモットーは来るもの拒まず、去るもの追わずじゃないか」
     話が長引きそうだと察したか、若者が二人の間にさっと割り込み、片手で青年を制した。
    「それにほら、アレクセーイカはぼくらと違ってお堅いお勤めなんだよ。就業規則だの、勤務時間だの、定めが山ほどあるのさ……」
    「はっはっ! いや、ごもっとも。ぼくら作家にあるのは締め切りぐらいだもの。それさえ気にしない人もいるものだしね。失礼しました、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ」
     青年のほうも軽やかに笑い声を立て、彼を解放することに同意してくれた。が、別れに際しての社交辞令はまだ続き、
    「またぜひいらしてくださいよ。セーニャの友達なら、いつだって大歓迎です。例会は月の頭ですが、だいたい毎週こうして集まっていますのでね。そうそう、来週の木曜日には詩の朗読会が……」
     等と、彼が既に会の一員であるかのように喋り続けた。若い作家が苦笑しながら、門まで送ってくるよと言い出さなければ、恐らく乾杯の時間までずっと喋っていたことだろう。
     ともあれ、今度こそアレクセイは場を逃れた。廊下を再び戸口までやってくる間にも、何人かの新しい客とすれ違った。なかなか規模の大きな会らしい。ペテルブルグには作家と名乗る者がこんなにも多かったのか、と彼は呆れるような思いがした。

     重たい扉を引き開けると、たちまち冷たい夜風が隙間から一杯に吹き込んでくる。昼間の熱の名残はもはやなく、すっかり凍えるような寒さだ。背筋に震えが走るのを、なんとか堪えてアレクセイは向き直った。一応は辞去の挨拶をしなければならない。
    「それでは、……ずいぶん長居をしたな。おれは戻って取り掛かることにする」
    「頼りにしてるよ」 暖かな明かりを背に、若者が彼をじっと見返した。 「沙汰を待ってる」
     吉報をもたらすことができるだろうか? それは――まだ誰にもわからない。彼にできることは事務方としての働きだけで、実際のがさ入れは別の部署がやるのだし、それも8等官殿や5等官殿のご機嫌しだいでどう転ぶか――いずれにせよ、明日の業務で詳細な調書ほか、もろもろの書類を仕上げ、再三丁寧に頼み込んだら、あとは祈るか忘れるかのどちらかだ。
     目の前で静かに扉が閉まり、彼は夜のさなかに取り残された。後ろにはサドヴァヤ通りの華やかな喧騒が、寒さと闇とを吹き飛ばすように響いていたが、彼には別世界のごとく感じられていた。
     ――本当にただ祈るだけにならねばよいが。人の力でかたを付けられるなら、何もかもそれにこしたことはない……
     彼はそう独り言ちて、あの濁った運河からそう遠くない下宿へと足を向けた。途中、外灯のそばを通りかかったとき、ふと気になって先刻もらった紙切れを開いた。果たして、それは社交界ではおなじみの名刺というやつであり――アルセーニイ・ステパーノヴィッチ・ペトルーシュキンの名と、連絡先である住所とが記されていた。都大路にもほど近い、リチェイヌイ通りにあるアパートだ。それも5階の、番号からして角部屋だ、恐らく家賃は20ルーブルを下るまい。
     やるせない心地のまま、彼は紙片を懐に突っ込んだ。ツァーリに仕える秩序の使徒は、これから月あたり5ルーブルの屋根裏部屋に帰らなければならないのだ……

      * * *

     翌朝の冷え込みときたら堪らなかった。本当ならまだ寝ていてもよい時間なのに、アレクセイは真っ暗な部屋の中、寒さのあまり震えながら目を覚ましたほどである。とうとう普段の制服に加え、外套まで着て出勤する季節が来てしまったのだ。さすがに今日の寒さはいっときのこと、言わば弛みきった兵士たちに《冬将軍》の一喝が下ったようなもので、明日からはまたしばらく、手心の加わった天気が続くと信じたいものだが……いやいや、しかしここはペテルブルグなのである。毎年のように陛下が御行幸になる、黒海そばの安穏とした保養地ではないのだ。まったく、都の冬ときたら――夏と比べてどちらがましだという話はするまいが、それにしても冬のペテルブルグときたら!
     《外套》シニェーリと呼ぶにはいささか頼りない――それもこれも仕立てのおりに、可能な限りまで出費を抑えようと試みた結果であるが――かといって《半纏》カポートほど落ちぶれてもいない、深緑色の《上っ張り》の襟を立て、彼は早足で内務省本館へと向かった。いつもの室に入ってみると、驚くべきことにもう8等官殿が持ち場についていた。――いや、アレクセイにとっては驚くに値しないことだった。この上役が自身の面子というものにはなはだ執着し、部下にも上官にも等しく尊重されようと欲し、咎を受けそうだと思うや言い逃れの策を延々と講じる、真に俗吏の鑑のような人物であるのは、アレクセイのみならず部局じゅうの誰もがよくよく承知していた。ましてや己の立場が危殆に瀕しているとなれば、死力を尽くして挽回を試みるに決まっているのだ。むろん、この死力というのは自分自身ではなく部下たちの死力であり、それも及ばぬおりには誰か手頃な者を大いけにえとして、そのまた上役の5等官殿に差し出すだろうことも目に見えていた。
     だが、8等官殿の魂胆がどうであれ、事は明らかに進展していた。めざましい進展と言ってもよかった。立ち入り調査にかかる人員は、もう15、6ばかりが確保され、当日の段取りについても、警察部のさる大尉を筆頭として、かなり詳細まで組み上げられているとの話だ。一両日中にはほとんどの準備が整い、然るべき時を待って決行というわけである。アレクセイはもはや差し挟むべき口を持たず、ただ黙々と被害事例の詳細について書類を作成し、もし押収物の中に件の指輪があれば回収してもらえるようにと、14等官にできる限りの手配りをするだけだった。

