大事件だ。部屋に知らない人がいる。

故きを温ねること -Scholar of Yesterday-

 もちろんこれは、あたしが寮に戻ってきたら不審者が室内を物色中だった、とかいう話ではない。そうだとしたら「大事件だ」とかのんきなことを考えている場合じゃない。速やかに身の安全を確保しつつ、112に緊急通報をすべきだ。
 正確なところをいえば、あたしの職場である世界魔術師協会ライプツィヒ支部の、生物管理部危険動植物管理課が使う執務室に、部署と直接関係のない人間がいた、となる。今度はそれのどこが大事件なのかと言われそうな話だ。そりゃあ世界魔術師協会は支部といえども大きな組織なのだから、知らない職員の一人や二人いるだろう、他の部署から仕事の関係で訪れる者もいるだろうし、あるいは新人職員が配属されることもあるだろうと。――いいや、そんなことは有り得ない。あたしは自信を持って断言するし、日ごろライプツィヒ支部で働く魔術師なら同じように考えてくれるはずだ。

 危険動植物管理課がライプツィヒ支部でどれほど疎まれた部署か、というのはもう今さら語るまでもないことで、そもそも「悪魔の花園トイフェルスガルテン」なんてあだ名で呼ばれている時点でまず好かれてはいない。管轄にある植物園には人間にとって有害な、どころか小指の先ほどの量で人を殺せる植物ばかり植わっているし、執務室にはそういう植物や、他のありとあらゆる危険生物の生きた標本や死んだ標本がごろごろしている。玄関(つまりあたしが今立っている場所)からして巨大なコモドオオトカゲの骨格標本が、来客を威嚇するように大口を開けているのだからまともな職場じゃない。寄り付きたがる人間などいないし、どうしても必要があって仕方なく来るにしても、その担当はいつも決まって同じ人だ(各部署で一番メンタルの強い人が選ばれているに違いない)。
 何より、これが一番重要なことだけれども、所属している魔術師のうち一人は、まともな人間にとって精神的に極めて有害な存在だ。それはもう、あんな奴と顔つき合わせて週に40時間働くことを想像しただけで、研究留学生の身分を捨てても日本に帰りたくなるぐらい。あたしは日本にいた頃、ちょっとやそっとの精神攻撃には動じない鋼のスルー能力を持っていると自負していたけれど、てんで甘ちゃんだったことを思い知らされた。毎朝出勤してくるたびに「どうも御機嫌ようグーテン・モルゲン私の若く美しいお嬢さんマイネ・シェーネ・フロイライン」などと挨拶される――それも本気でお嬢様扱いをされているのではなく、知識も経験もない小娘として明らかに小馬鹿にされている――等の日々に、半年もの間耐え続けたあたしのことを、隣の妖精管理研究課(そう、あたしが本来行くはずだった部署だ)のシスター・セレンは「支部長から表彰されるべきだ」と言っていた。

 そんなあたしが手違いで配属されてくるまで、六年間も新人職員の来なかったような危険動植物管理課に、知らない人がいる。それも、逃げた(危険な)ペットの調査がらみで来た保健所の人や、毒殺事件の捜査を受け持っていそうな警察の人じゃなく、もっと若い――あたしと同い年ぐらいの男の子が、よりにもよって危険動植物管理課で一番の危険動植物、マンフレート・アルノーの前にいる。二人で話をしている。あたしはまごついた。これは幻惑魔法か何かかもしれない。
「ではブラザー・ユリウス、これで確かに返したよ。ライプツィヒまで来てもらってすまなかったね」
 ドアを入って数歩のところに立つあたしからは、知らない男の子の顔は見えない。彼に向かっていかにも年上らしく振る舞う、現代ヨーロッパの研究機関において何故か結婚披露宴のゲストみたいな格好をした男の顔は、見たくもないのにばっちりと見えた。今日もその白い顔に、口の端をほんの僅かに上げただけの薄笑いを浮かべ、19世紀の貴族か何かのように上品ぶって取り澄ましている。この顔で1993年生まれの24歳を自称しているのだから無理がある。歴史物のドラマだったら「服装の時代考証を一からやり直せ」と視聴者から抗議が来るレベルだ。
 そして男の子のほうはといえば――正直なところ、彼もそこまで現代ヨーロッパの中高生みたいな格好をしているわけではなかったりする。が、無意味なセミフォーマルウェアに比べれば十分受け入れられる範囲だ。うなじの毛をきれいに刈り上げた金髪と、皺ひとつなくアイロンのかかったグレーのシャツ、より濃い灰色のベストとスラックス。私立のちょっと良い学校の制服、という雰囲気もある(ドイツの中学や高校に制服なんてものはないとしても)。ただ、「ブラザー」なんて呼ばれているからには、彼もやっぱり魔術師協会の一員で、普通の男子生徒ではなさそうだ。「ライプツィヒまで」ということは、この支部の職員でもないってことになる。左の脇にそれなり厚みのある、いわゆるクラッチバッグというやつを抱えて、それ以外の荷物は持っていないようだった。
「言っただろう。下手に郵送されて破損事故でもあったら困る。あんたが連邦郵便局ブンデスポストの精度を理解しているとはいまいち思えないしな」
 受け答えにあたしは吹き出しそうになった。思ったよりずっとしっかりしている。声変わりは済ませているけれど、まだ完全な大人とまではいかない声で、面と向かって「あんたはドイツの郵便がどれほど当てにならないか知らないだろう」――そのぐらい世間知らずな男だと、きっとそういうことを言いたかったに違いない――なんて。二重の意味で「いいね」を押してやりたい。
 でも、ドイツの郵便局って「ブンデスポスト」だっけ? 普段「ドイチュポスト」って言ってる気がするけど。

