感嘆の溜息のほか、何を口にできるというのだろう? この器を前にして。


心の器は満ちて -Bowling Over Me-

 深く感じ入った面持ちで、ヘンリー・ロスコーは長々と息を吐くと、手にした磁器のボウルを差し込む陽光にかざした。金、朱、そして黒と見粉う深い深い藍――これ以上ないほどの東洋趣味。隅々まで書き込まれた繊細な紋様は、どこを取り上げても見事の一言だ。黄金の島への憧憬が、彩紋の一つ一つに詰め込まれている。ただ眺めているだけで、胸の内から腹の底まですっかり満たされてしまいそうだ。
 ああ、けれども――掲げた両手の間から、眩いばかりの金彩は高らかに声を上げている。自分を使ってくれと。使われるために生まれた器なのだから、何なりと盛り付けて、食卓に上げてくれと……

 二度目の溜息をついたところで、居間の奥に見える扉が音もなく開いた。戸口に姿を現したのは、やはり壮年の従者だった――代わり映えのしない黒一色の三つ揃え。だが両手に花瓶を抱えているため、普段よりは華やかな装いに見える。どうやら花を取り替えてきたらしい。
「ウィギンズ! ちょうどいい所に。それを置いたら、ちょっとこっちに来てみろ」
「は」
 従者はしかつめらしい顔で一礼すると、窓辺のキャビネットに花瓶を置き、滑らかに踵を返して彼の元にやってきた。
「ほら、これだ! 見事なもんだろう?」
 目を輝かせて器を差し出す主人に対し、従者は落ち着き払った態度を崩さなかった。暗褐色の目が僅かに細められ、彼の手元に注がれる。
「おや、『トラディショナル・イマリ』でございますね、ロイヤルクラウンダービーの」
「そうだ、うちにもティーセットはあるだろう」
「ございます。ですが、こちらのボウルは……」
「それなんだが、今日の昼にいつものクラブへ行ったら、たまたまティミーに会ったんだ。親戚付き合いについての愚痴をひとくさり聞かされたよ。で、この器はもともと、ティミーが伯母だったか大伯母だったかに一式買ってやったものなんだが、相手方から突き返されたらしいんだな。家に飾ってみたらやっぱり趣味に合わないから、と」
「それはお気の毒さまでございました」
「全くだ。それで、返されたところで自分にも日本趣味はないし、一度は包みを開けたものだから返品もできないし、適当に売り払うのも嫌だから、もし欲しいものがあれば持って行くがいいと言われてね。一通り見せてもらって、これだと思った」
 縁に施された金彩を指でなぞりながら、彼はうっとりと頭を振った。豪華絢爛、という言葉がこれほど似合う器もそうそうないだろう――それでいて、目が痛くなるようなけばけばしさはない、艶やかな気品を漂わす光が、自分の棚にまた一つ加わったのだ。
「この形と大きさはオートミールボウルでございますね。実に使いやすいもので」
「オートミールボウル! こんな器に盛られたら、ジャムなしの麦粥だって王侯貴族の食事に早変わりだな。でも僕はオートミールは嫌いだ。これはデザート用にしよう」
「かしこまりました」
 従者は首肯して答え、続けて彼に問うた。
「いかがなさいますか、宜しければ本日のお食後にでも、器に合わせたものを……」
「もちろんだ。今まさに頼もうと思っていたところだよ。何がいいかなあ」
 それは愉しくも難しい問題だった。せっかくの逸品なのだから、それにふさわしいデザートを選んでやりたいものだが――あまり見た目に派手すぎるものは、柄とかち合って引き立たないように思われる。かといって、素朴すぎる外観であっても器に負けてしまう気がする。単に食べたい菓子というだけなら山と思いつくのだが、さて――
「……なあ、ウィギンズ」
「なんでございましょう」
「日本の菓子を作れ、というのは、いくらお前にとっても無茶な注文だよなあ」
 器を卓に置き、やや躊躇がちに零す主人に、従者は神妙な顔で頷き、
「ご期待に沿いかねますことはまことに申し訳がございません。しかしながら、わたくしは本職の料理人にあらず、前時代的な英国料理のほか、フランス料理を少々会得しているばかりでございます」
 淡白な調子でそう述べた。本職でもないのにそれだけできれば十二分だろう――彼は内心で呟いた。舌を巻くとはこのことだった。
 と、そこで従者がはっとしたように口を開き、しかし声は出さぬままで彼の顔を見た。何ぞ提案でもあるのかと、彼は首を傾げて促した。
「旦那様、……今しがたまで失念しておりましたが、少々ばかり心当たりがございます」
「本当か!?」
「はい。昨年の夏、あなた様がマンハッタンの気候に親しみかねておいでだったことを鑑み、本年は少しでも快適にお過ごしになれるよう、冷たい菓子や飲料の本に取り組んでおりました。その中に、興味を唆られるレシピが」
「そいつはいい!」
 ソファから身を乗り出して聞いていた彼は、そこで指をぱちんと鳴らした。
「是非やってくれ。全く、そんなことまで考えてくれてたなんてなあ……本当にお前がうちの食事を取り仕切ってくれてよかった」
「ご満足いただけるよう努めております。旦那様の生活に一つのご不快もないよう尽力することこそ、わたくしの職分でございます」
 方正謹厳、と書いてあるかのような顔で従者は答えた。間違っても、主人につられて軽々しい身振り手振りなど付け加えるまいという締まった態度だった。
「そこまで徹底してくれなくとも構わないんだがな。少なくとも、この世に親戚というものが存在する限り、一つのご不快もない生活なんてのは不可能だ。――ああ、そうだ、付き合いってやつ、だ!」
 他方、主人である彼は大仰な溜息と共に背もたれへ身を投げ出し、やにわ脳裏に蘇る親戚たちの顔――とりわけ時期折々の手紙と贈り物についてうんざりするほど積極的な伯母――をなんとかして振り払おうとした。幸い、そこまで大きな苦労は必要なかった。ただ眼前にある器を眺め、そこに盛り付けられるだろう菓子を想像するだけで充分だ。
「まあ、とにかくだ、今日のディナーには大いに期待することにしよう。もしもぼくが気に入ったら、今度ティミーにも食べさせてやろう。それでいいな?」
 従者はかしこまって頭を垂れた。 「仰せのままに」