     こうして全ては順調に進んだ――数日の間は。巡査たちは首尾よく例の酒場に押し入り、不逞の輩を残らず取り押さえて、当分は営業ができぬよう始末をつけたとの報が、アレクセイの元にも届けられた。元より手配していた人物、すなわち顎髭を生やした四十がらみの男については、残されていた軍務手帳で身元が判明すると共に、獅子頭の杖も回収されたので、8等官殿はご満悦である。伝え聞くところによれば、持ち主そのものよりも杖のほうが重要で、なんとしても押収するようにと5等官殿から格別のお達しだったとのこと、アレクセイは安堵するやら呆れるやらの心境であった。当人を探せというのだから、わざわざあんな界隈まで出向いていったのに、杖だけでよいならもっと別の方法があったのではないか、……
     しかし今は杖の顛末を考えている場合ではない。彼にとって最大の懸念は、フョードル・イワノヴィッチの指輪である。何がなし嫌な予感がしていたのだが、果たせるかな、銀の結婚指輪は出てこなかったのだ。店内からは様々の衣類また宝飾品の類が発見され、そのうち何点かは届けの出ていた失踪者のものと一致したというから、警察部ではいよいよ尋問に力を入れる運びだろう。だが、金に黒真珠を戴いた指輪だの、留め具に琥珀の使われた札入れだの、べっ甲縁の眼鏡だのは出てきても、質素な銀の指輪はついぞ見当たらなかったのだ。もう既に売り飛ばされてしまった後なのか、それとも――
     アレクセイにはもう一つの考えがあった。銀62ゾロトニクの指輪というのは――無名の作家にとっては大層な買い物に違いないのだが、金やら真珠やらを獲物にするような連中が、目の色を変えるような品であるとは言い難い。金目のものは片っ端から剥ぎ取るとはいっても、剥ぎ取ったもの全てが現金に替わるわけではあるまい。なにしろ、足がつかぬよう売りさばくにも、少なからず手間がかかるのだ。それに売値が見合わなければ、そもそも見逃したほうがまだましということになる。となれば、指輪はフョードル・イワノヴィッチの薬指に嵌められたまま、持ち主ごと運河に放り込まれてそれきり、という可能性が高くなる。頭を抱えるような事態だ。秘密裏に売られた貴金属の行方を追跡するほうがまだしも楽だろう。
     だが、この時点ではまだ多少の希望もあった。複数の遺体が沈んでいると決まったようなものだから、エカテリンスキイ運河のどぶ浚いは必ず行われるはずだ。もしかしたらその折、他の遺留品と合わせて出てくるかもしれない……現場へと赴く巡査たちのやる気次第で。

    「エカテリンスキイ運河の件だが、ありゃ駄目だねえ。しばらく棚上げだ」
     巡査たちのやる気だけではどうにもならぬ問題が持ち上がったのは、翌週の火曜日になってからである。深爪をした指先をこすり合わせながら、普段と変わらぬ時間に出勤してきたアレクセイを見るなり、8等官殿が気のない声で言ったのだ。席につきかけていたアレクセイは、背中のあたりをしたたか打たれたような思いがした。
    「駄目、とはどういうことです……」
    「昨日が初日だったのは知っとるだろう。それで水に入った巡査が全員、今朝がた出勤してこなかったそうだ。流感かなにか貰ったらしいがね、おかげで段取りが最初(はな)から狂ったわけだ」
     まるで他人ごとのような口ぶりに、彼は悪態をつきたくなるのをぐっと堪え、ただ眉間にしわ寄せて上役の顔を見た。
    「では、追加の人員を要請するべきではありませんか。犯罪の証拠品がまだ沈んでいるかもしれないのですよ」
    「いやいや、警察部のほうにだってそんな余力はないのだろうよ、きみ。今日び、都じゃあ四方八方で重大な政治犯だの、思想犯だの、皇帝陛下に楯突く輩がうようよしとるんだから。憲兵がいくらいたって足りやしない」
    「それらの犯罪と較べて、今回の事件は些末なものだと仰せなのですか……強盗殺人が……」
     彼は「まっとうな役人」として当然と思われる抗弁を試みたが、8等官殿の心を動かすにはあまりに力不足だった。どころか、
    「大体がだね、きみが自分で運河に入るというんなら、それは見上げた志として手助けもしてやろうというところだが、君や僕たちは結局、ただ指図をするだけの立場だからなあ。立ち入った全員が体を病んだというのは、つまりなにかの病原が――細菌だか、何だかいったものが蔓延しとるかもしれんのじゃないか。そんなところにただ人員をやれ、次々やれと言っておくのは、あんまり配慮のない話だと思うがね」
     と言い返される始末だ。すかさず反撃できるような武器が彼にはない。――自分だって指輪の件がなければ、これほど憤ったか怪しいではないか、全き正義の心があるわけではないのだろう、と己に見透かされた心地だったのだ。
    「それよりだね、なあ、ネーモフ君、きみは例の杖についてもう調べをつけたのかね」
    「いえ、……まだ取り掛かっておりません」
    「それならきみは即刻、そちらに目を注ぐべきではないかね。与えられた責務なのだから。自分のこともできないうちから、よそを心配しても仕様がないだろう……」
     こうまで訓戒されてしまえば、14等官に勝ち目などありはしない。彼はすごすごと席に戻り、本来の業務をなるだけ円滑に、素早く終えられるよう専心しようとした。けれども、ふとした考えごとの折々に、あの酒場で見聞きしたものや、またフョードル・イワノヴィッチの傷心した面持ちが眼前でちらつき、まるで集中できなかった。

     終業時間を迎えても、アレクセイはどこか上の空で、暮れ方のフォンタンカ河岸通りをのろのろ歩いていた。あんまり注意散漫だったものだから、下宿の前をすっかり通りすぎていることにも気がつかなかった。どれだけ余計な道を行っただろうか、それはもはや判然としない――彼がやっと我に返ったのは、ヴォズネセンスキイ大路のど真ん中で、箱馬車の馭者に怒鳴りつけられてからだった。路肩に逃れてから改めて見れば、もうエカテリンスキイ運河が目の前ではないか。
     ――おれはどこまで取り憑かれやすい人間なんだ。まともにうちへ帰れもしないんじゃあ、生きてゆくのに不自由で敵わないぞ。
     考えているうちにも、彼の頭にはまたぞろ帰る家――寂れた横丁にある古屋敷の、そのまた寂れて寒々しい屋根裏部屋や、あるいはとうに帰れなくなった家のことまでもが浮かび上がり、ただでさえ軽やかさとは無縁の足どりをますます重くさせた。運河から漂うすえた臭いが、夏でもないのにやたら強く感じられる。あの汚泥のどこかに指輪が沈んでいて――指輪は沈んでいないかもしれないが、遺体は間違いなく沈んでいて、引き揚げられるのを待っているのに、その役を果たすべき者たちは手をつけられずにいる。どぶ浚いをするのは役人たちだけではないものを――暗澹とした気持ちを振り払うように空を見上げても、これがまた鬱屈した胸中そのものの鉛色だ。もうすぐ雪も降りだす時節になる。そうなれば運河は完全に凍りついて、もはや何人も手を出せなくなってしまう……
     かように寒空は彼の屈託した心を晴らしてくれなかったが、その時ふっと彼の鼻腔を、生臭く淀んだ空気とは違った、柔らかな匂いがくすぐった。すぐ傍を何かが通り過ぎていったのだ。雪片のように細やかで甘い花の香り、それもバラやユリではないし、何らかの生花ですらない。恐らくは香水か化粧品だろう。といって、この界隈ではありふれた、安っぽくつんと尖ったコロンの臭いとは明らかに質が違う。彼は思わず振り返り、しばらく香りの元を追おうとしたが、立ち止まったままでは限界があった。第一、これ以上の寄り道をしたところで何にもならない。重たい息をつきながら、再び顔を正面に向ける。

