いらえがないのでよもやと思ったのだ。扉を開ける手が自然と強張った。

曇り空の予報 -Take Me By Storm-

 が、幸いエリーの不安は杞憂に終わった。四度のノックに返事の一つきり来なかったのは、部屋の住人が煙霧病の発作を起こして倒れていたからではなかった。この苔色の髪をしたエルフの娘が見たものは、いたって平穏そうな青年の姿だった――年季の入った木の椅子に腰掛け、窓辺に置かれた何かに一心に見入っている、いかにも良家の子息めいた、上等のシャツとベストを身に着けた若者だ。灰色の瞳が投げかける視線はどこまでも無心であり、来訪者の存在には気付きもしていないようだった。

「あの、アイヒェンドルフ少尉――」
 エリーは呼んだ。温かなミルクティーと数枚のクッキーが載った、丸い木の盆を片手にして。午後のお茶を楽しむ時間になっても、この飛行機乗りが談話室や屋外のテーブルに姿を見せないので、彼女は気を遣って様子を見にきたのである。
 果たして、最初の呼び掛けにも青年は答えなかったが、立ち上る茶葉の香りは鼻先まで届いたらしい。我に返ったように素早く、金髪を撫で付けた頭が戸口へと向き直る。
「エリー嬢、……もしかすると、大分待たせてしまっただろうか。すまない、随分と上の空で」
「いいえ、たった今来たところです、お気になさらないでください。喉が渇いていらっしゃらないかな、と思っただけなので」
 首を小さく横に振り、エリーは青年の謝罪を無用のものと主張する。そして、両手で盆を少しばかり高く持ち上げ、
「どうでしょう、もしお腹が一杯でなければ、クッキーも一緒に。あの、わたしが焼いたもので申し訳ないんですけど」
 と言い添えた。
「申し訳ない? ……それこそ何も気にすることはないと思うよ、エリー嬢。喜んで頂こう。いまそちらに行くから、」
「あっ、いいえ、わたしがお持ちします。少尉のお身体に障っちゃいけませんから」
 青年の柔らかな声に、彼女は少なからず照れ臭さを覚えながら部屋に踏み入れる。俺はそこまで虚弱ではないつもりなんだが――という苦笑めいた言葉が、彼女を暖かく迎え入れた。

 湯気の立つ紅茶と素朴な焼き菓子は滞りなく受け取られ、それぞれ最初の一口ぶんが白磁の器から消えた。
「ああ、」
 少尉と呼ばれた青年は、花のような香気ごと深く空気を吸い込み――その息には掠れたように喉の鳴る音が交じっている――、詠嘆するように声を漏らした。
「美味しい。気持ちの緩やかになる味だ、……実のところ体が冷えてきたと思っていたんだ。ちょうど良かった」
「そんな、わたしこそ良かったです、お役に立てて。アンナちゃんのクッキングレンジが故障しちゃってて、ひさしぶりに石炭ストーブを使ったものですから、温度なんかが違って失敗するんじゃないかと心配してて」
「クッキングレンジ? あの、エリー嬢がいつも料理に使う、」
「そうです、エーテル駆動式……なんとか……いう名前の。わたしには何が壊れてるのかさっぱり分からなかったんですけど、アンナちゃんがいうには修理に数日かかる見込みだそうです」
 機械に造詣のない娘は「さっぱり」の言葉通りに軽く頭を掻き、その髪の合間からは人間のものよりやや尖った耳が覗く。彼女がこの共同体の食事を一手に引き受けるにあたって、そのクッキングレンジは頼りになる相方だった。大公国出身の若い発明家が作り上げたそれは、製作者によれば正式名称を「94型エーテル駆動式クッキングレンジ」といい、黒鉄で鋳られた堅牢な台座に、大鍋二つとフライパン、やかん等を一度に火にかけられるだけのスペースを備え、分厚い扉のついたオーブンと焼き網も据え付けられていた。この総合調理器具の便利さについては、寄り合いに住む労働者たちのほとんど誰もが認めていた。だが、一体どこがエーテルで駆動しているのかについては誰も知らなかった――台座の上部にやたらと発光する真空管の群れも備えていたので、それらが未知の動力源を必要としているのかもしれない。少なくとも、煮炊きにかかる熱エネルギーについては、炉にくべる薪の燃焼によってまかなわれていた。
「道理で今日はアンナ嬢を見かけないと思った。きっとそれに掛かり切りになっているんだな」
「はい、わたしも何かお手伝いできればと思ったんですけど、わたしが触ったら余計に壊しちゃいそうですし……」
 そこで娘は言葉を切った。自分が訊ねたかったことをようやく話題に出す機会を得たのである。
「……あの、掛かり切りといえばですね」 控えめな調子で彼女は口にした。
「少尉はさっきから、その、何をずっと見ていらしたんでしょう。新しいご本ですか」

