「それで結局、原因はどちらです」
 愛らしくも冷淡な声が尋ねた。 「ヤンキースが勝ったのですか、レッドソックスが負けたのですか」

長き闇夜を抜けて -Take Me Out To...-

 両方だった。夜勤明けのブラザー・ウェンセスラス・ウォルターがいやに荒んだ目をしているのは、結局のところ昨夜のアメリカン・リーグの試合結果が原因なのである。私も朝のニュースで聞くだけは聞いたが、ニューヨーク・ヤンキースはヒューストン・アストロズ相手に6-3で勝利、片やボストン・レッドソックスはデトロイト・タイガース相手に負け越していた。

 マサチューセッツ州ボストンの出身であるブラザー・ウェンセスラス・ウォルターは、プロ野球への姿勢という点においてのみ典型的なボストン市民であった。すなわち、ボストン・レッドソックスの熱狂的なファンで、ニューヨーク・ヤンキースに強い敵愾心を抱いていた。彼にとって現在の職場はアウェー中のアウェーである。何しろここは正しくニューヨーク、ヤンキー・スタジアムまで地下鉄で三十分の立地なのだ。
「ブラザー・ウェンセスラス、スポーツを楽しんでご覧になるのは大変結構なことですし、趣味としていたって健全だとは思いますが、ライバルチームが勝ったからといって不貞腐れるのはやめてください。そして早く引き継ぎ書をこちらに渡してください」
 野球に一切関心のないシスター・クララ・ハモンドは、ただ粛然として業務開始の準備を整え、その仕上げを行うべく上官に要求を述べた。決して彼女にいたわりの心が無いわけではない。自分が未成年である分だけ、チームでの夜勤担当の回数を増やして対応してくれている我らがチーフには十分感謝しているはずだ。実際に今朝出勤したときには、真っ先にその骨折りを労う言葉を掛け、アイスコーヒーと菓子パンの差し入れも行っていた。だが残念ながら、「レッドソックスが逆転負けしたのでもう何もやる気がしないし帰る気さえ起きない」という、この年嵩の魔術師の生気のない独白については、何らの同情も寄せることはなかった。
 私は自分の席について、家から持ってきた夕食の残りのデリ――葉野菜のかなりへたれてしまったグリーンサラダと、明らかに水分を失ってぱさついている鶏胸肉のグリル――を食べながら、このやり取りを口出しせずに見守っていた。私は野球は別に嫌いではないし、特に見たい番組がなければ中継をなんとなく流し見することもある。もし観戦に誘われれば、喜んで球場に行くだろう。
 ただ、いかんせん250年にわたって合衆国の方々へ転居して回っている私にとっては、特定のチームへの強い愛着というものがあまりないのも事実である。「自分の国が出ていないオリンピック競技の試合」みたいなもので、とりあえず名前を知っている選手全てを応援してみるという、小学校の運動会めいた態度を取らざるを得ない。他者との会話のタイミング如何では、うっかりブラザー・ウェンセスラスに聞こえる範囲でヤンキースの選手を褒め称えてしまう可能性さえあった。よって私は、彼が通りかかる可能性のある場所、少なくともこの世界魔術師協会ニューヨーク支部の敷地内では、野球に関しては口を閉ざすことにしている。

