ランプを点けて置き時計を見た。もう真夜中を回っていた。


夜半に蘇るのは -The Night Watches-

 要するに、日曜日は終わってしまったのだ。全く、なんという復活祭イースターだったことか! マンハッタンは東36丁目に佇む荘重な高層アパートメント、その最上階に位置する部屋の寝室で、ヘンリー・ロスコーは溜息をついた。呼応するかのごとく、胃袋からか細い嘆声がきゅうと漏れた。
 こんな夜半に目を覚ましてしまったのには理由がある。この二日間というもの、彼は腹に溜まるようなものを食べていないのだ。それもこれも先週の末、つまり聖金曜日にはなはだしく腹を壊してしまい――医者からは極めて端的に「呑みすぎ」という診断を下された――その日は薄いオートミール粥とチキンスープほどしか口にできなかった。彼だって復活祭の盛大なごちそうをたらふく味わいたいと願っていたのに、五臓六腑が、そして何より従者がそれを許さなかったのだ。この世帯における炊事の一切を引き受け、主人の胃袋を健全に保つことにかけては、決して他の追随を許さない壮年の男が。
 幸い、使用人とかかりつけ医の尽力によって、彼は順調に快復した。日曜日などは、さすがにサンデー・ローストを平らげる余裕こそなかったものの、復活祭らしく新鮮な卵を使ったトリュフ・エッグを楽しんだし、夕食後には小さなカスタードプディングもついてきた。しかしながら、肉や生野菜はなし、刺激物もなし、いわんや酒類をや――
 かくして彼は、就寝後わずかに一時間そこらで再び覚醒を果たし、暖かなベッドから抜け出すこととなったのだった。四月とはいえ、遅い時間はまだまだ冷える。丈の長い茶色のガウンを寝間着の上から羽織り、なるべく足音を殺すよう心がけつつ、彼は薄ら寒い廊下へと踏み出した。

 常夜灯が僅かに照らし出す、円形の仄明るい空間をくぐり抜けながら、彼は階下へと着実に足を進める。室内履きの柔らかい靴底と、階段に敷かれた絨毯のおかげで、彼の歩みは限りなく静かだった。この時間なら、まだ幼い見習いの少年はもちろん、従者もとうに部屋へ戻って寝ているはずだ。彼らを起こしてはならない――ただでさえ自分の看病や、体調不良に伴う諸々の予定変更のために、余計な労働を強いられたはずなのだ。慮ってやらなければいけない、と彼は感じていた。
 階下もやはり静寂に満ち満ちていた。暗闇に慣れた目で円形のギャラリーを見回すと、所々のサイドボードやマントルピースに、まだ蝋燭や卵などの飾り付けが残っているのが判る。本来ならば日曜には盛大なパーティーが催されるはずだったのだが、それも延期となった。あれらの装飾品は、もう一週間ばかり復活祭期を過ごすことになりそうだ。さすがに花は取り替えなければならないだろうが。
 そのギャラリーを抜ければ、いよいよ目的地に到達する。食堂から貯蔵室まで、食事にまつわる部屋の並ぶ廊下だ。が、顔を出したところで彼は気付いた。戸の間から灯りが漏れている――電球の赤々とした光ではない、小さなランプ一つを燈しているような、柔らかく慎ましい灯だ。手前は台所、そして奥のもう一つは……

