がっかりさせるようで悪いけれど、実はニューヨークにスパイダーマンはいない。

銀鷲とワルツを -Clean Sweep-

 でも魔法使いは実在するから、ドクター・ストレンジならどこかにいるかもしれない。東京に住むコミック好きの友人に、そんなメールを送ったことがある。返信は「cool」の一語だけだったが、言いたいことは伝わったと信じたい。
 そう、ニューヨークには魔法使いが、それも複数いて、陰日向なく働いている。もちろん市民の平和も守っているし、タイムズ紙の一面を飾ることだってある。恐れ入ったか。――ただし稼ぎのほうは不安定で、副業のレストラン勤務の収入のほうが多い月もあるが。
「ブラザー・アイザック・ペンドルトン、早急に出動を求めます。被疑者確保に箒乗りスイーパーが必要です」
 そんな電話で夜明けに叩き起こされても、特別出勤手当みたいなものが下りるわけではない。昨日はクローズド勤務だったから、睡眠時間が足りていないのに。私はベッドから飛び降りると、手拍子ひとつで飛行服に着替え、箒を引っ掴んで家を飛び出す。朝靄の向こうに臨むマンハッタン島は、遠目にはいつもと何の変わりもない。午前六時のブルックリンからは飛行10分。タクシーと違って空の旅は渋滞知らずだ。上空通過の許可さえ降りていればの話だが、今日はその心配も無用。むしろ、朝食を取りに立ち寄るいつものダイナーが、事件のあおりを食らって臨時休業していないかのほうを気にかけるべきだろう。
ペータ・ストン・ウラーノー、翼よ甦れ!
 呪文を唱え終わるのも待たず、シラカバの箒は冷たい十一月の風を纏い、未明の空へと飛び出した。

 誓って言うが、ニューヨークは銃と同様、魔法の規制もとりわけ厳しい州で、魔術師による重犯罪の発生件数は全米でも少ないほうだ。魔法使いは特別な許可なしには、自前の杖を持ち歩くことさえできないし、市街地の上空を飛ぶなんてもってのほか。魔術師協会のニューヨーク支部に正式登録された術者だけが、慎ましやかに魔法で生計を立てている。それでも、そんな慎ましやかな人々が、ある日突然正気を失わない保証はないわけで――ミッドタウンにあるニューヨーク支部の建物(私たちは単に「ザ・マンション」と呼ぶ)近くまで来たときには、辺りは上を下への大騒ぎだった。幸い、支部の備品係はいたって冷静で、通りの前まで私の相棒を持って出てきてくれていた。スピードを僅かに落としながら降下し、すり抜けざまに無線機と、ハンノキの短い杖を掠め取る。地面に描かれた「騎乗生物乗り入れ禁止」のサインを一瞬だけ目に入れ、再び急上昇。「お気をつけて!」と背後から声がした。
「こちらパック4、いま上がった。パック3は何処に?」
『怒らないで聞いてください』 先遣隊のパック2ことシスター・クララ・ハモンドが無線に応える。
『出勤はしていたのですが、夜食のケータリング・スシに中ったようでして』
 今日の朝食は奴の奢りだ。