「まったくこのブラザー・ウェンセスラスの、シーズン中? ……の、意欲の他人頼みな不安定さを解決する方法は無いものでしょうか」
 あまりの埒が明かない様子に、本人に直接交渉するのを止めたシスター・クララが、私のところまで歩み寄ってはそう尋ねる。細い眉が理解できないとばかりに顰められていた。
「経験から言わせてもらうと、今夜の試合でヤンキースが負けるかレッドソックスが勝つ、以外には無いんじゃあないか」
 こればっかりは我々が真面目に取り組んでもどうにかなる問題ではない。私は他人事のようにそう答え、氷が溶けて薄まってきたグリーンティーを啜った。ブラザー・ウェンセスラスは彼のデスクに片肘ついて、レッドソックスがいかに優れたメジャーチームであるかをぶつぶつと呟いている。内容があくまでもレッドソックスの美点に終始し、「ヤンキースがいかに劣っているか」についてではない辺りが、彼に残されたスポーツマンシップなのかもしれない。
「ですが、チームの進退ひとつでこう精神が左右されるのでは、とてもまっとうな業務が行えるとは思えません。もっと効果的な気分転換法を見つけていただくか、せめて何も言わず家に帰って寝ていただきたいのですが」
 そんな上官の姿をちらと見ながら、シスター・クララは困ったものだとばかり声のトーンを落とす。彼女の意見はごもっともである。私も正直なところ、先発投手が打たれたからといって、それで職場の協調を乱されては良い迷惑にしか思えない。しかし、ブラザー・ウェンセスラスのレッドソックスに対する情熱は、正しく人生をかけたものであるのだから仕方がない。
 彼の主張する実年齢が嘘でなければ、ウェンセスラス・ウォルターとボストン・レッドソックスがこの世に誕生したのは殆ど同時期である。彼はこの名門チームと共にフェンウェイ・パークのお膝元で育ち、ベーブ・ルースに声援を送り、ヤンキースとの数々の名勝負を固唾を呑んで見守ってきたのだ。球団への思い入れたるや人一倍だろう。今も彼はいちファンとして、紺と赤のユニフォームが育んできた文化の素晴らしさについて語り続けている――話題が選手やチームそのものから大分と離れ始め、もはや「レッドソックスのほうが本拠地の球場で売ってる食べ物が旨い」とかいう域に達しているが。

 フェンウェイ・パーク名物ロブスターロールがいかに美味であるかについては、残念ながら最後まで説明されることはなかった。そこでオフィスの扉が賑やかに開き、音と同じくらいに賑やかな空気を連れて、まだ口を開いてもいないのに賑やかに見える顔をした、一人の若者が入ってきたからである。
「やあ、おはようみんな! 今朝は暑いけれど風が気持ちいいねえ!」
 我々に遅れを取ってはいるが、かろうじてまだ遅刻ではないタイミング。J.Jことブラザー・ジョン・ジェロームは、年中そんな調子でこの「ザ・マンション」に出勤してくる。今日もまたいつも通りに――いや、いつもより随分機嫌が良さそうだ。室内に漂う冷えた空気とぶつかり合って、低気圧でも発生しそうなほどの気分上々ぶりである。
「おはよう、J.J。何か良いことでもあったのかな」
「良いことって、そりゃあ当然さ! 昨日はグレムリンズの完封勝利だったんだからね!」
 J.Jは白く輝く――というほどでもないが、まあ同年代の男性に比べれば美しく健康的なほうであろう歯を見せて爽やかに笑った。
「グレムリン、ああ……ブルームボールですか」
 シスター・クララが納得したように言い、浮かれた新米魔術師は聞かれてもいないのに昨夜のプレイのハイライトを説明し始めていた。傷心のレッドソックスファンはデスクに突っ伏したまま何も言わなかった。