「おや、失敬だな。私だって日来この手の宅配便はよく使うのだからね、理解できないということはないさ。それから、現在わが国の郵便は民営化されていて、名前もドイチュポストと変わっているのだよ、ブラザー・ユリウス」
 あたしが思っても言わずにおいたこと(そう、あたしだって思ったことを一から十まで言葉にしたりはしないのだ)を、貴族もどきのすかした男は、いかにも「この私が親切に教えてあげようじゃあないか」とばかり口に出す。それだから嫌われるのだということをこいつは一切解っちゃいない。人間、顔が良くてそれなりの教養があって金さえ持っていれば、好かれこそすれ嫌われることはないと思い込んでいるんだろう。半分ぐらいは事実かもしれないが、いくらなんでも限度がある。
「それと一つだけ、……我々危険動植物管理課の新しい仲間にも、できれば挨拶をしてくれると嬉しいのだけれどね」
 考えている間に、変な方向へ話が振られた。別に挨拶なんてしてくれなくていいし、第一客を迎える側が相手に先に挨拶させるなんて、そんな失礼な話もない。あたしは鞄の紐を肩にかけ直し、急いで部屋の中ほどにある、ちょうど二人が立ち話をしている辺りまで進み出た。
「ちょっと、わざわざ来てくれた人に向かってその態度はないんじゃ、」
 灰色の背中がおもむろに動いた。まだファーストネームぐらいしかはっきり解っていない、金髪の男の子が体ごとこちらへ向き直る。左目の上できっちりと分けられた前髪、細くきりっとした眉の形、そして――

 この時になってようやくあたしは理解した。彼は確かに中学生か高校生あたりの、「男性」になり切る前のきれいな顔はしていたけれど、絶対に「あたしと同い年ぐらい」ではなかった。その目は、――ゆがんだラムネの瓶みたいな、ほんの少し緑がかった青い目は、もうすっかり子供時代を捨て去ったおとなの瞳をしていた。あたしの何倍も長い時間を、それも両手の指では足りないほどの痛みや苦しみとともに噛み締めてきた、そんな色だった。
 あたしは続けざまにブラザー・ライムントや、あたしの母方のおじいちゃんを思い出した。あの人たちもみんな、程度の差はあれ同じ目をしている。自分の人生で一番苦しかったときを決して忘れていない目。ただ普段は明るく笑顔でいるから気にならないだけだ。
「ほら、前に話したろう、春からいる日本人の研究留学生だよ。とても几帳面で正義感の強い子だ……」
 部屋の中では「マーニお坊ちゃん」ことマンフレートだけが、この世の不条理など一切経験したことがございませんというような顔で、あたしたち二人を勝手に引き合わせようとしている。あたしは軽く咳払いをして、間抜けな立ち姿を少しだけ正した。
「はじめまして、ブラザー……ブラザー、ええと、――ユリウス?」
「ギーゼキング」
 きっぱりとした答え。さっき聞いたのとは全く違う名前が返ってきたが、これはきっと苗字のほうだ。
「ウィザード、ユリウス・ギーゼキング。ベルリン支部だ」
「リコ・サガミです。ソーサラーの。日本の東京支部から来ました」
 相手がこんなに簡潔だと、あたしもどうでもいい自己紹介を長々しようとは思わなくなる。名前と所属だけ答えて、お辞儀をし――ようとして、こういう時には頭を下げるより握手をするほうが普通だろうかと考えた。おかげでタイミングがずれたけれども、あたしがなんとか差し出した右手は、一拍置いて適切な強さで握り返された。思ったよりもずっとがさがさというか、ぎざぎざした手だった。視線を下げたらきっと、目に入ってくるのは傷やひび割れだらけの肌なんだろうと感じた。
「今後もまたライプツィヒか、或いはあちらで会うこともあるだろうからね。互いに仲良くしてくれたまえ、二人とも。……君も別に、何の気兼ねもなくこちらへ来てくれて構わないのだよ、ブラザー。いつでも歓迎の準備はしてあるのだから」
「出迎えるのがあんたの顔でなければ、もっと頻繁に来てやるんだがな」
 あたしたちの手と手がほどけて、互いの距離が一歩ぶんずつ広がったころ――親切ぶったお坊ちゃんの態度に、返されたのがそんな台詞だったものだから、あたしはまた吹き出しかけた。ずばずばと口をきく人だ。もっと言ってやれと心で応援する。言葉を向けられた側がちっとも堪えていなさそうなのが難点だが。
「なんだ、私の顔が気に入らないから差し控えているのかい? 今度から君の対応はリコに代わってもらえばいいかな。それとも、ああ、ブラザー・ライムントは監察局に寄ると言ったきりまだ戻らないのだよね。彼なら君も文句なく出迎えられてくれるだろうに」
 革手袋を嵌めた左手を顎に添え、気取った角度の顔をこちらに向けながら奴は続ける。もうそろそろこの勘違い男の口を塞ぎたい、というあたしの願いがどこかに通じたのか、そこで後ろからドアの開く音がした。