 と、手前の扉がやや急いたように開いた。一筋の光は大きく薄く広がり、そのまま彼に向かって音もなく近付いてきた――眩しくはない。あくまで控えめな橙色、その中に浮かび上がったのは、彼もよく知る人影だった。
「ウィギンズ」
 努めて声を潜めたつもりだったが、それでもいくらかは壁に反響し、静謐な暗がりを乱したことだろう。彼は目を丸くし、人影を――片手にランプを携えた、背の高い従者の名前を呼んだ。すぐに低い声で応えがあった。
「旦那様」
「ああ……いや、すまない。もう寝てただろう」
「いいえ、旦那様。休んではおりませんでした。病み上がりでいらっしゃる旦那様に、万が一があってはならないと考えましたので」
 彼はとっさに謝罪したが、従者はしかつめらしい顔で首を横に振った。無論、仮に眠っていたとして、「寝ていました、起こされて不愉快です」などと主人に正直なところを述べる使用人はいるまいが、見る限り従者は本当に休んではいなかったらしい――どこ一つ緩めずに三つ揃えを着込み、黒いネクタイも締めているし、頭も丁寧に梳られた撫で付け髪のままだ。知らず彼は眉根を寄せていた。もう一時近いのに!
「そうか。……ここ数日は面倒をかけたな。おかげでぼくもずいぶん健康体だ。もう気にせずに寝てくれていいんだぞ」
「職務に忠実であったにすぎないわたくしには、過分なお言葉でございます、旦那様。どんな時間であれ、旦那様のご用命とあらば何なりと承ります」
「いやあ、用事というほどの用事もないんだが――というより、お前の手を煩わせてまで遂げたいことでもないんだが」
 いまだ冴えきらない頭をなんとか稼働させ、彼は従者を部屋に帰すための文句をひねり出そうとした。腹が減って目が覚めたから食べるものを取りにきた、等と言い出そうものなら、この忠義と奉仕の精神を絵に描いたような男は、普段の食事と何ら変わらぬフル・サービスでの給仕を始めるに違いない。せっかく忍び足でやってきた努力が水の泡だ。否、それはもうとうに泡と消えているか……
 その時、ふと彼の感覚を刺激するものがあった。嗅覚だ。一度意識してしまえば、もう気のせいでは片付けられないほどはっきり判る。甘く香ばしい、バターと砂糖を焦がしたような――本当なら昨日の間じゅう、台所はこんな匂いに満ちていただろうと思える素晴らしい薫香だ。やにわに胃袋の主張が激しくなるのを彼は感じた。オーブンの中か、ストーブの上か、きっと何かが焼かれているのだ――

「――旦那様?」
 彼はそこで我に返った。従者がもう一歩だけ距離を詰め、目を眇めて彼の顔を見つめている。内心を推し量るかのように。
「あ、ああ」
「やはりまだお加減が――」
「いいや、ぼくに二言はない。いたって健康体だ。ただ寝起きで少しぼんやりしていただけさ。それと……その……」
 従者の背後に見える、開いたままの台所の戸へちらと視線をやってから、彼はやや言い淀みつつ口に出した。
「いい匂いがするな、と思って」
「……さようでございますか」
 答える従者の声は普段よりも硬かった。といって、そこまで耳慣れない調子でもない。主人である彼の「紳士の振る舞いであるとは申し上げかね」る行いを諌めるときには、しばしば聞かれる声だ。やはり寝入りばなを邪魔されて不機嫌なのだろうか? ――否、と彼は直感した。主人を咎め立てしようというのではない、咎めているのは……
「もしかすると、明日の仕込みか何かしてたのか? それなら本当に悪いことをしたな。こんなところで立ち話なんかしてる場合じゃあない、火の傍についていたほうが」
 彼は敢えて本心を口にせず、それらしい推測を作り上げて述べた。
「いいえ、火は落としてまいりましたので」
「そうか」
 軽く笑う。 「明日はもう、この腹にもフル・コースが入るはずだ。楽しみだな」
「旦那様、まことに申し上げにくいことなのですが――」
「うん?」
 従者の顔を見返してみれば、眉間に微かな皺が寄っているのが判る。それはやはり、目の前の相手に気を悪くしたというより、もっと内向きの感情を示していると見えた。端的に言えば、疚しそうな顔つきであった。
「――あれはわたくしの夕食サパーでございます、旦那様」
 告白、否、告解とでも表現するのがふさわしいような、暗く重々しい口ぶりで返事がなされるまで、たっぷり十秒はあっただろうか。向かい合っている主人までも、思わず厳かな顔になりかけるほどだった。
「夕食、うん、そうか――いや、ちょっと待てよ、夕食だって? つまりお前、昼から何も食べてなかったのか!?」
 だが、厳粛な空気はそう長く保たなかった。彼は目を剥き、思わず従者の顔と奥の扉とを見比べた。
「よもや、……旦那様、つまり、あなた様の立場からみて夕食ディナーと呼ばれる食事は済んでおります。紛らわしい言葉遣いをお許しくださいませ。わたくしが申し上げたのは夜食のことでございます」
「ああ、なんだ、それなら安心した。ちゃんと食べてるならいいんだ」
 従者は何一つよろしくないような顔をしていた。 「まことに申し訳がございません」
「何を謝ることがあるんだよ、ウィギンズ。お前だって夜中に腹が減ることぐらいあるだろうさ。ぼくなんかしょっちゅうだぞ。ましてお前はぼくの何層倍も働いてるんだ、それだけ栄養も必要だろう」
 きまり悪さを和らげるように、彼は軽口とも取れる言葉を向けた。従者の抱いているであろう心情は、彼にも察しがついた――規程の夕食を既に終えているにも関わらず、必要以上のものを、それも翌日の勤務に障りかねないような遅い時間に欲しがることや、ただ空腹を満たすだけの食べ物ではなく、バターや砂糖の香りを豊かに漂わせるような、甘く贅沢なものを口にすることへの罪悪感が。そして、それら全ては一つの要素により増幅されているのだ――自分はこの家の主人ではなく使用人である、という。

