去年誂えてもらったばかりの狩猟服も、恐らく次のシーズンにはお役御免だろう。

濡れ紙を剥がすように -Papier ist Geduldig-

 成長期とはそういうものだ――11歳の少年に合わせて縫われた緋色のコートに、12歳の身体は窮屈さを覚えていた。
 否、窮屈なのは服だけとも言い難かった。黒光りする小銃を担いだ大人たちの会話は、ハインリヒにとってまったく無益な、欠伸すら出ないほど無味乾燥なものだった。いずれ自分もあの輪に加わって、上官に述べたおべっかの数など比べ合うようになるのか、と考えるだけで憂鬱になる。実務を半ば退いた父、狩りのためにわざわざ休暇をもぎ取ってきた叔父、後に連なる従卒たち。永遠に続く曇り空のために、みな顔色はくすんで作り物のように見える。鹿狩りからの帰り道は酷く退屈で、これなら同じ時間をチェスの演習スタディでもして潰したほうがまだ楽しかったに違いない。厩舎で一番だという黒馬の後ろに乗せて貰えたから何だ? 猟銃への弾込めを褒められたところで、それが自分にとって一体どれほどの価値を生じるというのだろう?
 人工的に整備された作り物の森から戻り、屋敷の門をくぐってからも、彼の心は空と同じく塞いだままだった。一階の窓に掛かったカーテンを持ち上げ、こちらに大きく手を振る弟の姿を見て、鬱屈した気分はにわかに増した。やはり家にいればよかった――応えてやったらどうかと叔父に促されても、彼は頑として弟を無視し続けた。自分と全く同じ顔のものが、自分では絶対に作らぬ表情で笑っていること、その忌々しさに気が付いたのはずっと昔のことだ。

「お前も来ればよかったんだ」
 数刻後、ハインリヒは弟の部屋にいた。お世辞にも楽しい一時を思い出しているようには聞こえないだろう、彼の乾き切った口振りに、双生児ふたごの弟は頷き返した。残念さの滲み出す笑みからは、兄の皮肉にまるで気が付いてないことが伺えた。
「そう思います。見たかったのに、ハイニ兄さまが大物を仕留めるところ」
「馬鹿、銃を撃てるのは十六歳になってからだ。お前、狩りのことを何も知らないんだな、コルネール」
「だって、一度も行ったことがないから……」
 深緑色の覆いがされたベッドの上で、金色の眉が気恥ずかしげに寄せられる。神は同じ胎から出でた赤ん坊二人の、容れ物だけは見事なまでに等しく作り上げたが、両親から受け継ぐ才の配分については、意図的に平等を避けたとしか思われなかった。問題なく頑健な兄に対し、弟は生まれつき病弱で、「帝国男児らしい」闊達な遊びに興じている時間より、こうして臥せっている時間のほうが圧倒的に長かった。
「でも、見てください、ほら」
 上体だけを起こした態勢のまま、弟はシーツの上に散らばるものを示す。山折りや谷折りをいくつも繰り返し、一つの形に作り上げられた白い紙。
 ハインリヒは目を瞬いた。いくつも転がるそれは、双つの翼と尖った先端を持つ、
「……飛行機?」
「そう! このあいだマクシーネに教えてもらったんだ、……です。最初は全然飛ばなかったけれど、だいぶ上達してきて――」
「お前はこんな下らないがらくた作りのために、上等の紙を何枚も無駄遣いして、古典の勉強も放ったらかしにしていたのか?」
 家庭教師として雇い入れられた女中の名を出し、嬉しそうに目を輝かす弟に、彼は庭の生垣より棘のある声を突き返した。
「もう十二歳だぞ。解っているはずだよな。子供の遊びに割いている時間など無いし、まして私たちはアイヒェンドルフの男児なんだ。工作なんかしている暇があったら、教練に出られるよう少しでも努力しろ」
「だけど、ぼくはハイニ兄さまに――」
「私のことは兄上と呼べ」
 鋼のような目に射竦められて、弟の声は細い喉へと引っ込んだ。褪せた金色の頭が項垂れる。
「……はい、兄上」
 振り向きもせず部屋を出ていく彼の後ろで、くしゃりと紙の潰れる音がした。