「すまない、遅くなったな。二人とも、もう休憩に入って――」
 そのブラザー・ライムントだ。さっと肩越しに振り返ると、書類やなんかが入っているのだろう封筒を抱えたあたしたちの上司は、深緑色のジャケットを肩に引っ掛けた姿で立っていた。
「ああ、ブラザー・ユリウス、着いていたのかね。迎えに出るつもりだったのに、時間が合わなくて悪いことをした」
 深い青色の目が丸くなり、続いて眉が下がって、とても申し訳なさそうな顔つきができあがる。上っ面だけじゃない、本当に心からすまなく思っている表情だ。いかにも作り物めいたマーニの顔とはまるで違う。
「いや、知らせておいた到着時刻を守らなかったのはわたしのほうだ、ブラザー・オーベルシュトルツ。萎縮しないでもらいたい。……顔を見ることができて、何よりだ」
「こちらこそ。ベルリンの魔女狩人ヘクセンイェーガー部隊は昨今気の休まる暇がないのではと、折りに触れ心配しているがね、この後またすぐに戻るのだろうか?」
 ブラザー・ライムントは目を細めながら、あたしたちのいる側へ歩み寄って、忙しい中やって来た客人を気づかう。魔女狩人、――魔法や魔術師が絡んだ事件のうち、一般の警察の手に余るような事件に介入する、実働部隊でも精鋭中の精鋭が集まるという部門の名前が出た。それもベルリンだ、間違いなくドイツの首都にふさわしい大都市なのだから、そこに勤める魔女狩人がどれほど忙しくしているかは想像もつく。あたしは目の前の冷淡な、他人の親切心にどこか居心地悪そうにしている男の子を――もとい、男の人をじっと見た。彼は小脇に抱えた鞄を少し引き上げて、
「いいや、もののついでで二、三別件を言付かってきている。数日はここにいるつもりだ」
 と、やっぱり簡潔に答えた。
「そうかね、遠出が少しは息抜きになればと思ったが、そういう訳にも行かないのだな。ああそうだ、」
 意識して眺めるたび、痕までは消しきれなかったような古傷や、数日前に作ったばかりのような赤みを帯びた切り傷が目に留まる顔を、ブラザーは優しげに覗き込んで話を続ける。
「この時間なら、まだ昼食も済ませていないだろう。折角だから我々と一緒にどうだね、君さえ良ければだが」

 言われたほうは一度だけ瞬きをして、それからブラザー・ライムントではなく時代倒錯したお坊ちゃんのほうに視線を向けた。あたしも向けた。ブラザーのいう「我々」の中にそいつが含まれるかどうか、それが問題だと考えたのかもしれない。あたしも素直にそう思う。
「大変間が悪いことなのだけれど」
 注目の似非貴族は何を思ったのか、軽くネクタイを直すなどしながら口を開いた。
「今日の昼休みは少しばかり出かける用事があって、残念ながら君たちと御一緒することはできないのだよ。済まないね、ブラザー・ユリウス」
 予め準備してあったかのようにすらすらと流れ出す、その一通りの言い訳を、ブラザー・ユリウスは眉一つ動かさずに聞いていた。あたしは内心ほっとして、溜息のようなそうでないような息を吐いた。
「珍しいな、マンフレート、君が昼休みに休まないというのも。誰かと約束でもあるのかね」
 唯一このいけ好かないお坊ちゃんと親しく(と言っていいのか解らないけれど、少なくとも毛嫌いせずに)付き合っているブラザー・ライムントが、意外そうに、そして残念さを滲ませながら言う。と、
「ええ、本当は久しぶりに、ブラザー・ユリウスとじっくり本の話でもしたいところでしたが。――いや、何かの約束ではないから、後回しにしても良いのだけれど、リコがどうやら私には来てほしくないようだから……」
 奴はよりにもよって、自分が食事に付き合わない理由をこちらに押し付けてきた。あたしの顔を軽く顎でしゃくりながら、だ。こんな人の使い方ってあるだろうか。
「マンフレート、いくらなんでも――リコを言い訳に使うのはやめなさい。自分の都合で他人の感情をそのように扱ってはいけない」
「いや、確かにね、」 あたしは思わず声を荒らげた。 「来てほしくないって思ってますけど?」
「待ちなさい、その言い方はだな、リコ……」
 本当はもっと言ってやりたいことはあるけど、ブラザー・ライムントが困り顔をしているので、これ以上は蒸し返さないことに決めた。あたしは視線を上向け、壁にかかったヴィンテージの時計の文字盤を見る。12時15分、を少し過ぎたところ。
「ね、行くんだったらさっさと行かないと――『カフェ・アリバイ』か、それともどこか別のところかもしれませんけど、三人分の席なんて取れなくなりますよ、ブラザー・ライムント」
 あたしはそう言って、博愛という言葉の擬人化みたいなブラザーを急かす。これは真面目な話、ライプツィヒ支部のあるエリアは市の中心部から離れていて、飲食店の数には限りがある。昼休みともなれば支部の職員と近隣住民とで、ランチを食べられる店は一気に埋まってしまう。
「リコの言う通りだと私も思うよ。さて、そういう訳だから私はこれにて失敬――楽しんできてくれたまえ、三人とも」
 たぶん本人は爽やかなつもりの笑み(実際はあまりに嫌味ったらしくて舌打ちをしてやりたくなる)と共に、奴はあたしたちに向けて片手をひらりと挙げながら、陳列棚の間をするりと抜けて行ってしまった。

