裏口を辞去しようとするメッセンジャー・ボーイに、従者は少し多くチップをやった。


たよりがいのある人 -Good Tidings To You-

 なにしろ多かった――革の鞄から「ヘンリー・ロスコー様」宛の郵便物を全て取り出すにあたり、制服姿の年若い男はまるまる一分間を要していた。受け取る側は受け取る側で、これでは銀盆に全て載りきらないだろうと懸念したものである。
 百貨店や仕立て屋から届く折々の挨拶状、また差出人不明の薄い封書などを抜き取ってから、彼は足音一つ立てずに書斎へと向かった。昼食を終えてしばしの穏やかな時間を、彼の主はたいてい書見に費やしていた。今のお好みは気鋭の女流作家が物する探偵小説だ。戦中の英国が舞台だというその物語に、彼も興味を惹かれないではなかった。が、とりあえずは手紙のことが肝要だ。

 踏み入れてみれば、部屋に漂う空気はいつもと変わらずひんやりとしていた。背の高い棚の合間に、マホガニーの杢目も美しい書斎机と、透かし彫りの入った椅子、そこに腰掛ける若い紳士の姿が見える。
 どうやら物語も佳境のようだった。若主人はページから面を上げ、窓のほうに目を向けては、何やら物思わしげに溜息などついている様子だ。明るい午後の日差しに横顔が白く浮かび上がり、ダークブルーの目が細められ、――ふいに後ろへと視線が流れた。
「ウィギンズ!」
「お寛ぎのところ失礼いたします、旦那様」
 目を見開く主人に、従者は手にした盆を水平に保ちながら、深々と頭を垂れた。
「あなた様に書簡でございます。ただいまメッセンジャー・ボーイが持って参りました」
「手紙? ……なんだ、ずいぶんたくさんあるじゃあないか。誰からだ?」
 椅子の背もたれに手を掛け、乗り出してくる主人へと、彼は決して急がず歩み寄った。
「まず、ミスター・スペンサーから一通、要返信の印つきでカードが届いております」
「ああ――きっと前に言ってた誕生日パーティーの招待だな。そうだ、それでプレゼントを用意しなけりゃあならないんだった。近いうち買い物に行くか」
「喜んでお供いたします。続いて、叔父上のミスター・シンクレア、そのご令息であらせられるお若いほうのミスター・シンクレアよりそれぞれ一通、伯母上のミセス・グリムズビーより三通」
 彼は淡々と読み上げたが、対する主人の反応は極めて感情豊かだった。ロスコー家の若主人は口以上に表情で物を言うたちだ。親類の名が連なるにつれ、その顔はあからさまに曇っていった。「三通」の下りに差し掛かったときなど、露骨に左目が眇められ、声にこそ出していないものの、唇は明らかに「さんつう?」と動いていた。
「三通でございます。加えて、先月二十日の晩餐会でお目にかかりました、ミスター・アンダーウッドより――」
「なあ、ウィギンズ」
 普段の快活さの消え失せた声で、主人は従者の声を遮った。
「そういうのはだな、ぼくに断りなく処分してくれても一向に構わないんだぞ」
「さようでございますか」
「さようだ。中身まで見当がつく。……それで、他には何かないのか?」
 主人のご機嫌がものの見事に急落したことは、当然彼の目にも明らかだった。だからこそ、この順序で差出人を読み上げたのだ。
「最後にもう一通」 一拍置いて彼は答えた。 「弟御様からでございます」