    「よう」
     そうしたら人の顔があった。歩き出しかけていたアレクセイの両足は、主人の驚愕にいち早く対処し、つんのめって倒れないよう一心に敷石を踏みしめた。おかげで無用な衝突は避けられた。
     彼は吐き出したままの息をなんとか継いで、その顔が誰のものかを確かめた。つぎはぎだらけの鳥撃ち帽を被り、髪はそっくり引っ詰めているが、大きな灰色の目と血色のいい肌、子供っぽい面立ちは、アルセーニイ・ステパーノヴィッチのそれに相違なかった。
    「なんだ――あんたか、ええと……セーニャ」
    「何か探してたの?」
     瞳の中にからかいとも好奇心ともつかぬ光をちらつかせながら、若い作家は彼の顔を見上げてきた。初対面のときとよく似た、黒っぽい色の外套と細いズボンが、体をますます小さく見せていた。
    「ああ、まあ……一応は。あんたにも事の次第を伝える義務があるしな」
    「それはありがたいね。ぼくらのほうでも待ってたんだ――ただ、きみの顔を見る限りじゃ、どうも悪い話になりそうだけれど」
     塞いだ心をいとも容易く見透かされて、彼は自分自身をなんとか平静に感じさせようとした――が、そんな芸当ができるほど器用な顔ではないことをすぐに思い出し、努力するのをやめた。
    「決めてかかるな。いい話もあるさ」
    「いい話、ね」
     細い眉が含みを持たせるように上がる。 「聞かせてもらえるかい、そのいい話を」
    「警察部は案件にきちんと取り掛かった。店への立ち入りも終わって、下手人はみな取り押さえられたそうだ」
    「へえ! 仕事が早いじゃないか。お役所は頼りになるものだね……それで、いい話以外には?」
     問われて彼は運河に顔を向け、自分の目と大差なく淀んだ、暗緑色の水面を一瞥した。
    「指輪は出てこなかった」
     応えはすぐに返らなかった。何の慰めも思い浮かばず、彼はあらぬ方を眺めて爪を噛み始めた。横道のほうから急ぎ足に出てきた、凍えそうな衣装にショール一枚巻いただけの女が、怪訝そうな視線をよこしてから通り過ぎていった。恐らくこれから勤めに出るのだろう。
    「そう。連中にしてみれば、取るに足らないものだったわけだ」
    「だが、フョードル・イワノヴィッチはさぞ落胆するだろう。その――いや、すまなかった」
     そうする必要に駆られたものだから、彼はいくらか早口に謝った。ところが、作家はやにわ目を鋭くして、彼の顔をきっと見据えたのだ。まだ言葉を続けようとしていた彼は、気圧されて息を飲み込んだ。
    「どうして謝るんだよ」
     向けられた第一声はそれだった。アレクセイにとってはいくらか予想外のせりふだった。
    「謝るってのは何か、つまり自分にはもうお手上げです、諦めました、っていうことだろ。これ以上の力は出しようがないと」
    「いや、そういった意味では――」
    「じゃあ、一つ悪い結果が出たからって、挫けずに働き続けてくれてるのかい。それならどうして謝ることがあるんだ。まだ話していない落ち度でもあるのか? 皆目見当がつかないぜ」
     彼はただ口をつぐんで、若者の顔をまともに見もしなかった。取り急ぎ謝っておかなければ、この後の会話が多分にぎこちなくなりそうだったから、等と正直に答えようものならどれだけ機嫌を損ねるかわからない。まして、謝れば相手の気分もいくらかましになるかと思って、とまで言った日には――考えれば考えるほど、自分自身に対して胸が悪くなるようだった。謝れば気分がましになる? 自分は他人に謝られて、道理はさておき気分がよくなる人間なのか? ……即座に否定できないのはどうしたものだろう?
    「なあ、これはぼくが察するにだけれど、一番気落ちしてるのはきみじゃないか」
     アレクセイが何も言わないのに辛抱ならなくなったのか、作家はそこで一歩の距離を詰め、いくらか険の抜けた声遣いで言った。
    「ぼくだってフェドゥーシャだって、そりゃあ聞いて多少なりともがっかりはするさ。でも、たった一回探して見つからなかった、それでもう望みが消えてなくなるわけじゃなし」
    「しかしだな、……後ろ向きなことばかり言うのもなんだが、こういった捜索は最初で決まるといっても過言じゃあないんだ」
    「知ってるよ、ぼくが作家として何を書いてると思ってるんだ? でも、ぼくは腰を据えて探し続けた結果、きみという伝手を見つけたろう。成果が出たんだ。じゃ、これからも続けるまでさ」
     口をもごもご動かす彼に、からっとした笑みでもって作家は応えた。どういうわけか逆に慰められる格好となり、彼は決まりの悪さに少々縮こまった。
    「まあ……あんたが前向きなのはとても良いことだとして、事実はきちんと伝えなくてはならないからな」
    「なんだい、事実って」
    「運河での捜索についてだ。しばらくの間は差し控えられるかもしれない」
     この事実には作家も眉を顰めずにはいられなかったようだ。彼とて気持ちは同じである。そこを8等官殿に咎められてしまい、今の鬱屈した気分が生じたのだが。
    「どういう事情なのさ。何かの巻き添えでも食ったのかい」
    「概ねそんなところだ。捜索にあたった巡査が全員、流感か何かもらって出勤できなくなった」
    「へえ! そいつは呆れたもんだね。確かにフェドゥーシャもそうだったけど、隊が丸ごとってのはまずなさそうなのに。でも、そうなると確かにまずいな」
     作家もまた運河のほうを向き、口元に手を当てて何事か考えているようだった。頬が僅かに膨れている。
    「そりゃあ、もうずいぶん水温も下がってるし、昼じゅう浸かってるだけでも体は冷えるだろうさ。それにこれだけ汚れた水場なんだ、うっかり傷でも作ったら、そこから菌が入るってこともあるだろう」
    「ありえない話ではないな。おれは医者でないから確かなことは言えないが」
    「だからって、放り込まれたのがネヴァやフォンタンカならこうはならなかった、とも言えないけれどね」
     この《溝》と比べれば遥かに澄んだ――汚染されていないというわけではないが、少なくとも人が立ち入るのに躊躇を覚えないような――ペテルブルグの水脈を挙げ、作家はふっと息を吐く。
    「運河のせいにしたって仕方がないしなあ。そもそもが人間のせいなんだから。ここだって昔はきれいな川だったんだろうに……」

