栄光あれグローリア!」 青年は詠嘆した。 「栄光をグローリエ――栄光のためにグローリウム――おお、栄光よグロリオーサ!」

栄冠をきみに -Glorified Glutton-

 それはあたかもラテン語の文法の授業めいていたが、実のところ全くのでたらめだった。栄光gloriaという単語がそのように格変化することはない。彼にラテン語の技能は(努力した形跡は認められるものの)残念ながら無かった。要するにただの格好つけた似非ラテン語ピッグ・ラテンである。

 青年、マンフレート・アルノーは長身の、隙のない風采を備えた男だった。彼は諸外国の人々が「ドイツ人」と言われて即座に思い浮かべる、前時代的なステレオタイプそのままの見た目をしていた――すなわち、淡く明るい金色の撫で付け髪と、白くきめ細かで血色の良い肌、アイスブルーの大きな瞳、すっきりと通った鼻筋、無駄なく筋肉がついて引き締まった身体、等の持ち主だった。これが80年前であったなら、その端麗な容姿は紛れもない北方人種の鑑として、ナチ党の機関紙の一面を華々しく飾ったことだろう。生憎と(もとい、幸いにも)今は21世紀であり、なおかつここは世界魔術師協会ライプツィヒ支部という、個人の容貌の立派さなどまるで問題にされない場所であったから、彼の外見を持て囃そうという者はいなかった。林立する本棚も、標本や資料が詰め込まれたスチールの書架も、彼に向かって賞賛の言葉を投げ掛けたりなどしない。現在、彼の周りには無生物のみならず都合二名の人間がいるが、その両者ともそうだった。
 彼は無意味な呼びかけを止め、まだ幾分か夢見るような表情を浮かべたまま、オフィス用のアームチェアをくるりと回して会議机に向き直った。そこには色も形も分類もさまざまの品を撮影した写真が、重要物件でございと誇示するかのように並べられている。銀鍍金めっきの施されたブローチ、焼け焦げた黒い布の切れ端、半分ほど溶けかかった蝋燭。加えて唯一の現物が、燃え立つような大輪の紅い花。
「グロリオーサ。それとも、ルーメスクローネ」
 紅蓮の炎を思わせる、波打つ花弁に目を向けながら彼は呟いた。
栄誉の冠ルーメスクローネ! まったくだ。こんなにも鮮烈で、情念深く信実で、光輝の人の頭上に掲げられるに相応しい花もない。彼の人・・・は確かにこの勲章を享けるに相応しい者だったのだろう。そして――」
 語調がまた段々と芝居がかってくる。だが、声のトーンが最高潮に達するより先に、真向かいの席から物言いたげな咳払いが言葉を遮った。青年がちらと目を遣った先には、品の良い灰色のスーツを着た中年男性が、いかにも中間管理職として苦労する日々を送っておりますと言わんばかりの顔で、控えめに視線を投げ返していた。
「――そして、栄誉に伴う闇を負うに値する者だったのかもしれない」
 僅かな間の間に、青年は身の程を弁えることに決めたようだった。年齢不相応な厳かさをもって彼はそう述べると、机の上に伏せて置かれていた、二枚の写真のうち片方を表に返した。短く整えられた黒髪の、人の良さそうな、しかし僅かに幸の薄そうな気配を持つアジア人の男性が微笑んでいる。この人物と場に集う彼らには、今までに何の関係もなかったし、これから関係が生じることも絶対になかった。既に死んでいるからだ。

