本の世界というものは、入ってみるとひんやりしているのだろうか。この場所と同じように。

仁義なきコレクション -Closed Book-

 ラナンキュラス通りには「マダム・メルラの凍結物産店」という、この国では珍しい(というより多分ここにしかない)冷凍食品専門店があるけれども、これはあくまで店舗である。店主の「マダム」・メルラ・リブレットは先生やマスター・スターンテイラーと同じ通りではなく、セントエラスムス市の外れに小さなうちを建てて住んでいる。
 いや、小さなとはいっても、小さく見えるのは地上に出ている、人間が住むための部分だけだった。メルラさんがこの国に家を建てた理由はたった一つしかない。大量の、あるいはもっと気難しく「膨大な」とか「おびただしい」とか表現したくなるぐらいの数の、本のコレクションを納めておくためだ。

 きっかけは今朝のことだった。あと一週間で十月も終わるというのに、天気予報が「本日の最高気温は26℃」などとふざけたことを言うので、わたしは朝のうちに避難場所を探さなければならなかった。先生の家は、行くと当然雑用を押し付けられるし、買い物にも行かされるだろうし、何より逆に冷房が効きすぎていて体を壊しそうなので、早々と候補から外した。カフェやパブに長居するほどの金銭的余裕はない。図書館は同じような魂胆の学生で溢れていると予想される。考えたすえに、同じ本を読むならメルラさんの家にお邪魔できないか、ということになったのだ。
 電話をかけて聞いてみたところ、一も二もなく了承してくれた。わたしは定期券を使ってバスに乗り、砂岩造りの小ぢんまりとした家の前まで行った。メルラさんの家はすぐ近くにバス停がある。通勤に便利なところを見つけたものだなと思う。 「いや、こっちとしてもありがたい話よ。店に出ないとやっぱり暇でね――それはそれで本を読んでりゃすぐ過ぎるんだけど、感想を適当に聞いてくれる人がいればなお良いってことで」
 メルラさんの店は昨日から明日まで、三日間の臨時休業中だ。ガス工事のためだという。店主だって最初から最後まで立ち会っている必要はないから、それなりの時間の余裕があるというわけだった。昨日は新メニュー開発の一環、という名目で気合の入ったトリッパの煮込みを仕込んだらしい。
「これだけの本があれば、飽きるなんてことはないでしょうからね。……メルラさんってやっぱり、ここにある本は全部読んだんですか?」
 勝手知ったる足取りで先をゆくメルラさんに続いて、本棚の間をゆっくりと歩きながらわたしは尋ねた。地下書庫は地上部分とは正反対で、ざっと見て回ろうにもかなり広い。地面から天井まで古そうな棚が立ち並び、そこには棚よりさらに古そうな本がぎっしり詰まっている。そのうちいくつかはわたしでも知っているようなタイトルの、たとえば聖書だったり童話の本だったりするが、中には明らかに英語でないものや、そもそもアルファベットすら使われていないようなものもある。背表紙の角が丸まっているもの、白茶けて題名が読めなくなっているもの、手を触れたとたんに崩れてしまいそうなもの、そして血の染みらしきものが付いている本さえあった。ぞっとしたが、それが本当の血痕なのかは解らない。もしかしたらただの装丁かもしれない。
「そりゃあ当然……と言いたいところが、残念ながら全部とは言い切れないかな。九分九厘ってところ。いずれは読破してやろうって決めてるけどね、あたしは本を収蔵しておくのが好きなんじゃなくて、本を読むのが好きなんだもの」
 書庫の主はあっさりと答えた。元よりわたしも全部読んでいるとは思っていなかったものの、九分九厘と言い切れるあたりはさすがだ。市立図書館の一般書のフロアより広いとは言わないが、密度でいえば明らかに上であるこの書庫の本を、ほぼ制圧しているなんて。わたしではあと数回ぐらい人生を繰り返しても、とても読破はできそうにない。
「まあ聖書みたいな、中身は同じで版や装丁が違う……みたいな本は、違いの部分以外を繰り返し読んだりはあまりしないけど。そう、聖書といえば、この間オークションに出た姦淫聖書はまだ落札されてないのよね……あたしの貯金が十分になるまで残ってるといいんだけど」
「何ですか、それ?」 わたしはぎょっとして聞いた。
「モーセの十戒、って教会で習ったでしょ? あれの七番目の『汝、姦淫するなかれThou shalt not commit adultery』が、活字抜けで『汝、姦淫すべしThou shalt commit adultery』ってなっちゃった版があるの。そりゃ大部分は回収されて焚書になったけど、今でも世界に十一部だけ残っていて、そのうち一部がアメリカの、聖書専門の稀覯本コレクターによって売りに出されたのよ! あたしが最初に見たときは8万9500ドルで、こないだ確認したらもう1万ドル値上がりしてたわ」
「はちまんきゅうせん――」
 絶句するとはこのことだ。たった一単語、それも致命的な部分が抜けたばっかりに、この国の平均年収(しばらく前に社会科で習ったのだ)の十倍ぐらいの値段がつくなんて。さすがアメリカは金持ちが多い、なんていうレベルの話じゃないし、そんな本を真剣に買おうとしているメルラさんも、正直わたしとは別の次元に生きていると思う。