     その一言が耳を打った瞬間、アレクセイの靄がかった思考がぱっと晴れた――否、それは大げさにしても、分厚い雲に覆われた晩秋の空に、柔らかな陽光が一筋差し込んできたかのような心地だった。
    「氷が張るまでにはもう少しかかるはずだから、それまでになんとか――ぼくが入っていくのに許可なんかいらないはずだよな。許可がいるならいるで、またきみに頼めばいいとは思うけど。それに……」
     そうとは知らぬ若い作家は、なおも考えながら話し続けていたが、返事をする余裕さえ彼にはなかった。彼の脳裏にもまた、数多の考えが渦巻きだしていたのだ。「川だった」というその一点のみで、彼の頭はがらりと働きを変えた。エカテリンスキイ運河はかつて川だった、――本当に? そうだとすれば、自分の取るべき行動はまるで変わってくる。
    「あと一つ聞きたいんだけれどさ、アレクセーイカ。きみ、……アレクセーイカ?」
     さっぱり返事がないのを訝しんだか、作家もとうとう話題をさて置いて、首を傾げながら彼の名を呼んだ。それさえも彼の耳にはろくに入らなかった。結局、彼が我に返ったのは、肩を掴んで思い切り揺さぶられてからだった。
    「なあ、おい、一体どうしたんだよ。放心してる場合じゃないぜ。日曜日までにもう一回……」
    「川だったって」 相手の言葉に構わず、彼は問い返した。 「運河の話か? この、エカテリンスキイ運河が?」
    「そうとも。聞いたことないかい? ペテルブルグが建立された当時のことだから、二百年がとこ前の大昔だけれど、ここにはクリヴシという天然自然の川が流れていたのさ。まあ、たぶん昔から幅も狭くて浅い流れだったとは思うよ――それから後になって、川底を削ったり縁を固めたりして、今の運河の形にしたんだ。エカテリーナ女帝の時代にね」
     作家は運河の来歴についてすらすらと答え、今日呼ばれる名の由来にまでも言及した。作品に活かすための取材でもしたのだろうか、それとも作家になる以前から有していた知識なのだろうか? いずれにせよ、出処のあやふやな情報ではなさそうだった。
    「都にある他の運河と違って、狭いうえに曲がりくねっているのはそういうわけ。いま運河に架かってる、例えばヴォズネセンスキイ橋や劇場橋なんかも、昔は川をまたぐ木の橋だったって。ただ、劇場橋については……」
    「橋のことはもういい。水が重要なんだ。良いか、アルセーニイ・ステパーノヴィッチ――セーニャ、指輪のありかが分かるかもしれないぞ」
     こたびは作家が目を丸くする番だった。灰色の瞳は降って湧いた希望を前に、銀色と呼んで差し支えないほど明るさを増していた。
    「そりゃ本当かい、アレクセーイカ! でも、今の話でどうしてそんな――」
    「人造の水路にはないが、生きた水にはあるものの話だからだ。つまり……いや、分かるといっても、それは指輪が運河に沈んだままなら、という前提だからな。どこかしらに売られたり融かされたり、別の場所に棄てられたりしていれば、やはり人の手で探すより他はない。あまり過剰には期待しないでくれ」
     ぬか喜びをさせてもまずいと、アレクセイはやや控えめに弁明したが、作家の勢いは止まらなかった。陰気臭い14等官が着任してからこのかた一度も浮かべたことのないような、まばゆいばかりの期待と興奮に満ちた表情だった。
    「それでも可能性としては十二分じゃないか。話してくれよ、フェドゥーシャにも聞かせてやらなけりゃ」
    「ああ、ただ改めて場所を取ったほうがいい。今すぐでは明らかにまずい話だ。それから、これにあたっては色々と――とりわけフョードル・イワノヴィッチの側にだが、心得てもらうことがある」
    「心得だって?」
    「なにしろ通常の手段ではないからな。まず、何はともあれ秘密は守ってもらう必要がある。おれが伝える一切は他言無用だ」
     彼は一段声を低くし、いかにも用心深い警邏官の目をして言った。この形相には、数秒前まで晴れ渡っていた作家の顔も、いくらか神妙に、そして皮肉っぽくなった。
    「なんだよ、いきなり剣呑だな。まっとうなお役人が聞いて呆れるような話でもするのかい……帝国の法をさ……」
    「まさか。間違いなく法には触れないし、役人の勤務規定にも恥じない手だ。――それに」
    「うん?」
    「確かにおれは役人だが、内務省の14等官より前に来るものがある」
     作家の目が不思議そうに瞬くのを、彼は一瞥してからきっぱり言った。 「おれは魔術師だ」

     翌水曜日の暮れ方にはもう、アレクセイは消沈した面などしておらず、サドヴァヤ通りの角にある例の邸宅で、二人の作家たちと密談に入っていた。フョードル・イワノヴィッチは指輪の発見に希望が見えたと聞くや、取り戻すためならどんなことでもすると請け合った。
    「やるべきこと、というのは他でもない。おれたちはヴォジャノーイに目通りする必要がある――さすがにヴォジャノーイが何者だか説明する必要はないな」
    「はあ」 と年嵩の作家が答える。 「その、民話や説話に出てくる魔物ですよね? 川や湖や沼に棲んでいる」
    「そうだ。もとい、ただ人に害なすだけの怪物ではない。彼らは言わば水の世界のツァーリだ。天然自然の水あるところならどこにでもいて、彼らの領域を治めている。自分の水場についてなら知らぬものはない。そこで、おれたちも伺いを立てようというのだ。失われた指輪について」
     彼の説明に、なるほど、という相槌が打たれたものの、程なくして相手のほうでも違和感を覚えたらしい。
    「いや、しかし天然自然の水、ですか? エカテリンスキイ運河は……」
    「そうだ、傍目には人工の水路にしか思われないだろう。だがアルセーニイ・ステパーノヴィッチによれば、女帝の治世以前には河川であったというのだ。であるならヴォジャノーイが――クリヴシ川のツァーリが、今もそこを治めていても不思議はない」
    「なるほど……」
     作家がまた頷いた。このほどは先より納得のいったような声だった。
    「ですが、そうだとして相手は人間ではないのでしょう。まともに話が通じるものですかね。そのう……いくらあなたが……」
    「魔術師であるとしても」
     その口ぶりに滲む微かな不安や疑念を感じ取り、彼は先手を打った。信用ならないのももっともな話だ。昨今のロシヤにおける、はなはだしい科学的開化の動きに伴い、魔術師などという職業は、少なくとも都においてはすっかり過去のものとなりつつあるのだから。
    「むろん、生易しいことではないぞ。都の本省に訴え出るのとは訳が違う。だが、十分に礼を尽くして臨めば、あちらも相応の態度を見せてくれるだろう。一番の近道としては、やはり貢物をすることだな。彼の好物を」
    「具体的にいうと何です、ヴォジャノーイの好むものというのは……」
    「そうだな」 彼は少しばかり勿体をつけた。 「何よりもまず好むのは、人間の魂――」
     これは彼なりに場の空気を和ませようという試み、真剣な話の前にするちょっとした前置きのつもりだったのだが、目論見通りにいったとは言いがたい。魂、という単語を耳にしたフョードル・イワノヴィッチの顔たるや、来年の大斎は80日続くよと言われたって、こんなに悲痛な面持ちにはならないだろう。
    「きみは何でも聞き流すか、さもなきゃ真剣に受け止めすぎるかのどちらかだな、フェドゥーシャ」
     若いほうの作家、セーニャが鼻で笑った。 「ただの冗談だろ」
    「言わずもがなだ……もとい、大昔のロシヤ人は、確かに人身御供を差し出していたのだぞ。決して公的には行われなかったが、そもそもヴォジャノーイの信仰は民間のものだ。幸い現代では、おれたちのような魔術師が生物を捧げることはない」
     二人の作家が片や安堵に背を丸め、片や同情とも憐れみともつかぬ目でやれやれと首を振るさまを見、彼は会話に応じて適切な軽口を叩くことの困難を痛感した。
    「まあ、好適なのはやはり飲食物だな。相手が人間であれ精霊であれ、パンと塩でのもてなしは何よりの歓待だ。それからウオツカやピローグ、たばこも良い。それらを水に投げ入れたら、頭を垂れて心から願うのだ。あなたに送られたものをお返ししますから、私のものを元に戻してくださいと」
     彼が挙げてゆく品名を、年嵩の作家はふんふんと頷きながら聞いていた。一方、若い作家は軽く眉を上げ、
    「けどなあ、フェドゥーシャ、貢物を用意するのはいいとして、きみ、余分に金があったか? 指輪はどうか知れないが、財布はやられちまったんだろ?」
     と水を差す。これがどうやら図星を指したものと見え、いくらか良くなってきていた男の顔色が急にしおれた。
    「うん……いや、しかし私も全くの無一文というわけではないからね。ほんの少しだが貯金もあるし……」
    「で、次の稿料はいつ入ってくるんだ?」
     若者は至極もっともな疑問を呈し、たちまち相手を答えに窮さしめた。なるほど文筆業の弱点である。アレクセイのような役人と違って、彼ら作家は常に仕事があるわけではないのだ。いかな優れた物書きといえど、月々にこれだけと確かな稼ぎを生み出し続けられる者はそう多くはない。ましてや――アレクセイはアルセーニイ・ステパーノヴィッチの名と著作こそ知っていたが、フョードル・イワノヴィッチと言われても、何を書いているのかまるで思い当たらなかった。知られなければ売れることもない、それが本というものだ。

