「なあお前ら、『フローシュカ』ッて何のことか解るか」

包み隠した要求 -Demand Unfolded-

 警戒アラート勤務の当番を何事もなく終え、待機室からオフィスへ戻った我々チーム・ウォルターが、代わり映えのしない昼食――近所にある中華料理店のテイクアウト――を取っているときだった。ピーナツ・ヌードルを食べる手をふと止めて、我らがチーフことブラザー・ウェンセスラスが、これまた普段と変わらぬ気のない声で言ったのは。
「え、何それ?」
 先に反応を示したのは、既にフライドライスとオレンジチキンを完食していたJ.Jだ。空き箱を潰す彼の顔には、明らかな困惑が表れていた。
「フローシュカ、いや、もしかしたらフローシカとか、そういう似たような発音かもしれん」
「外国語ということでしょうか? 聞く限り東欧系の言葉に思えますが……」
 シスター・クララも小首を傾げ、心当たりはない様子だった。私は何も言わなかった。皆目見当がつかないからというより、口の中にまだ春巻が入っていたからである。寒さ厳しい1月のニューヨーク、たった一つのラジエーターでは部屋もなかなか暖まらず、揚げ物はあっという間に冷めてしまう。軽やかな歯ざわりは失われ、ただ油っこさだけが残っていた。
「解らねェか。まァそんなこったろうと思ったよ」
 ブラザー・ウェンセスラスはそっけなく言い、それきりまるで何事もなかったかのように、自分の食事に戻ってしまった。ますます困惑したのはJ.Jだ。彼もこのチームに入って数年、そろそろ新米箒乗りの称号を返上してもいい頃だが、未だにチーフの奇矯な振る舞いには慣れていないらしい。
「いや、何!? 僕にも事情が解るように説明してくれないかい!」
「俺にだって事情なンざ解らねェんだよ。夜勤からイリーの奴が帰ってきたと思ったら、問題が発生したからすぐに行かなきゃならんと。書記局所属の悪魔どもがストを起こして、『フローシュカ』とやらを要求してるそうだ」
「書記局所属の悪魔?」
 細い眉をひん曲げながらシスター・クララが復唱した。今にも懐からポーランド・カトリック教会ご謹製の悪魔祓いセットを取り出しそうな物腰だった。
「ああ――いわゆるクリスチャン的悪魔ではないらしいンだが。まあ、『悪魔devil』というより『小鬼imp』みたいな連中だろう。魔術師が崇拝するんじゃなく、使役するタイプの奴だ」
「つまり、何かしらの異教や伝承由来の魔法生物なのですね。魔術師が使い魔に反逆されるというのはよく聞きますが……」
「そこでストを起こすンだから現代的だよ。悪魔ッてのはどの文化でも人間臭ェ連中だな」
「人間を誘惑するのに最も都合が良いのでしょう」
 彼女の食事はすっかり中断されてしまっており、デスク上ではほとんど手つかずの豆腐炒めが所在なげだ。私はやっと春巻を嚥下し終わったが、箱の中にはまだ2本半もが咀嚼の時を待っている。
「それは口に合わなかったの、シスター・クララ」
「あっ……いいえ、とても美味しいのですが、わたしには辛すぎたみたいで……」
 申し訳無さそうな顔で、彼女は赤く染まったテイクアウト容器を示す。
「あの店の料理にしちゃ珍しいな。せいぜい黒胡椒が効いてるぐらいなのに」
「20年そこら前はもっと辛いのばっかりだったンだよ」
 ニューヨーク在住歴70年のブラザー・ウェンセスラスが横から答える。 「まあ売れなかったンだろ」
「むしろ今こそ辛くして売るべきかもしれませんね、昔と比べて激辛好みは増えてきましたから」
 肩を竦めながら私は答え、デリバリー用のメニュー・カードを取り上げた。名前の横に唐辛子マークの書かれた料理は数えるほどしかない。
「食べてあげようか」
「よろしいんですか、せんぱい?」
「代わりに春巻きをあげよう」
 ありがとうございますと彼女は愛らしく微笑み、互いの紙箱が交換される。友誼に満ちた昼食時の光景だ。真っ赤な油が浮いた豆腐炒めはなるほど辛く、スプーンを進めてみれば、中に丸のままの唐辛子まで入っていた。ミネラルウォーターをもう1本買ってくるべきだったかもしれない。