 灰色の目が二、三度瞬いて、二枚目のクッキーに伸ばされた手が動きを止めた。
「俺が? さっきから、というのは……ああ」
 青年は窓辺へと身を乗り出し、そこに置かれたものをテーブルの上へと引き取った。それは彼の握り拳ほどの大きさで、三本脚の金属台に支えられた、水晶玉のようにも見える無色透明の球体だった――内部には氷の結晶めいた、白い星形の物質が浮かんでいる。円いガラスの器に水を入れ、寒い日に表に出しておけば、このようなものが出来上がるかもしれない。が、ここは肌寒いとはいえ、氷点下にはならない屋内である。結晶の正体はエリーには掴めなかった。
「これのことだな。エリー嬢には馴染みのないものだっただろうか」
「はい……、わたしにはただの置物のようにしか。何か特別なものなんでしょうか?」
 よく見えるようにと目の前に差し出された、その謎めいた球体を、娘は青い目でとっくりと眺めた。用途や意味合いについては見当もつかないまま。
「ストームグラス、と云うんだ。俺の大伯父から貰ったもので、――彼は海軍の船医だったが、昔の帝国沿海州では、これを使って天候を予測していたらしい」
「これで、ですか?」 少なくとも帝国生まれではない娘は目を丸くした。 「あの、どうやって?」
 たとえば何か、気候の変化に応じて様子の変わる魔法が掛けられているのだろうか。いや、人間の発明品に魔術というのも――彼女はあれこれ考えてみたが、どれもいま一つしっくり来なかったので、大人しく青年の説明を待つことにした。
「中に白い結晶が浮いているだろう。なんでも、数種の薬品を混ぜた液体が、周囲の……気温だとか気圧だとか、様々な要素に影響されて、こうした結晶を作るのだそうだ。詳細な原因については、完全には解明されていないらしい」
「完全に解明されてないものを使ってたんですか? その、軍隊で、ですよね?」
「もしかしたら彼らは解明していたのかもしれないが。――天気予報の最新技術というのは、一種の軍事機密だからな。敵方よりも早く、より正確に天候を予測できれば、それだけ戦いには有利になる。ある技術の詳細が民間まで下りてこなくとも、特に不思議はない」