    「言っておくが」
     売れているほうの作家が次に何を言い出すか、アレクセイには察しがついていた。
    「あんたが持つのは駄目だ。請願をするものが身銭を切らなければ、必要なだけの犠牲を差し出したことにならないからな。どうしてもというなら、当座のところは立て替えてやることにして、後で必ず返してもらうことだ」
     たびたび人心を読み損ねてきたアレクセイだったが、今度こそは大当たりだったらしい。若い作家はやれやれといったように肩をすくめた。
    「解っています、そりゃ当然です。なあセーニャ……」
     フョードル・イワノヴィッチは作家仲間に向き直り、悲痛な、しかし真摯そのものの顔で呼びかけた。
    「必ず返すとも。私にしたって君ほど売れっ子だとは言えないが、書く力は残っているんだ。とにかくなんとかして……近いうちに返すから、数ルーブル用立ててはもらえないか」
     若い作家はみなまで言うなとばかり、背広の返しからぴかぴか光る1ルーブル銀貨を数枚、目配せしながら押し付けた。先にアレクセイが挙げた品を残さず購ったとして、せいぜい50コペイカもあれば用足りるだろうが、それは友人としての温情と見えた。
    「良いかい、ぼくに借りを作ったからって引け目に思うんじゃないぜ。これで身代限りってわけじゃないんだから」
     感極まった面持ちで硬貨を押し頂く男に、若者が諭すような口ぶりで言う。
    「あのドストエフスキイだって、8000ルーブルからの借金があったくせ、なんとか《罪と罰》を書くまで生きてただろ。どころか自分の博打狂いをねたに《賭博者》なんて本まで出した。それで稿料だけじゃなく、新しいおかみさんまで……いや、つまり、きみも今回の災難をもとに原稿を書けばいいんだ。作家なんだから、博打じゃなく書き物で負けを取り返すんだよ、フェドゥーシャ!」
     引用する例がいささか不適切だったことに気づいたか、途中にわざとらしい咳払いを挟みながらも、若い作家は同士を激励した。まあ、ドストエフスキイの二番目の妻については、傷心の男やもめに対して語るに無神経なところもあろう。さらにアレクセイにとっても、引き合いに出された《賭博者》なる小説はやや不適切だった。なにしろ周知の通り、作中ルーレットによって破滅する若い主人公の名は、まさしくアレクセイ・イワノヴィッチというのだから。
     ともかくも話は決まった。実行はなるだけ早いほうがいいというから、ならば明日、木曜の午前中かけて支度をして、日暮れ前にやろうということになった。いくら罪にならないといって、いたずらに人目につくのもよくない、日が沈まぬうちならフォナルニイ小路も静まり返っているから、との目論見である。アレクセイも気を引き締めて屋敷を辞した。木曜日にはたとえ8等官殿、いや5等官殿がなんと言おうと、定時に退勤しなければならない……

      * * *

     それからの半日というもの、アレクセイは寒空の陰鬱さなどものともせずに働いた。なにしろ昼過ぎまでには業務にかたをつけなければならないのだから、天気ごときに塞いでいる暇などありはしない。早朝に出勤するや、彼は自分に割り当てられた仕事ばかりか、同じ室に詰めている14等や12等の傍輩たちの、取るに足らない書き物や伝言まで奪い取るようにして、フォンタンカ河岸通り57番地を隅から隅まで飛び回った。
     外は雪こそ降っていないが、耳をもぎ取られそうな冷たい強風である。ひとたび守衛室で外套を脱いだ役人たちは、退勤時間まで二度とはそれを着るまいと決心を固めている。それだから外回りになど誰も行きたがらず、これもまたアレクセイの務めとなった。河岸通りには内務省のほかにも、国家行政にかかる重要な拠点が多く立ち並んでいる。かと思えば、そこらのはしけではスズキだのチョウザメだのが、魚汁ウハーにいかがと威勢よく売られている……紳士用のコロンから川かますのはらわたまで、晩秋の空気を織りなすあらゆる匂いを吸い込みながら、彼は足が棒になるまで働いた。それでも雑用は決してなくならず、彼が5等官殿に早退の許可を取り付けるころには、3時を大きく回っていた。

     辻馬車を拾ってサドヴァヤ通りまで乗り付けると、二人の作家はとうに屋敷で待ちくたびれていた。彼は遅刻を詫びつつも、今一度だけ儀礼の要点を確認しようとした。別段複雑なことでもない。
    「運河沿いの通りに入ったら、決して口を利くな」
     これが何事にも先んずる教えだった。アレクセイも作家たちも、神妙至極の面持ちで頷きあった。
    「声を出していいのは、水に向かって願い出をするときだけだ。それ以外では何があろうと、どんな言葉も発してはならない。水のツァーリは騒ぎを嫌うからだ」
    「エカテリンスキイ運河はさぞかし耐え難いだろうね、棲みかとして」
     若い作家が肩をすくめた。 「真夜中ごろなんて、あそこは乱痴気騒ぎの極みだぜ」
    「そうだな。……それから、ひとたび運河通りに入ったら、儀礼を終えて水を離れるまで、後ろを振り向いてもいけない。誰に呼び止められても、後ろで何が起こっても。深淵オームトのものたちと接するということは、ひととき人間の世界を離れるということだから」
    「ああ、それはおとぎ話にもよくある類型ですね。そういった異界から戻ってくるとき、振り返ると魂が引き戻されてしまうとか」
     年嵩のほうは物語論や民話学の見地から解釈し、納得したように首肯した。アレクセイが加えて二、三の心得、たとえば彼らの神の名を唱えたり、十字を切ったりしないようにという内容を付け足すと、後はいよいよ本番を迎えるばかりとなった。
     
