心地よい夢路の床に就くために、アブサンと一冊の本ほど適したものはない。

バカンスの前に -Snake in the Grass-

 ましてや、上半期の仕事に一区切りをつけ、長い休暇バカンスを目の前に控えているときなどは、尚更彼らの導きが愛おしくなる。旅行の前には誰だって、期待と興奮のあまり眠りが浅くなるものだ――そう信じてやまなかったので、青年は独り喫茶室の奥に座していた。19世紀のウィーンをそのまま写し取ったような、華やかなカフェの内装にも全く見劣りしない、いわゆる夜会服の出で立ちで。
 彼は上等のドレスシャツとウエストコートに、臙脂のボウタイを締め、黒い革張りのソファにゆったりと身を預けている。左手で器用に頁を繰るペーパーバックは、表題と作者から察するに推理小説である。そして右手は時折サイドテーブルへと伸び、白く濁った薬草酒を満たしたグラス――丸い液溜めの部分を備えたクラシカルなデザインの――を引き寄せ、口に運んだ。そのたび彼は僅かに、ほんの僅かに唇の端を上げ、満足げにふうと息をつくのだった。
 ドイツの夏は日暮れが遅いといえ、もう時刻は夜の9時を回っている。「カフェ・アリバイ」には未だ煌々とシャンデリアの灯りが点いていたが、銀線細工の施された窓の向こう、ライプツィヒの古い街並みはすっかり宵闇に閉ざされていた。青年はあくまで紙面上の物語に傾注しながらも、時折そうした風景に目を遣り、明後日の朝には自分もこの通りを急いて行くのだ、足取りも軽やかに中央駅まで、大きな革の行李を抱えて――等と夢想した。

 それから暫し、彼は何度かソファの上で脚を組み替えながらも、基本的には大人しく読書に興じていた。と、可能な限り足音を控えた歩調で、一人のウエイターがその側まで近付き、
「お楽しみのところ失礼致しますが、アルノー様」
 と静かに呼ぶ。 「そろそろお出掛けの時間でございます」
 青年、マンフレート・アルノーは聞き分けの良い――いついかなる時もとは言えないが、少なくともこの店の中では表面上聞き分けの良い客であったから、左手で本を伏せて顔を上げ、鷹揚に頷いてみせた。
「ああ、これは失敬、知らせてくれてありがとう」
 夜遅くまで「カフェ・アリバイ」に滞在する客として、彼はウエイターの台詞が意味するところをよく解っていた。何のことはない、「お出掛けの時間でございます」というのは要するに、「閉店の時間だからさっさと帰ってくれ」である。  クロークから運ばれてきた上着を元通りに羽織り、手袋を嵌め、彼は絨毯張りの通路を出口へと向かう。ドアマンが重たい扉をうやうやしく開け、静寂の満ちた夜の街へと道を繋げた。
「やあ、綺麗な星空だな。きっと明日明後日は晴れるに違いない。幸先の良いことだよ」
「左様でございますね」 とドアマンが言う。 「よい休暇をお過ごしください、アルノー様」
「ありがとう、勿論楽しんでくるさ」
 青年は答え、さらに決まり文句として、君たちもよい夏をとかなんとか付け加えるつもりだった。が、彼の唇がそうした社交辞令を紡ぎ出すより、それ・・のほうがいくらか早かった。

 それは甲高く、かつ調子外れに、長々と夜更けの路地に木霊した。オペラ歌手のロングトーンに現代音楽家が前衛的なエフェクトを掛けたような、随分と個性的な悲鳴であった。青年とドアマンは互いに顔を見合わせ、事態の把握に努めようとした。
 幸い、そこまで勘と推察力を働かせなくとも、事態は向こうから主張しに来てくれた。通りに面するアパートの玄関口から、中年の女性が転がるように飛び出してきて彼らを見た。それから間を置かず、彼女は道を渡ってカフェの正面に辿り着き、二人の傍観者に大声で訴えかけた。
「助けて! ああ神様、――早く来てちょうだい、ヘビよ! ヘビがいる! たくさん!」
「私は神様ではありませんがね、御婦人、落ち着いて」
 青年は分別くさい表情を作り、柔らかな声でもって哀れな女性を宥めようとした。 「ヘビがいる?」
「そうよ、ヘビよ! たくさんいるの、みんな毒があるわ! 毒が!」
「ヘビのことはよく解りました、御婦人。あなたのお部屋にいるのですか?」
「エアハルトの部屋よ!」 女性の声はますますヒステリックになった。 「一階の!」
「一階の何号室です?」
 その口から「一階」という単語を聞いた瞬間、ドアマンには青年がふっと安堵したように思われた――表情に何の変わりもなかったが、心情は確かに変化したと感じたのだ。しかし、一階であることに何の安心があるのだろう?
「A2よ、A2! アー・ツヴァイ!」
「A2号室ですね」
 青年は頷き、続いて隣に視線を遣った。
「君、電話を貸してくれたまえ。市の保健所と、それにライプツィヒ市爬虫類センターにも連絡しなくてはならないからね。もちろん時間外だが、幸い所長の番号なら知っている……」
 職務上付き合いが多いのでね、と彼は言い、ホットラインの存在と携帯電話の不在をドアマンに伝えた。否、携帯電話自体は持ち歩いていたのだが、数日前から充電するのを忘れていたのである。