 ライプツィヒの街中で誰かが死に、そこに事件性が認められた場合、当然ながら真っ先に連絡が行くのはこの国の警察組織である。世界魔術師協会はあくまでも学術研究のための互助会であり、法執行機関ではない。ところが、その死に魔術が関わっているかもしれないとなれば話は別だ。ザクセン州警察からやってきた二人の刑事が、ライプツィヒ支部の古めかしい門を叩き、捜査への協力を求めたのは10月の終わりのことだった。然るべき部署に通達が成され、支部が誇る腕利きのウィザードたちが調査チームに加わった。マンフレートのところへ話がやってくることはなかった。要するに彼は、ライプツィヒ支部の上役たちにとって非常に優先度の低い人物だったのである。
 ところが彼にとって、自分が軽んじられているということは何の問題にもならなかった。そのことを特別不愉快に思っているでもなし、余計な義務に縛られることなく好きにやれるので気が楽、といったところだ。彼はこの事件を新聞で目にし、支部に協力依頼が出ていることを受付の事務係から聞くや、誰に求められてもいないのにたちまち奮起した。様々な情報収集手段を駆使して事件の詳細を調べ、調査チームに掛け合って(あるいは半ば強奪するようにして)証拠品の写真を撮ったり文書の類をコピーしたりし、自らが本拠地とする研究室へ運び込んだ。
 これらの行為に対し、まっとうな魔術師たちは無論眉を顰めた。自分の部署が仰せつかった義務さえ果たせないものが、他部署の仕事にあれこれ口出ししようなど笑止千万。そもそも、こちとらは魔術師協会の活動理念に基づき、社会秩序への貢献や平和な生活の維持、より正確で実用的な捜査法の確立、そうしたもののために知の力を用いているというのに、ぽっと出の趣味人が横からしゃしゃり出るとは、なんと倫理観に欠けたことか。ただの探偵ごっこではないか。
 このぽっと出の趣味人が倫理観を欠いているのは、否定の余地の一切ない事実であった。あまつさえ彼は数々の批判についてこう口にし、ますますお偉方からの顰蹙を買った――「それはそうさ、ただの探偵ごっこだとも。ぜんたい私に形式以上の義務感や正義感なんてものは端から備わっていないのでね」。

「酸鼻をきわめる事件だ。29歳の男性がある日、強烈な渇きを訴えて病院に駆け込んだ。口から喉にかけての焼けるような痛み。やがて全身に痛みは広がり、とりわけ胸部のものは激甚だった。息もできなくなる程に」
 そんなごっこ遊び上の探偵である彼が、頼まれてもいないのに課内の同僚たちへ語った事件のあらましは、一般のニュース番組で報道されたものと全く同じであった。言い回しが多少くどくなっただけだ。
「三日三晩苦しみ抜いて彼は死んだ。秋雨のそぼ降る10月24日の朝のことだ。さあ、魔術師たる者は尽力しなければならない、彼を死に至らしめたものが何だったのか、理性と機知で解き明かさなければ。この哀れな東洋の紳士、タナカ氏の無念を晴らすために」
「うん? ……タニナカ氏ではなかったか、マンフレート?」
 中間管理職めいた中年男性が疑問を呈した。
谷中ヤナカさんよ」
 続けざまに声を発したのは若い娘だった――若いというより、ドイツの成人男性から見れば「幼い」の域だった。会議机を囲んだ三人のうち最後の一人は、被害者と同じ国からやってきた少女だ。鴉の羽根を思わせる艶やかな黒髪を、肩のところでざっくりと切り揃えた、飾り気の全くない頭。髪と似た色の大きな目は、邪険な視線を伴って青年の澄まし顔へと向けられていた。そうした顔のパーツのどれを取っても、愛らしく整った形をしている。こんな場所で不機嫌そうに頬杖をつきながら、銅版画の挿絵が入った大判の魔導書を前にしていなければ、誰も彼女が魔術師だとは思いもしないだろう。
「ああそうか、これは失敬。ではそのヤナカ氏の悲劇の原因について、共に建設的な論議を交わそうじゃあないか、フロイライン」
 人死にの調査に携わっている最中にしては、あまりにも甘く優雅な微笑を湛えながら、青年は黒髪の娘をそう促した。ところが、彼女は僅かに頬を膨らませ、つんと黙って顔を背けるばかりだった。
「フロイライン?」
 小首を傾げながら彼は再度呼んだが、やはり何のいらえも無かった。
「これは、さて、何かしら返事をしてくれなければ話が進まないのだけれどな。ねえ、リコ――」
「あたしのこと『お嬢さんフロイライン』なんて呼んだら返事しない、って言った」
 やっとこさ返ってきたのは、つっけんどんなこの一言。聞くだけで相手に敵意を持っていることがありありと伝わってくる、そんな声である。視線は変わらず正反対の方向へ。引き結ばれた口元が、彼女の片意地なところを言葉なくして物語っていた。