     作家が水難にあった現場までは、歩いてもせいぜい15分である。日はずいぶんと傾き、路傍にはもうガスや石油の燈火が、また最新式の電燈が点りはじめていた。サドヴァヤ通りは行商人や呼び売り、お茶や早い夕食のための場所を探す人々、またネフスキイ大通りを目指す人、小さな辻馬車から大型の四輪馬車までが行き交い、大変に混雑していたが、海軍大聖堂の前を通り過ぎ、運河の際までやってくる頃には、人影はほとんど見られなくなっていた。名にし負う赤い電燈の点かないフォナルニイ小路は、ただただ薄汚く寂れたばかりの裏道で、運河に架かる橋のこちらから眺めるだけでは、そこに存在しているのかすらも判らないほどだった。
     もちろん彼らは、屋敷の表玄関を出てから、夕闇と混じり合って横たわる汚泥の縁に至るまで、一言だって口を利かなかった。くたびれた制服を着た役人と、物憂い外套をまとった壮年の男、そして垢抜けた背広に首巻きをした少年という三人組が、夕まぐれの街をただ黙々と歩くさまは、それだけで何か探偵小説の一幕にでもなりそうな風情だった。
     橋を渡り切ると間もなく、件の酒場があった。むろん今はすっかり締め切られて、手前には高札が立ち、警察部の印が入った但し書きが張られている――その上から見るに堪えない卑猥な落書がされてある。アレクセイは顔を顰めて目を背けたが、それでも舌打ち一つしなかった。もっと大切なことがあるのだ。彼は通りに深入りせず、運河に沿ってしばらく行き、調書に記された場所――フョードル・イワノヴィッチが放り込まれた地点で立ち止まった。
     彼が目配せすると、フョードル・イワノヴィッチは頷いて、悪臭の立ち上る運河の縁まで進み出た。そして、抱えていた布包みを解くなり、中身の品を一つ一つ、左手で水面へと投じていった。こんがりと焼き上げられた円形の祝祭パン(カラヴァイ)と塩が、黄金色のピローグが、また一封の嗅ぎたばこが、控えめな水しぶきを上げて、次々と黒い淵に沈んでゆく。その水しぶきも、ただの水と比べて落ちるのに時間のかかっているような、どこか粘っこく思えるものだった。
     作家はおしまいに小瓶の栓を抜き、運河とは真逆に澄んだウオツカをとくとくと注いだ。そして、深々とお辞儀をしながら一歩退き、
    「母なる水よ! あなたのところにやって来ました、この罪ある頭を下げに。どうか許してください――許してください私を、そして贈り物を受け取ってください。あなたのものをお返ししますから、私が失くしたものもお返しください!」
     と、淀みに響き渡るような声で、魔術師に教わったとおりに懇願した。震えをなんとか抑えこもうとして、それでも堪えきれていないふうだった。これで何か悪いことでも起きたらどうしようか、また何も起きなければどうしようもないのかと、焦燥に駆られているに違いなかった。
     果たして、何も起きなかった。後ろで見守っていたセーニャが、どうしたものかと言いたげな目で魔術師の顔を窺った。だが彼にしてみれば、慌てる必要などないのだ――全てが目に見え、耳に聞こえる形で表れるとは限らないのだから。彼は革かばんから白樺の細い杖を抜き取り、静まり返った水にかざそうとした。

    「おい、てめえたち!」
     その時だった。横丁のほうから出し抜けに、耳障りな胴間声が上がったと思えば、何か黒ぐろとした影か、ずんずんと彼らのほうに近付いてきた。ただでさえ気を張り詰めていたフョードル・イワノヴィッチは、喫驚にあっと悲鳴を上げかけたが、幸いかな、とっさに若い作家が後ろから口を塞いだために、なんとか掟を破らずすんだ。
     影は人間の形をしており、すぐ近くなってみると確かに男の姿だった。アレクセイよりは小柄な、しかし痩せこけてはいない二十歳そこらの男で、肩のところがすり切れかかった綿入れと、膝に継ぎの当たったズボンを身に着けていた。何より重要なことだが、どこからどう見ても堅気の人間ではなかった。
    「ようやく戻ってきやがったな、おい、ペトローヴィッチ!」
     男は三人の顔を一瞥するや、最も年若い者に目を据え、低く濁った声で凄んだ。
    「てめえだな、ええ? てめえ、お巡りとぐるでいやがったんだな。それで俺たちのことをたれ込みやがった。違うか?」
     あの酒場で確かにペトローヴィッチと呼ばれていた若者は、何のことだか解りませんねとでも言うように、無害そうな笑みを浮かべて首をかしげた。この仕草が男の怒りを駆り立てるのは目に見えていた。
     アレクセイには自分がすべきことが即座に解った。彼は杖を握りしめたまま、若者と男の間に割って入り、庇うように片手を広げた。
    「てめえたち山羊どものせいで、マツーシュカもかみさんも、他の仲間もみんなやられちまった。俺だってもうおまんまの食い上げだ。一体どうしてくれるんだ、え?」
     アレクセイは口を引き結んだまま、ただ杖を男の鼻先に向け、凝視した。言いたいことは山ほどあった、――人々の金どころか命まで手にかけておきながら、自分の番となればたちまち居直って、さもお上の理不尽に遭ったかのごとく振る舞うというのか、悪党めが、――しかし、これら全ての言葉は決して彼の舌先に上ることなく、苦い唾と一緒になって喉の奥へと飲み込まれた。
    「おい、なんとか言ったらどうだ……てめえみたいな役人は、俺たちに間抜け面晒すしか能がねえのか。せめて道を空けやがれ、――どけと言ってるんだよ!」
     彼は断固として口を利かぬつもりだったが、男が怒鳴りざま懐に手を入れ、鈍く光る匕首を取り出したときには、さすがに禁を破ってでも応援を呼ぶかと考えかけた。魔術を講じるにしても、ほんの些細な術を除いて呪文は唱えなければならないし、逃げ出すにしても道がない。正面には男がいるし、来た道を戻るにしても、そこで意図せず振り返ったことになるか知れないのだ。
     最悪のところでは、自分一人が掟破りの罪を被ればよい、それが魔術師であり公僕である自分の務めだと彼は覚悟した。だが、決意と共に声を張り上げようとした時だ。彼の外套の黒ずんだ袖を、後ろから引く者があった。
     彼はもちろん振り返らなかった。手元に目を落としてみれば、ほっそりとした指が袖を掴んでいる。セーニャだ。と、本人の顔が乗り出して、彼に物言いたげな眼差しを投げる。上向いた視線はしきりに右手へと流れた。暗澹とした運河の横たわるほうへ。
     彼は目だけを動かし、示された水際を窺った。今しも灯りはじめた赤い燈火が、無きに等しい流れのありさまを夕闇に浮き上がらせ、――そこに一つ、大きなあぶくがぼこりと立った。
     息を呑む暇もなく、水泡はもう一つ二つと沸き上がり、赤い光の波を歪ませた。それから間を置かずして、何か叫びかけた男の横手から、凄まじい水しぶきが吹き上がった。

