重たいガラスの扉を開けると、吹き込む風は微かに冷たい。


さして禁断ならざる果実 -Apple of My Eye-

 それも当然だ、一月のニューヨークなのだから――むしろ一月にしては暖かすぎるぐらいだ。いくらここが高層アパートメントの最上階で、日差しをふんだんに浴びることができるとはいえ、マンハッタン上空を吹き渡る風が陽だまりの熱に押し負けるなど、そう滅多には起こらないことだ。
 けれどもこのペントハウスの主、ヘンリー・ロスコーがテラスを訪れたのは、真冬に得難い温もりと陽光の恵みを享受するためではない。より原始的な欲求を満たすためだ。言い換えるなら、小腹が空いていたからだった。

 なぜ台所を目指さないのか? むろん従者がいるからだ。今頃はティーの席に供する素晴らしいサンドイッチや菓子――彼が要求したのは真っ白なショートブレッドと、こんがり焼き目の付いたティー・ケーキだった――のため、助手の少年と共に忙しく働いているに違いない。食料貯蔵庫にはうまい脂身のたっぷり付いたハムも、噛み締めれば豊かな小麦の味がするパンも、少々予定外に切り分けたところで支障ないほど蓄えられているはずだが、辿り着くためには作法と時間にめっぽう厳しい従者の守りをすり抜けねばならない。要するに、不可能なのである。
 であれば目標は一つだ。幸いテラスには花や葉を楽しむのみならず、食料の収穫が見込まれる植物も豊富に揃っている。色鮮やかなベリーや野菜が最盛期を迎える夏から、最も実り豊かな秋を過ぎても、そこにはまだ珊瑚玉のように目を引くサンザシがあり、英国で開発されたなんとかいうナシの木があり、地元ニューヨークが誇る晩生リンゴの「コートランド」がある。そうだ、リンゴだ! 一時の空きっ腹を慰めるのにこれほど好適なものはない――彼は誰に見せるでもない勿体顔で頷いた。歯応えよし、風味よし、満足感はありながら、後の食事には響かないと来ている。まことに好都合だ。
 爪先のゆったりした室内履きを脱ぎ、彼はテラス用の靴へ静かに足を入れた。屋内とは違って、さすがに塵一つ落ちていないとは言えないが、丁寧に掃き清められた石張りの床は、裸足で降りてもいいと思えるほど端然としている。目の前には左右を生け垣に固められた通路、奥には美しく磨き上げられた木のデッキ。けれども彼が目的を達成するには、日光浴にぴったりの長椅子を見て見ぬ振りし、脇道に逸れる必要がある……
 夏になれば深い藍色の実を目一杯に飾り付ける、ブルーベリーの低い茂みが「果樹園」の入り口だ。もちろんここにはイチゴもクランベリーも、また小ぢんまりと仕立てられたプラムの鉢植えもあるが、彼は脇目も振らずに前進した――そら、葉という葉をすっかり落として、けれど未だ裸ん坊には至らない一本の木が見えた。
 花模様が彫り込まれた瀟洒な鉢の前で、彼は足を止めた。彼の背丈より数インチばかり高い位置、逆光に細く黒々と見える枝先には、未だ数個の果実が残っている。
「やった」
 彼は指を鳴らして口走った。枝に残る実は大小の差こそあれどれも形よく、あからさまな虫食いなどの痕もない。手を伸ばし、小ぶりな一つを指で抑えてみると、手応えは充分。腐ってはいないようだった。
 そうと判れば後は簡単、果実をしっかりと捉えたまま、ぐるりと捻り上げてやるだけでいい。これで枝から離れなければ、まだ充分に熟していないという証だが、一月も終わりに近付いた今日に、そんなことは起こり得ない――短い茎を残したまま、実はいとも呆気なく彼の手に渡った。
 掌にすっぽり収まった紅い実を、彼はまじまじと見つめた。口角が釣り上がってくるのを抑えきれない。艶のある果皮の内側を見通すように、ダークブルーの目は自ずと細められた。背広の胸からポケットチーフを取り出し、全体を軽く磨いてやれば、もう食べごろだ。午後四時に食堂へ招き入れられるまで、なんとか胃袋も持ちこたえるだろう。丸い輪郭を指でなぞり、どこから齧りつくかと考えながら、彼はふと目を上げた。
 まさにその時だった。テラスとサンルームを隔てるガラス戸が、音もなく開いたのは。