「なあウィギンズ、ひとつ教えてくれ。ひとつだけでいい」
「旦那様――」
「謝れなんて言ってないからな。だからそんな後ろめたそうな顔をするんじゃあない。……何を作っていたんだ?」
 ゆっくりとした吐息の音が彼の耳に届いた。少なくとも、答えられないようなことを問われて息を呑んだ、とはならなかったわけだ。
「……プディングでございます、旦那様。聖金曜日に準備したホット・クロス・バンズのうち、残念ながら食べ頃を逸しました数個にバターを塗って卵液に浸し、オーブンで焼いたものを――」
 続く言葉の連なりときたら、おお、夜中に聞くのがこれほど辛いものもそうあるまい。彼は悟られないよう生唾を呑み込んだ。そろそろ胃袋が反乱を起こしても何ら不思議はなかった。彼の脳裏に、ブリキで作られた四角いトレイと、その中にぎっしり詰まった丸パン――復活祭にはつきものの、干しぶどうやスパイスをたっぷりと入れ、表面には十字の模様をつけた菓子パンだ――の姿が浮かんだ。一度は硬くなった生地がバターとカスタードをたっぷり吸い込み、こんがりと焼き上げられて、香ばしさと柔らかな食感を勝ち取った様が。金茶色になったパンの端がちりちり言う音まで聞こえるようだった。
 
「なるほど」 彼は静かに呼吸した。言うべきことは定まった。 
「要するに、お前はぼくの失敗を埋め合わせてくれたんだな?」
「――は」
 従者は暗色の目を一度だけ瞬き、すぐには事情が飲み込めないといった様子で、暗がりの中に彼の表情を窺おうとしていた。
「せっかくの祝日の前だってのに、ぼくは早まってさんざ酒を飲んだあげく腹を壊した。パーティーが延期になって、ごちそうの準備があらかた無駄になりかけた。けれども、お前はそれを無益なものにしないよう努めてくれたわけだ。そうだろう?」
「そう表現することは不可能であるとも申し上げられませんが――」
「じゃあ、そう表現してくれ。……ありがとう、ウィギンズ」
 彼は明るく言い、感謝の重みを込めるように深く頷いた。もっともその胸中が完全に謝意に満たされていたわけではなかった。今にも抗議の叫びを上げそうな胃袋を宥めるため、少なからず余裕を欠いていたのである。ここで腹の虫に鳴かれては全てが台無しだ。祈るような心地だった。