 親戚付き合いに倦んだ若者の顔が、その一言にぱっと輝いた。陽を浴びたよりもなお明るく碧眼が煌めき、その視線は彼の手元に注がれる。
「ジョーイか?」
 声とほぼ同時に、椅子の背に回されていた腕が浮いた。従者は静かに微笑み、もう一歩近づいて、銀の盆を主人の眼前に捧げ持った。
 ほんの数十秒前まで不愉快そうに杢目を叩いていた指は、有象無象の紙束を忙しく押しのけ、迷いなく一つの書簡を引っ張り出した。淡いクリーム色の封筒には、添え木でもしたかのように整然たる文字で、差出人の名が記されている。「ジョエル・ロスコー」。
 先程の刺々しい、今にも舌打ちが聞こえてきそうな声に代わり、喜色に満ちた吐息がその口から漏れた。若主人はさっと机に向き直り、引き出しを開けて象牙の刃がついたナイフを取り出すと、待ちきれないとばかりに封を切った。
「ああ、ジョーイだ。そうか、まだ学期の最中だからだな、消印がうちの近くじゃあない、――『兄さん、ご無沙汰しています。ニューヨークは大寒波の中だと聞きましたが、お風邪など召されてはいませんか』――だってさ、他人行儀なやつだなあ……」
 深い青色の目はたちまち細くなり、仰々しい頭語には苦笑いを漏らす。読み上げはそこで止まったが、主人が今どの段落を読んでおり、そこにどのような内容が記されているのか、従者には手に取るように判った。書面を盗み見るなどという無礼を働かずとも、その横顔さえ窺えば一目瞭然だ。含み笑いを浮かべたり、目を丸くしたり、はたまた眉を曇らせたり、しきりに頷いたり……
 正反対に落ち着き払った表情を保ちつつも――それが使用人の取るべき態度だからだ――彼は胸中に少しの愉快が沸き起こるのを確かに感じていた。と、
「ウィギンズ」 主人が不意に彼を見上げた。 「ジョーイが褒めてるぞ、お前のこと」
「わたくしをでございますか?」
「ああ。ちょっと待てよ、ええ……ここまでの部分は省略するから適当に想像してくれ。――『ですが、ミスター・ウィギンズはとても思いやりの深い、しかも、引き締まって常に心構えのできているかたですから、そんなかたが面倒を見てくださるというだけで、僕はもうずいぶん安心です』……と、こうだ。大絶賛だな」
「些少な気の持ちように、過分なお言葉を頂戴しまして」
 あくまで慎み深く彼は一礼したが、対して若い紳士は小さく鼻を鳴らし、正当な評価だろうよと眉を上げて言った。それから、ふと便箋を手に考え深げな顔つきになり、
「なあ、主人であるぼくのみならず、ぼくの弟もこうしてお前を信頼しているわけだ。その信頼にひとつ報いてやろうという気にはならないか、ウィギンズ」
 と持ちかけてきた。
「わたくしの力及ぶものでございましたら、何なりとお言いつけくださいませ、旦那様」
「うん、――この手紙によるとだな、ジョーイはこんど学内の演説大会に出場するそうだ。あそこのは寮対抗なんだが、その代表に選出されたらしい」
「大変名誉なことでございますね」
「ぼくも素直に嬉しいよ。ただ、あいつはその……こんなことを言うのはすごく失礼だが、兄としての贔屓目で見ても、あんまり弁舌さわやかな人柄ってわけじゃあない」
 微かに眉寄せて主人は言う。従者は件の人物――ロスコー家の次男坊であり、現在は寄宿舎学校で四年次を過ごしている――についてすぐに回想し、然るべき答えを返した。
「絶えずお相手を慮っていらっしゃる、まことに物柔らかなお話しぶりの若様で」
「お前にそう評価されたと知ったら、さぞ自信がつくだろうにな。ああ、返事にはそう書いて送るか。……話を戻すと、つまりぼくが母似であるように、ジョーイも彼の母親に似たんだ。美点だよ。でも大会の聴衆全てがそう考えるとは限らないよな」
「さよう推察いたします」