 彼は叫び声を辛うじて飲み込んだ。誰が入ってきたのか? むろん従者だ。彼よりも三インチは背の高い、礼服を纏った影のような姿――エプロンも袖カバーも身に着けていない。なぜ階上に、それも庭まで出てきたのか、台所仕事はどうなったのか。ハンカチを丸めて胸ポケットに押し込む間にも、彼の脳裏には疑問符が次々と沸き起こった。
 だが戸惑っている暇もなかった。そこらの花壇やハーブの植え込みで止まってくれればいいものを、極めて都合の悪いことに、従者は彼のいる場所へと近付いてきたのだ。平時と何ら変わらぬ、静かでゆったりとした、しかし確固たる足取りで。
 事ここに至っては、うろたえ、逃げ隠れしても仕方がない。主人は主人らしく、逆にこちらから声を掛けてやればいいのだ――彼はそう結論づけた。そして実行に移した。

「ウィギンズ!」
 人影の動きがぴたりと止まり、黒髪を丁寧に櫛った頭が、さっと左右を見渡した。
「――旦那様」
 従者はすぐに彼を見つけた。互いに正対する位置まで歩み寄り、一拍置いて、うやうやしい一礼を向ける。いつもながらに完璧な所作だった。彼は内心で感嘆した。
「お寛ぎのところ失礼いたしました。書斎にいらっしゃるものとばかり」
「まあ、そうだな、この時間は大抵」
 機先を制したとはとても言えないが、どうやら訝しまれない程度の滑り出しには成功したらしい。彼は息をついて続けた。
「でも今日は――見ろ、こんないい天気は久しぶりだ」
「さようでございますね」
「雲ひとつないし、風も穏やかだ。そういう機会は大事にすべきだろう。だからひとつ日光浴でもと思って」
「よろしゅうございます」
 暗色の目を細め、落ち着き払った様子で従者が頷く。彼もまた多少の安堵をもって頷き返す。が、
「しかし、やはりお寒うございましょう、旦那様」
「え?」
「今しがた身震いなさったようにお見受けしますが」
 付け足された一言に、心の平穏はたちまち吹き飛ばされた。些細な会話のうちに、どれだけの注意を払って主人を見ていたのだろうか、この男は? ――彼にとっては全くの図星だった。確かに身震いはした。寒さではなく危機感のために。
「好天とはいえ一月でございます。日差しをお楽しみになるにせよ、どうか屋内でお過ごしくださいませ」
「ああ、うん、お前の言うことはもっともだ。でも、サンルームで光を浴びるのと、外で直に浴びるのとでは、やっぱり得るものが違うと思わないか」
「さようでございましょうか」
「違うんだよ、ウィギンズ」
「さようでございますね」
 苦し紛れに装われた「主人らしさ」に、従者は従者らしく一瞬で折れた。続いて思案するような少しの間。
「では、わたくしがあなた様のガウンをお持ちします。それまでは窓越しの陽光でご辛抱いただき――」
「いいや、別にいいんだ。その程度のことでお前を煩わせはしないさ。そもそも寒くないしな。それよりもだな……」
 主人はとっさに辞退したが、一秒もしないうちにしまったと思い直した。ここで従者を体よく追い払ってしまえば、後ろ手にしたままのリンゴ一つぐらい、戻ってくる間にいくらでも安全な場所へ隠すことができたはずだ。
「それよりも、お前はその――こんな所で一体何を」
「わたくしでございますか?」
 ゆるやかに首を傾げてから、従者は答えた。 「リンゴを頂きに参りました」
 再び叫び声を飲み込む必要が生じてしまった。そんな偶然などあるものだろうか――否、そもそも偶然なのだろうか? この従者のことだから、主人が屋上でこっそり何をしていたのかなど、とうにお見通しだったのではないか。そもそも会話の始まりからして怪しいのだ。さも心得違いをしていたような口ぶりだったが、テラスの入り口に室内履きが脱いで置かれてあることを見落とさなかったはずがない。
