我が家の門灯とその柱のあいだに、一匹の蜘蛛が巣を掛けていた。

蜘蛛糸評定 -Itsy Bitsy Discussion-

 なるほど理に適っている――羽虫のたぐいは光に集まるわけだから、そこに網を張っておけば、明かりが点いているうちはごちそうが向こうからやってくるというわけだ。虫のことながら頭がいいものだと、ぼんやり考えながら私は家を出た。春も終わりに近付くニューヨークの、生暖かい朝のことだった。
 数日の間、私はその蜘蛛の巣を払わずにおいた。アジアでは蜘蛛は縁起物なんだそうですよ、と同僚に言われたからではなく、単純に蜘蛛が益虫だと知っていたからである。門灯の集客力は抜群だったようで、パート先のレストランから帰ってくるたびに、小さな蛾やら何かよく判らない羽蟻のようなものが、銀色に光る網に掛かって死んでいるのが見られた。一度は立派な翅を持つアゲハチョウがもがいていたこともある。かわいそうだと逃がしてやる人も居るのかしれないが、これが食物連鎖というやつだ。私は改めて、自然の摂理の厳しさを知った。LED灯には虫が寄ってこないという売り文句は、頭から信じ込むべきではないとも知った。

 しかし、蝶の一匹や二匹ぐらい予測がついても、まさか妖精まで引っかかるものだとは、私は思いもしていなかった。オレンジ色の灯りに照らされて、翅の淡い燐光は掻き消されていたが、それは確かに一体の、私の小指ほどの丈しかない小妖精スプライトだった。
 そりゃあ、乱暴な言い方をするならスプライトなんて虫と同じようなものだが、それにしても奇妙だった。彼らは原生の虫たちときっちり棲み分けをして、互いに干渉し合わないよう協定を結んでいるか、さもなければ完全な共生状態にあるか、とにかく捕食者と被捕食者の関係にはならないものである。となれば、この哀れな一個体は生まれたてでその道理を知らないのか、それとも途方もない粗忽者なのか、いずれにせよ不運なことだった。が、これもまた自然の摂理ではある。果たして蜘蛛はスプライトを食べるのだろうか、食べないのだったら逃がしてやってもまあ良いだろうかと考えながら、そのまま玄関を開けようとしたときだ。私の耳に声が届いた。小さいけれどはっきりと。
「そこな貴殿、暫し足を止め、我が言葉に耳を傾けられよ。折り入って頼みがある」
 スプライトにしては渋い声だった。奇妙な感覚だ。私はドアノブから手を離して蜘蛛の巣を振り返った。そして、いくらその門灯が我が家のものだからといっても、あなたに対する生殺与奪の権は私にはないので、協議するなら蜘蛛相手にやってくれと言うつもりだった。
 だが次の瞬間、いかにも翅持ちの妖精種ですというような甲高い声が、網の中央から湧き上がったので、私は考えを改めた。つまり先程の言葉はスプライトのものではない。体ごと向き直って、もう一度門灯のそばまで寄ってみる。銀色の網は今も、スプライトの動きに合わせて小刻みに震え、千切れそうで千切れない。哀れ虜囚の妖精以外には、言葉を発しそうなものなど何も――
「貴殿、藍玉の二ツ目を抱きしヒト族の君子よ、その心遣いに敬意を表さん。その佇まいに誉の向こう傷、いかにも知勇兼備の士とお見受けする」
 いや、居た。網を柱に留める糸の一端、小妖精以上に小さくて見逃していたが、灰色をした1インチほどの蜘蛛が、その斑模様の前足をぴくぴくと動かしている。いつも留守にしてばかりいると思っていたが、これが巣の主か。何という種類の蜘蛛だろう、毒のあるものではないと思うのだが、……いや、それよりも。
「ああ、……と」
 蜘蛛が喋ること自体は別にいい。魔法使いというものは、もちろん意図して動物と会話することもあるし、意図がなくともひょんなことから人外の声を聞くことはよくあるものだ。何故かとても時代がかった口調で、私を中世の騎士か貴族か何かと勘違いしているらしいこともまあ許容しよう。私の佇まいのどこを見てそう判断したのかは解らないし、この左頬の傷は確かに従軍中についたものとはいえ、敵と戦った結果ではなく事故によるものなので、褒められるのも若干決まりが悪いのだが。
 私があれこれ考えていると、蜘蛛がいきなり網の上に飛び乗ったかと思えば、その頭を二、三度上下に動かした。そして、また妙に深みのある声で、
ああ! これは何たる無礼であったか。恥じてお詫び致すと共に、改めて申し上げる。我が名はアラネウス・スピンネル・フォン・ガルテンクロイツ、十字鍵の園を統べし狩猟卿、八つの運命を紡ぐ女王に仕えし守人。新たにこの緑の地へ糸を繋いだ者として、まことの友愛をもって挨拶致す」
 と言った。喋っているのは流暢な古英語のわりに、上げられた名乗りは完全なドイツ語だった。どちらにせよ現代のニューヨークにはあまりに不釣り合いだ。いや、人種の坩堝たるこの街に、どこの国籍の人あるいは蜘蛛がいたって何の問題もないし、合衆国が成立する前のペンシルバニアに生まれ、何の因果かこのポーランド人街の片隅に居を構えている私も大概だが。
「して、頼みというのは他でもない、我が安穏の塒にして誇るべき紋章たるこの網を、浅ましくも穢そうとした羽虫のこと――」
 私の返事を待たずして、蜘蛛がそこまで続けたときだった。さっき聞こえたものよりずっと音高く、遠くまで響き渡るようなスプライトの喚声が上がった。とたん、
「いかん!」
 蜘蛛はその上体を持ち上げて、臨戦態勢とも言うべき構えを取った。
「悠長にしている場合ではなかったか。巻き込むのは全く本意ではないが、貴殿、戦に備えられよ。話はその後だ」
「何だって?」
 頭が痛くなりそうな「羽虫」の悲鳴に、私は片耳を塞ぎながら尋ねる。戦とは穏やかでない単語だが、まさか今から妖精vs節足動物の陣取り合戦でも始まるのか、と思ったその数秒後には変化が起きた。