 そこで奇妙な空白が生まれた。若主人は彼の顔をまじまじと眺めている。まるで心の内を探ろうとするかのように。けれども彼には別段思い当たる節などないのだ――さらなる情報を得ようと質問を呈する前に、相手が口を開いた。
「いや、誤解してもらっちゃあ困るぞ、ウィギンズ。ぼくは断じて、ジョーイの心証を良くしつつ競争相手の不調を誘うように工作しろとか、そんな汚いことを頼むつもりはない。そんなのはフェアじゃあないからな」
「仰せの通りでございます、旦那様。紳士の振る舞いであるとは申し上げかねます」
「そうじゃあなくて……ぼくはただ、ちょっとばかり元気づけてやりたいだけなんだ。大舞台を無事に乗り切れるように」
「であれば、やはり旦那様が御自ら励まして差し上げるに如くはないかと存じますが」
 しかし、率直なところを伝えられた主人は更に眉根を寄せた。なにしろ実の兄であるからして、弟の気性については思うところが幾らもあるらしい。
「それはぼくも考えたんだが、直に話すとかえって圧力になるんじゃあないかとも思うんだよ。……あと、ぼくがのこのこ会いに行ったと判ったら、後でまたやかましくなる。今日の比じゃない量が押し寄せてくるぞ」
 盆の上に打ち捨てられた書簡の束を指差し、若者が整った顔をいよいよ顰める。
「一体なにゆえでございましょう、という顔をしてるな、ウィギンズ。お前が言うところの『ご実家の方々のご意向を拝察するに』、ぼくの介入はロスコー家のご令息が正常に発育するにあたって悪影響があるというわけさ」
 吐き捨てるように言い終え、机に片肘をつく主の姿を、彼は態度を変えぬまま黙って見つめた。あちらの口から説明させるべきではなかった――この若い紳士が世間的に、そして一部の親類たちからどう思われているのか、彼はもちろん知っている。名門を放校になり、公に奉仕もせず、資産を喰い潰すばかりの放蕩息子だと。
「……このようになさってはいかがでしょう、旦那様」
 声を低く、凪いだ調子に抑えながら、従者は再び話し始めた。口さがない書き付けの山を、主人の目に入らぬところへ遠ざけながら。
「その演説大会と仰るのは、講堂や野外音楽堂のような場所へ演壇を置き、出場者は本番まで別室で待つ、というものでございましょう」
「まさにそれだ、一日仕事なんだよ。寮の連中をかき集めて朝から大準備をするんだ。そう、ぼくも控室の飾り付けをやらされた記憶がある」
「では、その大準備の前に贈り物をなさいませ。ささやかなものを何か――花や電報は悪目立ちがして、旦那様の仰る『圧力』が生じるかと推察します。手に取ったときにうれしく、それでいて後には残らないものがようございます」