「……って、何みんなあっさり問題をスルーしちゃってるのさ! もうちょっとこう、ブラザー・イリヤとかの苦労に目を向けてあげようよ!」
 ただ一人J.Jだけが、苦境にある他部署に対し親身なままだった。書記局に知人が複数いることもあるだろう。否、私やチーフたちも、というより世界魔術師協会ニューヨーク支部の職員は、多かれ少なかれ必ず書記局の世話になっているものだが、彼らに温情を掛けてやれるかどうかは別の問題だ。
「でも結局のところ、誰も何も心当たりが無いわけだろう、そのフローシュカが何かについて」
「まあ、それは全然解らないけど……」
「それじゃあ、余計に口を挟むより大人しくしているほうがまだ良いかもしれないよ。なにしろ彼らは調べ物の達人なんだから」
 ひりひりする舌を生ぬるい水で宥めつつ、私がいたって凡庸な意見を述べると、人のいい若者は無念そうに押し黙る。蔵書数世界一の魔術庫を有し、その隅々までを把握している彼ら書記局員たちに、情報の取り扱いで太刀打ちするのは難しい。悪魔のストを武力で鎮圧することにかけては、我々実働隊員のほうが長けているかもしれないが。
「彼らの手が塞がっている間、煩わせないように心がけるほうがずっと感謝されると思うね。例えば会員証を紛失しないとか」
「うっ」
 J.Jが言葉に詰まる。彼は昨年度だけで会員証を2回、確定申告用の書類を1回、ロッカーの鍵を1回紛失しており、最後の1件を除き、全て再発行の手続きを取った。ついでに箒そのものも一度破損させ、メーカー送付沙汰になったが、それは数に数えないことにしよう。とにかく、証明書や申請書、電子的には行えない各種の連絡など、協会に関連したありとあらゆる書類仕事を、一手に担うのが書記局なのだ。魔導書の調査が主任務の文献チームだって、手の空いているときにはそうした事務を手伝っている。
「私たちは万能の存在じゃあないのさ。自分にできることを見極めるのも魔術師の技能だよ」
 痺れるように辛いが肉や香草の風味も濃い、満足のいく豆腐炒めをやっと食べ終え、片付けも済ませたところで私は席を立った。キャンディバーの包みを開けていた後輩は、目を瞬いて私を見上げた。
「水でも買いにいくのかい、アイザック?」
「いいや」 私は首を横に振る。
「調べ物ではお役に立てないだろうけど、異界の住人への対処に関しては一応専門家なのでね」
「ああ! そうか、アイザックは召喚術師なんだっけ。妖精や悪魔にも詳しいし」
「そちらが本業だよ。最近はめっきり出番が減っているけれど」
 ロッカーから長いほうの杖を――短いほうは敷地内ですら持ち出しに許可が要る――取り出し、私は戸口へ向かう。と、何故かJ.Jもついてくる。興味津々といった顔だ。まあ別に構わないか、と私は思ったが、残念ながら他の同僚たちはより厳格だった。
「ヘイ、ジョニー・ボーイ、お前の活躍の場はもっと別にあるんじゃねェか。緊急出動を口実に数週間先延ばししてるロッカー掃除とか」
「待機室に山積みのまま放置しているコミックもです。先日ついにチーム・スタンレーから苦情の申し立てがありました。スクランブル時、ボール箱の角に足をぶつけて隊員1名が悶絶したと」
 ブラザー・ウェンセスラスが後ろから肩をがっちり捉え、シスター・クララは流氷に閉ざされたハドソン川のごとき目を向けた。こうなってしまえば逃げ道はない。言いがかりではなく事実だからだ。かくして掃除の苦手な24歳はすごすごと持ち場に戻り、私は書記局の使う別棟へ向けて、エレベーターの順番待ちという最初の関門に挑んだ。