「さて、一応この辺りからが英文学の棚なんだけど、何か特に読みたいジャンルがある? あんまり古いのはだめよね、読むのしんどいだろうから。いや、別にケイリーならシェイクスピアとかスペンサーとか、チョーサーのカンタベリー物語ぐらい余裕だろうけど」
 まだ呆然としているわたしを振り返ってメルラさんが言った。古めかしい艶をたたえた木棚の前でその足が止まる。
「いやいや、余裕なわけないじゃないですか、わたしまだ中学生ですよ。まあシェイクスピアはともかく、中世英語までいくとちょっと……」
 わたしは慌てて首を横に振った。確かに、元イギリス領であるこの国の教育課程は、あちらの公立学校を元にしているので、小学校の高学年になれば「真夏の夜の夢」を現代語訳つきで読むぐらいのことはするし、中学に上がれば古典の授業で「お気に召すまま」や「オセロー」の一場面を暗誦させられたりするのだけれど、だからといって自由に読みこなせるか、読んで楽しいかは別の問題だ。続けてわたしは、メルラさんもイタリア人だからってラテン語の文学をすいすい読めるわけじゃないでしょう――と言いかけたが、やめた。たぶんメルラさんにとっては本当に余裕だろうし、それどころか古代ギリシャ語の散文だって読めてもおかしくない。
「その……読む本は自分で見つけますから大丈夫です。ただ、触っちゃいけないものだけ教えてくだされば」
「ああ、そういうことなら構わないわよ、触っちゃいけない本なんて無いから。それに万が一何かあってもあたしがいれば平気、気にしないで読んで」
 メルラさんは軽やかに笑い、わたしを書棚の森へと送り出した。つくづく肝の据わった人だ。わたしがもしこのコレクションの持ち主なら、恐ろしすぎて後生大事にしまい込み、他人には、どころか自分でも手をつけようとはしないだろう。