  * * *

 滑走路の上は示し合わせたかのような向かい風。煙霧に覆われた灰色の空も、今朝は心なしか暗鬱さを緩めたと見える。最高の狩猟日和だ。無論、獲物はシカでもウサギでもない。
 帝国空軍が誇る戦闘機部隊の本拠地は、目に見えて期待される戦果に躍っているようだった。飛行機乗りたちの宿舎から、銀色の機体が並ぶ格納庫まで、士気旺盛な若者たちの声が賑やかに響く。さあ、道を空けろ、ラッパを鳴らせ、ノルトブルクの英雄がお出ましだぞ!
「クレッペル、そう大声を上げないでくれないか。俺はそういう……鳴り物入りの似合う男ではないんだ」
 その先頭に立つのは、長身を飛行服に包んだ一人の青年だった。否、表情に残るあどけなさと穏やかな笑みは、未だ少年のそれと言って差し支えない。胸に留められた青いリボンと銀星だけが、この青年をただの内気な若者でなく、帝国で最も優れた撃墜王の一人と証明していた。
「ご謙遜を、アイヒェンドルフ少尉。あなたが空にある限り、帝国の北の守りは万全です」
「買い被りだよ、それに俺よりはずっと――」
「そう、しかも一人だけじゃあない、我々の元にはもう一人いるんですからね。全く、大公国の連中には絶対に味わえない贅沢だ……」
 先日ついに三十機撃墜を記録した、気鋭の狩人と部下の会話は、「もう一人」の耳にも届いていた。聞く気は更々なかったが、なにしろ片方の声があまりに大きいので、自ずと意識が向いてしまうのだ。嘗てハインリヒと呼ばれていた少年は、十五歳でアイヒェンドルフの家督を継ぎ、父からミヒャエルの名を受け取った。今や弟からも「ハイニ兄さま」とは呼ばれない。幼い日の自分は愛称と共に、冷たい子供部屋へと置き去られたのだ。
 弟のコルネールもまた、当時を知る者――それこそ家庭教師のマクシーネあたりからすれば目を疑うほどの変貌を遂げていた。6気筒エンジンの心臓と圧縮型酸素ボンベの肺、最新式の複合材料による銀の翼を与えられたかつての少年は、入隊からさして日も経たぬうちに、航空隊でも随一のパイロットとなった。今や帝都でコルネール・アイヒェンドルフの名を知らぬ者はない。アカギツネやイノシシよりも遥かに大きな、大公国の長距離爆撃機や戦闘機を追って、若い兵士は空を縦横無尽に駆けた。どんな猟犬も駿馬も、決して追い縋ること敵わぬ速さで。
 ミヒャエル・ハイニ・アイヒェンドルフもまた空軍少尉だ。双生児は入隊も同時なら、初陣を迎えるのもほとんど同時だった。先に撃墜王の名を与えられたのも彼のほうだった。
 ところが、今や状況は変わった。かつて「ミヒャエル・アイヒェンドルフとその弟」だった周囲の認識は逆転し、今や彼のほうが「もう一人」扱いされる側だ。何回目の出撃からだったか、彼は弟の撃墜数に追いつくことができなくなった。「最も高貴なる飛行機乗り」といえば、コルネールのほうを指すようになった。いつしか人々は空想の中で、帝国の敵ではなく互いを相手に、この兄弟を競わせるようになった。次に四十機撃墜を達成するのはどちらが先だ? 二人が演習をすればどちらが勝つ? 軍人として、戦闘機乗りとして、人として優れているのは兄か弟か?
 ああ、何と烏滸がましい、益体もない話だ。あれが本当に「一等市民」なる者の交わすべき会話だろうか? 子供じみた強さ比べなど、国の守りには些かの功も齎さないのに。自分たちは一人の飛行士であって、人々の無聊を慰めるための闘犬ではないというのに……

「あっ」
 どろりと濁った彼の思考を、凛と澄ませるような声が響いた。彼は反射的に顧みた。操縦席へと掛けられたタラップの上で、弟が自分を見ていた。
「兄上!」
 嬉しそうに弾む言葉尻。輝かんばかりの白い頬。ゴーグルをさっと外すなり、右手を顔の前に掲げて、麗しく整った敬礼の形を取る。
「行って参ります!」
 過日の弱々しい面影など微塵もない姿で、全く同じ形の顔が誇らかに笑う。兄は黙って踵を返そうとしたが、止めた。堅苦しい答礼が成され、弟は満足げにコックピットへと滑り込んだ。