  * * *

 こうしてあたしたちは執務室の戸締まりをし、曇り空の下ライプツィヒの古い町並みを歩く人々になった。「カフェ・アリバイ」までの道のりで、ブラザー・ライムントを主な聞き手にしながら、ベルリン支部での仕事や魔女狩人の生活について、あたしは色々なことを知った――魔女狩人部隊が引き受けるべき重大事件はそう多くないけれど、その一件一件はより危険で複雑で、神経を使う長丁場になってきているということ。現場で敵味方を識別するには、下手な「刻印」なんかの魔法を使うより、腕に蛍光色の布を巻きつけておくのが一番いいということ。食べるものに気をつかっている暇がないから、支部にいるときの食事は――なんだったら一日三食すべてを、支部の敷地に入っている軽食屋インビスのサンドイッチで済ませているということも。
 あたしは想像してみた。自分の命をすり減らしながら、悪い魔法使いや吸血鬼や人狼なんかの事件に対処している最中、三食サンドイッチだけの生活を毎日のように続けることを。あたしだったら一週間も持たない。サンドイッチなら中の具を変えれば飽きなくて済むとか、そんなのは嘘だ。いくらドイツ人が、衣食住の中で食についてはわりと無頓着な国民性の持ち主だったとしても、一生サンドイッチだけで生きてはいけないだろうに。

 古きよきウィーン風の(もちろんあたしは本物の、古きよき時代のウィーンなんてものは知らないのだけれど)カフェハウス、「カフェ・アリバイ」の扉をくぐると、正面には華やかなシャンデリアと、トルテやクーヘンが賑やかに並んだガラスケースがある。白いシャツに黒い蝶ネクタイを締めたウェイターさんは、あたしたち三人の顔を順繰りに見て、
「おや、お久しぶりでございます、ギーゼキング様」
 と言った。ブラザー・ユリウスが軽く眉を上げて、「ああ」とだけ答えた。前にも来たことがあるらしい。三十半ばぐらいに見えるそのウェイターさんは、絨毯張りの廊下をすいすいと通り抜け、あたしたちを喫茶室の奥のテーブル席へと案内した。そして、年季の入った円卓の上に、黒い革表紙のメニュー表を置き、また後ほど――と微笑んで退いていった。
「私はグーラッシュにするかな。今日は少し肌寒いし、温かいものを食べるにはぴったりだ、――ブラザー・ユリウスは?」
 ブラザー・ライムントが早々と注文を決め、自分のメニューをぱたんと閉じながら言った。あたしはまだ何を食べるか決めかねて、視線はメニューから逸らさないまま様子をうかがう。まさかこんな場所に来てまでサンドイッチを食べるんじゃないだろうなと考えたとたん、リストの中の「レバーヴルストとチーズのサンドイッチ」という文字列が目に入ってきた。

「わたしは、……この、日替わりのランチメニューをもらう。飲み物はコーヒーでいい」
 一方、革表紙を開いたところに留められた、一週間分の日替わりメニューの別紙を指して魔女狩人は言った。今日のセット内容は西洋ワサビホースラディッシュ風味のスープにハムの盛り合わせ、白身魚のフライ、パセリバターのポテトサラダと全粒粉パンだ。そのどれかが彼の好物というわけではなくて、たぶん一番コスパがいいという理由だけで選んでいるんだろう。この組み合わせで10ユーロを超えないからだ。
「それで良いのかね? 気にせずに何か好きなものを頼むといい。こんな時ぐらいは御馳走させてもらうとも」
 年のいった魔術師とは思えないくらいに気のいい、危険動植物管理課の課長代理はそう勧めたけれども、ブラザー・ユリウスはメニューに目線を落としたまま、口元を引き締めて何も言わなかった。なんとなく解る、――誰かに食事を奢ってもらえるとなったとき、人間は「たまの贅沢だ、あれも食べたいこれも食べたい」となるあたしのようなタイプと、たまの贅沢といって何を食べればいいのか解らなくなるようなタイプに分けられる。ブラザー・ユリウスはきっと後者だ。奢ってくれる人の財布に気を使ったり、そもそも普段から特定のものを食べたいという意識がなかったりして、結局一番安い料理か、「本日のおすすめ」みたいな無難さに落ち着いてしまうやつだ。
「いや、これで結構。普段よりずっといいものを食べさせてもらう。むろん普段の食生活を不服に感じてもいないが。――シスター・サガミ?」
 彼はどこまでもシンプルに自分の話を切り上げ、そちらはもう決まったのかとばかりあたしに目を向けてきた。名前を覚えてくれたのは何よりなんだけれどもまだ決まってない。あたしは心の中で「どれにしようかな」をやり、レバー入り肉団子スープレバークネーデルズッペとパンとジャガイモのセットを選んだ。デザートは後で頼もう。