 店内に駆け込んだドアマンが、電話の子機を持ってくるまでの間、青年は通りの向こうにあるアパートの、問題のA2号室に目を向けていた。外観には何の変哲もない。だが中にはヘビがいる――それも「毒がある」ヘビが「たくさん」いる。といっても、あくまで女性の話を全面的に信用するならの話であり、実際どの程度の数がいて、そのうちの何匹が有毒かなど、見てみないことには解らない。彼はスエードの手袋を外すと、鞄の中からもう一組の手袋――黒い革で作られた、肘までをぴったりと覆う長さのもの――を取り出し、袖の上から腕に通し始めた。
 程なくしてドアマンが戻ってきた。青年は記憶にあるとおりの番号を正確に押し、ベッドに入って一時間は経っていただろう爬虫類センターの所長を叩き起こし、夜勤に入れるスタッフを寄越してくれるよう頼んだ。首尾良く都合がつくと、通話を切り上げて子機をドアマンに返し、「では行ってくるよ」と一声、颯爽と通りへ飛び出した。
「ああ――そうだわ!」 未だ喚き続けていた女性が、その背に向けて叫んだ。
「ヘビもいるけど、あれもあるのよ! あの、あの――」
「あの、何です?」 ドアマンが穏やかに聞いた。
「あの、死体よ! ヘビのじゃなくて、人の!」

 そう広くもない通りを挟んで、青年とドアマンは再び顔を見合わせた。奇妙に間延びして感じられた数秒の後、彼らはめいめい為すべき仕事に戻った――青年はA2号室の扉に手を掛け、ドアマンは手元の電話機で112をコールした。

  * * *

 必要な魔法は「灯火」に「保護」、「静謐」そして場合によっては「鎮静化」だ。
 青年にとってはどれも無詠唱で発動できるものばかりだった。しかし、こうした初歩とされるものほど実用性は高いのだ。アパートの部屋ひとつを吹き飛ばせるような攻撃魔術を知っていたとして、今この状況でなんの使い道があろうか。まあ、最悪の事態に至った場合は役に立たなくもないだろうが、然る後にザクセン州警察と裁判所から、あまり面白くない呼び出し状が届くのは間違いない。
「素晴らしい」
 青年は零した。あと数分遅ければ、現場に到着した法執行官たちから、冷ややかな視線を浴びせかけられたろう言葉だった。
 「灯火」の淡い光に照らされ、手狭なアパートの一室は白く浮かび上がって見えた。手狭といっても、元々はそれなりに広々としていただろう部屋だ。狭苦しく見えるのは、壁中を覆い尽くすように積み上がった水槽のせいだ――それに加えて今はヘビもいる。

 そう、ヘビがいる。本当に「たくさん」いる。たとえば今正に青年の足元でとぐろを巻いているのは、滑らかな皮膚を持つオリーブパイソンだ。引き伸ばせば2メートルは下るまい、十分に成長した個体だ。名前のとおりオリーブ色をした鱗は、白い光を反射して艶やかに輝いている。
 あるいは背の高いルームランプに、白い斑模様のあるエメラルドツリーボアが這い登り、金色の目で青年を見下ろしている。パイソンほどではないが、これも比較的大型のヘビだ。気性の荒さで知られ、鋭い牙で飼い主を咬むこともままある――が、毒はない。
「やあ、御機嫌よう、お嬢さんフロイライン
 アイスブルーの目をしっかりと据えたまま、青年は貴族めかした口振りで言った。その個体がメスだと感付いたからだ。
「君の名はなんと云うのだい? まさか愛想もなくただ『シュランゲ』とか、『コラルス・カニーヌスCorallus caninus』とか呼ばれていた筈はないだろう?」
 もちろん青年は蛇語など習得していないので、情報は観察によって得るしかない。振る舞いかたや鱗の状態を、それぞれ真剣に見定めてゆく――飼育状態は良好だったようだ。目立った体調不良や空腹のサインはない。
 彼は更に視線を動かし、室内の生物たちを順繰りに確認していった。鉢植えとクローゼットの隙間から顔を覗かせるのは、白黒の縞模様が美しいカリフォルニア・キングスネークだ。原産地である北米大陸でも、しばしば狭い岩の隙間などに潜んでいるという。猛毒を持つガラガラヘビさえ食べてしまう、「ヘビの王」の名に相応しい生き物だが、これも毒蛇ではない。
 赤と黒のくっきりとしたストライプが目に入ったときには、青年はにわかに緊張した。猛毒を持つサンゴヘビかと思ったからだ――が、すぐに杞憂と判った。合間に混じる色が黄色ではなく白だ。毒蛇に擬態するニセサンゴヘビだった。人間にとって危険のないものだ。

