深夜、台所のほうから何か大きなものが落ちる音がした。ばたん、と床にぶつかる響き。

食いつきが悪くて -Sticky Problem-

 まさかと思って行ってみると、冷蔵庫の脇に円く平たいものがあった。さっきまで壁面のタイルに張り付いていたはずの壁掛け時計だ。すぐ傍には時計を保持していた吸盤式フックも転がっている。私は暗澹たる思いでそれらを拾い上げた。寿命が来たのだ。
 幸い、時計に目立った傷は見当たらなかったし、問題なく動き続けてもいた。このオークの木枠がついた美しい時計は、前の住居からニューヨークへ移るときに――すなわち空軍を退役したときに――仲間たちから個人的な贈り物として貰ったものだ。なんでも19世紀後半に作られたアンティーク品だそうで、白い文字盤の中央には彫金が施され、時刻を示すローマ数字もどこか味のある字体が用いられている。何より、アール・ヌーヴォー調の優雅な曲線を描く三本の時針といったら!

 そうした訳で、私はこれをひと目見たときから大好きになってしまい、後生大事に抱えてバージニアから越してきたわけだが、新居に落ち着くにあたって問題が発生した。私の住むブルックリン区の借家のオーナーは、私が物件に釘一本、いや画鋲一本打ち込むことさえ厳格に禁じたのである。私とてこの家に死ぬまで暮らすつもりは更々なく、またあと二十年かそこらでどこかへ移るつもりだったから、退去する際のことを考えれば従うほかない。後は野となれ山となれという訳にはいかないのだ。時計を設置するにあたって、壁にフックをねじ込んでそこに掛けるという手は使えなくなった。むろん壁紙に影響するので粘着式のフックも駄目である。
 こんな時、魔術師ならばすぐさま極めて簡単な解決策を見出すであろう。すなわち、時計に「固定」の魔法をかけて壁に密着させればいいのだ。「固定」などはまだ免状も貰わない入門生イニシエイトのうちから唱えるものは唱えるような、ごくごく初歩的な呪文の一つである。見習いだって軽い木の飾り棚ぐらいはこれで支えることができるし、むろん私なら玄関先に置いた自転車を、私以外の誰も持ち上げられないようにすることぐらい造作もない。いわんや時計をや。私はハンノキの杖を振るってまじないの言葉を口に出し、寝室の壁のちょうどいい高さに宝物を掲げようとした。

 ところが上手くいかないのである。何度やっても魔法がかからない。まさか呪文など間違えるはずはない――いわゆる汎用呪文が世界魔術師協会によって定められてから今まで、「固定」の呪文は数十年変わることなく「ステレオーネ、留まれ」のはずだ。よもや、二十五年ほど最新鋭の電子機器と触れ合う仕事をしていた間に、私の魔力はすっかり衰え、魔術師としては産廃同然の存在になってしまったとでもいうのだろうか。今までだって度々本業を休止して副業に精を出したことはあったが、それでも妖精の呪文ひとつ忘れることなどなかったのに! 私は狼狽し、とりあえずベッドサイドに置いてあった電気スタンドを取り上げ、壁面に固定しようとした。問題なく成功した。私は変わらず魔術師だった。問題があるのは時計のほうだ。
 生憎と私は魔法工学には詳しくない。加入したばかりの世界魔術師協会ニューヨーク支部へ品を持ち込むと、魔術的物品管理課のウィザードは神妙な顔をして、杖先であちこちを突き回しながら、矯めつ眇めつ見たかと思うと、
「これは素材が悪いんですね、魔法と合わないんです」
 と言った。
 ウィザード曰く時計の内部、恐らくは文字盤の裏あたりに、外部からの魔術の影響を最小限に留めるための部品が仕込まれているのではないか、というのだ。前の持ち主も魔術師か何かで、工房や研究室に置くにあたって時計が狂ってしまわないよう、敢えてそうした可能性があると。きっとその魔術師は私のように転居趣味ということはなく、借家暮らしで大家の意向をいちいち気にするような人物ではなかったのだろう。ウィザードは続けて、部品を取り外すなり強力な付呪の上書きをするなり、呪文の効果が及ぶように加工もできますがと言ってきた。が、それに際して提示された金額は首を傾げざるを得ないようなものだったので、私は下っ端なりに丁重に断って支部を辞去した。なんとかして壁に穴を開けないで済む道具を探したほうがまだましだった。