  * * *

 世界魔術師協会ニューヨーク支部の中で、「ザ・マンション」と呼ばれる本館以外に建物を持つ部署は限られる。例えば生物管理部は、動植物に人間と区別された固有の環境が必要であるため。そして書記局は、世界一を誇る膨大な蔵書を安全に保管するためだ。彼らが入居する別棟、その名もずばり「ザ・ライブラリー」は、総面積の8割を閉架式の書庫が占めている。アール・デコを気取った本館と異なり、いかにも古書の詰まっていそうなネオ・ゴシック様式だ。戦前からここにあり、当時も書物魔術師ビブリオマンサーが所有していた。魔術の蓄積場所としては、世界魔術師協会より年嵩だ。
 いみじくも「本がなくては生きていけないI cannot live without books.」と――合衆国の父にして第3代大統領、トーマス・ジェファーソンの偉大な意志であり、ここに勤める人々の総意でもある――刻まれた壮麗な門扉は、魔力を通すことによって静かに開く。と、続いて登場するのは雰囲気にそぐわぬ自動ドアとICチップ読み取り機だ。今や魔術師の拠点も二段階認証の時代である。
「ブラザー・アイザック。各種書類の交付でしたら、こちらの申込用紙に――」
 受付係のソーサラーが、私の顔を見るなりカウンターから乗り出してきたが、今日の用件は全く異なる。私は軽く首を横に振った。
「文献チームは?」

 案内されたのは第2閲覧室だ。扉に貼られたコピー用紙には、「D案件:許可なき立ち入りを禁ずる」と極太ゴシック体で印刷されている。「D」は「悪魔devil」のDだろうか。私の頭には出処不明の格言がよぎる。「悪魔を家から追い出すよりは、戸口に留め置くほうがよい」……
 分厚い扉が目の前で開かれ、ひんやりとした空気が流れ出す。重厚な木の机と椅子、書見台や真鍮のランプが整然と並ぶ部屋――その手前に、見知った顔が何人も集結している。書記局が誇る魔導書のプロフェッショナルたちだ。
「ああ、誰かと思えばブラザー・アイザックじゃないですか! まさかマジでウェンの奴が?」
「いいや、自主的に。チーフは早々に忘れ去る構えだったから」
 正直な答えにうんざりとした溜息をつくのは、私より1フィートばかりも背が高く、そして白飛びしそうなほど色白の若者だ。彼こそがブラザー・イリヤ、夜勤明けの睡眠を無かったことにされた、ブラザー・ウェンセスラスの同居人である。
「ウェンの奴、箒乗りが出動しない案件はみんな他人事だ。いや、でも有難いですよ。みんな疲労困憊してる」
「そのへんは聞いたよ。悪魔のせいだって?」
 私が尋ねると、彼は黙って部屋の奥を顎でしゃくった。板張りの床に敷かれた長絨毯を目で辿れば、最奥にはガラス扉の付けられた本棚があり――それらの前に立ちふさがるように、小さな影がいくつも固まっている。
 悪魔に三分の一ほど魂を質入れしている身から見て、そこまで珍しい姿ではなかった。手足は毛むくじゃらで、額からは角が生え、背中にはコウモリのような翼。短い尻尾もある。私のみならず、伝統的な絵入りの聖書物語で育った人々なら、大体はあれを見て「悪魔だ」と言うだろう。
 ただ、いくらか風変わりな点もあった。まず、よく見ると眉がない。ぎらぎらと燃える目の上には、まるで剃り落としたように何の毛もなかった。それに足には踵もなく、かといって蹄が付いているでもない。そして最も風変わりなのは、めいめいが手にプラカードを持ち、高く掲げていることだ。
「地獄にも労組ってあるの?」
 部屋の中途まで進み出ながら、私はブラザー・イリヤに聞いた。 「ないから地獄なんだと思ってたけど」
「罪を犯して悔い改めなかったものが行くところでしょう」
 彼は気のない声で答えた。 「じゃ、ロシアの地獄にはたぶんありますよ」