 完膚なきまでに素気無くあしらわれた青年はというと、それを別段気にかけるでもなく、ただ平然と気取った調子でこう言い直した。
「解ったよ、シスター・リコ・サガミ。不適切な扱いをお詫びしよう。その上で、改めて君に協力を求めよう。君とタナカ氏とは同じ日本人だ。我々ドイツ人にはできなくとも、君になら思い至ることがあるかもしれない」
 娘は決して青年の顔を直視しようとはしなかったが、それでもようやく会話をする気にはなったようだった。頬杖はついたまま、もう片方の手で魔導書を机の端へ追いやりながら、彼女は言った。
「もういい。あんたを放ったらかしてもますますウザくなるだけだし」
 そして更に一言付け加えた。 「あとタナカじゃなくて、ヤナカ」

  * * *

 マンフレート、というのは歴史的に見て特段珍しい名前でもないから(1970年代以降はすっかり下火の名とはいえ)、彼と同名の人物は多々いるが、なかでも著名なものは二人。かたや百年前のドイツが誇った撃墜王であり、かたやバイロン卿の劇詩の主人公だ。マンフレート・アルノーがそのどちらに近いかといえば、間違いなく後者だった。彼は戦闘機乗りの勇猛果敢さとはおよそ縁遠かったし、自らの力で空を飛んだことなど一度もなかった。本人は断固として認めたがらないが、実は高所を苦手とする性質でもあった。だから地面に這いつくばって草花ばかり見ているのだと、口さがない人々は言う。
 無能な怠け者、勘違いした貴族かぶれ、上辺だけしかない偽善者。人間の命など全く気にかけない、倒錯した植物性愛者。彼はライプツィヒ支部の生物管理部危険動植物管理課――この極めて長ったらしい呼び名が用いられるのは公的書類の上のみであり、通常は「悪魔の花園トイフェルスガルテン」とか、あるいは単に「庭園デア・ガルテン」とだけ呼ばれる――で、赴任した六年前からずっとそのように評価されてきた。命じられた仕事はできない、そのくせ頼んでもいない仕事には首を突っ込む、言動が現実に即していない、ロマン主義に取り憑かれている、百歳ぐらいサバを読んでいるのではないか、云々。
 批判的な人々にとっては不都合なことだが、前述の通り彼はこれらの評価を歯牙にもかけないどころか、褒め言葉だと思ってさえいた。「自分は高所恐怖症ではなく、目に見えて明らかなリスクを常に回避する堅実な人間であるだけだ」という抗弁を除けば――現実が見えていないとか魔術師として不適格だとか研究者の倫理を備えていないとかいう悪評には、いつでも完璧に繕われた、装丁本の挿絵に出てくる美青年めかした笑みと共に応えるのだ。
「それで結構なことじゃあないか。私は魔術師でも研究者でもなくて、ひとりの好事家ディレッタントに過ぎないのだから」
 彼は今朝方も、同僚である中年紳士から過ぎたる好奇心をたしなめられ、同じような台詞と共に一蹴したばかりだった。所属する課の管轄である植物園(言うまでもなく毒草ばかり植わっている)の丹念すぎる手入れが終わった後、遅い昼食を取る間もなく、紳士と若い娘は会議机の周りに呼び集められた。写真や資料の束を手にした青年が、勿体つけながらそれらを陳列している間、晩秋であることを差し引いても冷たすぎる空気が流れていた。そうした胡乱さの果てに、この現状が存在するのである。