 暫しの沈黙があった。従者がふっと短く、先程よりいくらか苦みの抜けた息を吐いた。冷たい空気がランプの熱によって解けたようだった。
「わたくしに何かお命じになりたいことがあったかと拝察しますが、旦那様」
「いいや、何も。さっきので全部だ。――どうも眠れなかったから、ちょっとの間外を歩こうかと思っただけさ。もう部屋に戻るよ」
「さようでございますか」
「さようだ。よって、以上だ」
 険の取れた従者の顔をしっかりと見て、彼は笑った。 「おやすみ、ウィギンズ」
「おやすみなさいませ」
 頭を垂れる姿を目に収めてから、彼は再び階上へと歩み始めた。今できる最良のことを成し遂げた、という気がしていた。それで腹がふくれるわけではないが、寝付くことはできそうだった。
 もしもあの時、例えば自分にも食べさせてくれと言ったなら、きっと従者は受け入れただろう。魔法のようにテーブルを整え、完璧に焼き上がったばかりのプディングを、さも当然のごとく主人の夜食として供するのだろう。
 だが、たとえ自分がこの家の主人だとしても――否、主人だからこそ、決してそれを命じてはならないのだ。彼は自らに再び言い聞かせた。従者にも従者自身の望むものを食べる権利がある。かつて仕えてきた屋敷ではどうだったのか知らないが、この家では当然のことと決めたのだ。誰が罪などと謗ろうか。
 ギャラリーを通り抜ける最中、十字架の描かれた蝋燭飾りに目を留めて、彼は静かに首肯した。きっと神様だってお許しになる。――そうでなくても、ぼくは許すさ。

  * * *

 全く、なんという復活祭イースターだったことか。
 マンハッタンは東36丁目に佇む荘重な高層アパートメント、その全室の中では一番に質素であろう小部屋の角机へ、従者はそっと盆を置いた。すっかり濃くなったポットの紅茶を、木蔦模様のカップに注ぎ込み、少々の差し湯を足す。元よりそう香り高いものでもない。インド産の高級な葉は主人のもの、使用人が飲むのは――産地の名誉のため、どこの茶であるとはっきり名指さぬほうがよいかもしれない。彼はその茶を一口啜り、静かに頭を振った。どこのものとも知れない茶葉であろうと、やはり「お茶の時間」はかけがえのないものだ。
 カップを受け皿へと静かに下ろし、彼は正面の盆に改めて目を向ける。未だ温もりをしっかり残した陶器のプディング型に、装飾のない一枚の取り皿――無論のこと彼は、焼き型に直接フォークを突っ込むなどという真似はしないのである――と、ナプキンに包まれた真鍮のカトラリー。紅茶の香りを圧倒せんばかりに立ち上ってくる、焦がしたバターと黒砂糖デメララ、それにシナモン、ナツメグ、クローブ、選りすぐりのスパイスによる「祝祭日の匂い」。
 これこそ彼が勝ち取ったもの――否、初めは盗み取ったとも言えるし、後には正当な報酬として与えられたとも言えるだろう。ブレッド・アンド・バター・プディングだ。
 そう大きくもない焼き型の端へ、彼はナイフをゆっくり差し込んだ。溶けて固まったカラメル色の砂糖が、こそげ取るような刃の動きに合わせて、ぱりぱりと音を立てる。卵とダブル・クリームをすっかり飲み干した丸パンは、ただのホット・クロス・バンズであった頃よりずっと軟らかく、崩れやすくなり、掬い上げられた刃の上で、勿体ぶるように震えた。瑞々しさを取り戻した干しぶどうが、切り口から一つこぼれ落ちた。

 本来であれば、これら全ての材料は主人の、および客人たちの口に入るはずだった。ところが、聖金曜日の朝になって計画は大幅に変更となった。復活祭を祝うパーティーを前にして、主人は酷い腹痛を訴えて寝込み、主治医から「暴飲暴食による急性胃炎」の太鼓判を押されてしまった。フル・ブレックファストは蜂蜜湯に、鮭の温製サラダは煮て潰したリンゴに、ポロ葱とアーティチョークのパイは薄いオートミールの粥にすり替わることとなった。
 主人が気落ちしたのは言うまでもない――いくら自分自身の不摂生が原因とはいえ、待ちかねていたご馳走があからさまな病院食へとことごとく変貌するのは辛いものだ。従者としても、あの満足と幸福を活き活きと振りまく顔が見られないのは残念だったが、胃袋が受け入れないものはどうしようもなかったのである。
 パーティーにおける調理と給仕の務めが無くなったかわり、彼は主人の看病と招待客への謝罪、医者への連絡、行き場を失った食材たちを少しでも長生きさせるための処置に追われることとなった。
 復活祭に限らず、ありとあらゆる「階上」の祝日において、使用人が多忙であるのはごく自然なことだ。だが、忙しさの理由が違うだけで、数日間がこうも長く感じられるのだから、人間の感覚とはなんとも身勝手なものだ――嘆息しながら彼は務めを果たし、今や招待客から見舞い客へと変わった主の友人たちに応対し、やっとのことで日曜日を迎えた。この頃には主人の腹具合も大分と回復しており、夕食の後で小さなデザートを受け付けるまでになっていた。彼はひとまず安堵し、主人が寝室へ戻ったのを確認して、広い台所をきれいさっぱり片付けた。そして、黒いエプロンと袖カバーを外そうとしたまさにその時、気付いてしまった。自分自身の内なる声に。
 ――甘いものが食べたい。