 やがて、通報を受けた救急隊と警察が、アパートの部屋に到着した。もちろん彼らはドアを蹴破るなどということはせず、「たくさん」いるというヘビを刺激せぬよう、いたって紳士的に入室してきた。
「発見者の方は?」
「私ではないよ。彼女は――まだ表通りで騒いでいなかったかい? まさか帰ったなんて言わないだろうけど」
「通報者にはお会いしましたが」
 防護服を身につけた警察官が言った。 「それで、問題の――」
「今のところ危険な種は見当たらない。大型のものは多いけれど、みな無毒だよ。ニシキヘビ類にしても、我々に危害を加えられるほどのサイズではなさそうだ。だからといって油断はしないに越したことはないけれどね」
「いえ、我々が言いたいのは――」
「ああ、もちろんまだ全てを確認し終えた訳じゃあない。小型の有毒種がどこかに潜んでいないとも限らないし、十分に注意しなければね。防護服を持ってきたのは賢明な判断だ。それと気を付けてくれたまえ、君の足元にボールパイソンが二匹いる。くれぐれも踏みつけになどしないようにね、無毒とはいえ咬まれるとそれなりに……」
「ヘビではなくてですね、人間は!」
 人の良さそうな警官は、苛立ちを隠しきれない声で怒鳴った。 「被害者はどこかと聞きたいんですよ!」

 青年は一度きり瞬きをしてから、「ああ」とだけ言った。実に作り事めいた仕草だった。はなから人間になど関心がないので、今の今まで気にも留めていませんでした――とでも言わんばかりの態度に、警官は心底呆れた。
 問題の犠牲者に辿り着くためには、我が物顔でカーペットの領有権を主張する、十数匹のヘビたちを掻き分けていかなければならなかった。幸いなことに、これらの中にも有毒なものはいなかった。飼い主は法令遵守の精神に富んだ人物だったらしい。もっとも、善良な爬虫類愛好家であることと、悲劇から無縁でいられることとは全くの別だ。救急隊員の一人が、片隅に置かれた背の低いベッドに屈み込み、そのことをしっかりと確認した。
 歳は四十も半ばだろうか。数日前まで健康そのものだったに違いない、その男性の身体は今や完全に冷え切って硬直していた。外傷は特に認められない。着衣の乱れが僅かにある程度だ。寝ている間に何らかの問題が起き、その結果死に至った、といったところだろう。
 現場はにわかに慌ただしくなった。初動において果たすべきことは山ほどある。写真を撮影し、遺体を運び出し、検証の計画を立て――このヘビの群れをなんとかしなければならない。

  * * *

「どうも、アルノーさん」
 日干しレンガのような砂色の髪をした若者が、規制線を乗り越えて顔を出した。青年より背こそ低いが、筋肉質でがっちりとした、肉体労働を常としているだろう体格の持ち主だ。
「こんな時間に呼び出しだっていうから、あなたなんじゃないかって思ってたんすよ」
「私のほうでも、所長はきっと君を寄越すだろうと思っていたよ」
 廊下の壁にもたれ掛かりながら、青年は顔見知りの爬虫類センター職員を出迎えた。制服姿の警察官たちに加え、この職員はいかにも飼育係というようなツナギの作業服を着込んでいたので、夜会めいた青年の格好はますます悪目立ちした。
「『たくさん』いるって話だもんで、一応それなりの備えはしてきましたがね、実際どうです?」
「それが、『それなり』では追い付かないかもしれないよ」
 青年は平静そのものの態度を保ちながら、A2号室のドアを顎でしゃくった。 「少なく見積もっても20匹はいる」
マジでエヒト? ……じゃなかった、本当ですかヴィルクリヒ?」
「別に言い直してくれる必要はないのだけれどね、とにかく本当さ。今のところ危険な種は見当たらないが、用心はしておきたまえ。私は好事家であって、君のような専門家ではない」
「そんな、また謙遜して!」
 若い専門家は快活に笑い、それから事件現場においては不謹慎だったことに気が付いたか、さっと声を潜めて青年の顔を見た。
「知識も実践も十分じゃないすか。おれは尊敬してますよ、アルノーさんの偏執的なところ」
「ありがとうブルー、私にとっては最高の賞賛だよ」
 青年は口角を微かに上げ、快さと誇らしさを彼に示した。が、こう言い添えることは忘れなかった。
「ただ、私以外の相手に向かって、それを褒め言葉として使うのはよしたまえよ」