  * * *

 嵐のようだ、とミヒャエルは思った。窓の外の話ではない。たった今踏み入れた自室の話だ。士官用の二人部屋には灯りが点いておらず、暗がりに慣れていない目では調度の位置がぼんやり察せる程度。それでも何が起きているのか解るのは、この耳障りで痛々しい音のせいだ――身を切るほどの北風めいた、ひゅうひゅうと鳴る喉笛の響き。荒く掠れた息は酷く乱れて、合間に絞り出す空咳は、もはや血を吐かんばかりだ。
「コルネール」
 場所は判る。見当がつく。壁の石油ランプを灯す間も惜しんで、彼は戸口すぐの飾り棚を引き開けると、無骨なガラス瓶と薬匙を掴み出した。金具付きの二重蓋を外すのにも、すっかり慣れたものだ。
 音がするのは部屋の奥。壁際に作り付けられた二段ベッド、ではない。その手前にある長椅子だろう。果たして、近付いてみれば人影が確かにある。絨毯張りの床に膝をつき、革の座面にぐったりと上体を預け、忙しく肩を上下させる姿。間違いなく弟のものだった。皺の寄った灰色のシャツ、力任せに解こうとして解き切れていないような黒いネクタイ。自分と同じ帝国空軍の制服に、普段通りの折り目正しさはない。
「おい、……コルネール。こちらを向け、口を開けろ」
 喘ぐような呼吸のノイズを遮って、彼は声を上げながら弟の傍に屈んだ。暗がりの中、苦痛を少しでも紛らわすためだろう、栗色の鞣し革に食い込む指の、骨ばった形がよく見える。片手はそうして長椅子に、もう片方の手は喉元に――視点を動かしていけば、わざわざこちらから命じるまでもなく、薄い唇が僅かな酸素を求めて、小刻みに開閉を繰り返しているのが判る。
「ほら」
 薬匙を瓶に突っ込み、中身の液体を掬い出す。闇に溶け入るような暗い赤色と、甘苦い香草の臭いは、病をますます重くしそうな印象さえある。だが、これこそが特効薬なのだ。アヘンチンキ、魔術めいた万能の良剤。舐めればたちまち痛みを和らげ、心を鎮め、どんな激しい咳でも止めてしまう。
 空いているほうの手で弟の顎を掴み、震える歯の奥へ匙を押し込む。マクシーネならもっと優しくしただろう。父ならどれほど苦しかろうと自分でさせただろう。兄は正しい薬の嚥ませ方など知らない。今までその必要が無かったから。
 潰れたような呻きと共に喉が上下し、薬が無事に飲み込まれたと知る。瓶の蓋を締めて匙を引き出し、サイドテーブルに置かれた空のカップに放る。
「にい、さ、……ッ兄上、あにうえ、……」
 噎び泣きの交じる声が彼を呼び、座面を掴んでいた指が伸ばされた。縋り付くように握り締められた袖が、弟の口許に触れてじわりと濡れる。眼下にある唇は何かを訴え続けているが、言葉にはなっていない。ただ助けを乞うていることだけは、兄ならずとも確かに見て取れるだろう。ただ一人の肉親が付いてくれたという安堵と、このまま二度と息が戻らぬのではという不安が、涙と共に瞼から滲み出している。手首に感じる引き攣った焦燥が、彼の心に仄暗い熱を伝える。コルネール・アイヒェンドルフと「もう一人」のどちらが優れているかだって? 口さがない連中は挙って論を戦わせた挙げ句、大半が前者に票を投じるだろう。しかし、空にあっては無敗を誇る撃墜王も、自分が一匙の霊薬を恵んでやらなければ、救いを求めて地面に這い蹲ることしかできないのだ……
 彼はほとんど無意識に舌打ちし、床に投げ出してあった手荷物――再三の不採用を突き付けられた、新型戦闘機の図面を拾い上げると、力任せに握り潰した。なぜ天は双生児の弟にだけ、何もかも儘ならぬ病身を授けたのか? 兄の惨めさを僅かにでも和らげようと、慰めほどの冷たい優越感に浸る時間を与えるためだろうか?