 それで私はブルックリンへ戻り、グリーンポイント地区の外れにあるホームセンターへ出向いて、一人の若い店員を捕まえ、こういった事情なのだが良い商品はないかと尋ねた。たった今ハイスクールを卒業してきたばかりであります、というような顔をしたその店員は、お宅にタイルやガラスを使った壁はありますか、そこに時計を掛けるのでよければお勧めできます、と答えた。彼は私を「水周り用品」のコーナーへ連れて行き、いま売り場にある中では一番強力なものだという吸盤式フックを見せた。二つ入ったパックで15ドルもする。だが吸着力のほうは抜群で、実際に彼はパックから取り出し実演までしてくれた。私は親切心を買うことにして、彼へのチップと合わせて16ドルを支払い店を出た。
 数日の間はそれでも不安が勝り、背の低い食器棚のすぐ上の、万が一落下しても大事ないだろう場所にフックを据え付けておいた。一週間経っても特に変化は見られなかったので、少し希望が見えてきた。フックはその後一ヶ月の耐久テストをめでたくパスし、冷蔵庫の横の壁へと昇進した。それから二十年近くの間、小さな水周り用品は私と私の時計に対して忠義を尽くし続けたのである。

 しかし、ついに哀しみの時は来た。私は時計を食卓に置き、左手にフックを持ったまま深く嘆息した。と、どこからか日本製のお掃除ロボットが、稼働音と共に近付いてきて、
「よう、アイザック。失意のどん底ってな顔じゃないか。あれか、お前もとうとうこの世の不条理について愛想がつきたか? オレで良ければいつでも安楽の世界にご案内するぜ?」
 等と呼びかけてくる。無論、いくら日本製といえどもお掃除ロボットに持ち主を誘惑する機能など付いているはずもない。喋っているのは機械を依代としている悪魔のほうだ。そう、21世紀は悪魔も電子機器に適応しなくば魂を得られない時代なのである。若干同情しないでもない。
「悪いけど落っこちてお亡くなりになったのは吸盤のほうだよ、私じゃあない」
 足元に擦り寄ってくる円形の機械に声だけを投げつつ、私は古びた文字盤をそっと撫でた。思えば我が家の台所には分不相応な品だった。が、毎日目にするうちにすっかり馴染んで、今では正しく生活の一部である。同室だった中尉はこれを彼の地元の骨董品店から探し出し、念入りにレストアし、表面にも余すところなく磨きをかけたと言っていた。インターネットオークションなどない時代の話である。彼や同輩たち、あるいは当時の上官が私のためにそこまでして選んでくれたと思えば、愛着もひとしおというものだ。

 だが、その前の持ち主については――思いを馳せたことが微塵もないとは言わないが、まさか内部にそんなものを仕込んでいたとは考えもしなかった。確かに、時計に及ぶ魔力の影響を危惧する気持ちは解る。明らかに上等のものであるこの時計は、恐らく作られた当時もかなりの値がついていただろうし、もしかしたら私同様贈り物として貰ったものだったかもしれない。長く使い続けるためにと施した加工が、巡り巡って百年後の私をこうも悩ませているのである。皮肉なものだ。悪魔もそのあたりを察して私に絡んでいるに違いない。
「そうかそうか、まあ、これも世のならいって奴だよ、アイザック。形あるものいずれ壊れる。それこそ時計を見れば解るもんだ……昔の人間は肖像画に、人物と共に時計も描くことがあった。人生は短い、時間の流れは残酷だ、いっときの栄華もいずれは終わってしまう、ってな」
 生憎、残酷な時間の流れに真っ向反してだらだら生きている私には、これっぽっちも響かない言葉であった。私には信仰心というものがおよそ欠けているので、自分に健康長寿と永遠の若さが備わったのは神の恩寵ではなく、純粋に私の魔術師としての研鑽努力の成果だと思っているが、いずれにせよ悪魔にあれこれ口出しされて揺らぐものではない。
「ああ、良いことを思いついたぜ。時計を支えるものがないのが問題なんだろ? なんとも幸運なことにだな、アイザック、お前のもとにはオレが叶えてやれる願いが二つも残されていてな――」
「誰が悪魔に壁掛け時計を支えておいてくれなんて頼むんだよ」
 私はぞんざいな口調で言い、足で悪魔を追い払った。黙って部屋中を這い回っているぶんには、フローリングが綺麗になるだけなので文句もないのである。お掃除ロボットだから。

 悪魔に魂を売って時計を支える気はないが、この「支えてもらう」ということについては別の案を考えないでもなかった。私は魔術師の中でもいわゆる召喚術師であって、とりわけ妖精界から多種多様の生物を呼び出すことには自信がある。そう、壁掛け時計を把持することぐらい、妖精の中でも力の強い種には朝飯前――なのだが、ちょっと考えただけで私はこの案を却下してしまった。ただでさえ私は普段から、妖精王より託された杖でもって彼らを比較的酷使しているというのに、この上さらに二十四時間態勢で肉体労働を強いるなどしたら、何かしらの抗議を受けた上に営業停止処分的なものを受けてしまうかもしれない。妖精界に組合や労使協定の類が存在するのかは知らないが、このご時世だから妖精といえど、労働安全の精神に目覚めていてもおかしくない。
 そうなるとまず第一に選ぶべきは、お亡くなりになってしまった吸盤と同等のものを、再びホームセンターに出向いて買ってくることだろう。当時買ったパックに入っていたもう一つのフックは、風呂場で今も使用中だから持ってくるわけにはいかない。新規購入が必要だ。もっとも現在時刻は午前2時を回っており、例のホームセンターはもちろん24時間営業などしていないので、最低でも明日の朝を待たなければならないことになる。が、私は勤め人であるから開店と同時に来店することなど不可能であり、ニューヨーク支部の昼休みはグリーンポイントまで往復するには短く、勤務が終わって戻るころには閉店している。これは次の休日ないし半休までかかるかもしれない。あるいはマンハッタンでどこか別の店を探すか、インターネットで注文するかだ。いずれにせよ今すぐなんとかなる問題ではない。私はもう一度嘆息し――というより欠伸をし、大人しく寝室に戻ることにした。