 規制線の張られた通りを南へ突っ切り、グランド・セントラル駅の上を飛び越えながら、明け方の電話で知らされた内容を私は反芻する。協会所属のウィザードが一人、支部で管理していた魔法生物を収容器具ごと持ち出したのだ。容器の中の人魂(ウィスプ)それ自体に危険性はないが、しかし失われれば確かな痛手となる。一体何を考えて? それは私にはまだ解らない。
 眼下に広がるパーク街では、本来ならそろそろ通勤ラッシュが始まる頃合だ。長引かせるわけにはいかない。最新式の収容器具に組み込まれた、ビーコンの魔力を注意深く追う。先遣隊の寄越す無線の声とも照らし合わせながら、マディソン・スクエアまで差し掛かったとき、――見つけた! 木々の合間を高速で抜けてゆく、箒乗りの男の姿がある。落葉の季節で残念だったな。緑の葉が茂る夏のころなら、もう少し見失う確率も高かったろう。目視から数秒後に、無線から確認の声が飛ぶ。
『パック4、グレムリンを補足できましたか、どうぞ』
「こちらパック4、目標補足。現在18丁目を通過、5番街を依然南へ。箒種は不詳。視野良好、追跡継続します、どうぞ」
 一定の高さを保つことなく、ビルの合間をジグザグに飛ぶ男の、灰色のジャケットから私は決して目を離さない。右手には杖を握っているが、こんな市街地上空でいきなり仕掛けるわけにもいかず、こちらの融通が利く場所まで追い込むのが最優先だった。攻撃の代わりに私は、自分自身に「増幅」の呪文を掛ける。箒乗りが無詠唱発動の練習を欠かさないのはこういう時のためだ。時速60マイルで繁華街を飛行しながら、精神集中して長々呪文を唱えるなんてやっていられない。
「ロジャー・ミグレイン! 支部施設の不正な利用と収蔵品の許可なき持ち出しで、貴卿には逮捕状が発布されている。ただちに飛行を停止し、こちらの指示に従うように!」
 力を入れて声を張り上げなくとも、口に出した私の言葉は拡声器を通したように遠くまで響く。先程よりも少し詰まった距離の先で、強奪犯は確かにそれを聞いたはずだった。魔力で補正をかけた音は、生体にはいっそう伝わりやすい。
「ロジャー・ミグレイン、貴卿は飛行を停止し指示に従え。さもなくば撃墜する。解ったか」
 いや、間違いなく聞こえている。私が勧告したとき、応答はなかったものの、彼は確かに肩越しにこちらを見たからだ。くすんだ金色の髪が揺れていた。ロジャー・ミグレイン、ニューヨーク支部に勤務して九年。どういう人間なのかは知らない。同じ支部でも管区が違う。優れた箒乗りなのは間違いなさそうだが、身の振り方は間違えたようだ。もう一度同じ内容で勧告を繰り返す。行く手にはワシントン公園と、ニューヨーク大学のキャンバスが見える。次が最後の呼び掛けだ。
「ウィザード・ロジャー・ミグレイン、飛行を停止せよ。一分間の猶予を与える。これは最後通告である、了解したか!」
 金髪の魔術師を乗せた箒は、スピードを落とさず降下する。通りに掲げられた星条旗を掠め、信号機の下すれすれを潜って急上昇。この程度でこっちが衝突するとでも思ったか。こちとらこの先にあるレストランに二十年以上勤務しているのだ。周辺のどこにどんな障害物があるかぐらいはお見通し。懸念があるとすれば、このままハドソン川を越えてニュージャージー州まで出られてしまうことだった。魔術師協会にも管轄争いってものは存在するのだ、悲しいことに。
 やがて六十秒のカウントは、二つ三つの通りを右往左往する中で呆気なく終わった。歴史ある教会の尖塔を舐めるように急上昇した逃亡者は、そのまま宙返りして取って返し、来た道を猛然と逆行し始めた。スピードが上がっている。投降する気はないとの仰せだ。私は左手によく馴染んだシラカバの枝を――高速飛行用箒レイヴンズウッド1914の柄を握り締め、杖に嵌めた暴発防止の安全キャップを投げ捨てた。