 ブルームボール。読んで字のとおり、箒に乗って球を奪い合うチームスポーツである。ルールはほとんどラクロスで、だから当初は「ブルームラクロス」とか「エアクロス」とかなんとかいう名称案もあったと聞く。ルールが整備され、プロリーグが発足したのは比較的最近の話だ。そもそも魔法が使え、かつ箒を用いて飛行でき、的確なチームワークを発揮する必要があるのだから、競技人口はどうしたって小規模にならざるを得ないのである。野球やフットボールのそれとは比べ物にならない、あくまでもマイナースポーツの域だった。
 しかし、各地の魔術師協会支部に所属する箒乗りたちにとっては、この新世紀の球技はちょっとした話題の種にぴったりの存在にも違いなかった。やれ昨日のあの選手の飛び方はなってないだの、自分が使っているのと同じ箒があのチームで公式採用されただの、「箒乗りあるある」等も交えた野次馬気分の観戦は、日々の業務の良い息抜きとなる。ここニューヨーク支部でも地元に本拠地を置くプロチーム、ニューヨーク・グレムリンズのファンは一定数存在し、試合のネット中継を楽しみにしているのだった。
「二人とも見なかったのかい? エリック・ドノヴァンだよ、最初のシュートのかっこいいったらなかった! 彼がグレムリンズにいる限り、フロリダ・ビーハイブスに勝たせやしないさ。ああ、僕、こんど買う箒はドノヴァンと同じモデルにしようかなって思ってるんだよ……」
 チームの花形アタッカーの名をうっとりと呼びながら、J.Jはそんな野望を口にした。彼が今使っている箒は見習い時代からのもので、性能的には任務に支障ない。けれども彼は現状に満足せず――あるいは単にお古の箒にはもううんざりしていたので――今度の夏期賞与で新調するのだと、常々触れ回っていたのである。
「ドノヴァンと同じはJ.J、流石にちょっと高望みが過ぎると思うけどな。確か今シスター・クララが使ってるやつの最新版だろう? ボーナス払いでも追いつかないよ」
 私の記憶によれば、その若いエースは「シルバー・ライニング」の2015年モデルを使用しているはずだった。シスター・クララの愛用する2004年版がもう大分と値下がりしているのに対し、最新型は目眩のするような桁の値がついていた覚えがある。いくらなんでも新米魔術師に払える金額ではない。ローンを組む時点で門前払いされかねない。
 ところがJ.Jは私の言に、やや得意げな顔をして首を横に振った。
「違うよ、アイザック。今期からドノヴァンは箒を乗り換えて、今は『イル・ヴェント・ロッソ』のスポーツモデルを使ってるんだ。あれは特別レアってわけじゃないけど、それだけクセがなくて扱いやすいしメンテナンスも楽なんだよ。それでもちょっと高めではあるけど、貯金も入れれば僕の手の届く範囲さ! ずっと乗ってみたかったんだよなあ、あのマホガニーの綺麗な木目の柄……」
 彼は私が知らない箒のブランド名を挙げ、すっかり舞い上がった様子でその概要を語って聞かせた。私も箒乗りとして、世界各国の名器と呼ばれる箒たちには造詣があるつもりだったが、最新の事情には追いついていなかったようだ。
「破産しない程度にしてくださいね、ブラザー・ジョン。わたしはあなたが今の箒を都合三度折りかけ、一度紛失し、数え切れない回数水没させているのを知っていますので、新しい箒はもっと丁寧に扱われることを心から祈っています」
 当分愛器を乗り換えるつもりはないだろうシスター・クララが、落ち着き払った口調でJ.Jを戒めた。水を差された形の彼は一瞬黙ったが、すぐにまた浮足立った調子を取り戻した。よほど昨夜の大勝利が嬉しかったのだろう。
「J.J、とりあえずスポーツの話はそれまでにして、そろそろ仕事にかかろう。午前中に片付けるべきものが幾つもあるよ」
「あっ、そうだね! へへへ、今ならもう何時間だって残業もできる気がするよ……、そういえばチーフはどうしてまだ上がってないんだい? 夜勤はもう終わってるんだよね?」
 ようやくチームの長の不自然な様子に気が付いたらしい彼が、該当人物のデスクに目を向けて言ったときである。