 車道を挟んで向かいに並ぶ街路樹の一本が、風もないのにふとざわめき始めた。かと思えば、青く茂ったその葉の合間に次々と、無数の緑や黄色や赤のぼやけた光が、一足早く戦没者追悼記念日メモリアル・デーの飾り付けでもしたかのように灯った。――そして、木の葉のがさがさ鳴る音が最高潮に達した瞬間、そこから光たちは一斉に飛び出し、門灯をぐるりと取り囲んだ。みなスプライトだ。あまりのことに私は瞬きも忘れてしまった。カリフォルニアの蝶の渡りを思い出す光景だった。
 ところが、蜘蛛の言うとおり悠長にしている場合ではなかった。何せこの無数の妖精たちときたら、全員が全員、私には意味の解らないキイキイ声で始終喚き立てている。たまらずもう片方の耳にも蓋をしたが、それでも頭の中まで鳴り響くさざめきは圧倒的だ。魔法使いの耳を恨めしく思ったことは何度もあるが、今夜の出来事は間違いなく、その悪夢的な思い出の一つとして残ることだろう。
「貴殿! 帯剣してはおらぬのか。この小喧しい羽虫どもも徒手では強敵となるぞ」
 どこからどう見ても徒手そのものの蜘蛛が、私に鋭く言葉を飛ばす。それとも糸があれば徒手ではないという理屈だろうが。いずれにせよ今の私は間違いなく丸腰である。魔法はあるが住宅地で攻撃呪文を使うのはどうかと思う。
「ちょっと待……いや、あい分かった、今暫し持ち堪えられよ。すぐに戻る」
 私はいくらか怪しい中世英語(せいぜいシェイクスピア程度の知識しかない)でなんとか答えると、玄関の扉を最低限だけ開け、素早く滑り込んですぐさま閉めた。と、待ちかねていたように奥のリビングから、 日本製のお掃除ロボットに取り憑いた悪魔が、スムーズに床を滑りながらこちらへ向かってきた。だが今はそれどころではない。
「アイザック、どうした? こそ泥みたいな帰宅だな。斬新だぜ。なあ、昨日言った健康診断の結果についてなんだが……」
「後にして!」
 廊下の壁に掛かった飾り棚から、一本の長い杖を掴み取ると、私は急いで玄関先へと駆け戻った。