 当然ながら、彼はこの声を黙殺するつもりだった。普段と同じ時間に夕食は済ませた。食材整理の観点から、平時より量が多かったぐらいだ。栄養を補給するに十分すぎる。この上さらに何かを口にする必要などない。
 それなのに、内なる声は収まらなかった。彼自身でも信じられなかったのだが、彼は空腹を覚え始めていたのだ――間の悪いことに、甘いものを作って食べるのには恰好の理由があった。客人たちへ配りに配り、また使用人見習いの少年にもいくつか下げ渡し、それでもなお数個の菓子パンが食品棚には残っていた。とっくに食べ頃は過ぎている。材料からして保存のきく代物ではないのだ。保存といえばクリームとバターもそうだ、大量に混ぜもののされた粗悪品と違って、出どころのはっきりした純粋な乳製品である、たとえ冷蔵庫でもそう長く保ちはしない……

 彼は努めて己を押し殺そうとした。無言の圧で足りなければ、はっきりと言葉にしてみればよい――使用人ともあろうものが何たる恥知らず。いかなる理由があろうとも、生存の矩を超えて主人の蓄えを費やすことなど許されるはずがない。ましてや、主人が胃痛に苦しみながら祝日を終えようとしているのに、しもべが独り砂糖と油脂の愉しみに耽るなどありえない、万に一つも!
 しかし同時に、彼の思考はこのように働きもする。あの主人ならきっと、自分のために数々の食材が無駄になることを決してよしとはしないだろう。使用人たちがそれぞれ判断して、可能な限りそれらを活かしてくれることを喜び、寛大に許すだろう――
 数個の卵を銅のボウルで溶きながら、彼は繰り返し自分自身に与えられている権限を確認した。ここには専属の料理人がいないのだから、台所における生産の全ては従者の自由裁量だ。しかも、生鮮食料品を堆肥置き場に直送しないためという、れっきとした理由もついている。そうだ、主人はきっと許すだろう。――ダブル・クリームを溶き卵に流し込みながら確信する。半分に切った丸パンをカスタードに浸しながら、自分自身を正当化しようとする。これは使用人としての務めの一つなのだと。
 パンが整然と並んだ焼き型を調理台に置いて、彼は自室に戻り、明日のための準備を万端整えた。そのうちに肌寒くなってきたので、紺色のガウンを羽織って台所へ戻った、――型の中でたっぷり卵液を吸った古い丸パンが、ほどほどの膨らみを見せたのを確認し、火を入れたオーブンに収めた。焼き上がるまでの三十分か四十分は、いつも通りに帳簿をつけ、日記を書いて過ごそうと思った。
 程なくして、台所からはなんとも芳しい焼き菓子の匂いが漂い始めた。とうに満たされたはずの胃袋を幻惑し、食欲を呼び起こすようなあの香り。自らそれを作り出しておきながら、彼は今やこう願うようになっていた――今すぐにでも主人が降りてきてくれないだろうか、と。日来、階上の人々は進んで階下に出向くべきではないと諌める側でありながら、彼はあの子供じみた若紳士の顔を切望しつつあった。
 連日の粗食に倦んで、温かい飲み物か軽い食事が欲しいと言ってこないだろうか。廊下に漂う香ばしい匂いに惹かれ、あれは何を作っているのかと尋ねてくれないだろうか。もちろん答えは決まっている――そろそろお夜食をご所望かと存じまして。
 後は全て普段の通りだ。焼きたての柔らかなプディングを盆に載せ、寝室まで運び、過分な賛辞を頂戴し、改めてうやうやしい辞去の礼をする。そして階下の部屋に戻り、己の浅ましさに恥じ入りながら、菓子のことなどは一切忘れて四時間ばかり眠る。それで全ては丸く収まるではないか。
 果たして、開いたページの中ほどまでを埋めたとき、彼はふとペンを止めることになった。足音がする。ギャラリーのほうだ。――本当に降りてきたのだ。
 すぐさま彼はガウンを脱ぎ、背広を元通りに着直すと、机上のランプを手に廊下へと出た。丈の長い化粧着を羽織った主人の姿が、廊下の奥にぼんやりと見えた。
「ウィギンズ」
 抑えたつもりなのだろう声が彼の名を呼んだ。起こしたかもしれないと案じ、数日間の働きを労い、用事は特にないのだと何かをごまかすように言った。そして付け加えた、
「いい匂いがするな、と思って」
 用意していたはずの返事は、何一つとして口から出てこなかった。