  * * *

「ごめんなさい、わたし遅くな――あらっ、アイヒェンドルフ少尉!」
 扉が開いた瞬間、室内にいる誰もがそちらを向いた。苔色の髪を持つ若い娘が、急いて踏み込んだ格好のまま足を止め、頓狂な声を上げる。
「みんなと遊んで下さっていたんですか? 良かった、もう体調も戻られたみたいで」
 談話室の床には何人もの子供たちが輪になって座り、その中央に一人の青年がいた。穏やかな笑みを湛える灰色の目が、戸口の人影を見上げては細められた。
「やあ、エリー嬢。お帰り。そうだな、遊んでやっているというのか、俺が彼らに遊んでもらっているのか……」
「ふふふ、少尉はみんなのお兄さんにも見えるし、弟にも見えるわ。お優しくて落ち着いているけど、ちょっとお茶目なんですもの」
 娘はおかしそうに笑いながら部屋へと入り、幼子たちの輪に滑り込む。と、たちまち賑やかさが場に戻った。六つか七つほどの少年が彼女に飛びついた。
「エリーねえちゃんもやろう! おれとにいちゃんがおしえるから!」
「まあ、本当? みんな何して遊んでたの? これは――」
 絨毯の上にいくつも転がっているのは、紙だ。山折りや谷折りをいくつも繰り返し、一つの形に作り上げられた白い紙。巧拙は様々ながら、どれも一定の指標をもって折られている。
「紙飛行機、かしら。これは少尉が?」
「そうなんだ。なにしろ今日はこの天気だ、外では遊べないだろう……部屋の中で何か、気の紛れるようなことができないかと思って」
 帝国空軍の格納庫も顔負けの、ずらり並んだ飛行機たちから特に形のいい一つ――恐らく彼自身が作ったのだろう――を取り上げ、青年は頷く。
「興味を持ってくれるかは不安だったが、皆とても喜んでくれて助かったよ」
「そうだったんですね。でも、なんだかちょっと意外な……」
「意外?」
「いえ、少尉が不器用だと言いたいわけじゃないですよ、もちろん! ただ、……少尉もまだ小さい頃には、こういう遊びをなさっていたんですか?」
 問いかけに、なるほどという苦笑が返った。青年が帝国でも知られた名門の生まれということは、エリーと呼ばれた娘のみならず、この辺境にある寄り合いの労働者たち誰もが知っている。想像力に頼った紙切れ遊びなどしなくとも、それこそ精巧な飛行機の模型ぐらいは、いくらでも買い与えられたのではないかというわけだ。
「ああ、世話をしてくれていた侍女に教わったんだ。ほら、俺は昔から臥せりがちだったから。父上や兄上はあまり良い顔をしなかったけれど……」
 部屋の扉は開け放たれたままだったから、子供たちの甲高い声や二人の大人による語らいは、全て廊下に筒抜けだ。ミヒャエル・アイヒェンドルフは製図用品の詰まった鞄を小脇に、自室へ向けて談話室の前を素通りしようとしていたが、喧騒に雑ざった弟の声にふと立ち止まった。

 今朝方、弟は幾らか具合が悪そうだった。荒天のせいだろう。患った体は煙霧のみならず、様々な気象条件に影響される。今日のように少々の怠さを覚えるぐらいなら良いほうだ。発作を起こすより遥かに軽い。
 辺境の地へ引っ込むまでに、結局のところ撃墜数で勝ったのは兄だった。弟の肺が限界を迎えるほうが先だったのだ――記念すべき四十機撃墜を達成した翌日、出撃の直前に弟は血を吐いて倒れた。基地付きの医官は一切の迷いなく煙霧病と診断し、追い討ちのように兄を呼び出して宣告した。汚染の軽微な場所へ転地して療養しない限り、持ってあと半年だろうと。
 前線を退くことを拒んでいた弟も、この期に及んでは反論しなかった。かくして撃墜王は無敗のまま帝都の空を去り、多くの賞賛と再起を願う声、いくらかの陰謀論といった有象無象が後に残された。業績を妬んだ兄が毒でも盛ったのでは、というタブロイドの記事も出掛かったそうだが、流石に検閲差し戻しに遭ったと聞いている。
 知るものか。「紙は辛抱強い」の諺通り、どんな罵詈雑言が記されようと、紙だけは決して文句を言わない。そこに真実を求めるより、飛行機でも作ったほうが建設的というものだ……