  * * *

 敵はやみくもに距離を稼ぐのをやめ、その動きはいよいよ事故の誘発を狙い始めていた。巡航速度より曲芸飛行に自信のある奴だったと見える。西の通りへ急角度で突っ込んでゆく箒に食らいつきながら、周囲の確認だけは怠らないよう肝に銘じた。すぐ横に見えていたと思ったスターバックス・コーヒーの看板は、瞬きする間に見知らぬサンドイッチショップのそれに変わっている。東の空は白み始め、全米一の大都市に火曜日の朝をもたらそうとしていた。
 私はハンノキの杖を振るい、空中に二つの小さな魔法円を画く。たちまち二体の小妖精スプライトが弾けるように現れ、赤い火花をきらきらと散らしながら舞い上がった。一匹は私に絶えず追従させ、もう一体は上空、東を目指すよう命じる。まさか妖精で高速巡航する箒を撃墜はできない。彼らの役目は別にある。
 前方の箒は横滑りを繰り返しながら、渋滞の始まる前の交差点を曲がった。後ろにつけている私の攻撃を外しやすくしているのだ。今日び戦闘機は既にレーダーとミサイルによる「早期発見、早期撃墜」の時代を迎えているのに、我々箒乗りたちは未だに第一次大戦のころと同じ戦法のまま。私のような二百年前の人間が、百年前の箒で二十一世紀の空を飛び、最新鋭の電気自動車たちの上を越え、ヨーロッパの伝承上の生き物を追わなければならない。
『パック4、パック4、聞こえますでしょうか、どうぞ』
「聞こえてる!」
 路肩に停まるバスの上すれすれをフルスピードで飛び抜けながら、私は無線に叫び返した。「増幅」の呪文も機械越しでは無意味だ。シスター・クララからの返事が来る直前、真横を過ぎ去っていったデジタル時計に、「06:42」と表示されているのが見えた。そんなに長く続けていたのだ。
『哨戒中のパック1が無許可飛行の箒を発見、セントラルパーク北付近にて現在追跡中です。グレムリンとの関与が疑われます、そちらも警戒を』
「パック4了解、警戒しつつ追跡を続行します、どうぞ」
 進行方向だ。単独犯ではなかったのか。だとしたら途方もなく厄介だし、なんとしても合流されるわけにはいかない。眼前の「グレムリン」はビルの壁面沿いに旋回し、7番街を北へと向かう。ちくしょうめ、ここがニューヨーク支部の管轄下で幸運だったと思え。もしもシカゴやダラスの支部であってみろ、備品を抱えて飛び出した瞬間に撃たれていてもおかしくないんだぞ。
 注意を払わなければならないのは無線の内容だけではない。さっき飛ばしたスプライトが、私の耳元でキイキイ声を上げる。「飛行」の魔法で生じる風圧に、ともすれば吹き飛ばされそうなその羽根で、召喚主の私に遅れずついてきている。妖精の言葉に返事はせずに、私は一瞬だけ東の方角を仰ぎ、すぐに魔術師の背中を睨み据えた。仕掛けるにはまだ早い。オズヴァルト・ベルケ、アドルフ・マラン、エドワード・マノック、そしてあのエーリッヒ・ハルトマンでさえ――空戦の達人たちはみな同じことを言っている。「攻撃の前に優勢を確保しろ」「十分接近するまで撃つな」。