 彼らが室内に場所を移すと、ヘビたちはやはり自由気ままにそれぞれの余暇を過ごしていた。警官たちが困り果てている。この状態ではおちおち現場検証などしてはいられない。どこに危険な種が紛れているかも解らないのだ。
「ライプツィヒ市爬虫類センターです」
 若者がまず入り口の警官に言い、首に掛けていた身分証明書を見せた。続いて青年が何の気兼ねもなく入っていこうとし、すぐさま制止された。
「失礼、今はもう規制が始まっていて」
 警官は言いかけたが、明らかに場から浮いた格好の青年が、上着の内から金縁模様の入ったカード――「世界魔術師協会ライプツィヒ支部/生物管理部/危険動植物管理課」と印字されている――を取り出し、乙に澄ました微笑を浮かべてみせたので、台詞の続きは引っ込めざるを得なかった。
「ブルー、私にも棒を貸してくれたまえ」
 青年は一歩前に立つ知人に向け、右手を伸ばして指図した。 「今日は杖を持っていないから」
「あれ、珍しいすね、出動中なのに」
 呼ばれた彼――本名をトビアス・ブルーメンタールといい、「ブルー」はマンフレート青年が付けたあだ名である――は、先端が二股になったヘビ用の捕獲棒を差し出しながら言う。
「今は仕事ではないのだよ。昨日から一ヶ月間の夏期休暇中だ。明後日の今頃はスペインさ」
「スペイン! そりゃ良いや、晴れてて能天気で食い物がうまくて――」
「そして、ドイツにはいない生物をいくつも見られる」 絨毯の上に膝をつき、青年が言葉を継いだ。
「とりあえずカツオノエボシだけでも、と思っているのだけれど……」
 気が気でないのは警官たちである。さっきから二名の「専門家」は、バカンスの予定について話し合うばかりで、何ら専門的なことを始める様子がない。場を統括する係官が、彼らの内心を代弁するように咳払いを一つした。
「はなしを戻そう」 青年が神妙な顔を作って言った。 「まず君の足元だ」
「オリーブパイソンすね」 ブルーが応え、保護用のケースを抱えて青年の対角線上に移動した。
「見たまえ、よく手入れされているよ。愛情を持って――とは限らないが、少なくとも抜かりなく飼育されていたのだね」
「救いっちゃ救いですかね。これで飼育放棄のすえ飢えて共食い、とかだと目も当てられない」
「私が到着したときも、彼らは互いに上手くやっていた。そう、尊重し合うと言えば良いだろうか、それぞれの範を越えないようにしていたよ」
 青年が金属の棒を前に突き出し、素早くヘビを絡め取る。と、すかさずそこにケースが差し出され、一匹目の確保は成功した。

「次はその後ろの行きますか」
 ケースの蓋がきっちり閉まっているのを確認してから、ブルーが向かいの壁を示した。据え付けられたコート掛けに、ほっそりとしたライムグリーンのヘビがいた。様子を窺うように首を持ち上げ、小さな丸い目で二人を見ている。
「あれはラフアオヘビだね?」 青年が訊いた。
「多分。そこそこ大人しいやつで良かったすね」
「樹上棲のヘビというのは大概、気性が荒いものだからね。私も飛び掛かられたことが何度もあるよ……」
 こたびもまた毒のないヘビだった。長い捕獲棒を操り、二名の爬虫類関係者は次々に、主を失った愛玩動物たちを保護していった。が、小型のヘビはそう多くなく、体長2メートルをゆうに超える大物たちがごろごろ残っている――二名の人間は怯みこそしなかったが、不用意な行動にも出なかった。
「君はあのボアを独りで担げるかい、ブルー?」
「無茶言わんでくださいよ」
 若者は顔をしかめて好事家を見た。彼らの行く手には、太さが人間の脚ほどもある大蛇が横たわっている。黄色い体に黒い斑紋が入った美しいヘビだ。
「いや、担ぐだけならそりゃ簡単すけどね、ケースにお戻り願うまでに絞め殺されますよ」
「そうか、では二人でやろう。本当ならあと数人追加してもいいぐらいだ。――確認するけれど、君はまさか本当に一人で来たわけじゃあないだろう?」
「車でもう一人待機してますよ」 とブルー。 「運転手、兼、通信待機係」
「その彼も連れてきたまえよ。手は多いほうが助かるだろう」
「それが駄目なんすよね、あいつヘビを触れないもんで」
 二者間に沈黙が流れた。十秒ほどの間、人類はみな動きを止め、ただヘビたちだけが活動的だった。
「……ブルー、君の職場の名はなんと言うのだったかな?」
「ライプツィヒ市爬虫類センターです」
「その職員がヘビを触れないのかい? それは何か、体質や持病の関係で?」
「いや、ただのヘビ恐怖症で」
「君たちの所長は何故彼を採ったのだい、否、そもそも彼は何故爬虫類センターに就職しようと考えたのか教えて貰っても?」
 青年の疑問は尤もだった。ヘビ恐怖症の人間が爬虫類センターの職員になる――血を見るのが嫌いな人間が外科手術で執刀したり、泳げない人間がライフセーバーを務めたりするようなものだ。
「蛇語ができるんすよ、実用レベルで。要するに通訳担当です」
「ヘビ恐怖症なのに?」
「なんでも、あんまりヘビが怖いもんだから、ヘビの言葉が解れば平和的にこう……『お互いのために離れていましょう』みたいなことができるんじゃないかって思ったらしいすね」
「なんて羨ましい話だろう」 青年は芝居がかった仰々しさで天井を仰ぎ、嘆息した。
「私などは斯くもヘビに恋焦がれているのに、例えばヤマカガシから返答のささやき一つ聞いたことがない」
「良いじゃないすか、言葉がなくたって知識と愛情があるなら」
 専門家はいたって前向きな言葉を掛けた。 「おれは素敵だと思いますよ、アルノーさんのその倒錯的なところ」
「ありがとうブルー、それも私以外に言うのはやめたまえよ」
 短い溜め息を再度吐いて、青年は床に視線を戻した。 「続けよう」