「つまり、我々は検討しなければならないんだ。大きく分けて二つの可能性を」
 改めて証拠写真を一瞥し、白皙の青年は言った。
「まず第一に被害者が訴えていた通り、ルーン魔術による一種の呪詛という可能性。これは問題なく、十分に、有り得る話だ。ゲルマンの民は千年の昔から、彼の文字ルーネを用いてきた。ヴァイキングの戦士が、中世の占い師が、ナチスの高官が――自らに勝利を、敵には死を齎すために」
 蝋燭に刻まれた図形の複写を、白手袋に包まれた指が緩やかになぞった。垂直線に左上から斜線を加えた形。その下にはちょうど三本歯の熊手を、柄を上にしてまっすぐ立てたような形。
苦難ナウシズ、こちらはエイワズ。どちらも強烈な意味を持つ文字だ。とりわけエイワズの本来の意味は『イチイの木』だから、これは我々にとっても縁の深いものだと言えるかもしれないね」
 種子に強い毒性を有する針葉樹の名を、彼はどこか愛おしげな声で囁いた。それから手を紙面より離し、燃えさしの蝋燭を示すように向けた。
「『呪いだ、あれのせいに違いない』……あれディーというのが正にこの蝋燭ディー・ケルツェであるのは疑いないだろう。被害者には呪われる心当たりがあったわけだ。もちろん、呪術についての少なからぬ知識も」
 成就させたい事柄を何かに刻んでそれを燃やす、というのは極めて原始的かつ一般的な呪い(「のろい」としても「まじない」としても)の方法である。今回はたまたまそれが蝋燭だっただけのことで、場合によっては木片であったり紙人形であったりする。ドイツのみならず東洋、日本でもそうだ。
「その蝋燭はヤナカ氏の自宅の屋根裏で見つかった。何者かが侵入して設置し、彼の与り知らぬ間に燃やしていたのだろうか、それとも……どうあれ彼はふとした拍子にそれを見つけて恐慌した。誰かが自分に呪いを掛けているのだ、と」
「だがマンフレート、それはあくまでも推測だろう」
 中年の紳士が青年の言葉に口を挟んだ。それを受けて青年は、
「幾らかはそうですね、ブラザー・ライムント・オーベルシュトルツ。私だって彼の家を覗いたことは一度もないし、彼とは生前も死後も顔を合わせたことすらない。彼が呪いの存在を主張していたことは証言が取れているものの、どういった経緯で主張するようになったのか、我々には推し量ることしかできない……実に残念で、だからこそ意欲の湧く話だ」
 と首肯して答えた。横から娘の呆れたような溜息が添えられた。すかさず彼はそちらへ顔を向け、話を続ける。溜息の原因になどまるで気付いていない風に、鷹揚な態度で。
「それから第二に、リコが言うところの――」
 ちょっとした間。
「ヤナカ氏が日本人であったがために、グロリオサの根をある種の芋と間違えて食べたことによる食中毒、という可能性」