「あの、そういえばブラザー・ユリウス、ちょっと気になったことがあって」
 全員の注文が終わると、料理が運ばれてくるまでは雑談になる。他の二人から何か話題が出る前に、あたしは名前を呼びながらその人のほうを向いた。
「さっき、『返した』とかなんとか……いう話をしてましたけど、何かものを貸してたんですか」
 物理的な物の貸し借りじゃなくて、「借りを返した」みたいな喩えの話だったのかもしれないけど、それはそれで何があったのか知りたくはある。質問を受けたブラザー・ユリウスは、ああ、と軽い相槌を打ってから、
「本だ。古い版の薬草図鑑が必要だというから、わたしの蔵書から該当するものを出してやった」
 と手短に答えた。あのクラッチバッグの中身は本だったのか。薬草図鑑――なるほど、薬草とされる植物は、同時に毒草であることも多いので、危険動植物管理課にはぴったりだ。
「そうした古い書籍の蒐集家でな、ブラザー・ユリウスは。私も一度ベルリンへ出張ついでに寄らせてもらったが、よく整理されて見事なものだった」
「へえ、そうなんですか――古い本や珍しい本を集める人って、けっこう居ますよね。愛書家っていうんでしたっけ、」
 あたしは何の気なしに言葉を選んだけれど、愛書家ビブリオフィリア、と口にした瞬間に、ブラザー・ユリウスの細い眉が、微かに寄せられた気がした。まるで、そう呼ばれるのは不本意だ、とでも言うように。
「えっと、違ったかも――とにかく、本が好きなんですね」
「ただ集めるだけでなく、大変な読書家でもあるからな、ブラザーは。あの膨大なコレクションだって、全て読んでいるのだったね?」
「本は読むためにあるものだ」
 あたしの顔にちらりと視線をくれてから、彼は素っ気ない口ぶりで答えた。
「わたしは自分の有する本なら、遅かれ早かれ全て読むし、わたしの前の持ち主もまた、読破したか否かはともかく読んでいたろう。わたしが集めるのはそうした本だ。書棚の飾りや地下蔵ケラーの肥やしではない」
 冷え冷えとした声だった。あたしは大変ばつの悪い思いをしながら、そっとデザートのメニューのほうへ目をそらした。幸いブラザー・ライムントが、初対面同士の人間関係が早くも気まずくなったのを察したらしく、すぐにフォローを入れてくれた。
「本にまつわる趣味にも色々とあるからな、例えばただ本を所有していることだけが好きな者もいるし、紙の本という媒体そのものが好きで中身は二の次という者もいる。君は本に書かれている中身や、本にまつわる様々の話が好きなのだろう、ブラザー・ユリウス」
「そうだ」 と短すぎる返事。
「というのも、――ああ、ではリコにも見てもらったらどうかね。君がマンフレートに貸していたその本を」
 ブラザー・ライムントは片手であたしを、もう片手でブラザー・ユリウスの椅子の脇を示す。落ち着いたダークグレーの、たぶん合革か何かで作られたクラッチバッグを。話を振られた本の持ち主は、少し考えるような素振りを見せた後で、鞄に手を伸ばしてぱちんと蓋を開けた。

 テーブルの上、あたしに向けて置かれたのは黒いハードカバーの本だった。ちょうど雑誌ぐらいのサイズで、2cmほどの厚みがある。表紙には銀箔押しで題字が――あのごりごりした昔のドイツ文字でものすごく読みにくいけれど、「Heilpflanzen: erkennen und anwenden」つまり「薬用植物:その識別と使用について」とあり、その下にはケシの白い花と、花が終わった後のケシ坊主をあらわす図版が載っていた。
「いつの本なんですか、これ?」
 間違っても落としたりしないように、そっと両手で本を取り上げながらあたしは訊いた。
「発刊年が書かれていないから正確には解らない。が、装丁や字体からして恐らくは戦前だ」
「戦前……っていうと、八十年とかそれぐらい前ですね」
 表紙から数枚めくると目次がある。あたしはこのドイツ文字(正しくはフラクトゥールというんだったと思う)というやつに慣れていないので、ぱっと見ただけでは何が書いてあるのかわからない。昔の、それこそあたしのおじいちゃんやブラザー・ライムントぐらいの年の人たちは、若いころは本を一冊読むのにも苦労したはずだ――いや、日常的に使っていたから訳なく読めたのか。
「でも、こういう古い資料があるって解ったら、そりゃあ読みたいって人は多いでしょうね、貴重なものですし」
 あたしは言い、適当に数十枚まとめてページを繰った。開いた面の右側には赤紫色の、袋のような形をした花が、一本の茎にずらりと縦並びになった姿が描かれている。ジギタリスだ。たしか心臓病の薬になって――当然、量を間違えれば鼓動が止まって死ぬことにもなる。
 また別のページには、黄色い花弁を持つ小さなセイヨウオトギリソウの花が、葉や萼の形までよく分かるような図で示されていた。ここには大きくページの折られた跡があった。わざと折ったのか、何かの手違いでそうなってしまったんだろうか、どちらにしろ古書としての値打ちはそのせいで大分下がっていそうだった。
「……言っておくが、わたしは自分の蔵書を誰にでもほいほい貸しているわけではない。わたしの家は図書館ではないし、他人の良心をまるきり信じてもいないからな」
「いや、まあ、それはそうでしょうけど。そう、それも気になったんですけど、あんな奴に貸しちゃって良かったんですか、大事な本を。あいつなんて正に『人のものを大事にする』精神の欠片もないというか、下手するとそのまんま、……そのまま、えっと」
 次の言葉が出てこなくて、あたしは少し焦った。言いたいことは決まっているけれど、ドイツ語に「借りパク」を表すぴったりの単語があったかどうか。
 タイミングが良いのか悪いのか、そこでウエイターさんがあたしたちの昼食をワゴンに載せて運んできたので、奴についての悪口は打ち止めになった。あたしは本を閉じてブラザー・ユリウスに返し、その間にも空いたテーブルには次々と温かな皿が並べられていった。