  * * *

 37匹。それがアパートの一室から保護されたヘビの総数だった。
「センター始まって以来の珍事ではないのかい、この数は」
 仕事を終えた専門家と好事家は、警官たちによって丁重にお引き取りを願われた。今は建物の裏手に停められた、爬虫類センターの公用車そばで立ち話だ。
「全て移動はしたが、しかし管理できるかい、君たちだけで?」
「まさか。いや、管理する気は当然あるんすけどね、一ヶ月ぐらいならともかくずっととなると、物理的に場所が足りませんよ。特にボアやら大型のパイソンやらは」
 哀愁の漂う声色で、専門家は好事家に答えた。ライプツィヒ市爬虫類センターはさほど大きな施設ではない。彼らが既に所有している生き物たちを考えると、この数のヘビは許容の範囲を超えてしまう。
「アルノーさんこそ、どうなんすか、課のほうで引き取ったりは?」
「私だってその気はあるさ。爬虫類室には何時でも余裕を持たせているし、管理に必要なものも揃っている。一時的に預かるにしろ、完全に貰い受けるにしろ、準備はいつでも整えてあるのだよ」
「それじゃあ――」
「それで私があのヘビたちの何匹かを引き受けようと決め、保健所や市役所や君たち爬虫類センター等に届け出るために、様々の書類を取り寄せ記入をするだろう。それらは一度ライプツィヒ支部の書記局を通す事になる。すると支部長のサインを貰う前に各方面の意向が働いて、監察局から例えば首席監察官のブラザー・ハインリヒあたりが、昼休みに予告なく私を訪ねてきて言うわけだ」
「言うってのは、何を?」
「『元いた場所に返してきなさい』と」
 部外者の問いに、青年は乾いた息をついて述べた。
「つまり、我々が『危険動植物管理課』である以上、人間にとって危険でない動植物のために予算を使うのは、協会のなんとか……なんだったかいう規則にはそぐわないのだということさ。確かにあのヘビたちは、……潜在能力を追求すればもちろん話は変わってこようが、大まかにみればどれも人間に対して無害な種だ」
「通るとしてせいぜい、一番でかいボアとパイソンのあたりすかね、――トートツな話なんすけど、アルノーさんってボアコンストリクターに絞められたことあります?」
 作業服のポケットに両手を突っ込みながら、若い専門家は訊いた。特に他意はなく、純粋な好奇心から尋ねたようだった。
「無論だとも。以前何回か、これと似たようなケースで保護を手伝ったときに」
 白い喉元に片手を遣って、答える青年の声はどこかうっとりしたような響きを孕んでいた。
「彼らは首を絞めるのが上手だ。人間よりも遥かに上手だ」
「人間に絞められたこともあるんすか?」
 爬虫類に関しては専門家だが、人間に関しては20代の若者として平均的な知識しか持ち合わせていない質問者は、緑の目を寄せて青年を凝視した。
「えっと、それは犯罪に巻き込まれた系の話すかね? それともこう、いわゆる、プレイの一環的な?」
「プレイ?」
「いやほら、さっきの言い方的に……上手い人に、いやヘビか、上手いヘビにされると気持ちいいみたいなそれがあるのかなと」
 オウム返しに復唱されて、彼は彼自身でもあまりよく解っていないのだろうことを一通り述べざるを得なかった。自分が発している言葉の意味を把握できているかどうかも怪しい口振りだった。青年が不自然なまでに不思議そうな、小首を傾げた姿のまま何も言わないので、彼はさらにフォローのようなものを付け足すことにした。
「まあ、別に人の好みは様々つーか、おれも正直そういうマゾっぽいタチがなくもないというか、なんで尊敬しますよ、アルノーさんのその自分に正直なところ」
「ありがとう。ただ、それではまるで、君は君自身に正直になれないとでもいうような言い方ではないかな」
「いやいや、おれほど正直すぎる男はいないってのは、センターでも評判すよ? そんでもって早速正直にならせてもらうと、おれ個人の恋愛対象はあくまでも人類でして、できれば年上の――」
「ブルー、君は一体何の話をしているのだい?」
 青年がまた首を傾げて訊いた。ただし、今回は純粋無垢な子供心の問いではなく、その微笑は明らかに愉快がっている者のそれだった。
「何の話をしたいかっていうと……あ、元々その手の話をしたかったわけじゃなかった気がするんすけど、多分深夜だからこうなったんだ、きっとそうです。じゃあ、このテーマはやめといて、違う話にします?」
「君が自分自身の品格を気にするのなら、是非ともそうしたまえ」
「違う話題……いや、元々の話題で。アルノーさんはですね、さっきのあの人、ヘビが原因だと思いますか?」