 一歩外に出ればそこはもう戦場であった。否、見た目にはただ我が家一軒だけが、何に浮かれてか季節外れのイルミネーションを引っ張り出してきたようにしか見えないが、実際には蜘蛛とスプライトの群れの間で息を呑むような牽制が行われているのだ。多分そうだと思う。耳鳴りのような羽音と喚き声をまずはなんとかしなければならない。私は杖を握り締め、魔力を込めた。
「静粛に!」
 私の胸元ほどの丈のそれを、タン、と音を立ててコンクリートの歩道に打ち立てる。瞬間、門灯の回りは時が止まったかのように静まり返り、無数の虫たち――この際もうスプライトも虫ということにする――の目が一様に私を見た。ああ、ハンノキの杖の偉大さときたら! これ無くしては、私は自分が召喚した以外の妖精とはまともに会話もできないのだ。
「控えよ、汝ら、茂みと蘖を渡る常春の子らよ。これなるひと枝は沼地を治むる妖精の君主、ふるぶるしきハンノキの王、あらゆるものの死にその顔を向けたもう者、偉大なる魔王の娘が一柱のまことの証なるぞ。我が杖の光が届くいかなる領地においても、汝らの諍いにて民草を脅かすことは断じてならぬ。承知したか」
 つとめて厳かな声を作りながら、私は杖先に埋め込まれた緑琥珀を彼らに向けた。封じ込められた蜥蜴が門灯の光を遮り、くろぐろとした影になって主張した。並み居るスプライトたちが一瞬だけざわめき、たちまちその翅を畳んで地面に降り立つと、私の足元にずらりと整列した。壮観だった。フットライトには多少光量が足りないが。
「なんと、貴殿は」
「前もって述べるが」 蜘蛛の言葉を遮って私は続ける。
「我は妖精王よりしるしのひと枝を賜りし身なるも、ヒト族の士として妖精族と懇ろだとは申さぬ。同様に、八つ脚の民を狩りの同胞と認めてはいるが、別段そちらに肩入れをしようとも思わぬ。もって我が今ひとり此の地に立つは調停者としてであり、我がアイザック・ペンドルトンの名と我が杖腕にかけて、公正なる裁きを齎さんと誓うものである。――では、公明正大の勇士スピンネル卿の訴えを聞くにあたり、その弁を受けて立つ代理人はいずこか?」
 自分でも若干何を言っているのか定かでないのだが、私の言葉はどうやら妖精たちに通用したらしい。群れなす光の中から、青白いきらめきを纏ったスプライトが一人、ふわりと滑空して私のそばにやって来た。
「ご機嫌うるわしゅう、かしこき調停者にして王の代弁者たるおかた。このルス・ナ・グレイン、我らが輪の代表として立たせて頂きたく存じます」
「よかろう。スピンネル卿、それに異存は?」
「無い。望むところである」
 妖精と蜘蛛が向き合い、共に異論なしと決まった。正直なところ、私の振る舞いがこれで合っているのか全く自信がない。私は実は何度か法廷に立ったこともあるのだが(もちろん被告ではなく証人や参考人として)、それももう昔の話である。合衆国の裁判がどのようなものか知りたければ、私に尋ねるより「Law & Order」や「ボストン・リーガル」あたりの法廷ドラマを見たほうがまだ正確だろう。第一、今ここで行われようとしているのは、五百年以上前の神前裁判とかいった類のものに思われてならない。陪審員も居ないしな。
「しからば、先ずスピンネル卿に事の次第を問わん。此度の諍いの起こりはいかに」
 杖の頭を蜘蛛へと向け、私は出来る限り重々しく尋ねた。蜘蛛は前足を二度打って、滔々と語り始めた。

  * * *

 結論から言えば、「ただの境界線争い」でこの話には片が付く。どこのご家庭にもよくあるやつだ。家と家の間にある小さな空間をどちらが使うとか、あちらの家の庭木がこちらの塀を越えたとか、ありふれたケースの一つに分類されるものである。
 曰く、スピンネル卿と名乗るこの蜘蛛は、数十年にわたりこの界隈――人間の地図でいうニューヨーク市ブルックリン区グリーンポイント周辺を領地とし、その方々に巣を掛けて回ってきた。無論私の家もその領地のうちであり、先日からこの門灯を別荘地の一つとして網を張ったものだ、と。ところが車道の向かいの木立に住むスプライトの一匹が、ここ最近になって同じ門灯の領有権を主張し始め、とうとう過激派が網に特攻を仕掛けるようになってきた。今こうして捕らえられているのもその一匹であり、つまり捕虜なのだという。
 一方、スプライトたちの言い分を聞くならば、この車道は古くから妖精族の通り道になっていた場所で、門灯のある位置はちょうど宿場のようなものだったのだそうである。昔はここに一本の木があり、その根本にはキノコが群れ、いわゆる「妖精の輪」を形作っていた。ゆえにこの地は妖精族ゆかりのものであり、蜘蛛が巣を作ること自体がまず侵略的行為なのであって、云々、云々。