「リンゴだって?」 彼は平静を装いながら続けた。
「記憶が確かなら、ぼくはリンゴを使う菓子を出せとか、そんなことは言わなかったと思うんだが。ぜんたい、台所を放ったらかしにしてもいいのか? 任せきりにしちゃあ悪いことにならないか?」
「お心遣い痛み入ります、旦那様。ですが、ご安心くださいませ。ご所望のショートブレッドは既にオーブンを出て、切り分けまで済んでおります。午後四時までにはすっかり冷めて、素晴らしい歯ざわりになりましょう。ティー・ケーキも焼き上がってございますから、旦那様が召し上がる直前にトーストしてお出しします」
「……そうか。さすがの手際だな、ウィギンズ」
 彼は深々と息を吐いた。 「で、リンゴは?」
「お褒めにあずかり恐縮でございます。ティーのことはさておき、リンゴはディナーの席にて、旦那様にお目にかかることになりましょう」
「というと、食後にか?」
「さようでございます。白カビのチーズが程よき熟成具合になりましたので、ご夕食の締めくくりに、スライスしたリンゴを添えてお出ししたく存じます」
 この上なく魅力的な響きだった。あれこれ詳しく説明されなくとも、彼はすぐさま食後にふさわしい一品を思い描くことができた。ワゴンに積まれてやってくる、色も形も香りも様々なチーズたち。その中に一際目を惹くものがある。おお、見よ、鮮やかな紅い皮を残したリンゴの寝台に、横たわるのは純白の――あるいは黒胡椒やハーブをまぶされていたり、茶色い斑の皮を纏っていたりするかもしれないが――芳しい一切れ。齧りつけば口に広がるのはぴりりとした辛味とこくの深いミルクの風味、それに引き立てられてリンゴの甘酸っぱさも冴え渡る……
「ウィギンズ、そいつは危険だ。どう考えてもうまい」
「ご満足いただけるよう努めております。ありがとうございます」
「なら、使うリンゴはこれでどうだ?」
 彼は大胆になることに決めた。背に回していた右手をさっと前に出し、熟した果実を従者の眼前へとかざす。美しい艶を帯びたルビー色の表皮が、あたかも夕刻の太陽のごとく照り映えた。
 この行動は、今度こそ従者の機先を制したか――残念ながら否と見える。沈着冷静の概念を彫って刻んだような壮年の男は、一度だけ暗色の目を瞬きこそしたものの、悠揚迫らぬ態度を少したりとも崩さなかった。
「ちょっと失礼しまして」
 彼よりもいくらか大きな手を伸べて、従者はリンゴを受け取り、矯めつ眇めつした。表情は穏やかなままだが、瞳は普段にもまして鋭敏な光を帯びていた。
「――気に食わないところでもあるのか? お前の目から見て」
「いいえ、わたくしの口から気に食わないなどという不躾なことは申せません、旦那様。ですが、あなた様がもしもわたくしの私見をお聞きになりたいのであれば……」
「聞かせてくれ」
「僭越ながら、見たままの大きさに比べて、手に取ったときに少々軽すぎるように思われます。食するのに差し支えはないかと存じますが、甘さに欠ける可能性もございます」
 従者はそこで言葉を切り、震えながらも毅然と立つ果樹の枝から、さっと一つの実をもぎ取った。
「わたくしが旦那様に差し上げるのであれば、こちらを選びます。枝のたわみから見ても重さは充分であり、かつ大きすぎません。中身が詰まって蜜も多いと推測されます」
 リンゴは直接に手渡されることなく、側の小さな木製テーブルに置かれた。彼はそれを手に取りこそしたものの、とっさに何を言うべきか迷った――だからといって、鼻先に近づけて匂いを嗅ぐ、という動作に代える必要があったかどうか。特有の爽やかな香りは、別段彼の思考を助けもしなかった。