 均整の取れた唇を少しばかり緩め、青年は問いを立てた相手の顔を真っ直ぐに見た。薄氷色の瞳からつい先刻までの好奇に満ちた光は消え、代わりにより深遠な、謎とそれが齎す不気味さに耽溺するような色が浮かび上がる。
「我々が保護したヘビが、という意味なら否だね。君もとうに分かっているだろうが、人間にとって致命的と成り得る種はあの中にいなかった。もちろんボア・コンストリクターは人間を十分に絞め殺せるが、そうだとしたら死体はあのように静かに横たわってはいないだろう」
「ですよね、――おれが思うには、たぶんあの人はなんか、心臓か脳かどっかに病気を持ってた。で、寝てる間にその状態が急変して、ぽっくり逝ったと」
 素人探偵二人のうち外見的に時代錯誤でないほうが、実に現代らしい単簡な答えを出した。一方、服飾考証を1世紀ほど間違えているほうは、その推察にひとまずは頷いたが、
「そうだとして、何故飼育ケースはみな開いていたのだろう? 彼も飼育者なら、大量のヘビを野放しにしたまま就寝することの問題性ぐらい理解していたと思うのだけれどね」
 と問い返した。
「あー、そりゃまあ……普通はやらないすよねえ。小さいヘビなんか、寝てる間に潰しかねないわけだし」
「ヘビたちの状態から考えるに、彼は爬虫類飼育の原則はきっちりと守っていたようだ。自分自身もヘビの身も危うくするような行為に進んで及ぶとは考えにくい」
「となると、――アルノーさんの考えはつまり、アレですか」
 若者はやおら声を潜めた。 「ヘビじゃなくて、ヒト」
「君のいう、被害者に持病があった可能性も考えに入れた上だけれどね」
 青年が鷹揚に頷き、更なる質問を続ける。 「君はクラーレを知っているかい、ブルー?」
 ドイツ語らしからぬ単語の響きに、問われた側は一瞬何のことだか分からず、目をぱちくりさせるばかりだった。が、少し遅れて思い出したらしく、頭を大きく数度上下させた。
「知ってるもなにも、毒ですよね? こないだアルノーさんがおれにサンプル取りに行かせたじゃないすか、あの――なんとかいう植物から取れる」
ストリクノス・トクシフェラStrychnos toxifera」 青年が答えたのは学名だった。いかにもtoxinがありそうな名だ。
「南米原産の植物さ、その名もずばりクラーレノキだ。その節はご苦労だったね、仏領ギアナまで行ってもらって」
「いや、良いんすけどね? 乗り継ぎのド=ゴール空港で荷物がどっか行きかけたのと、おれはフランス語ができないってことを改めて思い知らされたのを除けば、まあ景色は良かったしラム酒はうまかったし、アルノーさんも一緒に来りゃいいのにって思ったくらいで」
「もちろん行きたかったとも、だが事情が事情でね」
 横道に逸れかけた会話を軌道修正するように、青年が割って入った。
「その植物のほか、様々な毒草やカエルなどを原料に作る矢毒を総称してクラーレというのだけれどね、私はこの類を考えているのだよ」
「考えてるっていうと、その――」
「クラーレは神経毒だ。神経の伝達作用に働きかけて、まず目や手指や足を、それから四肢の筋肉などの動きを止めてゆく。最終的には横隔膜を麻痺させる。獲物は呼吸困難になって死ぬ」
 言葉に合わせるように、身体の各部位を指差しながら青年は語る。
「ただし中枢神経までは行き届かないから、呼吸さえ確保できれば命は助かる。医学者や薬学者たちはこれを利用して麻酔薬や筋弛緩剤をつくり、より安全な外科手術を行うようになった。毒と薬は使い方の違いだ。――さて、ここからが肝要なのだけれどね」
 片目を軽く眇めてみせてから、彼は低く囁いた。 「ヘビの毒も神経毒だ」
「マジで言ってます?」
 若き専門家は反射的に言い、それから慌てて自身の口をついた言葉に注釈をつけた。
「いや、確かにヘビ毒は神経毒と、あと出血毒と筋肉毒ですよ。あれもやっぱり息ができなくなるから死ぬんすけど、でも普通――」
「爬虫類専門家としてではなく、殺しの素人として考えたまえ、ブルー。君にはどうしても殺したくて仕方がない相手がいる。そして相手は大量にヘビを飼育している。君は考える、殺人を露見させないためには事故に見せかけるのが一番だ。飼い犬ならぬ飼いヘビに手を咬まれて死んだことにすればいい。犯行の後に飼育ケースを全て開け、彼らを外に出すわけだ。飼い主の管理不行き届きを装うために」
「それで、ヘビ毒と似た効果のある、……なんとかいう植物を食べ物に混ぜて?」
「いや、クラーレの成分は経口摂取では意味がない。だからこそ矢毒に使われたのだよ、仕留めた獲物を食べても差し支えないように。現代ドイツにおいては注射をすることになるだろう。筋弛緩剤による殺人事件にはいくつか前例があるね」
 どれも病院で起きた事件だった、と青年は回想する。爬虫類専門家はぽかんとしている。
「犯人には医学的知識があり、薬剤と注射器を入手できる立場にある。かつ、被害者とは顔見知りだ。抵抗した形跡がないからね、――もっとも、麻酔科のドクトルがわざわざ自宅まで筋弛緩剤を打ちにくるなど有り得ないから、犯人と被害者はただの医者と患者ではなく、もっと密接な関係にあったのだろう。彼の身内にいれば話は早いね、外科医か麻酔医か獣医が」
「なんで獣医が?」
「動物の安楽死によく使うからさ」
 重苦しい沈黙が夜風に乗って漂い、二人の爬虫類愛好家は互いに顔を見合わせた。