「幸福そうじゃあねェか、ジョニー・ボーイ。この世と自分との間に不幸が介在する余地はない、とでも言いたげだな、え?」
 今は七月だというのに、雪に閉ざされたボストンの冬を思わせるような、冷え冷えとした声が沸き起こった。私もシスター・クララも手を止めて、未だデスクから顔を上げないままのブラザー・ウェンセスラスに注目した。
「えっ、何言ってるんだいチーフ、もちろんさ! 今朝の僕は今週で一番幸せかもしれないってぐらい――」
「見なかったのか?」
 あたかも地獄から這い上がってくる亡者の声、あるいは罪人の魂を前にした死神の声とでも表現できようか。ブラザー・ウェンセスラスの短い一言は、活気に満ち溢れていたJ.Jの顔を、即座に強張らせるだけの力を持っていた。
「……ええと、チーフ、それは一体何のこと……」
「お前は、昨夜の、メッツの試合を、見なかったのか?」
 感謝祭とクリスマスが一緒に来て浮かれている男のもとに、世界恐慌とスペイン風邪が徒党を組んで殴りかかってきた、そんな様相だった。無情で、無慈悲で、あまりにも殺伐としていた。J.Jが言葉を失う一方、いつになく邪悪な魔術師じみた目のブラザー・ウェンセスラスは、緩慢な動きで身体を起こし、身じろぎしない後輩に指を突きつけた。
「見なかったはずはないよな。途中からチャンネルを変えたのか知らんが、結果ぐらいは速報の字幕で見ただろう。お前が箒球のほうで現実逃避してる間に、メッツはとうとうカージナルスに一勝もできなかった」
「い、一勝も……って、違うよ、そのうち一回は試合中止になって」
「中止になったからって勝った扱いにはならんだろうが。良いか、解ってるのか、お前の愛するメッツが今月に入ってどれだけ負けが込んでるか。連敗記録でいえばレッドソックス以上だぞ。それを知っていながらお前は何か? やれドノヴァンのシュートがどうだ、新しい箒がどうした、貰えるかどうかも分からない夏のボーナスの話までしやがって、それで幸せか。それが幸せか、ジョニー・ボーイ」
 ひたひたと迫りくるような低い囁きだった。今のこの場面を切り取って適当にフィルターを掛け、音声を取り払ったのなら、ホラー映画の一場面ですと言っても通る気がする。このおぞましい響きに打たれた後輩が、そう長く強がっていられるはずもなかった。彼は暫しの沈黙の後、今までと打って変わった情けない声を絞り出した。
「だ、だって、だって昨日のはブロクストンが……!」
「ブロクストンがどうしたってんだ。今後奴が登板する試合からは全部目を背けるつもりか? 軟弱なのもいい加減にしろよ、ジョン・ジェローム!」
 ここに来てブラザー・ウェンセスラスはJ.Jをフルネームで呼んだ。滅多にないことだった。内容が内容なら大変シリアスな場面であるはずだ。否、彼らにとっては今だって十分にシリアスなのだ。