「空きがあるのが嫌いなんだ。わたし自身の棚に穴が開くのが」
 あたしがパンに手をつけかけたとき、横から静かな言葉が聞こえてきた。ブラザー・ユリウスが、ナイフとフォークをそれぞれの手に握りながら、特に誰を見るでもなしに言ったのだった。
「ああー、あ、あれですよね、棚の寸法どおりに縦横きっちり本が詰まってないと気がすまない、みたいな……」
「そうだ。だから自分の目の届かないところにやるには条件がいる。必ず返す気のあるものにしか貸したりなどしない。当たり前のことだと思うが」
 淡々と答え、ブラザーは白身魚のフライにナイフを入れた。――ということは、少なくとも彼はあのお坊ちゃんのことを、「借りたものは返す」という点においては信用しているわけだ。正直あたしには理解ができない。
「そういうものですか、……あの、あんまり想像がつかないっていうか、あいつのことをそこまで信用できるか疑問っていうか」
「わたしもそれほどは信用していなかった」
 小声であたしが疑問を口にしたところ、わりと正直な答えが返ってきた。なんだ、ブラザー・ユリウスもそんなに信用してなかったんだ。テーブルの向かいに視線をやると、ブラザー・ライムントが苦笑している。
「だが現実には、ブラザー・アルノーは本を忘れずに返すし、何より借りた本はちゃんと読んでいる。それだから貸す気になるんだ」
「ちゃんと読んでる、っていうと――」
「つまり、人から本を借りたきり存在をすっかり忘れて、貸した側からあの本はどうなったかと言われて初めて思い出し、内容について話そうにも全く覚えていない、などという不義理がないということだ」
 それって当たり前のことなんじゃ、と言いかけてあたしはふと我が身を省みる。読みたいから友達に借りたはずの漫画を、他の趣味や勉強にかまけているうちに記憶の片隅へ追いやってしまい、返す日にようやく気が付いて一気に読み、「で、どうだった?」と訊かれて「うん、まあ、面白かったけど」だけで済ませる――そんなことが、毎回ではないけれど時々は、あった気がする。
 不義理か――この人と喋っていると、自分の悪いところをことごとく見透かされている気になるのは一体何なのか。実際にはただの偶然なんだろうけど。

「というか、それってつまり、ブラザー・ユリウスはあの……マーニと本の話とかをするってことですか」
「貸し借りのある時には。普段はわたしのほうが多忙すぎて、そう頻繁に会話をというわけにもいかない」
「……もしかして、それなり仲良いんですか? ブラザーとあいつって」
「誰も仲が悪いなどとは言っていないだろう」
 彼は食べる手を止め、怪訝そうな顔であたしのほうをじろりと見た。
「ただベルリン以外の場所で会うときに、必ずわたしの到着を待ち構えていて、こちらが貴族の子息か映画俳優か何かのように出迎えるのはよしてほしいというだけだ」
「ああ」 あたしは納得した。 「解ります、それ、あたしもいっつもやられるから」
 この人もライプツィヒ支部や、どこかの喫茶店で待ち合わせをするごとに、例えば――あたしでさえ「若く美しいお嬢さん」と呼ばれていることを考えるに、「私の若く賢明な友よ」とかなんとか――仰々しい挨拶を受けているのか。想像するだけで気の毒になってくる。なにしろ奴は自分に向けられる人の目は気にしても(でなきゃあんなに気取って振る舞う理由が思いつかない)、相手に向く人の目は全く気にしないのだ。
「その、楽しいですか? あいつと喋ってて疲れたりしません?」
「楽しい、というよりは」 パンを手でちぎりながらブラザーが答える。
「興味深い。たとえば同じ本を読んだとして、わたしとは全く違った場所に着目しているのが解る。逆に、わたしが印象深く見たところをまるで気に留めていない場合もあるが。……違った視点を持つ人間と本を読むのは、少なくとも自分の思考を凝り固まらせないために重要なことだ」
「はあ、そういう……ものですか」
「言うまでもなく、最初からまともに読まずに、単語や一文を拾って自分に都合のいいことばかり並べ立てるようなやつは論外だが。――だから誰彼かまわず貸したりはしないんだ。わたしは一対一の議論なら喜んでするが、国民議会のどまんなかに放り込まれて野次を飛ばされたいわけではない」
 そんな経験が何度もあるに違いない口ぶりだった。声に苦々しさが滲み出ている。読書家も色々あって大変なんだなと、どこまでも他人事のようにあたしは思った。あたしはもっと視野を広く取ろうとか、見聞を広めようとか、そこまでの目的意識を持って本を読むことがそんなにない。
「じゃあ、ブラザー・ユリウスは、自分の知らない世界を見るというか……立ったことのない視点に立つために、本を読んでるってことなんでしょうか。ほら、さっきの本なんかそうですよね、ブラザーって薬草学とかが専門じゃないと思うんですけど」
 薬草学や錬金術が専門なら、それは魔女狩人部隊じゃなく生物管理部あたりに所属していそうだし、と思ってあたしは訊いたのだが、これは少し迂闊な質問だったかもしれない。なにせ、このあたしが現に、危険動植物が専門でもないのに危険動植物管理課に配属されているからだ。世の中にはそういう理不尽もある。