「……まあ、ぼくはお前の目を疑ったりはしないさ。きっと美味しいだろうな」
「もったいないお言葉でございます」
 かしこまって頭を垂れた後、従者は主人が選んだほうのリンゴに目を向けた。
「これはナサニエルに下げ渡しましょう。なにぶん食べ盛りでございますから、ティーまでに持ちこたえられるかどうか危ぶまれます」
「そうしてくれ。そう、食べ盛りだよ、なにしろ――十歳だったか、十一歳だったか?」
「十歳でございます」
「そんな年齢で見習いをやってるんだ。たくさん食べなくちゃあ成長に差し支えるし、腹が減るとよくない気も起こしやすくなる……」
 彼は片手を胸に当て、ばつの悪そうな笑みを浮かべた。対して、従者はそんな主人に平静な視線を注ぐばかりだった。沈黙は数秒にわたって続いた。
「よくない気、でございますか」
 先に口を開いたのは従者だった。 「二十二歳の旦那様のようにでございましょうか」
「……ごめん」
 従者はその一瞬間、主人に仕える者ではなく、部下を統括する者としての顔を見せた。細く調えられた眉の間に皺が寄り、まなこは黒々として射抜くような鋭さを帯びる。主人であるはずの彼は息を呑み、喉を引き攣らせた――けれども、やはり一瞬間にすぎなかった。彼が声を上げるより先に、従者の表情は元通りの物柔らかさを取り戻していた。
「忍耐強さもまた紳士が身につけるべき素養である、それは真でございましょう、旦那様。世の中には個人の力及ばぬ事態が、残念ながら多々ありますもので」
「お前の言うとおりだ。ぼくは……まあ、忍耐という点ではかなり未発達だ」
「しかしながら、旦那様はあくまでも修練の途上であらせられます。人は過ちを経ずには大成いたしません。わたくしも盗み食いという罪を犯したことはございます」
 若い紳士は口をぽかんと開けた。耳を疑わずにはいられなかった。
「お前が?」 心の底から沸き起こった疑問符だった。 「まさか、その、うちで?」
「よもや。現在のわたくしは、己の胃袋を完璧に調教しております。ですが、わたくしにも見習い時代はございます。初めて他家へ奉公に出たのは十二の時分でございました」
「十二歳か――なるほど、一部の子供が大人の手に負えなくなる年頃だな」
 自分の子供時代を回想し、彼は乾いた笑みを漏らした。台所におけるつまみ食いの技術は、この頃から磨いたものだ――上達したからといって威張れるものではないが。
「さようでございます。四六時中空き腹を抱えた子供でございました」
「それで、盗み食いをして……どうなった? 自分の家じゃあないんだから、やっぱり首になったりしたのか?」
 現在の従者からはおよそ想像もつかない話だった。乗り出して聞くに値する話題だ。が、好奇に満ちた目の彼に向けられたのは、
「わたくしの心得違いの数々について、詳しくお聞かせしたいのはやまやまなのですが」
 という、少しばかり口元を緩めた従者の宥めるような言葉であった。
「長々と続けるあまり、旦那様がいよいよ悪いお心を懐かれては本末転倒というものでございましょう」
 はたと我に返り、彼は胴着のポケットに手を突っ込むと、懐中時計を取り出して文字盤を見た。と同時、紳士の素養を身に着けているとは到底思われぬ声で腹の虫が鳴いた。
「ああ、ウィギンズ……全くもってお前の言う通りだ。お前は頭の中にもう一つ時計を持ってるに違いない」
「わたくしには過ぎたお言葉でございます」
「とにかく、それならぼくも支度をしなくちゃあな。日も傾いてきた。凍えないうちにそれぞれ持ち場へ戻――」