 また暫しの間。二度目の大きな溜息がその空隙を埋める。
「ええと……ヤムイモだったかな?」
山芋ヤマイモ。ヤマノイモとかジネンジョとも言うけど」
 娘が青年の言葉を訂正し、苛立ちを隠そうともしない言葉を重ねた。こんな「探偵ごっこ」に付き合わされるのはもううんざりだとばかりに、よくよく尖った険のある声だった。
「だからさあ、絶ッ対にただの食中毒なんだってば、呪いなんかじゃなくて。特に持病とか怪我のない人が、ある日突然よく解らない理由で全身が痛くなったら、まず真っ先に疑うべきは『何か悪いもん食べたんじゃないか』だと思わない? なんでみんなして呪いだの魔法だの言ってるのかが解んない、あたしは」
 言いながら、彼女は机の上に並ぶ写真の一つを取り上げた。それは現場から見つかった証拠品ではなく、資料として植物図鑑からコピーされたものであった。被写体は、人間の手首よりやや細い程度の、土に塗れて長く伸びた薄茶色の根だ。僅かに捻れながらも、その形は概ね直線状である。表面は滑らかで、洗って煮るなり焼くなりすれば、実に美味しく頂けそうな見た目だった。
「そんなに似ているものかね、その、ヤマイモ……と、グロリオサの根は」
「似てる。すっごい似て、いや、隣同士に並べて比べたら違うんですけど、こうして単体で見たら『ああ、ちょっと育ちの悪かった山芋だな』って思うぐらい似てます」
 中年紳士のやや訝しげな問いに、しっかりとした頷きでもって応える娘。言葉尻も先程までの刺々しいものではなく、やや丁寧で丸みのあるものに変わった。もっとも、それは自分の主張に確信を持っているからというよりは、青年と違って人間的に信用できる者が相手だからという理由だろうが。
「なるほど、ヤナカ氏が訴えた『呪い』と、グロリオサによる中毒の主な症状はとても似通っている。口の渇きや灼熱感、全身の強烈な痛み、とりわけ胸の激痛、やがては呼吸不全を起こして死亡――と。言われてみれば、我々の立場を考えてもこの説を推すのが先決のようだね。仮にも『危険動植物管理課』なんて場所にいるのだから」
「仮にも、ね」 青年が会話に入った途端、娘の声が露骨に冷たくなった。
「そう、あくまで仮よ。ねえ、いつになったらあたしはこんな苔むした墓場みたいな部署じゃなく、妖精管理研究課に行かせてもらえるわけ。あたしは本来そこに所属させてもらうって約束で留学してきたのに、手違いだって言ったきり、」
「まあ、まあ、フロイライン! ……もとい、リコ。君の配属先については本当に、我々ではどうしようもないことだよ。何せ、ライプツィヒ支部の人事局は国内でも屈指の腰の重さで有名だから……今のところはもっと、それこそ妖精と同じぐらい夢想的で趣深いことについて考えようじゃあないか。例えば――」

「例えば」
 咳払いに続いて、この場の最年長者が割り込んだ。こうして幾度となく周囲が止めにかからない限り、青年のお喋りが途絶えることはないのだった。止めにかかっても無駄になることが大半だが。
「現実に起きた殺人事件を夢想的だとか趣深いとか言う君の気持ちは、生憎と私には理解し難いのだがな、マンフレート。それでも君の言葉に倣うなら、例えばグロリオサによる中毒説が、本当に正解かどうか確かめるための補強を探す、といったことだろう」
「そうとも! いくら食中毒のほうがありそうな話だからといって、安易にその説を採るわけにもいかないからね。ライプツィヒの一般的な小売店や、毎週日曜の朝市だとかで、そのヤマイモが売られているところを私は見たことがない。ヤナカ氏もきっとそうだったろう。恐らくそのヤマイモ、だと思われたグロリオサの根を、彼は購入するのとは違った形で入手したはずだ」
 右の人差し指をぴんと立て、あくまで深刻さのない調子で青年は語る。冷ややかな目を向けながら聞いていた娘も、そこでふと、
「……確かに、あたしも見たことない。で、日本からドイツへは、生の野菜は個人じゃ送れないんだよね」
 と相槌を打った。
「受取人が輸入のライセンスを持っていない限りは駄目だね。さて、ヤナカ氏は個人輸入業者ではなかったし、恐らくはこの免許を所持していないことだろう。後で確認してみよう。所持していないとなれば、彼はドイツ国内で何者かから贈られたのか買ったのか、そうだとすると相手に故意はあったのか――なにしろ彼には呪われる心当たりがあるのだからね。呪いでなくても毒殺されるだけの理由が見つかるかもしれない」
 青年はますます好奇心旺盛そうな面持ちになり、口元は綻び、甘美で華やかな歌曲リートのひとつも歌いだしそうだった。その上機嫌さのまま、彼はやにわに娘へと向き直り、少しばかり毛色の異なる質問を投げた。
「ところで聞きたいのだけれど、リコ、そのヤマイモというのは」
「何?」 相も変わらず突き放したような響き。
「日本ではどうやって食べるんだい? 芋といっても食べ方は色々思いつくけれど――」