 生粋のロシア――彼が誕生した頃は「ソ連」――人であるブラザー・イリヤは、極めて西側的な夢を叶えるため、サンクトペテルブルクからニューヨークにやってきた。つまり、マリインスキー劇場でオペラやバレエのプリモを目指すのではなく、ブロードウェイでミュージカル俳優になるという夢を。大部分の人々と同じく夢は叶わなかったが、幸い彼には歌と踊りのほかにも求められる技能があった。つまり、魔法とロシア語だ。
「ロシアの悪魔……いや、悪霊や妖怪のようなもの?」
「一応は。いや、ロシアに限った話じゃなく、あの辺り全般の……『ルーシ』の魔物ってことになるのかね。キリスト教の悪魔ほど邪悪でも強大でもない、ただし危険は危険」
「小悪魔ってところか。奉仕する種族だね」
「そう、立場が低いんですよ。地獄の大悪魔にこき使われることもあるし、人間にも――たとえば火が苦手だから、鍛冶屋には絶対に勝てないし、真の勇気や信仰を持つ人にも勝てない。魔法使いにもよくとっ捕まる。力じゃ勝てないから、なんとか人をそそのかしたり、騙したりして、悪の道に引き込もうとする」
 ところが現代では悪魔側の事情も変化しているらしい。今日び「三つの願いを叶えてやるから、死んだらお前の魂をよこせ」なんてのはあまりに非効率的だ。人間社会の成熟に合わせ、あちらも安易に極論を持ち出さなくなっているのだろう。
「つまり、現代ニューヨークで人間から何かをせしめたければ、悪魔的行為より平和的ストライキのほうが効果的であると」
 私はプラカードに書かれた文字を一瞥した。ご丁寧にも赤いカードに白抜きのゴシック体で、「Фуросика Для Чертям」とある。読めない。
「あれで『フローシュカ』と読むのかな」
「『フローシカ』です」 ブラザー・イリヤが訂正する。 「ロシア語ならの話ね。『悪魔にもフローシカを』」
 ところが人間側には要求の品が何だか解らない。婦人参政権運動や独立運動とは訳が違う。なにしろ相手も「フローシカ」が何だか解っていないらしいのだ。解らないがとにかく良いものらしく、それを人間が独占しているので、自分たちにも与えろと。
「代案での交渉は?」
「一切効果なし。お互い解らないんだから、もう無かったことにして解散してくれねえかなって思うんですけど」
 しかし、厳密に何だか解らないうちから要求しだすというのは、我々人間も似たようなものだ。自由や平等や平和の定義について、恐らく我々の誰も正しく説明することはできない。「フローシカ」もそうした概念的な存在だとすればどうだろう。ニューヨーク支部始まって以来の歴史的ムーブメントが、目の前では繰り広げられているのだろうか。

「ロシア語を含め、いわゆる東スラヴ語派に属する単語だろうとは思うんですけどね」
 部屋の手前まで引き返し、私たちはシスター・ヨシノの見解に耳を傾けた。彼女は東京支部からやってきた日本人だ。
「おれも思うけどさあ、でも諸外国はなんか、『なんちゃらシカ』だの『なんとかイカ』で終わる単語をロシア語と見なしがちじゃね?」
 ブラザー・イリヤは懐疑を示している。 「チャイカ、バラライカ、マトリョーシカ、ペレストロイカ」
「でも、今回はまさに東欧の悪魔が要求してるものじゃあないのかい」
「外来語をキリル文字で書いてるだけかもしれないでしょうよ。――せめてあれが単数形か複数形かだけでも判りゃなあ」
 机に思い切り頬杖をつき、彼は大仰な嘆息を漏らした。お手上げといった様子だ。ただでさえ難題であるばかりか、ろくに寝てもいないなら尚更疲れ果てるだろう。
「単数か複数かって、見て判らないもの? ロシア語は確か、語末がiなら複数形だと聞いたことがあるけれど――ピロジュキとかピエロギとか、あれは元々複数なんだろう」
「ピエロギはポーランド語っす。まあ、確かにそのへんは複数形なんですけど、みんながみんなиイーの音で終わるわけじゃないですよ。原型の語末によるんです。英語よりは複雑かな……」
 この場では唯一のネイティブスピーカーは、ろくに知識を持たない私のために、噛み砕いて説明をしてくれる。ロシア語には加算名詞と不加算名詞の区別がないこと、概念的なものや固有名詞でさえ時には複数形で扱われること、それによってニュアンスが変わってくることなどを。言語といえば英語とドイツ語ぐらいしか解らない私だが、新しい言葉に触れるのは楽しいものだ。つい聞き入ってしまった私は、本来の目的を完全にそっちのけにしていた。――話の途中からシスター・ヨシノが、はっと思い当たったような顔になり、何事かぶつぶつ呟きはじめたことも。
「――なんで、もし連中が単数形のつもりで書いたんなら、それは外来語とか、英語だとtheのつくような特定の個体とかいった……」
 いつもの陽気さが鳴りを潜め、幾分神妙な顔をしたロシア人が、説明をまとめにかかった時だった。やにわ机を打つ音と共に、
「ああーっ!」
 という、女史の喚声が上がったのは。