 車道上に大きく張り出した信号機を飛び越えかけたとき、奴の箒が一瞬がくんと揺れた。今だ、と思ったが魔術師はすぐさま立て直す。その手腕は見事だが、さすがに魔力切れが近いのか。あれだけ急上昇と急降下を繰り返していれば当然だ。重力に逆らって飛ぶのはエネルギーを使うのである。飛行機と何ら変わりない。私は同じ信号を斜め上へと旋回しながら避け、ぴったりと箒の背後につける。そこへ無線からシスター・クララの声。
『こちらパック2、違反飛行の被疑者を確保、確保しました。パック1共々、そちらへの応援に向かえます』
 あちらは随分早い決着だったようだ。元よりただの陽動のつもりだったのか、あるいはこの件とは全くの無関係だったか、それとも。考えられる時間は長くはない。「増幅」の呪文を一旦打ち消し、さらに「減退」で可能な限り声量を落とす。無線機越しには普段通りに聞こえるが、これで万が一にも前方の逃亡者に聞かれることはないだろう。
「パック4了解。こちらパーク街、23丁目駅を北へ通過。グレムリンはやや安定を欠いた。そちら現在地は」
『パック1、パック2ともに現在、90丁目西35番地付近です。急行すればおよそ3分で合流できます』
「了解、」
 スプライトがひときわ甲高く、私にある事柄を告げた。先程東へ向かわせたもう一匹からの伝言だった。それで私たちが取るべき行動も決まった。
「動かせる車両を先に指定地点へ回させて、それから合流願う。パック1は西、パック2は北から。場所は――」
 符丁でもって知らせた攻撃地点を、シスター・クララが復唱する。こちらの考えは察してもらえたことと思う。道路補修の重機をかわし、ビル壁面に組まれた足場の鳩たちを追い散らし、遠くに緊急車両のサイレンの音を聞きながら、相手を追い越さない程度にスピードを上げた。百年前の箒とて、「高速飛行用」の肩書きは伊達ではない。
 そしてシスター・クララの箒もまた、アッパー・ウエストサイドを数分で突破するだけの速度を持っていた。美しく湾曲した柄の「シルバー・ライニング」号と、それを操る深緑色のコートの魔女が視界に入ったとき、私は予定どおりの到着に快哉を叫びたくなったものだ。真正面から迎え撃たれれば、「グレムリン」は方向を変えて西へと向かう。
「パック2、回り込め!」
 銀色の箒がすぐさま反応し、相手の進路を塞ぐために旋回する。魔力が底をつきかけた逃亡者には、高いビルを飛び越えるだけの余裕がない。箒のアドバンテージの大部分を失った相手に、あとはとどめを刺すだけだ。行く手を阻まれたウィザードは、ジグザグ飛行を繰り返しながら、私たちの狙い通りに、ビルの谷間のごく細い空間に突っ込もうとし――
「今だ、パック1!」
 その暗がりから、パック1ことブラザー・ウェンセスラス・ウォルターが飛び出してきたものだからまず狼狽した。箒を制御する姿勢が明らかに乱れる。三方を囲まれているという状況を突き付けられては、動揺もしようものだった。集中力を切らし、即座の判断を危うくした魔術師は、とにかくこの瞬間に残されている逃げ道へ――Uターンして東へと向きを変える。それこそがタイミングだった。
ニュクテリーニー・ヴァールディアー、夜の眼よ!
 三本の杖はそれぞれの位置から過たず一点を示し、三つの声は驚くほど見事に一つの呪文を唱和した。東には、そう、今正にイースト川から昇る朝の太陽が、その眩い光をまっすぐに射掛けているところだった。私がスプライトの一体に調べさせていたのは、何のことはない、太陽の位置だったのだ。
 もちろん必要に迫られれば、サングラスの類なり呪文なりで日光の影響は防ぐことができるし、彼もきっとそうしていただろう。が、そこへ「暗視」の魔法を、それも魔術師三人分をまとめた強度で叩き込まれればどうなるか。
 箒の上で人影がのけぞり、片手を離して顔を覆うのを私は見た。そうしながらも箒はまだ飛んでいる。しかし、もう諦めて貰わねばならない。
「行けッ!」
 ハンノキの杖が虚空に撓り、ぎょろつく眼と捻れた翼を持つボガートが、「グレムリン」目掛けて弾丸のように飛び出した。コントロールを欠いた箒がどこかに衝突する前に、私の忠実な使い魔はその乗り手に組み付き押さえ込む。こいつは速く飛ぶことは飛ぶが、いかんせん航続距離が短い。使うのは最後の最後と決めていた。灰色のジャケットを着た逃亡者が、なんとか振り払おうと必死にもがく。だが箒の上ではままならない。何よりボガートはしつこいのだ。この国に「アメリカ合衆国」という名が付く前から鍛えた、筋金入りの屋敷妖怪は甘くない。
「良いぞボガート、そのまま! 終わったら今度こそ『ハンフリー』と名前をやろう!」
 私は叫んだが、当然嘘だ。ボガートに名前など付けるものではない。大体、部屋に灰皿が置いてあるだけで目眩を起こす「ボガートのハンフリー」が居るものか。
「確保します!」
 シスター・クララが声を上げ、「シルバー・ライニング」を片手で見事に操りボガートに加勢した。けれども彼女が引き下ろすより早く、男はその箒を手放した。いや、「手放す」というにはあまりに勢いが付きすぎていた。「射出した」が正しい。身軽になった箒はたちまちのうちにビル街を駆け上がり、一路東へと飛び去ろうとしていた。