「でも、兄上はそう言うしかなかったのだろう。弟が勉強や訓練をうっちゃって、折り紙遊びにうつつを抜かしているとなったら、戒めるのが兄の役割だと」
「そうですね、……お二人は良いお家の、それも男の子ですものね」
「男児だから、嫡子だからと教えられることばかりで、兄上もきっと苦しかったはずなんだ。どうして弟ばかりがお目溢しを貰っているのかと……」
 苦笑交じりに言う弟と、複雑そうな娘の声が、笑いさざめく音と共に漏れ聞こえる。こうして胸の内をあれこれ探られながら、二十年ばかり生きてきた。ある時は汚れた手を突き入れられるような不快を、ある時は柔らかく撫でられるような落ち着かなさと共に。そして今は――
「けれど今は、兄上も好きなことができている。図面を書いて、飛行機を作って、思いのままに飛んで、そういったことが彼も好きなんだと解っている……それが何よりの安心だ。我慢ばかりしているのは身体にも良くないし」
 躊躇うような間。 「いや、こんなことを言うと、また叱られるかな」
「叱られる? どうしてですか?」
「ほら、人の心配をしている暇があるなら自分自身の快復に努めろ、とか……」
「そんなこと、大丈夫ですよ。人を気遣う余裕ができるぐらい、お体の具合が良くなってきたということですから」
 娘は奥ゆかしげに応えていたし、弟はそれで安堵したかもしれないが、聞いている兄のほうはそうでもなかった。確かに、病状はここ一年ほどで目覚ましい治癒を見せている。発作が起きる回数も減り、咳の程度も軽くなった。
 しかし、手放しで喜べるほど楽観的な状態ではない。インクの染み付いた紙を元の純白には戻せないように、煙霧に冒された肺もまた、二度と生まれついての健常な様には戻らないのだ。帝国を蝕む不治の病、戦傷の次に多く臣民の命を奪った死神は、その歩みを僅かに遅らせることこそあれ、止めることなどありはしない。さる劇作家の言葉を借りれば、「猶予はされてもお忘れにはならない」のである――

「――あっ、ミヒャエルにいちゃん!」
 考え込んでいるうちに、輪の中にいた子供の一人が声を上げた。はっと我に返ってみれば、無意識下で足を進めていたのだろうか、彼は半身ほどを戸口から室内へと覗かせていた。
「少尉殿! まあ、すみません、わたし気が付かなくって……」
「ミヒャエルにいちゃんも作るー? みんなで紙ひこうき!」
「ばか、しょーいどのは本物を作るんだよ、こんなのじゃなくて」
 呼び掛けてきた子供は一枚の紙を手に取り、ひらひら振ってみせる。と、隣に座っていた別の男児が、一端の大人めいて口を挟んだ。そっかあ、等と残念そうな返事。
「……いや」
 かつて空軍少尉であり、今でも変わらず少尉と――「殿」という敬称も欠かさずに――呼ばれる青年は、革長靴を踏み鳴らしながら紙の山へと向かった。弟の手から白い機体をさっと取り、口を開く。
「これも本物だ。――私が作る飛行機も、お前たちが作る模型も、一枚の紙から始まったものには違いない」
 ぽかんとする子供たちの前で、彼は淡々と述懐した。そして「本物」を弟に突き返し、絨毯の上に重ね置かれた紙束に手を伸ばした。
「一枚貰うぞ、コルネール」
 兄の言葉を静かに聞いていた弟は、唇から安らかな息と笑い声を零して頷いた。瞳は空を覆う煙霧の色ではなく、さながら胸に飾られた銀星の勲章めいて輝いていた。
「えー、みんなといっしょにやろうよ! コルネールにいちゃんもいるよ!」
「エリーねえちゃんも!」
「騒がしいのは嫌いだ。お前たちが黙るなら居てやってもいい」
 一同はブーイングを敢行した。年嵩の者でもせいぜい十二、三という子供の群れに、黙れというのは無理な話である。
「まあまあ、後で出来上がりを見せてもらえばいいじゃないか。皆でお茶でも飲みながら」
「それが良いですね。あ、それならわたし、準備をしてこなくっちゃ。バターを少し多めに買えたから、美味しいクリームを作ってビスケットで挟みましょう……」
 歓声が上がる。幼い喜びが弾けるような響きの中に、ちゃっかりと弟が交じっていることに気が付き、踵を返して廊下へ歩み出ながら、兄は呆れたように溜息をついた。そして手にした一枚の紙を見た。
 ただの白紙だ。何を描くこともできるし、折ることも握り潰すこともできる。紙は何よりも辛抱強いもの。だが、そこに表された人の心は、決して平たい世界の内側に留まりはしない。分厚い煙霧の向こう側を求め、再び飛び立つ日を夢見て汲々としている――青黒い墨跡のように染み付いた、幾許かの畏れを懐いたまま。

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