 そう語る青年は、「少尉」の肩書き通り軍人であった。灰色のシャツは海軍ではなく、帝国空軍で広く着用されているものだ。煙霧病に冒されていなければ、今も首都で戦闘機乗りとして任に就いていただろう。
「まあ、原理が分からなくとも、どのように読み取ればいいのかは知っているから、俺としては十分なんだが」
「……あの、それもやっぱり軍事機密なんですか?」 娘がおずおずと訊いた。青年は小さく吹き出した。
「まさか。俺だって帝国軍人だ、もし本当に機密事項なら、間違っても民間人に漏らしたりはしないさ。ストームグラスの読み方は秘密でもなんでもない。そもそも今は使われていないんだ、帝国気象庁がもっと正確な予報を提供しているから」
 口元に穏やかな弧を描きながら、彼は己の忠誠心を言葉にした。それから紅茶のカップに手を伸ばし、多少渇き始めていた口腔を潤した。
「液体と結晶の様子で読み取るんだ。例えば今は、小さな結晶がいくつも浮遊している。この状態になると近いうち雨が降る、と言われている」
「あら、それは困りましたね。皆さんが外で作業できなくなっちゃいますし、小さい子たちも走り回って遊べないわ」
「そうだな、ただ最悪のところではない。この結晶がもっと大きく、木の葉のような形に成長して、液体も白く濁ってしまうときがある。そうなると24時間以内には、酷い嵐が来るという予報だ」
 ガラス球に触れないよう指で示しながら、青年は静かに解説した。エリーは瞳を驚きで一杯にし、まじまじと球体を見つめ――時折彼の横顔に視線を走らせた。今日はいくらか顔色が良いように見える。肺を患い、可能な限りは屋内で過ごすよう医者から言い含められている彼は、時折見ていられないほど青白い頬をしているが、少なくとも現時点では小康状態にあるようだ。彼女にとっては実に良いことだった。
「それって、どれぐらい正確なんでしょう。その、ちゃんと当たりましたか? 今まで見てきて」
「……数十年前の天気予報だ。もちろん当たるときもある、結晶が告げたとおりに雨が降ったり風が吹いたりしたのは一度や二度じゃない。けれども、まあ……これを顰め面して一日中眺めているよりは、朝晩二回の気象警報に注意を払うほうが、いくらか有意義だとは思うな」
「そうですか……」
「技術の進歩は早い。ほんの数分、新聞の気象欄に目を通すだけで、明日の気温や湿度、風向き、相応しい服装、すべてが解る。予想される煙霧の濃ささえ教えてくれる。まあ、ここ数ヶ月、「警告」以外の予報を見たことはないが」

 微かに皮肉めいたものを滲ませながら、青年はゆっくりと息をついた。エリーは無言のまま、弱々しく曖昧に笑った。ストームグラスの正確性にがっかりしたという訳ではない。その後の、今日びの煙霧予報は半ば形骸化しているという点について、内心嘆息したのである。本当に、一ヶ月のうちほんの一日でも、明日の煙霧は「軽微」だという希望に満ちた報が出てくれれば、この青年もきっと安心して外に出られるし、その日を随分と楽に過ごすことができるだろうに。
 大変に遺憾なことながら――彼女たちの住まう帝国の辺境は、首都に比べて遥かに煙害の穏やかな土地だと言われてこそいるが、それでも毎朝のようにスモッグ警報のサイレンを聞きながら目覚めなければならないのだった。
「ただ、他に理由はちゃんとあるんだ。俺がこうして、毎日のようにこのガラス玉を眺める理由は」
 エリーの表情から落胆を読み取ったのか、青年は取り成すように言葉を続けた。
「さっきも言ったことだが、ストームグラスがどのような原理で結晶を作り、天気を予測するのかはまだはっきりしていない。が、少なくとも空模様から判断するわけでないのは確かだ。そうだろう?」
「ええ……、だって、それに目ですとか、それに当たる部品のようなものはありませんものね」
「すると一体どうなるか、――勿体つけても仕方ないから言ってしまうが、これは時々、『晴れ』の予報を出すんだよ」