 しばらく見て回った後、わたしはおっかなびっくり一冊の本を取り出した。革の表紙に「魔術師テオフィル十二の艱難」と、金箔押しの筆記体で記されたその本は、子供向けの辞書ぐらいの厚みがあった。背表紙に「1811」とあるのがきっと出版年だろう。1811年! 二百年前だ。これでも書庫に収められている本たちの中では、まだまだ新しいうちだろうというのが恐ろしい。なにしろメルラさんときたら、「四百年ぐらい前のイギリスの法律書」だとかを、近所に住んでいる大学生にほいほい貸してしまうような人なのだ。
 わたしは壁際にある机の、透かし彫りの入った書見台へ本を置き、恐る恐るページをめくって、この勘で選んだ物語を読み始めた。話の筋はおよそタイトル通りだった。南ドイツの森の中で木こりに育てられた、親のいない少年テオフィルが、ある日古い神々のお告げで魔法の力に目覚め、出生の秘密を探る旅に出る。その中で「十二の艱難」とやらに立ち向かうことになるわけだった。ヨーロッパの伝説として普通に存在していそうな話だが、その端々が妙に現代的だった。
 主人公のテオフィルは、設定からしていかにも伝説の勇者っぽい存在なのに、言うことがいちいち俗だ。自分を導く神々のお告げにもやたら突っ込みを入れるし、せっかく授かった魔法の力を、酒場で無銭飲食をするのに使ったあげく、女将にバレて食材にされかかっている。もちろん、その合間にはちゃんと試練に挑んでクリアしているものの、どうも試練そのものより「テオフィルがいかに魔法で俗なことをし、そして痛い目にあうか」のほうがメインに思えてしかたがない。わたしはたびたび吹き出しながら読み進め、ようやく本の中ほどまでたどりついた。
 テオフィルは旅の途中、山間のある村にやってくる。その村の外れには美しい泉があり、村人たちの命の源だったが、近頃は黒く大きな獣が住み着いて、近付く者を片っ端から襲うようになっていた。これでは清潔な水が得られず、村は干上がってしまう。そこへ通りがかったのがテオフィルで、神々のお告げも当然「獣を倒せ」と言ってくる。これが数えて七番目の艱難である――といったところで、わたしはふと活字の列の中に違和感を覚えた。
「あの、メルラさん」
 顔を上げて見ると、メルラさんはわたしの向かいの机で、ペーパーバックの文庫本を読んでいた。もっと貴重そうな古文書でも見ているのかと思ったら、最近やっていたテレビドラマのノベライズだ。場の雰囲気の真逆を行っているな、と思いながらわたしは声をかける。
「読んでて見つけたんですけど、これ、誤植でしょうか。古いから単語の綴りが違うってわけじゃないですよね」
「うん?」
 文庫本の読みかけのページに指を挟んで、メルラさんが立ち上がり、わたしの側の台を覗き込んだ。もう片方の手で、べっ甲ぶちの読書用眼鏡をそっと上げながら。わたしは書見台から本を持ち上げると、確認できるよう彼女のほうへ見開きを向けた。
「ほらここ、えっと右の三行目ですか、『その獣の果実berryに』……ってありますけど、多分これって間違いですよね。本当は『その獣のはらわたbelly』ってことじゃないですかね」