 ブラザー・ウェンセスラスがボストンに生まれ育ち、レッドソックスに厚い信頼を寄せているのと同じように、J.Jにもまた特別な位置づけのチームがあった。彼はニューヨーク州バッファローの生まれであるが、ヤンキースのファンではない。もしもそうだったら彼はとうにチーム・ウォルターを叩き出されていたことだろう。しかし幸か不幸か、彼が幼いころから親しんだのは、同じニューヨークでもニューヨーク・メッツのほうだった。
 このメッツというチームもまた、ヤンキースとは熱いライバル関係にある。敵の敵は味方ということで、J.Jとブラザー・ウェンセスラスの野球付き合いは極めて良好だった――両者の贔屓チーム同士が対戦する日を除いては、の話だが。
「僕だって昨日こそは勝てると信じてたさ! 最初こそ二点差をつけられてたけど、一度は逆転だってしたんだ。それなのに、あっという間に点を返されて、そこからは一度もゲームを動かせないで……」
 最後のほうは消え入るような声になっていた。私はナショナル・リーグの動向についててんで詳しくないから、彼の愛するメッツが今期どの程度活躍し、あるいはどの程度低迷しているかよく分からないのだが、スポーツニュースを聞きかじったところによれば、昨夜の試合はセントルイス・カージナルス相手に敗北を喫していたようだった。
「だからってなァ、ジョニー・ボーイ、そこで見てられなくなって別の中継に逃げるのか? お前、自分がいるのがブルックリンの安アパートの部屋じゃなく、シティ・フィールド球場のデルタシートだったらどうするつもりだったね。まさか途中で帰りやしねェだろ。違うか?」
「……違わないよ。そりゃあ、そうなったら間違いなく最後まで応援するさ。結局点差がひっくり返らなくても」
「そうだろうさ。俺だってそうする。で、それはテレビ観戦のときと何か違いがあるっていうのか、ジョニー・ボーイ。たまたまその日のチケットが手に入らなかっただけ、球場まで行く時間が取れなかっただけで、試合に向かっていく気持ちは一切差なんてありゃしないだろうが」
 先程までの底冷えのするような空気から一転、ブラザー・ウェンセスラスの口ぶりはどこか諭すような、後輩を導くような温かみを帯び初めていた。普段我々とのミーティングに臨むときにも、これぐらいの真摯さがあってくれれば良いのだが。
「うん……、解ってる、解ってるよ。でも、やっぱりどうしても、画面を真っ直ぐ見られないって時はあるものだよ、チーフ。そっちこそ、昨日はどうだったんだい? 夜勤中はたぶんラジオで聞いてたんだろうけど、途中でスイッチを切りたくなったりしなかった? FMのほうに逃げたりしようと思ったりは?」
 それに向かい合うJ.Jの目もまた、いつになく神妙な光を宿していた。老師に教えを請う若き門下生といった風だ。シスター・クララがそれを見ながら、今度宿直から逃げようとしたらラジオを人質に取ればいいのですね、と空恐ろしいことを言っていた。宿直室にはテレビが無いのである。

 さて、この真っ直ぐな問いに対する、先達の答えはこのようなものだった。
「お前、俺がいつからレッドソックスのゲームを見続けてると思ってンだ、ジョニー・ボーイ? まだ『ボストン・アメリカンズ』なんて呼ばれてた頃を俺は知ってる。建ったばかりのフェンウェイ・パークも、ヤンキースに行っちまう前のベーブ・ルースも、――それから86年続いた長い長い呪いの苦しみだって知ってンだよ。あれだけ沢山の名選手がいても、何故だかシリーズ制覇だけはできない悔しさを、一世紀近くずっと舐めてきたんだ。たかが数試合負け越したぐらいで、テレビ中継の画面から目を背けられるかよ」
 それは断固とした、誇りと決意に満ちたひとりのファンの言葉であった。1920年から2003年にかけて、この球団が繰り返してきた悲劇のことは私でも知っている。「バンビーノの呪い」という名で呼ばれたその束縛は、しかし現代まで続いてはいない。
「だがなァ、お前だって知ってるだろ、呪いは解けたんだ。2004年にレッドソックスはとうとう成し遂げた。それも4勝0敗で因縁を打ち破った。生憎とニューヨークで缶詰になってたんで、観戦には行けなかったがな」
「知ってるとも、そうだ、そのときの相手はカージナルスだったね。僕はまだ小学生だったけどよく覚えてる。メッツじゃなかったのは悔しかったけどさ。ねえチーフ、じゃあ呪いから抜け出す道の一つは、僕らが彼らのことを信じることなんだ、……あんまりありきたりすぎて恥ずかしくなりそうだけど」
 J.Jが照れくさそうに笑って、ブラザー・ウェンセスラスの目をじっと見た。きっと心はまだ幼いころ、球場へ足繁く通った当時に戻っているのだろう――あるいは、戻るまでもなくいつでもその当時の心のままかもしれない。普段のJ.Jを考えるに、そちらの可能性のほうが高そうである。
「ああそうだ、結局はそこに尽きるンだよ。だから逃げずに試合を見届けろ。テレビでもラジオでも良いが、たまには球場にも行けばいい。七回裏が始まる前には、こういって歌ってやるんだ。Take me out to the ball game――
 ブラザー・ウェンセスラスの口から出るには朗らかすぎる旋律が、朝のオフィスに流れ始めた。古くから球場で歌われる定番の一曲だ。もちろんJ.Jもすぐに目を輝かせ、次のフレーズからコーラスに参加した。

  わたしを野球に連れてって
  あの観客席まで連れてって
  ピーナツにポップコーンも買ってよね
  家に帰れなくたって構わないから!