 エリーは目を丸くした。どきり、と心臓が音高く鳴った気がした。
 晴れ。それはこの共同体に住まう労働者たちが、否、ひいては帝国全土のあらゆる人々が希求してやまないもののはずだった。晴れ渡る青空、白い雲、天から降り注ぐ光――などというものは、数十年前までは確かに存在していたらしいが、今となってはその目で見た者も少なく、存在自体知らずに育った者のほうが多いくらいだろう。だが、何となしその響きに清浄さ、崇高さ、あるいは懐かしさを覚え、強く惹かれる心は人々の中に絶えず息づいていた。無論、エリーや青年の中にも。
「それって、それはその、どういった……だって、天気予報で『晴れ』が出ることなんて……」
「ああ、そうだ、現代の帝国の天気予報なら有り得ない。もちろん雨も降らず、風もほとんど吹かず、朝晩通して暖かな日というのはあるものだが――そういう日に限って煙霧は酷くなるのだよな。とにかく、どんなに穏やかな一日であっても、今の気象庁がそれを『晴れ』と呼ぶことはないわけだ。空を見上げれば一目瞭然だ」
 しかし、このガラス器具は空を見上げるなどということはしない。判断基準から「空模様」を除けば、自ずと予測の範囲も変わってくる。青年の言いたいことを理解し、エルフの娘は息を呑んだ。
「でもそれは、わたしたちに見えているのは、空そのものじゃありませんから」
 彼女は思わず言い、そして自分の推測が正しいことを願いながら続けた。
「つまり煙霧の向こう側がどうなっているのか、もしかするとストームグラスは教えてくれるかもしれないんですね」
「そういうことだ。大伯父の頃だって、晴天は珍しさこそなくても有難がられていただろう、……まして今はどれだけ願っても見られるものではないし、俺も一度だって見たことがない。これを覗いていると、彼らの見ていた空がどんなものだったか、少しは分かる気がしてな」
 青年の声は郷愁、それも何故か未だ見ぬものに対する、懐古と思慕の念に満ちていた。最も空に近い場所で長く戦い続けてきた彼でさえ、本物の空を見たことはないのだ――自分たちのように一度も飛んだことのないものと同じように。そう考えると、エリーにはこの若い飛行機乗り、かつて撃墜王と呼ばれた「雲の上の」存在が、今までよりも一層身近に思われるのだった。

「それで、その、中身がどうなったら『晴れ』の予報なんでしょう」
 心が逸るのを感じながら彼女は訊いた。思慮深そうな青年の顔が、どこか誇らしげな、大好きなおもちゃか本でも紹介する子供のような色を帯びる。
「中の結晶がほとんど消えて、残りもすっかり底に沈んで――ガラスの中が澄み切ったら、それは明日が晴れだという報せだ。まるで液体が空そのもので、結晶が雲かのような話だな」
「へえ……」
 彼女は想像してみた。黒く分厚い煤と塵煙の向こうには、自分がまだ一度も見たことのない青色が広がっていて、瑠璃細工や水晶のかけらや、ランプの灯に透かした上等のインク壜のように、くっきりと輝いている。見えなくても確かに存在しているかもしれない、存在しているのならいつか見られるかもしれない、と。
「あの、アイヒェンドルフ少尉、」
 そこから先を続けるのには、少しばかり勇気が要った。想像するだけならば誰に憚ることもないが、実際に口に出すのはまた別の問題だーー何だろうかと首を傾げる青年に向け、エルフの娘は声を絞り出した。
「もしも今度、グラスをご覧になって、明日は晴れだと出ていたときには、……わたしにも教えていただけませんか」

 青年の返事が正確にはどうであったか、エリーは覚えていない。ああ、勿論だとも――とかなんとか、少なくとも肯定だったようではある。ただ、直前までの言葉を告げきった時点で、彼女は持てる気力をほとんど使い切ってしまい、複雑なことを処理しきれなくなっていたのだ。
「さて、せっかく淹れてもらったお茶だ。冷めないうちに頂いてしまわないとな。良かったらエリー嬢も……」
 等という申し出さえ、耳に入ってはいなかった。自分がどう返事をしたのかもよく解っていない。帝国の「空色」をした目を丸くする青年の前で、彼女は慌ただしく礼などを述べ、空になった盆を片手で胸に押し付けながら、逃げるように廊下へ飛び出してしまった。
 自分の部屋に戻ってから、彼女は小さな窓の前に立ち、今日の空模様を窺った。何もかも灰色に煙るような、いつもと何も変わりのない丘の空だ。強く、今までこれほど心からこいねがったことはないというぐらいに彼女は願った。晴れますように、――明日にでも、明後日にでも、晴れになりますようにと。

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