  * * *

 常日頃から彼は、夕食が午後八時というのは遅すぎると思っていた――これでも大分と譲歩したほうなのだ。初めて従者が彼の元にやってきた時は、九時になるまでハムの一枚も出てこなかったのである。いくら五時のお茶があるとはいえ、食べ盛りの男には辛すぎる。洗練された家庭の夕食時は可能な限り遅くなければならない、という従者の考えは曲がらず、結局は一時間早めることで手打ちとなったのだ。
 単に腹が減るというだけではない。例えば今日のように、ディナーの最後で見たこともないデザートが待ち構えているとなったら、八時まで心穏やかに過ごすなど、彼にはどだい無理な話なのだ。書斎で物語の世界に没頭しようにも、また居間で蓄音機からのジャズやオペラに耳を傾けようにも、心は既に台所の前に立っていて、廊下いっぱいに漂う香りを嗅ぎ取り、胸いっぱいに吸い込み、調理に勤しむ使用人たちの姿を覗こうとしている――いっそ本当に下りていこうかと思う。けれども階段に足をかけたが最後、あの鋭敏極まる感覚を持つ従者はすぐさま作業の手を止め、用向きを伺うために出てきてしまう。そして、主人はむやみに階下を訪れ、家政の場に立ち入るべきではないと、お決まりの諫言をくれるに決まっているのだ。
 かくして彼は、全く落ち着きのない午後を過ごし、従者が呼びにくるのを辛抱たまらぬ心地で待った。幸い、従者は刻限を守ることにかけても一流だった。