     アレクセイは確かにそれを見た。水の中から立ち上がるように姿を現した、大きな影が燈火を遮っている。大きいといっても人間より一回り大きい程度だが、その体つきは妙に膨れ上がっていた――まるで水死体のようにぶよぶよしていた。何も着ていないその体を、どす黒い色をした泥だの、もじゃもじゃした藻だの、ぬるつく魚の鱗だの、運河の底に溜まったあらゆる物体が覆いつくしている。髪や長いひげと見えるものも、全て水草や苔のたぐいだ。水底に沈んだ原初の川床が、そのまま人の形を取って起き出してきたようだった。夕闇の中に二つの目がぎょろりと光った。魚やいもりのそれに似て、金属のような色をした目が。
     水音に思わず横を向いた男の口から、出かかっていた怒号はたちまち悲鳴に変わった。その時にはもう、黒い淵から突き出した水かきのある手が、汚物のこびりついた欄干にかかっていた。もう一本の手がぬっと伸びて、男の足首を掴んだ。腰を抜かしかかっている男に成すすべはなかった。藻や泥にまみれた手は、そのまま力まかせに男をたぐり寄せ、波立つ溝渠へと引きずり込んでしまった。
     最後のあぶくが消えてなくなるほどまで、誰も何も言わなかった。今見たものが何だか解っているアレクセイでさえも、我に返るまでにはさらに数秒かかったが、はっと気づいてからの動きは素早かった。彼はフョードル・イワノヴィッチの腕を引っ掴み、濡れた敷石を蹴りつけて、正面へまっしぐらに駆け出した。一拍置いて、後ろから若い作家の足音もついてきた。赤い燈火の残滓があっという間に後ろへ過ぎ去り、ヴォズネセンスキイ大路に立つ瀟洒な電燈の、暖かな光が近付いてくる。その光に照らされて、主の昇天ヴォズネセンスカヤ聖堂の鐘楼と、天辺の十字架が白く輝いている――
     通りの角を曲がり切り、さらに1アルシンばかり勢い余ったところで、やっと彼は足を止めた。ほんの1分どころか、30秒も走らなかったはずだが、それでも彼には過ぎた運動だった。胸も、脇腹も、足の裏も、体じゅうがくまなく引きつり、ちくちくと痛かった。
     すぐ横では年嵩の作家が、彼に負けず劣らずの困憊ぶりで、がっくりと頭を垂れたまま肩で息をしていた。こちらも普段から運動を心がけているわけではないのだろう、顎先まで脂汗が流れ落ちている。若いほうの作家を確認する余裕はアレクセイにはなかった。額に張り付いた前髪をかき分け、深い呼吸を何度か繰り返してから、彼はようやく言った。
    「もう喋ってもいい」

     深々とした息が二人ぶん、冷え切った夜の空気を揺るがせた。しかし、そのどちらからも事を成しとげた満足や、憂慮の解きほぐされた安堵は感じられなかった。
    「あ、あのう、アレクセイ・ドミートリエヴィッチ」
     寒気のみならず怖気にも取り憑かれ、歯の根が合わぬままに、フョードル・イワノヴィッチが尋ねてくる。 「あれが……」
    「そうだ」 と魔術師は頷く。 「ヴォジャノーイだ――クリヴシ川のツァーリだ」
    「ねえ、助けに戻らなくてもいいのかい」
     後ろからもう一人の作家も進み出て、呼吸を整えながら彼の顔を見上げた。年嵩の仲間と比べれば遥かに落ち着いた面持ちだが、それでも唇はわずかに震えていた。
    「あの辺りは深いんだぜ。それに水も冷たい。いくら悪党だからって……」
     若者の意見は人道的なものだったが、彼はただ首を横に振った。魔術師としての道理は異なっていたからだ。
    「おれたちが決めることではない。良いか、ヴォジャノーイには人間の運命が判るのだ。とりわけ、彼の水場でその人が溺れ死にするかどうか」
     彼は作家たちの顔をまともに見ないまま、いつもより低く掠れた声で続けた。かじかみ、強ばった手指を、解すように一本ずつ曲げ伸ばししながら。
    「その人が溺死すると決まっていなければ、ヴォジャノーイは魂を取るどころか、助けてくれさえする。きっと生かして返してくれるだろう。だが、もしも死の運命が定まっているのなら、誰が何をしても無駄だ」
     二人の作家は互いに見交わし、黙りこくった。じっと動かず、息もどこか苦々しげだった。ああ、この人たちはどちらも善良なのだ――彼は頭を振ったが、水のツァーリの決定をどうしても覆せないことは、彼が一番よく解っていた。

     二人を促してサドヴァヤ通りへ戻ろうと、ずり落ちかけた官帽を被り直し、口を開きかけたときだった。曲がり角の向こう側から、わっと喚声が上がった。アレクセイも、作家たちもみな振り返った。辺りにいた歩行者も幾人か足を止めた。
    「おうい、誰か! 誰か、こっちだ、――人が浮いてるんだ!」
     立ち止まった者の中には、幸いなるかな、彼と同じ形の官帽を被って、しかしずっと分厚い外套を着込んだ巡査がいた。さらに幸運なことに、巡査は彼と同程度に真っ正直な、職務遂行への熱意が冷めきっていない人物だった。巡査が角の向こうへ消えたかと思えば、鋭い警笛の音が寒空を切り裂いた。
    「緊急だ! 溺水だぞ。おい、セミョーノフ! 手を貸せ!」
     背筋の伸びる響きを聞きつけて、警邏のために組んでいたのだろう、制服姿の巡査がもう一人飛んできた。アレクセイも後を追った。作家たちには残ってもらうつもりだったが、何か言う前に二人とも駆け出していた。
     巡査の持つ手提げ灯が、赤く染まった運河通りに白い光を投じる。水面にちらちらと白い波が浮かび、その向こう側に黒っぽい塊が――人間の体が浮かんでいた。目を凝らしてもはっきりとしないが、恐らくは先の凶漢に違いあるまい。
    「セミョーノフ、縄を出せ。死体だとは思うが、どのみち引き揚げにゃならん」
     二人の巡査は捕縄を命綱に、暗く冷たい水へと入っていった。エカテリンスキイ運河は最も深いところで1サージェン半もある。集まってきた野次馬の手も借りながら、泥のたまった流れに悪戦苦闘しつつも、彼らはなんとか浮かんだ体のところまで泳ぎ着き、こちらの岸まで引っ張ってきた。
    「ようし、上げろ! 敷石に落とすなよ。そのままだ――待て、どうも死体じゃないぞ。息を吹き返すかしれん」
     そんな声が聞こえたとき、作家たちがどれほど安堵したか! 運河の縁に横たえられた男の体は、藻やごみがあちこちに絡みついていたが、完全に命の気配を失ってはいなかった。巡査がその喉に手を突っ込むと、程なくして男は猛烈に咳き込み、水を吐き出し始めた。
    「どうやら、運命は定まっていなかったらしいな」
     彼は独言した。それを聞きつけたかどうかは解らないが、若者は深々と息を吐き、細い眉を開いた。一方、巡査たちは未だ任務のただ中である。濁った水と唾液にまみれた手を、外套から取り出したぼろ布で拭いながら、一人が苦い顔をする。
    「酔いどれめが、まだ早いうちからなんてざまだ。病院まで馬車をやらにゃならんな、セミョーノフ」
     すぐに頷いて、表通りへ走っていった別の巡査は、数分経つか経たないかのうちに、不快を隠そうともしない顔の馭者を連れて戻ってきた。
    「勘弁してくださいよ、旦那。口開けしたばかりなんですよ……座席の革だって、こないだ張り替えたところなのに……」
     だが、公権力の前には抗弁も無力だった。重たい溜息をつきながら、馭者は自分の車へと戻り、巡査たちは水難者の体を運びにかかった。
    「持ち上げるぞ、あまり揺らすな。そうれ、一、二の――三だ!」
      男の体が中空へと浮かび、片腕がだらりと垂れ下がった。その瞬間、何か小さい、外灯のもとでは見過ごしてしまいそうな光が、きらりと足元の影に瞬いた。続けざまにキンと高い金属の音が、濡れた敷石に転がった。
     アレクセイは足元を見た――それが何だか確認するより早く、年嵩の作家が音のしたほうへ飛びついた。凍りついたように冷たい地面へ膝をつき、かがみ込んで目を凝らし、そして叫んだ。
    「私の指輪だ!」
     