  * * *

「……というようなことがあって、大変難儀しているんだよ、今正に」
 翌日の昼休み、支部の近所にある中華料理店のテイクアウトを机に広げながら、私は同僚たちに一通りのいきさつを話していた。我が家のオーナーがいかに賃貸契約に関して厳格な人物であるかや、時計をくれた旧友たちの愛情深さ、それを長年支えた吸盤式フックがいかに優れた商品であったかについては、多少誇張して伝えたように思う。
 私の予想に反して、我らがチーム・ウォルターの面々からの反応は薄かった。というよりも怪訝な、あるいは不可解そうなものだった。少なくとも同情はされていない。私は沈黙に込められた意図を察しかね、とりあえず手元の紙箱に入ったフライドライスを一口掬って食べた。
「ええと、その、アイザック?」
 最初に静寂を破ったのは、J.Jことブラザー・ジョン・ジェロームだった。彼は人好きのする顔に曖昧な笑みを浮かべながら、どこかトーンの外れた声で私に話しかけた。
「聞いてるとさ、それって、なんというか……僕がこう言っていいものかは解らないけど、ほら……ね?」
 言葉を濁しながら、彼はちらりと向かいの席を見る。黙ってシーフード・ヌードルを咀嚼していたブラザー・ウェンセスラスが、
「まァ、今ここにいる連中は大体同じことを考えてるだろうよ。問題は誰の口からそれを聞きたいかだな、ちび助」
 と妙なことを言う。
「誰の口から、って――」
「誰からでも同じだと考えますが、ブラザー・ウェンセスラス。つまり、ブラザー・ジョンが仰らないのならわたしが言えばいいことですね」
 チーム・ウォルターに加入してからというもの、歯に衣着せたためしのないシスター・クララは、話の流れに沿って的確に答え、青い目で私を見据えるなり次の文句を切り出そうとした。が、寸前にJ.Jが割って入った。
「いやいや、シスター・クララはさ、こう、けっこう言うことがストレートっていうか、本当にありのままを答えるタイプじゃない? そうなると、もしかしてアイザックを傷つける可能性もあるんじゃないかな、ってさ」
「わたしの言葉で傷つくほど、せんぱいが軟弱な精神の持ち主だとは思えませんが」
「ううん、あのさ、確かにアイザックはとてもメンタルの強いっていうか、結構面の皮が厚いところもあるっていうか、そういう人だとは思うんだけどね……」
 J.Jは彼なりにフォローを入れようとしているのかもしれないが、完全に私に対する罵倒になっている。面の皮が厚くて悪かったな。一定以上の年季を持つ魔術師の面の皮など、最低でもみな防弾ガラスレベルの厚さは持っているものだ。

「お前言え、ジョニー・ボーイ」
 埒が明かないのを見て取ったか、ブラザー・ウェンセスラスが投げやりな口調で促した。それを受けたJ.Jは、気乗りがしなさそうな顔で頷くと、私のほうに少しばかり身を乗り出して口を開いた。
「良いかいアイザック、冷静になって聞いてほしいんだけど」
「何か、J.J」
「時計に魔法を寄せ付けないというか、呪文を避けるような細工があるから『固定』が使えない、っていうんでしょ?」
「そうだけど」
 一瞬の間。
「それ、つまり時計じゃなくて、吸盤のほうに『固定』を掛けて壁にくっつければいいだけの話じゃないのかい?」

 シスター・クララがテイクアウトの空き箱を潰す音がした。私は箱の底に残ったフライドライスを無言でかき集め、口に押し込み、嚥下してから立ち上がった。
「ブラザー・ウェンセスラス」
「あンだよ、ちび助」
「早退しても良いですか」
「今度メシ奢れよ」
 全身に押し寄せてくる徒労感と、己の愚かさに対する羞恥と、その他諸々の何か――これを抱えながらあと六時間働くなど、今の私には無理だ。我らがチーフは例によって部下に時間外奉仕を要求し、にも関わらず自分は同僚を思いやる心を持った素晴らしい上司ですというような顔をしている。
「ブラザー?」
 あからさまに険を帯びた声を上げ、シスター・クララが私とブラザー・ウェンセスラスの顔を睨んだが、最早それに構っているだけの気力もなかった。ニンニクとオイスターソースの食欲をそそる匂いだけが、ただただ身に沁みてつらかった。

go page top

inserted by FC2 system