 閲覧室じゅうが静まり返り、問題対応に当たっている全ての局員たちが、シスター・ヨシノに視線を注いだ。総指揮官として落ち着き払っていた局長さえも、一瞬びくりと身を強張らせ、恐る恐るといった様子で、日頃物静かな魔女の顔を顧みた。
 彼女の頬は明らかに紅潮していた。黒い目は見開かれ、全身がわなわなと震えている。体積の測定法を発見したアルキメデス、万有引力の発想を得たニュートン、竹をフィラメントにすることを思いついたエジソン等は、みなこのような顔で運命の瞬間を迎えたのだろうと思わせた。いや、それにしては些か締まらないというか――感動と興奮に打ち震えているというよりは、何故こんな簡単なことにさえ気が付かなかったのだろうという、いくらかの恥じらいや屈辱の入り混じった面持ちではあったが。
 ともあれ、室内の注目を一身に集めた彼女は、何かを堪えるような少しの間を置いて、再び調子の外れた声を張り上げた。彼女にしてはあまりにも大きく、一切慎むところのない響きで、確かにこう言った――
「風呂敷!」

  * * *

 悪魔が事務労働に従事している。頭に一枚の布――「フロシキ」を被って。
 何らかの日本企業のロゴと思しき、図案化された漢字がプリントされたその布は、シスター・ヨシノの手によって三角形に折られ、悪魔のもじゃもじゃした頭を包み、顎の下で可愛らしく結ばれていた。このスタイルをロシア語では「バーブシュカ」すなわち「おばあちゃん」といい、日本語では「ホッカムリ」という(らしい)。
「おれはもっと深遠な意味のある言葉だと思ってたんだけどなあ」
 書見台の上に突っ伏しながら、ブラザー・イリヤがぼやいた。最初からそう予測していたというよりは、そうであってほしかったという願望が強く感じられた。睡眠不足の対価として得られた答えが、日本伝統の包装用紙、もとい包装用だというのは、いくらか拍子抜けだったのだろう。
「それか、一般人ならぬ一般悪魔には理解不能なこう……地獄のネット用語とか」
「地獄のネットね」 私は顔を背けながら笑いをこらえた。 「きっとダイヤルアップ接続だな」
 シスター・ヨシノも俯いて肩を震わせながら、「パソコンツウシン……テレホーダイ……」と、私のよく知らない呪文を呟いた。彼女が日本に住んでいたのはかれこれ二十年近く前だ。ビル・ゲイツが未だ世界一の億万長者であり、Googleはただの検索屋で、Appleが側面の透けたいやにカラフルな一体型PCを作っていた頃である。J.Jやシスター・クララにこんなことを言っても通じまい。
「いや、それにしてもさすがはヨシノだな! その『フローシキ』、じゃなくて『風呂敷』だって解ったどころか、すぐに実物を持ってこれるんだから。なあ、やっぱり日本人なら一家に一枚、みたいなもんなのか?」
「あっ、いえ……少なくとも今の子はそんなことないと思います。これはただ、私がまだ留学生だった時代に、実家の親が荷物の緩衝材も兼ねて送ってきたもので……」
「ああ……」
 どうやら洋の東西を問わないらしい「実家あるある」に、二人の魔術師はなんとも苦い顔をする。私はさすがに経験こそないものの、アメリカのご家庭ではしばしば、クリスマスに実家のグランマから世にも恐ろしい、救世主の降誕を通り越して受難と死を思わずにはいられないほど醜悪な柄の、かといって棄てるには忍びない暖かなセーターが送られてくるというのは、今や全世界的な共通認識となりつつある。
「しかし、日本人のヨシノはともかくとして、なんでまた連中はこの存在を知ったのかねえ――まさかと思いますけど、マジで地獄にネットってあるんですか、ブラザー・アイザック」
「私に聞かれても困るよ。うちの悪魔だって、やっと最近日本製のお掃除ロボットになったところなのに」
「うちの悪魔が日本製のお掃除ロボットに?」
 いたって真面目に答えた私に対し、ブラザー・イリヤは理解できないものを見る目をした。