 そのとたん、まるで身震いでもするように書物そのものが揺れ、背筋の寒くなるような、犬とも狼ともつかない大きな吠え声が上がった。わたしは危うく本を放り出すところだったが、これを手放して何か傷でもついたらとても弁償しきれない、という別方面の恐れに突き動かされ、なんとか元あった机の上へ戻すことに成功した。貧乏性でよかったと思う。
「メルラさん、」
 腰を抜かしかかったわたしは、机に手をついて体を支えながら、この場をなんとかできそうな人の名前を呼んだ。涙声になっていた。肝心のその人は一瞬、黒い目をまん丸く見開いていたけれども、すぐに何でもないというような顔をして、
「あらま、嫌だな、そういう本だったっけこれ。じゃあその綴りが違ってたのは誤植じゃなかったんだわ」
 と頷いている。どこまでも肝の据わった人だ。本はべっ甲ぶちの眼鏡を吹き飛ばさんばかりにもう一度吠えると、続いて低く唸るような響きで、
『おお、この空気、外界の空気! 我を解き放ったのはおのれか? 我を封じたのがおのれか? それともおのれか? 誰だ!』
 明らかにこちらを威圧してくる。聞いてみればその言葉は、一応英語ではあるけれどもドイツの訛りが含まれている、ように聞こえなくもない。ドイツ出身の文房具職人のシュライバーさんが、ふだん喋っている英語によく似ているのだ。わたしは脳内であの人のいい、陽気なペンの魔法使いの笑顔を思い浮かべ、おどろおどろしい雰囲気をなんとか緩和しようとした。
 一方のメルラさんは変わらず呑気だったし、つまり冷静だということでもあった。片手で眼鏡のつるを動かしていたかと思うと、もう片方の腕を後ろに、わたしを手招いている。
「な、なんでしょう」
 わたしが小声でびくびくしながら聞くと、いかにも平然とした調子でこう返ってくる。
「あのね、降りてくるときにあたしの書斎机見た? 上に杖が載ってたでしょ」
「えっ、あ、はい、なんか黒い……それで水色の飾りのついた……」
「そうそれ。あれ、あたしの『こういう時用』の杖だから持ってきてくれる? あと、同じ部屋の本棚に『日用ドイツ語表現辞典』っていう、単行本サイズの語学の本があるからそれも」
 視線はまっすぐ本のほうに向けたまま、メルラさんは事もなげに言った。妙な取り合わせだった――確かにメルラさんの魔法は本で発動させるものだけれど、そこで選ぶのがドイツ語辞典、それも専門的な分厚いやつじゃなく、日常会話レベルのものというのがまた妙だ。でも、わたしにはこれに対して口出しできることが何もないし、そんなふうに考え込んでいるうちに事態はどんどん悪化していきそうなので、わたしはすぐさま頷いて、書庫の出口へ取って返した。後ろからメルラさんが、
「そんなに急がなくていいよ、走って転ばないようにね」
 と呑気な声をかけてきた。

  * * *

 地上へと出る階段を駆け上がり、二重扉を開けると、そこもやはり本棚でいっぱいの部屋になっている。地下の蔵書と違って、普段から読むための実用書や文庫本、あるいは雑誌などがメインだ。本棚のほかにはアンティークな造りの書斎机があり、そこには来しなにこの部屋を通ったときと変わらず、本や文房具に混ざって一本の杖が置かれていた。何で作られているのかは解らないが、黒く塗られた50cmほどの柄に、銀色のキャップが嵌められ、その先には磨かれた水色の球体――見た目にこれはトルコ石なんじゃないかと思う――が飾られている。
 わたしは震える手でその杖に触れ、さらに少し持ち上げようとしてみた。持ち上がった。何事もなくてよかった。というのは、例えばマスター・スターンテイラーほどの大魔術師の杖ともなると、持ち主にぴったり適合してしまっていて、他人はそれを使って魔法をかけるどころか、自分の意志で持ち上げることさえできなかったりするのだ。メルラさんが大魔術師でないと言いたいわけではないが、とにかくわたしが持っても大丈夫でよかった。
 杖のほかにはドイツ語辞典だ。わたしは部屋のぐるりにある本棚を見回し、この中から一冊の本を見つけるのは相当に大変だと改めて悟った。わたしはとりあえず、大体の大きさで当たりをつけて探し始めたが、これが苦行だった。大体、メルラさんの本棚は中途半端なのだ――完全にランダムな順で本が投げ込まれていたなら、もうこれはそういうものだと諦めがつくし、逆にタイトルあるいは作者のアルファベット順だとか、一定の規則に基づいて並んでいてくれれば楽だけれど、残念ながらそのどちらでもない。ある意味では生活感が溢れていると言えるし、わたしの家の本棚だって大概そんな感じだが、今はその仕様がただただ憎かった。単行本サイズと言われていたから、とにかくそれに該当するサイズの並びを片っ端から探し、やっと見つけたと思ったら「汎用ドイツ語会話辞典」だったりして、わたしの焦りは募るばかりだった。こうしている間にメルラさんに何かあったらわたしのせいだ、と考えればまた手元がおぼつかなくなってくる。やっとのことで「日用ドイツ語表現辞典」を見つけ出した頃には、部屋に入ってかなりの時間が経っていたように感じた。肝心の本があったのは、本棚ではなくそこから離れたソファの上だったので、手間取ったのはきっとわたしの責任ではない。