 ブラザー・ユリウスは、黙って手の中のパンをじっと見つめていたが、やがて静かにふうっと息をついてから、あたしの疑問に答え始めた。
「概ねあなたの言うとおりだ、シスター・サガミ。わたしは、――今の時代に照らして考えれば、ずいぶんと古い人間だ。それが新しい価値観の中で生き、現代の犯罪に立ち向かう仕事をするには、少なからず努力をしなければならない……このような若いなりをしていれば、なおさらそうだ」
 見た目だけなら、そう、本当にぱっと見ただけならあたしと同い年ぐらいの、21世紀生まれを自称して差し支えなさそうな顔をあたしに向け、彼は低いトーンで話し続ける。見た目に若い魔法使いというのは、年を食っていても本人の意志で若さを保っている人や、あたしのようにそもそも実年齢からして若い人もいる。そして自分自身にそのつもりはないのに、ある時点から年を取れなくなった人というのもいる――ブラザーは多分その類なんだろう。
「でも、それにしては古い本を……いや、新しい本だってたくさん読むんでしょうけど、コレクションはみんな昔の本ばっかりなんですよね。それはどうして、」
「断っておくが」 あたしの言葉は短く遮られた。
「わたしの蒐集はただ古い本というのではなく、わたし以前に誰かの手元にあったという意味での『古本』だ。むろん年代的に古い本も多々あるが、刊行されたばかりの新書もある」
 少しの間。 「そして、何故古本を選ぶのかという理由だが、そのほうが見えるものが多いからだ」
「見えるものが? それは普通の、同じ本の新品よりも?」
「そうだ。この薬草図鑑にしても言えることだが、前の持ち主がどのように本を読んでいたか、何の目的を持っていたのか、ということが」

 彼は再びクラッチバッグを開け、あの黒い表紙の本を取り出すと、ページを広げてあたしに見えるように向けた。小さな黄色い花が描かれている。さっきたまたま読んだ場所だ。
「例えばこの本では、セイヨウオトギリソウのページに折り目がついている。恐らく元の所有者が、すぐにこの部分を開くことができるように折ったのだろう」
「あ、それ、あたしも気がつきました。ここ折れてるなあって。まあ、あたしはただ、これじゃ古本屋に高くは売れなかっただろうな、ぐらいのことしか考えてませんでしたけど……」
 あたしの言葉は尻すぼみになる。これも視点の違いだと言ってしまえればいいんだけれども。
「セイヨウオトギリソウは伝統的なハーブで、薬効も様々だが、――ここに薄く鉛筆で線が引いてあるとおり、古くから憂鬱症や神経症の治療に用いられてきた。今でいう鬱病や各種の精神病だ」
「じゃあ、前にこの本を読んでた人が、そういう病気にかかってたってこと……」
「かもしれないし、持ち主の家人や知人友人がそうだったかもしれない。世に出回っていた時期を考えるに、精神病の患者などろくな扱いをされていなかった頃だ。持ち主は藁にもすがる思いで妙薬を探し回った結果、この本に行き着いたのか、あるいは元々家にあった本を眺め見ていたら、偶然にも花の薬効を知ることになった、ということもあるだろう。彼か彼女はよく晴れた初夏の日に、書を抱えて裏庭や野に出、黄色い花が群れて咲いているところを探して回ったかもしれない。心まで少しでも晴れやかになるよう願いながら」
 下線の引かれたところを指でなぞりながら、ブラザーはあくまでも冷静に続けた。いくらか感情も込めていたのかもしれないけれど、少なくとも声には表れていなかった。
「……じゃあ、この本が売りに出された理由も、いくらか想像はつきますよね」
「ああ。持ち主が亡くなって、その遺族が売りに出したのか。その場合、単に寿命が尽きたのか、時代を鑑みるに戦争や迫害が原因だった可能性もある、もしくは――最後まで病が治らなかったゆえの死だったかもしれない」
 彼はそこで静かに本を閉じ、あたしの前から引っ込めた。
「だが一番希望的な観測は、ハーブの薬効でか、あるいは他の薬や時間のもたらす治癒力によって、無事に病から恢復してこの本が不要になった、といったところだろう。わたしはそうであることを望む」
 平たい鞄の中に、白いケシの絵が滑り込む。読書家はふたたび本からナイフとフォークに持ち替え、まだ何か聞きたいことがあるかと言うようにあたしの顔を見た。