 ――そして彼は今、皿に盛られた温かなプディングを前に、己の一挙一動を回想し、お世辞にも愉快とはいえない考えに耽っている。金茶色の焼き目も麗しい、焼き菓子の姿とは裏腹に、眼裏に浮かび上がるもの全ては彩りを失くし、熱もまるで感じられない。
 だが、「手を汚して」作り上げた一皿を、冷めるがままにしておくのも彼の矜持が許さなかった。慎み深い一口分を切り取ると、フォークの先からいくらか焦点を逸らすようにして、おもむろに舌に乗せる。
 正しく適温――火傷するほどの熱さではなく、風味が落ち込むほど冷えてもいない、包み込むような温かさだった。鼻へと抜けてゆくスパイスのふくよかな香り、歯に触れてはかりりと鳴る焦げ目、対照的にふっくらとしたパンの身に、溢れ出す寸前で留まるカスタードの甘さときたら、残り物で作られているとは到底思えないような仕上がりだ。使用人たちがいつも食べているような、きめ細かくも柔らかくもないパンで作ってさえおいしいのである、まして自分が手にかけたものといったら!
 彼は口を引き結び、フォークを置こうとした。しかし、一度口をつけたものを途中でなかったことにするなど考えられなかった。もう一口含むと、オレンジの皮が生み出す仄かな香りが感じられた。歯を立てれば干しぶどうが潰れて、まろやかな酸味と甘味を口いっぱいに押し広げた。
 どうしてこれを食べているのが自分なのだろう、――彼は味わいと真反対の面持ちで自問した。一口一口パンを噛み締め、その甘みと香ばしさが心を惑わすたび、自分が完璧に調律された道具や家具ではなく、未だ弱い人間でしかないことが苛立たしくなる。畢竟、使用人などただの物でしかないのに、――ああ、愚かにも自分は忘れつつあるのだろうか? 未だ下っ端のホール・ボーイであった頃、どれほど温かな食事に飢えていたかを。フットマンとしての肉体労働に疲れ果てたすえ、下げられてきた残飯のハムを一切れ盗み食いしようとして、あわや職を失いかけたことを。あらゆる食料品が欠乏していた戦時中、主人たちに復活祭の正餐を最大限楽しんでもらおうと手を尽くした日々を。全ては過去のものと、もはや自分には関係のないことだと、そこまで思い上がるようになったのだろうか?

 最後の一口を飲み込み、フォークを置いてから、彼はその片手で顔を覆った。自分はもっと弁えていたはずだ。己を律するように、慎み耐えるように、痛みや苦しみや欲望など感じないように、正しい振る舞いの全てを教育されたはずなのだ。今ここにいる自分は道理に反している。紳士たちに仕えるには退廃している。こんなにも神聖な日の夜だというのに……
 食器にこびりついた汚れを台所で洗い落とし、元通り棚に収めたときには、もう一時を大分と回っていた。服を着替えて寝床に入る間際、枕元に飾られた、聖ベネディクトの古びたお守りが目に留まった。
 祈りの言葉ではなく小さな呻きを漏らし、彼は毛布へと体を押し込んだ。――決して忘れるまい。今までのことも、今夜のことも。忘れ去ってはいけない。たとえ主には赦されようとも、わたくし・・・・を許しはしない。

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