 ぴりっと辛味を効かせた牡蠣から始まり、世にも豊かな甘みと深いこくを持つ子牛のすね肉のスープ、非の打ち所のない焼き加減のチキンソテー――「ア・ラ・リヨネーズ」――に至るころには、彼の自制心もいよいよ限界に達しつつあった。もうこの肉はいい、早くデザートを持ってきてくれと何度叫びたくなったか!(とはいえ、飴色に炒められた玉ねぎのソースと、胸肉の心地よい柔らかさを味わってしまった身として、皿を空にしないなど彼には不可能だったが)。
 試練の時は長かった。けれども、ついに――悠揚迫らぬ足取りで戻ってきた従者が、盆にあの美しい器を乗せているのを見た瞬間、彼はほとんど無意識に立ち上がりかけた。その元まで歩いていって、勲章か何か授かるように、深々と頭を下げたい気分だった。
「まことに長らくお待たせをいたしまして」
「待ったさ! いや、誤解しないでくれ、待たされて不愉快だったわけじゃあないぞ。全てこの世の待ち時間がこれぐらい楽しけりゃあどんなにか。ともかく、これが……」
 眼前に置かれた器の中身に、彼はじっくりと目を注いだ。淡い橙色の氷菓だった――なんともおあつらえ向きに、大菊を象った型で作られたらしい。感じるのは清涼な柑橘の匂い。周囲にはやはり柑橘の、砂糖煮かワイン煮と思しきものが飾られている。
「ソルベ、それともアイスクリームかな。ウィギンズ、これは」
 好奇と期待の籠もった視線を注がれ、従者はうやうやしく答えた。 
「『フローズン・オレンジ・ア・ラ・ニッポン』でございます」
「……フローズン、ええと、何?」
「フローズン・オレンジ・ア・ラ・ニッポンでございます」
 眉一つ動かさずに復唱する従者の口ぶりには確固たるものがあった。それで彼も納得することに決め、大ぶりのスプーンで謎めいた名の菓子を削り取った。器の底に流し掛けられた、白くとろりとしたソースも少し。
 口に含んでみると、なんとも儚い一瞬――苦味や青さのない、ただ鮮明な甘酢っぱさが、弾けるや否やあっという間に消えていった。ワインのせいで多少なりとも熱くなっていた口内に、清々しい冷たさはなんとも心地よかった。クリームの味もしたが、決して柑橘を圧倒することなく、瑞々しい果実の支えとして見事に役を果たしていた。白いソースには砂糖ともまた違う、ミルクと穀物らしき仄かな甘さがあった。
「これは……なるほど、オレンジだ。いや、本当にオレンジか? 添えてあるこれだって、どうも小さいように思うんだが」
 スプーンの先で飾り付けの果肉を指し、彼は疑問を口にした。そして考えた。
「待てよ、日本なんだから……あれだ、マンダリンだな? オレンジよりもっと小ぶりで、皮が薄くて、味が濃いんだ」
 どうだ、と言わんばかりに彼は見上げた。従者は軽く目を細め、頷きこそしたが、手放しで褒めてくれる様子はなさそうだった。
「当たらずとも遠からじ、と申し上げるのが適切でございましょうか。確かにマンダリンとは近縁の植物で――名はサツマと申します」
「サツマ?」
 耳慣れない響きに、ダークブルーの目が瞬く。
「マンダリンはインド由来の果実ですが、サツマは日本の生まれでございます。日本の南部にある州の名を取っているのだとか。合衆国との友誼の証として、皇帝から栽培品種の苗木がフロリダやカリフォルニアに贈られたと聞いております」
「へええ! じゃ、由緒正しい系統なんだな。日本の、サツマ・オレンジか!」
「さようでございます。なんでもフロリダには、この果樹伝来の記念として、サツマと改名した都市もあるとのことで」
 そこまでするか、と彼は言いかけたが、しかしなるほど、この果実には相応の価値があると思えた。初めて口にした人々の感激も理解できる気がした。
 もちろん彼は、西海岸で収穫されるあの大ぶりな、太陽を縮めてそのままもぎ取ったようなオレンジの、突き抜けるような酸味と皮のもつほろ苦さを愛している。けれども、これはこれで全く違った愛着を抱くに充分である――果実にソースを絡めて噛み締めると、気持ちのよいジュースが溢れ出した。
「ということは、だ。もしかするとこっちのソースにも仕掛けがあるな。というより、ぼくはもう見抜いたぞ」
「お聞かせ願えれば幸甚でございます」
「米だよ、米! これに関してはまあ、アメリカ人だって食べるからな。ミルク粥の味に似てると思ったんだ」
 こたびの推測は的中だった。といって、従者の顔つきはやはり大きく変わらず、ただ口元に浮かぶ微笑がほんの少しばかり濃くなったかどうか――ともあれ、その微細なる変化を見て取った主人もまた、いよいよ目を輝かせた。
「まことに仰せの通りでございます、旦那様。ミルク粥に少々のクローブを効かせ、滑らかに濾しました。氷菓そのものにも同様のピュレを加えております」
「贅沢なもんだなあ! こんな素敵なデザートを、日本の国では食べてるのか」
 そこで一瞬の静寂があった。 「いいえ、食べてはおりませんでしょう」