 あたしはというと、実際いくつか聞きたいことはあった気がするものの、それより先に考え込むことが勝ってしまった。もしかするとブラザー・ユリウスは昔、それこそまだ自分の視界以外の世界を知らなかったころ、ほかの世界や立場を見ようとしなかったために、手痛い失敗をしたことがあるんじゃないだろうか。その結果、自分の本棚ではなく自分の心に、大きな穴を開けてしまったことが。
 だとすると、後の人生をめいっぱいに使って、昔の自分自身が知らなかったことを懸命に知ろうとするのは、とても理解のできることだ。ただ、本棚の隙間ならまだしも――たとえば人の形に空いた穴を本だけで埋めるのは、相当難しいことのように思う。もちろんこれはあたしの勝手な想像で、彼は単に好奇心旺盛な、自分が見たことのないものはなんでも見たい人であるだけかもしれないけれど。
 そうしてしばらく、あたしはブラザー・ユリウスの顔と自分の食事の間で視線をちらちら行き来させながら、彼の蒐集の理由についてあれこれ思い描いた。どれくらい経ったころだろう、ふと目を正面に向けたとき、ブラザー・ライムントの穏やかな笑顔が飛び込んできて、はっと我に返った。
「やば、あ、ええと」
 口ごもる。 「すみませんブラザー・ライムント、放ったらかしで話進めちゃって……」
「いや、構わないとも。君たちは初対面なのだからね、それで話が弾むのはとても良いことだ。ドイツで新しい知人ができるのは、リコ、君が日本に帰ってからもきっと役に立つことだろうし」
 気にしなくてもいいとにこやかに言う、ライプツィヒ支部いち頼れる大人のなんて心が広いことか。あたしは胸を撫で下ろし、けれども謝るべきことは他にもあったと思い直す。
「というかブラザー・ユリウスも、ほんとごめんなさい食べる手止めちゃって、フライ冷めたらおいしくないのに」
「わたしも別に構わない。前にも言ったが、普段よりはずっといいものを食べさせてもらっている」
「でも――ああ、それで思ったんですけどね、自分と違う視点に立つとか、知らないことを知るって意味ではその……三食サンドイッチはやめといたほうがいいんじゃないかなって……」

 ラムネ色の目がまるく開かれてこちらを向いた。その瞬間だけ、ブラザー・ユリウスが見た目の年齢に見合った、中学生か高校生の男子らしい表情を思い出したようにあたしには見えた。
「まあ食べる時間がとか、お財布の中身がとか、食べ物に金使うぐらいなら本に使うとかいう事情はあるんでしょうけど、でもたまには……それか、同じサンドイッチでも違う国のものを試すとか。あ、そうだブラザー・ユリウス、日本の……カツサンドって、食べたことないですよね多分」
カッツ?」 金色の眉が露骨に顰められる。
「違います、発音は似てるけどカッツじゃなくて、豚肉のフライのこと日本ではカツって言うんです――」
 あたしは慌てて弁解したけれど、ドイツ語圏で豚肉のフライといえばそれは、あの紙のように薄く叩き伸ばしたシュニッツェルを指すわけで、日本人が思う豚カツとは違う。やっぱり深く考えずに物を言うもんじゃなかった。

 と、ブラザー・ユリウスの眉間が緩んで、何かを思い出すように視線が上向いたかと思えば、
「……そういえば、日本の料理本を英訳したものが一冊あるのだが、そこに載っているだろうか。その、カツサンド、は」
 そんな言葉があたしに向けられる。料理本までコレクションの対象だとは思わなかった。時代や国ごとの流行や食文化を見るにはぴったりなんだろうけど。
「あるんですか、料理本。それも日本料理の」
「今持っている」
「ええ!?」 あたしは目を剥いた。あまりにも意外すぎる言葉だった。
「あの、こんなこと訊いちゃ失礼かもですけど、なんでそんなもん持ち歩いて――」
 言いかけたところで、クラッチバッグから出てきたものを見、あたしは目ばかりか口まで開け放すことになった。明らかに電子書籍用のモバイル端末だったからだ。白くて薄型の。
「――どうかしたのか、シスター・サガミ。電子書籍については否定派だっただろうか」
 あたしが黙っていたせいか、タッチスクリーンを指でなぞっていたブラザー・ユリウスが、軽く首を傾げながら訊いてくる。
「いや、別に……あたしもパッドで漫画読んだりとかしますし、便利だからそれでいいと思いますけど、ただ」
「わたしが電子書籍を使っているのが不思議だということか。正にシスターの言う通りで、利便性を考えればデジタルも悪くないと考えているのだが。……紙の本がいつでも手に入るとは限らないし、とりわけ国内未発売の本がどうしても読みたければ、選択肢として外すわけにはいかないだろう」
 さも当然のように素っ気なく、ブラザーは手元でページを送りながら答えた。ああ、この人は本当に、根っから「読む」ことが好きなんだ――紙の本であれ電子書籍であれ、古い本であれ新しい本であれ、そこに新しい世界がある限り。
 あたしは感服し、それから彼が日本の料理本を読みたかった理由について密かに想像してみることにした。カツサンドのレシピは残念ながら見つからなかったようなので、あたしは彼がベルリンに帰るまでに、ドイツ語で作り方を書いてあげなければと思う。

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