 実際、東欧の悪魔がなぜ日本の風呂敷を知り得たのか、いくらお隣の国とはいえど無理がありはすまいか、という疑問は確かにあった。が、その疑問は同日の夕刻にきれいさっぱり氷解した。ニューオーリンズ支部への出張兼フィールドワークから戻った、書物魔術師のブラザー・ウォルフラム――生物管理部長バートラム・ワイデンライクの兄である――が、いともあっさりと答えを出したのだ。
「『フローシキ』だろう? 君が言い出したことではないか、ブラザー・イリヤ。たしか先日の、そう、第3書庫の棚卸しのときだ。君が彼らを連れていった」
 ブードゥーの秘本を閲覧し、また現地での儀式も見学して帰ってきたドイツ生まれのウィザードは、「ホッカムリ」スタイルの悪魔たちを指して事も無げに言う。
「マジで? そこでおれは何を?」
「君が正気を失っていた理由については解らない。寝不足かストレスか、一種のランナーズ・ハイのようなものかもしれないな。ともあれ、無言での作業に耐えかねた君は、彼らを相手に有る事無い事語り始めた。そのうちに、以前シスター・ヨシノから聞いた日本文化の話になった」
 日頃は血色のよいブラザー・イリヤの顔は、今や新雪そのもののように蒼白だった。記憶にない奇行がもとで、今日の自分と同僚たちが苦しんだのである。心境は察するに忍びない。
「曰く――東の果てウラジオストクのさらに先、オホーツク海を超えた向こうには、世にも不思議な魔法の布が存在する。その布はたった一粒のダイヤモンドから毎日の昼食、また人の首からその魂までなんでも包むことができ、光に透かせば向こうが見えるほど薄く、どんな力で引いても破れないほど強い。正に不朽の宝であり、故に千年の時を耐え抜くこと叶ったのだ――」
 他方、ブラザー・ウォルフラムは淡々と当時を思い返し、陽気なソーサラーの言行を陽気さのみ取り払った調子で再現した。奇想天外とまではいかないが、唐突に言い出せば正気を疑われるだろう話は、このように締めくくられた。
「これが名品であることは、我らルーシの言語と奇妙な共通点を持つことでも一目瞭然だ。包み焼きパンピロジュキ水餃子ヴァレーニキ、また女性たちジェーブシュキがそうであるように、素晴らしいものにはなんでも指小辞がつく。ゆえにこの品も同じように呼ばれる――フローシキと」
「シトー・ザ・チョールト!」
 頭を抱えていたロシア人は、とうとう天を仰ぎ母国語で叫んだ。その意味までは解りかねるが、語勢と表情から察するに、公共放送では電子音と口元のモザイクでもって処理される類の表現なのだろう。
「ロシア語が下手か! お前ら仮にもおれと意思疎通できる仲だろ! そんな――『иで終わるんだから複数形だな、じゃあ単数形はフローシカだろう』みたいな単純な考えでいいのかよ! あと、『何らかの布だ』ってことだけでも解ってたなら先に言えよ!」
 彼は極めて口汚い話し言葉でそのようなことを言い(内容はブラザー・ウォルフラムが上品に通訳してくれた)、今や上機嫌で古文書の写本に取り組む悪魔たちへ食って掛かった。自分自身も言動をすっかり忘れ去っていたことや、与太話の発想が先刻の我々と同レベルであることは完全に棚上げだ。私の背後でシスター・ヨシノが吹き出した。

「気持ちは解るよ」
 肩越しに振り向いてみると、シスターはあくまでも東洋的アルカイック・スマイルを保ちながら、しかし意志に反して釣り上がってくる口角に苦戦していた。
「いえ、違うんです……違わないですけど、でも別に馬鹿にしているとかではなくて……」
 彼女はなにか弁解のようなものを二、三ばかり口にした後、先刻の私のように俯きながら顔を背け、喉を震わせながら絞り出すように言った。
「日本の慣用句なんですけどね、その――さっきのイリヤ君みたいに、なんでもないことをやたら大げさに言ったり、ありもしない壮大なほらを吹いたりすることを、『大風呂敷を広げる』って言うんです……」

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