「パック4、」
「私が行く!」
 ブラザー・ウェンセスラスに言われるまでもなく、私はもう標的を追って飛び出していた。乗り手を失った箒が、しばらくの間速度を保って飛び続けるというのは偶にあることだ。柄の素材などが魔力を溜め込みやすい仕様になっていれば尚更である。今回はそれに加えて、明らかに最後の魔力を意図して注入されていた。そんなところに割く余力があるなら、もう少し追いかけっこに気合いを入れておくべきだったろう――もしくは、あの箒だけはどうしても我々の手に渡したくなかったか。なんにせよあれは確保しなければならない。魔法が絡まないニュースで言われるところの「逃走に使われた車」みたいなもので、立派な証拠品なのだ。
 箒の軌道はどこまでも一定で、進路を予測する苦労はないが、そのスピードたるや凄まじいものがあった。私のレイヴンズウッドでも距離を詰めるのは難しく、耳元で唸る風の音に焦りを掻き立てられそうになる。レンガ張りのビルが目にも留まらぬスピードで両側を過ぎ去り、交差点を埋めるタクシーの群れもあっという間に後方へ。足元を通り過ぎていった緑色の道路標識に、「SUTTON PL.」と書かれていた気がした。そして次の瞬間、前方から感じる魔力がふつりと途絶えた。
 残った魔力がとうとう切れ、「飛行」の呪文が外れたのだ。と同時に箒は重力に従い落下を始める。気付けばイースト川はもう目の前だ。これはまずい、――いや、箒は言うまでもなく水に浮くのだけれど、私はできれば箒に不時着水などさせたくはない。「DEAD END」の黄色い看板を振り切る瞬間、私は息を止め、レイヴンズウッドを最高速度に乗せた。視界が開ける。僅かに波立つ川面へ一直線。最後の加速はシラカバの箒を標的の下へと潜り込ませた。振り仰げばまさに頭上、ターゲットの細い影がくろぐろと見える。戦闘機動で敵機を捉えたパイロットもこんな気分になるのだろうか。けれども私がすべきことは射撃と破壊ではない。急上昇!
 伸ばした右手の先が触れたと思った刹那に、それは私の胸に叩きつけるよう飛び込んでくる。飲み込んでいた息が押し出される感覚。抱え込んだそれに視線を落とすと、滑らかに磨かれた褐色の柄に、銀色の翼の模様が刻み込まれているのが判った。
銀鷲アクィラだ!」
 私は思わず叫び、呼応するようにレイヴンズウッドが大きく傾いた。驚きのあまりに集中力が切れた。それかレイヴンズウッドが違う箒に嫉妬したか。左手で握ったシラカバの枝を引き起こし、宙返りしながら立て直す。図らずも箒でインメルマンターンだ。曲技飛行会と違って、地上にいる誰も褒めてくれはしないが。
 銀鷲号。その名は遠くイタリアから、ここアメリカを含め全世界に鳴り響く幻の箒である。ローマの小さな箒工房が、かつてごく僅かな数だけを製作していた。80年代(私が言うと誤解を招きそうだが、ちゃんと「1980年代」を指している)の箒乗りたちはみな、このたった一人しか施せない翼の刻印に憧れたのだ。他ならぬ私も危うく浮気しかかり、もう少しで大鴉の加護を失うところだった。
「こちらパック4、グレムリンの箒を回収した。インタリオのある本物のアクィラだ。生では初めて見た、……グレムリンとウィスプは?」
『パック2了解、グレムリンは無事確保を終了。ウィスプも安全です。お疲れ様でした、パック4』
 シスター・クララの声を聞きながら、私は緩やかに速度を落とし、イースト川上空を旋回する。あとはこの箒をきっちり持ち帰るだけだ。これがグレムリン、もといロジャー・ミグレインの私物なのか、それとも盗品なのかは存ぜぬが、市警が然るべき処置を講じてくれるだろう。
「……帰投の前に、ちょっとだけでも乗っちゃ駄目かな?」
『パック4、愚かなことを考えるのはやめてください』
 私のささやかな稚気は、無線越しの愛らしい声に脆くも沈黙させられた。部隊最年少の魔女は実務に就いてこのかた、歯に衣着せた試しがない。