「ええとですね、アルノーさん」
 先に口を開いたのはブルーだった。 「無理がないすか?」
「やっぱりそう思うかい?」
 返事を予期していたかのように青年が言う。
「実際やれるかどうかは別ですけど、いくらなんでも粗すぎるつーか、もうちょっとスマートな方法があるような……」
「そうか、君でもそう思うのか」
 さほど残念でもなさそうな口振りで、彼は早々に自らの推理を稚拙と認めた。
「あの、その『君でも・・』ってのはどういう意味なんです? おれでも?」
「気にしないでくれたまえ。とにかく、自分で披露しておいて興醒めなことだけれど、私も無理があると思う。犯行を成立させるのも、その後に事故としてごまかし続けるのも」
「ですよねえ。というか、アルノーさんならもっと上手いやり方考えつきそうなもんですけど、なんで第一稿があれなんです?」
「君は私を何だと思っているのだい。確かに私は探偵小説を愛好してはいるけれど、作家でもなければ犯罪コンサルタントでもないのだよ。好事家が片手間に考えた犯行など、完全犯罪のかの字も期待すべきものではないさ」
 好事家の青年は素気なく述べる。探偵小説ならワトソン役ということになるだろう若い専門家も、多少は冷めた声音で「そうかもですね」と呟く。もっとも彼のほうは依然、謎解きへの意欲は失っていないようで、すぐに熱意ある態度を取り戻して続けた。
「でも、事故死か病死に見せかけた殺人、って可能性は捨てるわけにいかないすよね。事件性なし、なんて片付けられたら被害者や遺族がどんなに悔しいかって考えると、追求を諦めちゃだめだとおれは思います、アルノーさん」
「その通りだ。これは刑事事件のみならず、どんな出来事を調査するときにも言えることだけれどね、あらゆる発想を検討してみなければ駄目だ。無論、それらをふるいに掛ける必要はあるけれども、幅広く案を集めてからでなければ話にならない」
「解ります、おれも同感す。じゃあアルノーさん、今明らかになってること――おれたちがこの目で確かめたことから始めてみましょうよ。おれ、ひとりの爬虫類好きとして、絶対に最後まで追求してみせますから!」
 瞳に強い意志を宿した若者は、力を込めてそう言い切り、拳を握った。傍らで青年もまた満足げに首肯し、ゆったりと息をつくと、
「頼もしいことだね。では頑張ってくれたまえ、ブルー、今後の連絡はブラザー・ライムントに頼むよ」
 と静かに言った。