 杖と本を抱えて、わたしは書庫へと駆け戻る。元いた机のところまで来ると、幸いそこにはメルラさんが、変わらぬ姿で立っていた。どころか、
『――して、連中は我が威厳と驚異をあらわす描写に手を加え、我を単なる物語上の障害にまで貶めたというわけだ。くだらん!』
「なるほど、十九世紀過ぎると魔犬業界もシビアになってくるのね……一応あと九十年ぐらいすれば、ドイルが『バスカヴィル家の犬』という魔犬界の金字塔を打ち立ててくれるんだけど」
 わたしが席を外している間に何があったのか知らないが、いやに和やかな雰囲気さえ漂わせている。どう考えても古書に封印されていた魔物的な存在だろうものに、こんな呑気な雑談が通るなんて意外にも程があった。魔犬業界って何だ。
 この和気あいあいとした空気の中に割って入りづらく、わたしはしばらくまごついていたが、その時メルラさんがまた後ろ手に手招いた。本のほうはわたしに気が付いていないらしく、本が珍重されないご時世について愚痴をこぼし続けている。わたしは忍び足でメルラさんに近付き、その手に杖と辞典をそっと渡した。
『屈従の時代である。しかし感心したぞ、この時代にも汝のような解りよい人間が存在していたとは!』
「あはは、それはどうも。まあ、伊達にファンタジーを、それにギリシャやローマの神話を読んで育ってないからね。そういや、ケルベロスは甘いものが好きらしいけど、あなたはどうなの?」
 二つの品の持ち主は、私からそれらを受け取りはしたものの、まだ平和的すぎる話題を続けていた。本は本で、おどろおどろしい声色はそのままに、何故かこの会話に応じているのだから不思議なもので、わたしは一人危機感を覚えて損をしているのかもしれない。
『我は人の肉と生き血とのほうを好む、……と言いたいところだが、小麦と砂糖の菓子も問題なく食するぞ。供物として十分受け取るに値する』
「あら、そう? じゃあ今度イギリス風の糖蜜パイでもこさえてあげましょうか」
 ちょっと魔犬っぽいことを言ったかと思えば、その数秒後には恐怖感をもろとも無かったことにするような答えを返す一冊の本。メルラさんも持ち前のサービス精神か、お得意のパイの名前を出して応えた、その時だ。

『善きかな! 汝は実に好適な信奉者である。その献身に免じて、こ――』
ステレオーネ、留まれ!
 メルラさんは杖をさっと本に向けるや、「静止」の呪文を素早く唱えた。ついさっきまで震えてばたばた音を立てていたそれが、たちまち静物となる。驚愕したような声。
『なに!』
「悪いけど」
 書物の魔女は杖を構えたまま、もう片手でドイツ語辞典をぽんと投げ上げた。単行本サイズの冊子が空中に浮かぶや、猛烈な勢いでページがめくれ始め、やがて一つの地点を開いて止まった。
「あたし、本が好きだから――あなたがうっかり大暴れして、教会から禁書指定されたりなんかすると大いに困るの。可能な限りは遵法精神を持ったコレクターでいたくってね。パピーア・イスト・ゲドゥルディヒ、紙は辛抱強く!
 辞典に並ぶ無数の文字の中から、青白い光が飛び出したかと思うと、たちまち革表紙の本を包み込んだ。綴じ目の奥から耳をつんざくような絶叫が轟いたが、何かが焦げるような、じゅっ、という音と共にすぐ聞こえなくなった。ついでに、どこか香ばしい匂いが――ちょうど豚のバラ肉をフライパンで焼いた時のような匂いが鼻先をかすめた。bellyって、そういうことだったんだろうか。