 「さあ、地元チームを応援しようRoot root root for the home team」のくだりでは、歌詞をきちんとそれぞれの贔屓チーム名に変えて歌うのも忘れなかった。もし勝てなかったりしたら悔しいけど、泣いても笑っても3ストライクでアウト、野球ってのは昔からそういうもの――そんな気持ちの良い響きの向こうに、晴れ渡る真夏のマウンドが見えた気がした。
「うん、やっぱりそうだね、そうこなくっちゃ駄目だ。ねえチーフ、今日からメッツの相手はロッキーズだ。もちろんホームゲームだよ。今回こそ勝ちに行けると僕は信じるから、だから……」
「……夜勤明けに観戦も悪くねェか。始まるまでに三時間ぐらいは寝れるだろ。久々にホットドッグとクラッカー・ジャックも食いたいしな」
「決まりだね! あっ、じゃあ僕バッファローチキンウィングを買うよ。シティ・フィールドのフードコートで売ってるやつは、辛さも選べるしどれも全部美味しいから。個人的には『インフェルノ』がめちゃくちゃ辛いけど最高に――」

ブラザー・ジョン・ジェローム?
 ――爽やかな風吹き抜ける球場の幻想はそこで雲散霧消し、小ざっぱりとしたオフィスの中に一人立つシスター・クララの、凍りついたハドソン川のごとき青く冷たい目がぎらりと光った。
「ブラザー・ウェンセスラスはもう終業ですからともかく、あなたつい十分ほど前に出勤してきたばかりですよね? どさくさ紛れに午後の業務をキャンセルしようという愚かな試みはやめてください。たとえブラザー・ウェンセスラスとブラザー・アイザックが許してもこのわたしだけは許しません」
「心配要らないよ、シスター・クララ」 私は幾分穏やかに同意を表明した。 「私も許さないから」
 挙げ句の果てには、先刻まであれほどハートフルドラマを展開していた片割れのブラザー・ウェンセスラスさえ、その真摯な言葉など無かったかのような調子で、
「働かざる者なんとやら、ってな。そういう訳でジョニー・ボーイ、俺は楽しいボールゲーム休暇を貰ってくるから、後のことは頼んだぜ」
 と、ひらひら手を振りながらオフィスを出ていこうとするのだった。あまりにもドライな声音だった。
「ええっ、えっ、ちょっと待って!? 普通そこは『嫌だなあ今のは冗談だよ、さあ今日も一日頑張って働いて休日に備えよう』みたいな流れで解散するんじゃないの!? チーフだけが球場に行って僕が取り残される展開なの!?」
「俺はやることはやった上で球界に貢献してる訳だからな。ああ、今日こそはレッドソックスの勝利でビールが旨くなりますように」
「ひ、酷いよチーフ! フードコートのグルメ情報なんか教えるんじゃなかった!」
 バッファローチキンは独り占めにするんだった! ――J.Jの落胆し切った声が響く中、勝ち逃げの形になった我らがチーフは、夜勤明けとは思えぬ足取りの軽さで部屋を後にする。私はそれを見送った後、取り残されたいちファンの肩を軽く叩いてやるのだった。
「大丈夫、メッツもきっとなんとかなるよ。ラジオぐらいなら聞いててもいいから」
 信じる者は救われる等とは、これっぽっちも信心深くない私が言っても説得力はないかもしれない。けれども、どんな逆境にあっても声援を送り続けることは、間違いなく選手たちの力になるに違いないのだ。

 ――そう言ってJ.Jをなだめすかしたことを、翌朝になって私は少しだけ申し訳なく思った。果たしてレッドソックスはロサンゼルス・エンジェルスに快勝したが、メッツはロッキーズに1-6で敗けた。

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