 またしても会話の中に空白が生じた。ただし、こたびは疑念や邪推によるものではなかった――彼にもそれは見て取れた。なにしろ、若主人の目は本来の光を取り戻し、期待と希望に満ちて彼の顔を見上げていたのだから。彼にとっては最も好ましい、稚気に富んだ面持ちだった。
「解ったぞ、ウィギンズ」 喜びを隠しもせずに主人は言った。 「食べ物だな?」
「はい、旦那様。むろん安直にはゆきません――手間を取らず、辺りを散らかさずに、お手やお口元を汚すこともない品に限られます。かつ、悪く言うならば『腹持ちの悪い』ものを。ご夕食に響いてはなりません」
 勢い込む主人に対し、従者は沈着冷静の心がけを決して忘れなかった。この若者がしばしば意気にまかせて突拍子もない行動に出ることを、彼は重々承知していた。
「そうだな、ああいう場所は食べ残しってものにとことん厳しいんだ」
「消化によく、楽な姿勢で一口、多くとも三口ほどで食べられるものが最適と存じます。わたくしに一任いただけるのであれば、弟御様にふさわしい品をご用意します」
 主人は切望するように彼の目を覗き込んだ。――と思えば、にわかに背筋を伸ばして椅子に座り直し、些か勿体ぶって構えると、こう尋ねてきた。
「ところがだ、問題が一つある。お前はぼくの好みならお見通しだろうが、ジョーイの嗜好までは把握しちゃあいないだろう」
「何度かお目にかかりましたが、いずれもお食事の席ではございませんでしたもので」
「つまり、贈り物を用意したとして、我が弟のお気に召すかどうか判断できる人間は、この場にはぼくしかいないということだ。そうだな?」
「さようでございますね」
 そこで主人は、またしても何かを希うような目を彼に向けてきた。何を期待されているのかは解る――二年近くの(主人はいつも「一年とちょっと」と言うのだが)側仕えで培った、経験からの判断だ。その推察を心に留めつつ、彼は口を噤んだままでいた。
「なあ、……なんだって急に察しが悪くなったんだお前は。ぼくの……その……」
「紳士的なお振る舞いには感じ入りました、旦那様。ですが、わたくしの心得違いで、あなた様が後々に損を被るようなことがあってはなりませんので」
 若者は焦れたように声を張り上げたと思えば、言葉を濁して目を泳がせる。「偉ぶる」という単語にはとことん縁のない方だと、御前でなければ肩を竦めているところだ――彼は内心でそう呟き、しかつめらしい顔のまま助け舟を出そうとした。が、
「だからこう言ってるんだ、ウィギンズ――ジョーイにだけ作ってやるんじゃあなくて、ぼくにもちゃんと食べさせてくれるんだろうな!?」
 若主人が「紳士的な振る舞い」を打ち捨てるほうが先だった。彼は表情を僅かに緩め、予定通りの答えを返した。
「ご下命を賜り幸甚に存じます、旦那様。実を申しますと、来週からのティーの計画がまだ定まっておりませんでした」
「やったあ!」

  * * *

 もちろんヘンリー・ロスコーは、午後四時のティー・タイムに素晴らしい品々が控えているからといって、ランチに「腹持ちの悪い」ものを敢えて選んだりはしなかった。いよいよ従者による試作品が食卓に上ろうという日でも、朝食には銀の大皿いっぱいに盛られた燻製ニシンの混ぜご飯ケジャリーを喜んで平らげ、昼は温かなクリームソースの掛かったチキン・ア・ラ・キング――普通なら麺、ないし煮た米が添えられているところだが、なんとパイ生地の器に盛られて出てきた――に舌鼓を打ち、ドライ・マティーニを楽しんだばかりか、センター・ピースに飾られたオレンジに手をつけようとさえしたのである(言うまでもなくこの行いは、背後から一部始終を見ていた従者に「紳士の振る舞いであるとは申し上げかねます」という評価を下された)。
 それでもさすがに食べすぎたという自覚はあったので、彼は午後の時間を書見ではなく運動に費やそうと決めた。ブルックリンのプロスペクト・パークへ繰り出した彼は、地元の少年たちに混じってスケートや「氷の野球」に興じ、すっかり腹ごなしを済ませてから、マンハッタンの東36丁目にある我が家へ戻ったのである。
 日は傾き始めていた。玄関で彼を迎えた従者の口から、お待ちかねの言葉が聞かれた――「ティーの準備は整っております」。
 従者が外套とストールを脱がせる、ほんの僅かな時間さえ惜しかった。すぐにでも茶席へ直行したいところだったが、しかし一応は冬用のブーツを室内履きに替え、雪で濡れた髪を整え直してから、彼は改めて従者に呼ばれるのを待った。

 果たして、居間には普段のような銀のティー・トレイも、また背の高い木製のスリーティアーズもなかった。卓上にはカップとソーサーに加えて正方形の平皿が一枚、レース模様の覆いを掛けて置かれているだけだ。
「なるほど」 彼はさも合点が行ったかのように頷いた。
「実際の包みを考えたら、この大きさに収まるのが当然というわけだ。食器がなくても食べられるようにしなくちゃあならないしな」
「仰る通りでございます。寮のお部屋や、また学内のお庭などで召し上がることを想定しておりますので」
 彼のために椅子を引きながら、従者が慇懃に答えた。そして、席についた彼の眼前で、覆いを静かに引き上げた。
「忌憚のないご意見を頂戴できれば幸いでございます、旦那様。弟御様のご満足のため、いかようにも手を加えさせていただきます」