     それは彼が初めて聞いたフョードル・イワノヴィッチの歓声であり、彼が最も聞きたかったものであった。ここ数週間ずっと、表には出さぬまでも気落ちしていただろう男は、今や地面に転がり落ちたものを――銀の結婚指輪をしかと握り締め、先刻までとは全く違った理由で体じゅうを震わせていた。
    「本当か? なんだよ、やったじゃないか、フェドゥーシャ!」
     若者が駆け寄り、横から手を回して仲間の肩を抱いた。野次馬たちが怪訝な顔をしつつも、三々五々離れてゆく中で、アレクセイは一歩退いた場所から見守っていた。作家はなおも感激にまかせて大声で喋り続け、しまいに天を仰いで何かを口にしかけた――が、今ここで真っ先に感謝を捧げるべき相手が誰か、はたと気づいたらしい。立ち上がって運河のほうを向くと、頭が地面に届くかというような深いお辞儀を、二度三度と繰り返した。
     アレクセイもまた、心の中で水のツァーリに深く礼をした。ひとたびは沈められたあの男は、もちろん最初から指輪を握っていたわけではない。ヴォジャノーイが男を水に引き込み、命を助けてやる代わりに、沈んでいた指輪を持たせて使いにしたのだろう。後でもう一本、ウオツカの瓶を献上しなくてはなるまい。浮かれ騒ぐ作家たちを、無事にサドヴァヤ通りまで送り届けてから……

      * * *

     そして一週間後、14等官アレクセイ・ドミートリエヴィッチは内務省本館の机で、相も変わらず尽きせぬ書類仕事に励んでいた。日々の経つのは早いものだ。窓から見えるフォンタンカ河岸通りは真っ白に雪化粧し、エカテリンスキイ運河も凍りついた。水に棲むものたちが眠りにつく時だ。彼らは次の春、氷が溶け出すまでの間、ずっと死んでいるのだ……そして再び蘇る。自然や生命と同じように。
     獅子頭の杖に関する件は、一週間であらかた片付いた。そうなれば彼の務めは魔術師たることではなく、上役に忠実な使い走りたることだ。まあ、命の危険は遥かに少ない。かといって全く平穏なわけではない。
     平穏といえば、《木曜会》の作家連からは一度手紙が来た。指輪を取り戻したことにより、フョードル・イワノヴィッチは心身ともに再び健康体となり、自らの危機的体験を余さず活かすべく、早速新作の構想を練っている由だ。そう、心身ともに――かの作家の肉体に降りかかった災難、流感によってもたらされた片耳の害さえも、あの一夜以来きれいさっぱり消え去ってしまったというのである。察するにその流感も、棲家を荒らされたヴォジャノーイから、怒りとして送りつけられたものだったのだ。作家の誠実な態度と捧げものに、水の王は怒りを解いてくれたのだろう。
     ともあれ、この一件に関してはうまくいった。ただ、完全に懸念がなくなったわけではない。酒場を運営していた連中の処遇がどうなるか、また一人逃れたあの男は、今後の身の振り方をどう考えるだろうか。思い返すたび、彼の心からは手放しの喜びが失われてゆき、陰気臭い顔でペンを走らせる小役人だけがそこに残るのだ。

    「アレクセイ・ドミートリエヴィッチはいるかい」
     と、室の外から彼を呼ぶ者があった。顔を上げてみれば、どこかの部署で見たことがあるような、しかし日常では関わったことのない役人が、戸口から頭を覗かせている。彼はその肩章を一瞥した。――10等官だ。
    「はい、自分であります」
    「そうか、君に来客だ。例の案件絡みだろう。応接を空けてあるから面会したまえ」
     定規のように背筋を伸ばして立ち上がった彼に、10等官はそっけなく言って、また廊下へと引っ込んでしまった。例の案件と言われても、なにしろ彼の部署が引き受けている案件などはごまんとあるわけで、何のことだかさっぱり解らない。訝りながらも彼は席を離れた。気がつけば、窓の外はもうずいぶん日が傾いている。とうに終業時間も過ぎている。何たることか!
     けれども嘆くには早かった。廊下に出た彼の目に飛び込んできたのは、果たして見知った顔だった。絹のリボンで栗毛を結わえ、燕尾服と真珠色のネッカチで華麗に装った、彼よりも大分稚い少年だ。その名は――
    「セーニャ?」
     彼はひどく当惑した声を上げた。 「何だ、またフョードル・イワノヴィッチの話か?」
    「当然、フョードル・イワノヴィッチの話さ。半分はね」
     脇に小粋な帽子を抱えた作家は、いたずらっぽく灰色の目を光らせた。 「もう半分はきみさ」
    「何だって?」
    「きみの話だよ! ぼくはきみを迎えに来たんだ」
    「おれを? 何のために?」
    「おい、解ってくれよ――今日は木曜日だぜ! フェドゥーシャの快気祝いも兼ねてだけれど、ぼくたち《木曜会》は特別なゲストを迎えることにしたのさ。哀れな作家に救いの手を差し伸べてくれた、偉大な魔術師をね」
     偉大な魔術師は運河に棲むフナのように口をぱくぱくさせた。頭の中にはいかにして華やぐ社交の場を逃れるか、無数の考えが次々に沸き起こったが、どれもみな白っぽくぼやけて消えていった。
    「冗談だろう。良いか、その……おれは今ただの役人であって、つまり、公務がだな……」
    「市庁舎の鐘はずいぶん前に鳴ったよ。お役人はみんな仕事じまいの時間。とっておきの酒が飲みたくないのかい? ウオツカにビールに、アブサン酒だってあるんだぜ」
     相当な飲兵衛であるらしい作家は、廊下の壁にかかった時計を顎でしゃくり、もっともらしいことを言ってきたが、彼の心にはみじんも響かなかった。酒を愛する水のツァーリが、この運命をついでとばかり授けたのだろうか? いや、まさか……

     返答に窮する彼の後ろから、先程とは違う、そしてずっと耳慣れた声が呼んだ。――ネーモフ君、一体いつまで席を空けている気かね? まだ二束も残っとるんだぞ!
     上役の8等官殿がこれほど頼もしく、また有り難く思えたことは、アレクセイが公務に就いて以来初めてのことか知れない。彼はいかにも内務省の役人らしい顰め面を作り、「それでは」とだけ言うと、一目散に役人の定めへと戻っていった。

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