 やがて、宙に浮いていた小型の冊子が、力を失ったように落下して、メルラさんの手の中に収まった。光もすっかり消えて、書庫の中には元通りの静けさがあるばかりだ。わたしがこわごわと書見台を覗き込むと、開かれたページはやはり「belly」が「berry」と誤表記されたままだった。いや、これが正しい表記とも言えるのか。
「やれやれ、まさかこんな妙なことになるとはねえ。遺品の一括引き取りってこういうのが混ざってるからなあ」
 メルラさんは頭を振りながら、辞典と杖を机の上に置き、大きな伸びを一つした。さっき蔵書は九分九厘読んだと言っていたけれど、この本は残り一厘に入っていたのか、それとも読んだことは読んだけれども誤植に気が付かなかったのか、気が付いても声に出して指摘しなかったからセーフだったのか。どのみち、今回の事件は予想外のことだったらしい。
「ごめんね、ケイリー。何かの封印というか……封印するほど大層なものでもなかったけど、そういうのに触らせちゃって。あの本、市内に住んでる蔵書家の人が亡くなったとき、処分するのもなんだからって譲り受けたものなのよ」
「あれですね、ご家族の人が何の本だか全然知らずにとりあえず押し付けた感じのやつですね……」
 それが貴重な古書なのか、ただ古くなっただけの本なのかは、普通の人がぱっと見ただけでは解らないこともあるだろう。わたしだって、この本が古いことぐらいは背表紙の出版年で判っても、実際にどれほどの価値があるのかは想像もつかない。
「元々印刷されてた本文を、『刻印』の魔法か何かで上書きして、綴りを変えることで記述に宿った力を打ち消していたわけよね。その蔵書家の人は魔法使いじゃなかったはずだから、前の持ち主がそうだったのかな」
 わりと定番の手段らしく、メルラさんはすぐに理由を推測していた。文字や書かれた文章そのものに魔法が宿る、というのはわたしもよく聞く話だ。だからといって、わたしが訂正してしまったぐらいで元に戻る封印(のようなもの)もどうかと思うが、時間が経ちすぎて弱まっていたんだろうか。
「それでメルラさんが使ったほうのは、やっぱり本が本だから、ドイツ語の……呪文だったんですかね」
「まあね。紙は辛抱強いPapier ist geduldigって言って、何を書かれても紙は文句を言わない、たとえ間違ったことでも平気――だから人によって書かれたものを読むときには、その全てを信用しちゃいけない、っていうドイツのことわざなんだけど」
「ああ、……かなり文句言ってましたね、現実には」
「あれが本というか、紙そのものかって言われると若干怪しいけどね。ともあれ、大事にはならなくて何よりだわ」
 肩をすくめてメルラさんは笑った。本そのものの力ではなくても、そもそも長いことこの世に存在していた本なのだから、いろいろな魔力なんかを溜め込みやすい、ということなのだろうか。

「さて、そろそろお昼だし何か食べてく? ケイリー。お詫びってほどのものでもないけど、ご馳走するよ」
 書庫の空気はいよいよ緊張感のないものとなり、そのうちに書物の魔女は向かってそんなことを提案した。わたしにとっては思ってもみないことだ。
「いや良いですよメルラさん、どこかで買って食べるつもりでしたし――」
「でも、どうせまた午後には戻ってくるわけでしょ? 第一、暑いから涼ませてくれって言って来たのに、わざわざ炎天下に出ていく必要なんてないじゃない。せっかく台所にトリッパの煮込みもあるのよ……」
 そこでメルラさんは一度言葉を切り、ちょっと考え込んだ。すっかり大人しくなった革表紙の本をちらりと見、黒い目を閉じてしばらく頭を振っていた。かと思えば、良いアイデアが浮かんだとばかり満足げな顔になって、わたしにこう言うのだ。
「ううん、そうだ。トリッパもいいけど、どうせならこの珍事にかこつけた一皿にしたいところね。ここは一つ、分厚く切った豚バラ肉pork bellyのベーコンステーキを、クランベリーcranberryとバルサミコのソースで、なんてどう?」

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