「はい、アルノーさん! ……アルノーさん?」
「なんだい、ブルー? ブラザー・ライムントの番号は知っているだろう、前に仕事をしたとき連絡先を交換したはずだから」
「いやそうじゃなくて、オーベルシュトルツさんを通さなきゃならないんすか? アルノーさんに直接連絡するんじゃなく?」
「そうだよ? 当然そうなるだろう、私は明後日にはもう居ないのだから」
 話の流れがいまいち解らない、という顔でブルーが尋ねる。素人探偵の片割れはさも当然のように答えた。
「居ない? なんで?」
「君は私の話を聞いていなかったのかい? 最初に言ったろう、休暇中だと。明後日の今頃はスペインのカディスにいる。大西洋岸だよ」
「え、行っちゃうんすかこのまんまスペインに? あの、おれが思ってたのは――おれたちはこの難事件にのぞんでタッグを組み、明日からライプツィヒ中、いやドイツ中を飛び回って、被害者の交友関係とか、爬虫類取引の裏に隠された暗い因果とか、なんかそういうものを白日の下にさらけ出したりするみたいな奴なんすけど?」
 青年の言葉がよほど意外だったのか、やる気を持て余し気味の若者はテレビの二時間ドラマめいたことを口走り始めた。青年はお決まりの澄まし顔を作ったまま、口を挟むことなく見守っている。
「ほら、善良に見えたペットショップ店員に黒い影がとか、若く美しい未亡人と遺産の問題とかが次々浮上してきてですね? アルノーさんの頭脳とおれの行動力でそいつらをちぎっては投げちぎっては投げ、最終的に黒幕を爬虫類センターの屋上に追い詰めてアレするわけですよね? んでもって、ラストシーンは二週間後ぐらいのライプツィヒ・ハレ空港で、アルノーさんが『ずいぶん遅くなったけれど、これで心安らかにバカンスに出かけられるよ』みたいなことを言って、おれと若く美しい未亡人がそれを爽やかに見送る系のエンドじゃないんすか?」
「ブルー、君は一体何の話をしているのだい?」 話の一区切りを察して青年が訊いた。 「未亡人?」
「まあ若く美しい未亡人が存在するかはまだ解らないんすけど、とにかく今はバカンスどころじゃないですよね?」
「バカンスには行くよ。私はあす一日で行李を宅配便に出したり、ホテルに事前の最終確認をしたりして、晩の9時にはもう床に就く必要がある。始発の前にはライプツィヒ中央駅にいなくてはならないのだからね――あとはインターシティ・エクスプレスに乗って、フランクフルトやらパリやらリヨンやらで乗り換えをしながら、現地に着くのが夕方の5時さ。11時間がかりの大旅行だ」
「電車で行くんすか? 飛行機ならその半分なのに」
「私は飛行機には乗らないよ、ブルー」
 彼は言い切り、とにかく空路を取りたくない旨を強調したかったのか、もう一度繰り返した。 「私は飛行機には乗らない」
「いや、交通手段はまあ何でもいいとして、アルノーさんは事件の真相とか、被害者の無念を晴らすとかいったことにはご興味はないんで?」
「興味はあるとも。とはいえ何事にも順番はあるからね、ほぼ確実に遭遇できる南洋の魚や貝類と比較してしまうと……」
「ああ……」
 若者は納得したように――あるいは何か諦念らしきものを得たかのように声を漏らした。
「そういえばアルノーさん、鳥とか虫とか植物とかにはベタ惚れすけど、人類のことはわりかしどうでもいい人でしたね……」
「どうでもいい、というのは語弊があると思わないかい。ただ、私が心から愛する危険な生物たち、君のいう鳥類や爬虫類、無脊椎動物、植物といったものたちに比べると、優先順位が遥かに低くなるというだけさ」
「そういうのを普通『どうでもいい』って言うんすよ、アルノーさん」
 言葉尻に呆れを滲ませながらブルーは呟いたが、よろず自分流に物事を進めたがるこの好事家に、心の底から呆れ返ってしまったわけではなかった。頼みにしているからこそ引き留めようとしているのだ。たとえ相手がどれほど風狂な人間であっても。
「そんなことはないよ、ブルー。よく考えたまえ、私はそれこそ君や、ブラザー・ライムントとは親しく付き合いをしているじゃあないか」
「……それはつまり、おれやオーベルシュトルツさんは、アルノーさんから人類だと思われてないってことなんでは――」
「ブルー、」 青年が短く息を吐き、口元を緩めた。
「君が君自身を人でなしだと自称するのは勝手だが、ブラザー・ライムントまでそのくくりに入れるのは許さないよ。――自分をそう卑下するものじゃあない。君は立派な人間だ、ブルー。私はブラザーも君のことも信頼しているのだから、どうか私の留守に臨んでは、力を合わせてしっかりやってくれたまえ」

 若い専門家は青年の言葉に感激したようだった。日焼けした肌を紅潮させ、一対の瞳はいっそう輝きを増し、つい先刻の非情な通達――要約すると「身近に起きた変死事件よりバカンスのほうが大事なので後は勝手にやってくれ」――など忘れてしまったかの如く思われた。
「了解です、アルノーさん。あなたが戻ってきたときには、きっと良い報告ができるように全力出してやりますよ。1ヶ月もご無沙汰するのはちょい寂しい感じですけど」
「いや? そんなに長くは居ないよ、滞在は二週間の予定だ。16日にはライプツィヒに戻ってくるさ」
「えっ、……じゃあ残りの二週間は何するんすか? アルノーさんは家でだらだらする、みたいなタイプじゃないすよね」
「何をって、もちろんライプツィヒ支部にいて、私のコレクションの手入れや、新しい標本作りや、動植物の世話などして過ごすに決まっているだろう」
 バカンスの予定が今のところない若者は目を丸くした。 「休暇中なのに?」
「休暇中でなければいつ楽しめばいいのだい?」
 青年は眉一つ動かさずに切り返した。
「そういうのは、その、普通に仕事としてお給料貰いながらやればいいんじゃないすか?」
「冗談だろう。業務時間中に私が、例えば貝の標本など作っていてみたまえ、たちまち監察局からお小言を食らってしまうよ。まあ、私にとって標本作りが趣味道楽であることに間違いはないのだけれど」
「アルノーさん、そんならせめて論文か本でも書きましょうよ、そしたら趣味道楽も立派な研究になるんすよ」
 趣味道楽を仕事にした身として、若い専門家はいたって正論を述べたが、好事家の耳には魅力的に聞こえなかったらしい。アイスブルーの目が少しも光り輝かないのを見て、助言が無駄骨であると彼は悟った。
「まあ、別に、世の中のオタクはみんな社会貢献しなきゃならないみたいな法律ないですしね、実際」
 彼は肩を竦めて笑った。 「おれはわりと好きですよ、アルノーさんのその物好きなところ」
「ありがとう、ブルー」 青年は型通りに品の良い笑みを浮かべ、穏やかな礼の言葉を口にした。
「それは実に素晴らしい褒め言葉だ。ブラザー・ライムントにも是非言ってやりたまえ」

go page top

inserted by FC2 system