  * * *

 NYPDと連邦航空局に怒られる前に、私はつつがなく飛行を終了し、押収品を引き渡した。杖に新しい安全キャップを嵌め、自分の箒を小脇にして、我々は「ザ・マンション」へと徒歩で戻る。規制線が解除された通りにはありとあらゆる種類の人々が満ち溢れ、街頭の大型スクリーンにニュース速報が映し出されていた。
 杖と無線機を備品係に預け、暖房の効いた宿直室を覗いてみると、そこには病欠のパック3、ジョン・ジェロームが、ソファの上に丸まってうめき声を上げていた。苦しみの峠は越えたが、快復には至らないといったところだ。
「ああ、どうも……お帰り、三人とも……」
「ただいま、J.J」 飛行帽を脱いで私は言う。 「朝食を取ってくる。君の奢りで」
 とたん青年魔術師は目を剥いて、首だけ起こしながら私たちの顔を見上げた。
「ちょい待ち、いや、いつそんな話に?」
「次に調子に乗ってヘマやったらまた奢らせるぞと、二週間前に言ったばかりなんだがねェ、ジョニー・ボーイ」
 白髪混じりのブルネットヘアを撫で付けながら、任務中とまるで違う間延びした口調で告げたのはブラザー・ウェンセスラスだ。これは事実で、今月の頭に新しい箒を納車、もとい納箒したブラザー・ジョンは、浮かれるあまり飛行訓練で頼まれてもいないアクロバットを繰り返し、失速した挙句にシスター・クララと衝突しかかったのである。幸い怪我人も物損もなく、我々の昼食が近所の中華料理店のテイクアウトから、アッパー・イーストサイドにあるロブスター専門店のプリフィクスになるだけで済んだが。
「いやいや、今回のこれは別に調子に乗ったとかじゃ……というより原因はケータリングだし、僕はむしろ被害者のほうで」
「そのスシを届いてすぐ食べたのなら、ケータリングのほうに責任があるかもしれませんが」
 ビル街に吹く北風よりもなお凍えるような声色で、シスター・クララが話に割って入る。
「夜勤入りすぐに頼んだものを、ヒーターの直下に置き忘れた挙句に夜中の二時ごろ食べたんでしょう。どう考えても過失ですよ」
「うっ」
「ブラザー・ジョン、こうして全世界の支部に『アホなアメリカ人魔術師』のステレオタイプがまた一つ共有されることになるんです。わたしが早朝出勤してこなければ、より悲惨な状況を晒す羽目になっていたということを理解してください」
 惨劇の第一発見者であるところの彼女に射竦められて、ジョニー・ボーイはますます縮こまった。私としては、魚介による食中毒がいかに辛いものかはよく知るところなので、彼の舐めた苦しみを慰めたくもあるのだが、しかし自業自得には違いなかった。こんなことで訴訟になっては業者が可哀想である。
「いや、でも……置き忘れてたのは、つまりそれだけ熱心に仕事をしてたってことでもあるわけで……」
 彼はなおも小声でもごもごと釈明を続けていたが、ブラザー・ウェンセスラスはこれをばっさり切って捨てた。
「やかましい、宿直中に一人でスシなんぞ食うほうが悪いんだ。おい、全員メトロカードは持ってるに決まってるよな。極上の朝食のためなら、少しの遠出はやぶさかでないという者は?」
「はい」「はい」 私とシスター・クララが揃って声を上げる。
「33番街に小さいシティホテルがあって、その一階がレストランなんだが、良いか、そこの朝食の卵料理は死ぬほどうまいぞ。俺の杖腕にかけて保証する」
「卵料理、ですか」
「特にポーチドエッグがな。それからクララ、生憎とお前の好きなポンチキは無いが、代わりにマンハッタンで五本の指に入るパン・オ・ショコラがある」
「行きます」
 チョコレートに目がない彼女が、提案を飲むまでには一秒とかからなかった。もちろん私にも断る理由はなく、二つ返事で了承した。選択肢を用意されなかったブラザー・ジョンが、恨めしそうに叫ぶ。
「重病人の財布で朝食の算段なんかして楽しいかいみんな! 広義の給料日前なんだぞ!」
「大丈夫大丈夫、三人前75ドルで収まるから」 ブラザー・ウェンセスラスが投げやりに言う。
「収まってるって言わないよそれ! 朝食だぞ!? 朝食に一人25ドル!」
「では八時にエントランス集合にしましょうか、着替えもしなければならないことですし」
 悲痛な訴えは完膚なきまでに無視され、何事もなかったかのように場は解散する。各々支度に掛かる我々三名の後ろから、「せめて飲み物は! 飲み物代は各自で!」という、追いすがるような声だけが響いていた。

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