 神秘のヴェールが取り払われるまでの数秒間が、どれほど長く感じられたことか! 彼の前に姿を現したのは、神々しいというよりは愛くるしい、色も形もとりどりな菓子の数々だった。
「ああ、これは――」
 まず目を引いたのは、クリームのように絞り出した形の、淡く花々の色を帯びたものだった。メレンゲ菓子だろう。あるものはリラの花弁のごとき薄紫で、またあるものはサクラソウのような淡紅色だ。なんとも心の安らぐ、優しい色合い――かと思えば、落ち着いた焦げ茶色のサブレらしきものが、その隣に控えめな姿でかしこまっている。
「ウィギンズ、お前――ぼくは確かに信頼に報いろと言ったが、これはちょっとばかり張り切りすぎなんじゃあないか? 報いすぎてジョーイのほうにお釣りが要るぞ!」
 焼き菓子だけではない。彼は皿の一角を占めるものに目ざとく気付き、さっと手を伸ばした。それはチョコレートのようだった。ただし薄い、限りなく薄い――あとほんの少しでも指に力を込めれば、あっさりと粉々になってしまいそうだった。彼は躊躇わずそれを口に運び、噛み締めようとしたが、むろん「噛み締める」というほどの手応えなどなかった。ほんの僅か歯を立てただけで、薄氷に似たチョコレートは心地よい音と共に砕け、豊かなカカオの香りを溢れさせた。否、それだけではなかった。
 薄氷、正にそれを思わせるひんやりとした感覚だった。はっとして彼は何度か瞬きをし、嗅覚と味覚を軽やかに刺激するものへ意識を集中した。
「ミントだな、これは! あの食後に出てくる、砂糖を薄く伸して作るやつだろう?」
「仰る通り、いわゆるミント・シンでございます。ハッカ油で風味をつけ、固めた後でチョコレートにくぐらせました。……お味のほどはいかがでございましょう」
 新雪の最も清らかな部分をそのまま菓子にしたら、きっとこんな清涼な味がするのだろう――彼は深く感じ入り、その通りを伝えようとした。が、そこでふと思い留まった。ここで求められているのは自分自身の好みではないのだ。
「そうだな、……ぼく自身の感想を述べるなら、もう少しハッカを効かせてくれと言うところなんだが」
「はい、旦那様」
「でも食べるのはぼくじゃあないからな、――つまりジョーイにとってはきっと、これぐらい優しくて、少しすっとするぐらいの強さがちょうどいいだろう」
「それはよろしゅうございました」
 従者は平時と変わらぬ穏やかさで頷いたが、彼にはそれが何となし得意げに見えた。にわかに彼の内へ、それならもっと得意がらせてやろうという気持ちが沸いてきた。
 事実、わざわざ褒め言葉など考えずとも、場に並んだ菓子の数々を口にするだけで、心からの賛辞は次々と頭に浮かんでくるのだった。小さな貝の形に焼かれた、いわゆる「プティット・マドレーヌ」は驚くほどしっとりとして、微かにオレンジの花の香りがした。細い棒状のビスケットは、齧れば口いっぱいにチーズの塩気と、爽やかなローズマリーの風味が広がった。
 そして何よりも彼を突き動かしたのは、素朴なカラメルの色をした立方体のもの――これはファッジに違いない! 思うよりも先に手が動き、彼はその一つを口に放り込んでいた。見た目よりもずっと華奢な飴菓子は、歯に、舌に触れたそばから、ほろほろと崩れて消えてしまう。後にふくよかなバターの薫りを残して……