 そんなことを尋ねられるとは思ってもみなかったのか、娘は一瞬その黒い目を真ん丸くして、返答に詰まった。が、すぐに気を取り直し、「何故そんなことをいちいち教えてやらなければならないのか」という不服さをたっぷり滲ませた上で、不承不承語って聞かせてやるのだった。
「まあ、一番よくあるのが『とろろ』っていう……ヤマイモはすり下ろすと粘り気が出るの。それをご飯に掛けたりして食べるのがメジャーじゃないかな。でも、あたしは粘っこいのは嫌い。普通に皮むいて適当な大きさに切って、お醤油かけるとかバター焼きにするとか。おばあちゃんは素揚げ……えっと、衣をつけないでフライにしてた。そうするのが一番美味しいからって」
「素晴らしい! 私も……私にとって芋といえばジャガイモのことだけれど、やはり芋というのは飾らないのが一番いい。ベルギー本式の揚げ芋フリッツなどは正にそれだ。表面が黄金色に、縁のあたりは幾分焦げてコーヒーの粉を纏ったようになった、その頃合いが揚げ物の最良なんだ。それを端から齧ってゆくと、最初はかりかりと、それから火の通った芋のほっくりとした柔らかさに移り変わって……」
「ジャガイモの話は今してないんだけど」
 胸躍るような青年の嘆賞を、娘は一言で切って捨てた。自分の話を無視して勝手にことを広げてもらっては困る、という断固とした意志の感じられる声量だった。
「とにかく、まあ、食べ方としては普通の芋よ。ジャガイモと違って生でも食べられるってぐらい」
「そうか、そう――ヤナカ氏はきっと、その『トロロ』では食べなかったのだろうな。グロリオサの根はすり下ろしても粘りが出たりしない。その点ではジャガイモや、その他の根菜と同じだ。もしかしたら彼も君と同様、粘りのある食べ物が嫌いだったのかもしれない。不運なことにね」
 とある食べ物のとある食べ方の一つが苦手だったからといって、死にはしない。本来は。だが今回ばかりはその好き嫌いが生死を分けたかもしれない。彼がその根をすり下ろしていれば、あるいは手にした「芋」が食用でないことに気が付いたかもしれない――後からならいくらでも言える。所詮は部外者の推論である。

「『トロロ』の話はともあれ、それはぜひとも食べてみたいものだ。ああ、ライプツィヒでは手に入らないらしいのが残念極まりないな! 栽培しようにも、我々の植物園には既にグロリオサが植わっているからなあ、有毒植物と同じ土壌で食用の野菜を育てるなど、あってはならないことだし」
「……常々思うのだが、君はよくそうした得体の知れない食べ物に手を出してみる気になるものだな、マンフレート。私はとても試す勇気が出ないよ、ましてこのような話を聞いた後では」
 中年の紳士は呆れたような感心したような顔で、後輩である青年にそんな言葉を向けたが、特別揶揄の気持ちは込められていなかった。青年のほうもそんなことは先刻承知であったのか、軽やかな笑い声と共にこう返すのだった。
「あなたが食に関して保守的なのはよく知っていますよ、ブラザー・ライムント。でも、探究の対象が植物であれ殺人事件であれ食べ物であれ――はなからこうだと決めてかかるのは宜しくない。危険がないことさえ解れば、あとは気軽に手を出してみることですよ、好事家ものずきとしてはね」

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