 その時だった。テラスの出入り口のほうから、金属のがちゃりと鳴る音が聞こえた。扉の開く音に違いなかった。主人と従者はほとんど同時にそちらを見た――誰が入ってきたのかは、わざわざ確かめるまでもないことだった。
 少しばかり思案した後、主人は背の高い従者の顔をちらと窺った。従者のほうからも目配せを返してきた。彼らは共に取るべき態度を模索していた。先に決断したのは、やはり年嵩のほうだった。
「ナサニエル」
 低いがよく通るバリトンの声で、従者は戸口へと呼びかけた。
 とたん、頓狂な叫びがそちらから返ってきた。明らかに子供の声だった。
「は、はい、ミスター……いえ、あの、ええと」
 案の定、生け垣の陰からおずおずと顔を出したのは、見た目にやっと十を過ぎたか過ぎないかという少年であった。緑色の目を大きく開いて、上役の声に応えかけた少年は、そこに主人の姿まであるのを認め、狼狽したように視線を彷徨わせた。
「必要になるときまでは、部屋に下がって休んでいてよいと言ったはずですが」
「そうです、ミスター・ウィギンズ。でも、その、お部屋がちょっと寒かったので……ほら、今日はこんなにいいお天気ですから、外のほうが暖かいかもと考えたんです。それで、旦那さまのお許しさえいただければ、お庭に出て日光浴でもと思って」
「なるほど」 従者はしかつめらしい顔で首肯した。 「お許しはいただけたのですか?」
「あの……えっと、まだです、お姿をお見かけしなかったので……」
 口ごもりながら誰何に答えるうちにも、少年の頬はみるみる赤くなり、視線はどこまでも下がっていった。主人は気の毒になってきた――自ら望んで奉公の道を選び、使用人として教育されているとはいえ、子供は子供なのだ。
「ここにいらっしゃるなんて思わなかったんです。ですから、その、わたしが同じところにいちゃだめ――いけませんよね。失礼しました、旦那さま、ミスター・ウィギンズ」
 彼は再び従者の顔を窺った。感じやすい心を斟酌してやってはくれないだろうか、と。果たして、従者も再び目配せをよこした。深い色を帯びた瞳の中、彼は確かに慈しみの光を見た。
「ナサニエル!」
 踵を返して駆け出しかかった少年の足が、その声にぱたりと止まった。
「は、はい、ミスター・ウィギンズ」
「旦那様がこれを。ティーまでの間にお腹が減るだろうからと」
 振り返るなり、大きな目はますます大きく、丸く見開かれた。視線の先にはもちろん、真っ赤に熟れたリンゴの実があった。従者が差し出したものだ。
「私もすぐに降ります。使用人部屋で待っていなさい。くれぐれも自分で剥こうなどとは考えないように」
 一拍置いて、感極まったような眼差しが大人たちに注がれた。主人はいくらかぎこちない笑みを浮かべつつも、安心させるように頷いた。
「はいっ、ありがとうございます旦那さま、ミスター・ウィギンズ」
 押し頂くように両手でリンゴを持ったまま、少年は深々と頭を下げた。そして、躍るような足取りで彼らの前から姿を消した――最後にはほとんど全力疾走になっていた。

「……今しがたの会話から考えるとだな、ウィギンズ」
「はい、旦那様」
「ぼくの言い訳は十歳児並みってことか」
「旦那様のお話しぶりのほうが遥かに洗練されているかと存じますが」
「じゃあ、洗練された十歳児並みだ」 彼は溜息と共に肩をすくめた。
「あまり口がうますぎるのも考えものでございましょう、旦那様。あなた様の簡明直截なお言葉のほうが、わたくしの耳には好ましゅうございます」
「そうかなあ」
 これを主人として喜ぶべきなのか、じっくり時間をかけて考え込んでもよかったのだが――自分自身の口先のみならず、胃袋の自己主張もまた簡明直截であることを、すっかり思い知らせるような音が鳴った。
「まあ良い、十歳児を待たせちゃあいかん。すぐに行ってやれ、ウィギンズ」
「二十二歳の紳士をお待たせするつもりもございません、旦那様」
 得たりとばかり従者が頷いた。
「四時までは間がございます。ご用事をお済ませになってから、食堂へお越しくださいませ。可能であれば、ポケットチーフは畳み直しておいでになりますよう……」

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