「……ぼくは驚いたぞ、ウィギンズ」
 すぐに口を開いて、素晴らしい余韻を台無しにしたくはなかった。たっぷりと時間を置いてから、彼は自分でも意外に思うほど厳かな声を出した。
「さようでございますか」
「この世に『甘すぎないファッジ』なんてものが存在できるとは思わなかった。いや、甘すぎるのが良いんだろうという人も多いだろうが――実際、ぼくがその典型だが」
「さようでございますね」
「それでも、これは格別だ。ジョーイが感激のあまり目を回さないか心配になってきた。気つけ薬を同封しておいたほうがいいかもしれないぞ」
 言って、彼は隣に置かれた色の違うファッジ――柔らかなレモン色と白色の二層から期待した通り、まさしくレモンメレンゲパイの味がした――を瞑目しながら味わった。再び目を開けて見た従者の顔が、得意がるどころかあまりに生真面目そうだったので、気つけ薬の件が冗談であることを言い添えなければならなかったが。
「やっぱりお前を頼って正解だった。なあウィギンズ、ぼくはこのところ本気でお前をなんでもできる男だと信じつつあるんだが」
「謹んで己を省みますに、なんでもはいたしかねます、旦那様」
「ぼくの日常を根底から変えてしまうぐらいのことはできているぞ。全く過ぎた贅沢だ。王様以上だよ」
 謹厳の一語を当てるにふさわしい顔つきを前に、彼はカップを持ち上げながら告げた。生憎、従者は表情を少しも緩めることなく、
「もったいないお言葉でございます」
 と、うやうやしく頭を下げるばかりだった。この男の辞書に「破顔一笑」などという言葉は存在しないのではないか――彼は真剣に考えかけた。
「ともかくだ。ぼくはこれらの菓子について、贈り物に最適だと太鼓判を押そうじゃあないか。包装まで任せてしまってもいいんだな?」
「いかようにも、旦那様。色や形などのご要望がございましたら、なんなりとお聞かせくださいませ。前日までには万事遺漏なく仕上げ、弟御様のもとまでお持ちします」
「うん――いや、待てよ、お前が届けに行くのか? ニュージャージーまで?」
「よもや郵送するわけには参りませんでしょう?」 従者は慇懃に問い返した。
「まあ、そうだよな、確かに。合衆国の郵便制度を信頼していないわけじゃあないが、去年届いた誕生日プレゼントの箱が大きく凹んでいたことについては、ぼくは未だに根に持ってる。……こっちはこっちで一日仕事だな。頼んだぞ、ウィギンズ」
 かしこまりました、というお決まりの返事を彼は期待していた。ところがどうだろう、従者は真摯な面持ちを決して崩さぬまま、物言いたげに彼の目を見据えている。
「それで構わないんだよな、ウィギンズ? なんだ、またぞろお前はぼくが『頼んだ』ことが気に食わないのか? 『紳士の振る舞いであるとは申し上げかね』るのか?」
「……仰せの通りでございます。紳士のかたにふさわしいお振る舞いとしては、もう後ほんの少しばかり抜けているものがございます、旦那様」
 当惑したまま見上げることしかできない彼に、従者は淡々とした声色で告げた。
 と、どうしたことか――動かしがたい規範と風儀の権化と見えた従者から、やにわに冷厳さが抜けたのだ。もしかすると主人の見間違いか、混乱のあまりの誤解であったか知れない。それでも彼には確かに、傍へ立つ影のような姿の男が、輪郭をふっと丸めたように思われた。
「旦那様、――差し出がましい口を利くことをお許しくださいませ。ですが今のままでは、わたくし一人からの贈り物であるに等しゅうございましょう?」
 彼の目は段々と見開かれ、二度三度と瞬いた。従者が何を言わんとしているのかは、今や彼にとっても自明のことだった。

「ウィギンズ!」
「なんでございましょう」
「買い出しのルートに、百貨店だけじゃあなく文房具屋をいくつか加えておいてくれよ。ちょうどいいカードを見繕う必要がある。重圧にならない程度の、気の利いたやつをな。一緒に届けてくれるだろう?」
 従者はゆっくりと口角を上げた。 「仰せのままに、旦那様」

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