 ちょうどその時、彼は残り少なになりつつある氷菓を、惜しむように口に入れたところだった。スプーンを咥えたまま、む、と喉の奥で声を出す。
「お前、その……そこはだな、ぼくがせっかく異国情緒に浸っているところ、冷や水を浴びせるような真似は控えておくべきなんじゃあないか」
「はい、旦那様。差し出がましい物言いをお許しくださいませ。ですが、正確なところをお伝えしないことには、後々にあなた様の損失となりましょうから」
 従者は沈着冷静に述べ、片手で彼の手元にある器を示した。
「そもそも、発端のボウルでございますが――『トラディショナル・イマリ』は、また同じダービー窯の『オールド・イマリ』も、日本のイマリ様式を模倣してこそいますが、あくまでも英国の骨灰磁器ボーンチャイナであり、東洋の白磁器ポーセリンそのものではございません」
「それはまあ、言われるまでもないが」
「むろん、本物のイマリほどの価値がない、とは申しません。旦那様の感性から見てお気に召したのであれば、それは他のあらゆる磁器や漆器をも上回る価値を持ちましょう。……料理も同様でございます」
「料理も?」
 おうむ返しに尋ねる彼に、従者はまたも神妙な顔で頷く。
「本日のディナーを振り返っていただきとうございます、旦那様。前菜にお出ししたのは『オイスター・ア・ラ・リュス』、牡蠣のロシア風と呼ばれる品でございました。が、ロシアの伝統的な料理とは何の関係もございません。汁物は『ウィンザー・スープ』で、言わずもがなウィンザー家にちなんで名付けられたものですが、両陛下をはじめとするご一家は、決してあのような茶色いスープなど召し上がりません」
 彼が目をぱちくりしている間にも、コースについての説明は滔々と続いていた。脳裏に次々と蘇る料理の数々――そこに込められていた趣向を、ようやく彼は理解しつつあった。
「いや、ちょっと待てよ、でも『プーレ・ア・ラ・リヨネーズ』は――あれは本物のフランス料理、いや、リヨン料理だろう?」
「はい、旦那様。ですからわたくしも、フランスで呼ばれる通りにそう申し上げました」
「でも、『フローズン・オレンジ・ア・ラ・ニッポン』は……」
 そこで彼は押し黙り、今一度この菓子の名を要素に分割し、それぞれを吟味した。
「……そうだな、言われてみりゃあおかしいんだ。『フローズン・オレンジ』は英語で、『ア・ラ』がフランス語で、『ニッポン』は日本語なんだからな。それこそ、『トラディショナル・イマリ』や『オイスター・ア・ラ・リュス』みたいなもんだ」
「さようでございます。恐らくは今世紀に入って、英国ないし米国で完成されたレシピかと推察します」
「だからといって、本物ほどの価値がないわけじゃあない――」
 改めて、ほとんど空になりつつある器をしげしげと眺める。再び現れた底の美しい模様、夢のように華やかなこの彩りは、彼の心を掴んで離すことはなかった。従者の作る菓子と同じで。
「そういう意味でも、お前はまさに『この器に合わせた菓子』を選んで作ってみせたわけだな。ああ、実に納得だ」
「寛大なご理解をいただき恐縮でございます」
「うん。しかし、そうなるとにわかに疑いが増してきたぞ。実際ぼくはもう少し猜疑心を持つべきなのかもしれないが――『サツマ』の話だって、今は事実として語られているだけで、二十年もしたらただの伝説だってことになりやしないかな。サンドイッチの起源みたいに」
「その可能性は皆無であるとは申し上げられませんが」
「時世時節ってものはあるからなあ。……そういえば、こうして一人分に取り分けた料理を順番に出す給仕法のことは、昔から『ロシア式サービス』というわけだが……」
 彼は言葉を切り、おもむろに従者の目を見た。言わんとしていることが伝わるだろうか、と窺うように。――果たして、従者は空になった器を銀盆の上に引き取りながら、何もかも承知であるとばかりに頷いた。
「旦那様の仰せの通りでございます。料理の冷めるのが極めて早い、かの国で発達した方式ではございますが、果たして今時分のロシアにおいては、どの程度まで生き延びておりますことやら……」

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