 私は溜息をつき、かけて飲み込んだ。厳粛な人格を失ってはならない。現在この車道はニューヨーク市のものであり、門灯は家主である私のもので、彼らの争いに巻き込まれる筋合いは無いのである。
「汝らの訴えはここに聞き届けられたり。しかして今、此の地は妖精王より賜りし杖にかけて、その護り手たる我が手中にある。無論、我は民の自由を安んずる身なれば、此の地における通行や生命の営みを妨げるつもりは毛頭ない。汝らが平和的にこの場を引き分ける場合に限ってではあるが」
 これから夜毎に騒ぎを起こされてはたまらない。普通の人間には妖精は見えも聞こえもしないから、近隣住民の迷惑にはならずに済むだろうが、私が困るんだから困るのだ。私は決断的に言い切ると、深呼吸してから蜘蛛に言った。
「スピンネル卿。その誇り高き絹糸のよすがは、この門灯のみが相応しいという訳でもなかろう。何よりLEDなる文明の灯は少々ヒトの手が入り過ぎている故に、時として獲物を寄せ付けぬ。――これより数フィートの奥、我が地の一端に、汝のため水銀の灯を留め置くとすれば如何か。それをもって汝を雛罌粟と野薔薇の伯爵、緑の野の守人、ハンノキのたもとの狩猟卿として転封するならば」
 要するに、車道に面していない敷地の隅辺りに新しく水銀ランプを置くから、そちらに巣を張り直してくれと言ったわけである。現代語にしてみればこんなにもシンプルな内容に、しかし蜘蛛はいたく感激した様子で、
「なんたる喜びか! 貴殿、いや、殿下、この アラネウス・スピンネル・フォン・ガルテンクロイツの身命に賭して、ハンノキの王の恵みのもと、新たなる領地を末永く守護する所存に御座います」
 と述べ、網の上を数回ぐるりと周った。私は次に、代理人として名乗り出たスプライトのほうへ杖を向ける。 「代理人ルス・ナ・グレインよ、これにより汝ら妖精族の渡りは脅かされることなく、再び梢鳴らしの風と共に歩むこと叶うであろう。汝らの輪に偉大なる妖精王は祝福を与えたもうぞ」
「有り難き幸せにございます、かしこき調停者にして王の代弁者たるおかたよ。その枝に永遠の息吹と木霊の囁きがあらんことを」
 蜘蛛の手(あるいは脚)によって糸は切られ、捕虜は無事に原隊へと戻された。ここに蜘蛛と妖精は合意に至ったのである。――至ったということにしていいだろう。私はもう疲れた。いくら昔の人間だからといって、それでもせいぜい二百年前の生まれである私に、中世口調は荷が重すぎたのだ。
「改めて感謝の意を奏します、殿下。これよりは忠誠の証として、月のひとめぐりのうちに捕らえた獲物の半数と、網に集むる朝露を日に五滴の割で、貢物を納める次第に――」
「ああ、否、我が民にそのような重税を課す心算はあらず」
 枕元に虫の死骸を持ってくる飼い猫じゃないんだから、そういうのは必要ない。私は言葉遣いを若干崩しながら、蜘蛛の申し出を丁重に断り、

「……ブラザー・アイザック・ペンドルトン?」
 夜道に響いたあどけない声に、一瞬にして全ての思考を吹き飛ばされた。
「何をしていらっしゃるんですか、せんぱい?」
 声の主には無論心当たりがある。視線をゆっくりと西、地下鉄の駅がある方角へと向ければ、そこには深緑色のコートを着た年若い魔女が一人、怪訝な顔をして立っていた。私の同僚、世界魔術師協会ニューヨーク支部の一員であり、今日は珍しく残業に当たっていた、シスター・クララ・ハモンドだ。彼女の住まいはここグリーンポイントである。通りのもう少し向こうだが、間違いなくご近所さんだった。
「いや、その」
 幸い、中世口調のまま返事をすることだけは免れたが、だからといってどう説明すればいいのか。蜘蛛とスプライトの境界線争いに巻き込まれて、急遽妖精王の代理人として調停に当たっていましたと言えば納得してくれるだろうか。無理だ。あの愛らしい声で辛辣な言葉を投げかけられるだけに決まっている。
「――ペンドルトン卿、かのヒト族の女性は?」
 スプライトの弁護人が首を傾げ、私を見る。と、今度は蜘蛛のほうが得たりとばかりに声を上げた。
「成る程、あの娘、いや姫御は、さては殿下の后妃の一人にあらせられる……」
「違う! ……うむ、つまりだ、ヒト族の営みは、汝らの民と大きく食い違うのは良く見知っていよう。とにかくスピンネル卿、急ぎ汝の転封の準備に掛からねばならん。よってこの場はこれにて解散とせねば」
「せんぱい、ブラザー・ウェンセスラスからの伝言なのですが、――後にしたほうが宜しいですか?」
 ちょっと待ってシスター・クララ、後にするというより見なかったことにして! そんな言葉をこの場で口に出すことはとても出来ず、私は彼女の青く大きな瞳に、何遍も目配せをくれるのだった。瞬きするたびちらほら見える、桜色のアイシャドウがやたらに染みる夜だった。

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