何もかもが重たかった。身体も、服も、空気までも重たかった。


午熱と冷や水 -Put Them on Ice-

 それでヘンリー・ロスコーは、朝方まで思い描いていた健康的な予定――晴天の下へ繰り出し、目抜き通りを颯爽と散歩し、公園で緑と花々を愛で、テニスかバドミントンあたりで汗を流し、いつものクラブで友人たちと親しく交わる――を早々に諦め、初夏の一日を水平になって過ごすことに決めた。湿気と熱気をたっぷり含んだ空気の重さは変わらないにしろ、文明人らしく直立二足歩行するよりは遥かに楽であるはずだった。
 事実、午前中はそれでうまくいったのだ。従者の持ってきた新聞や雑誌を読み、より分厚い書物の世界にも没頭し、活動的でこそないが有意義な時間を過ごすことができた。しかし正午を過ぎる頃には、この安易な抵抗にも限界が生じ始め、彼の頭脳は持ち前の呑気さを忘れたかのように、前向きに稼働することを止めてしまった。
 全体、どうしてじっと横になっているだけでも身体は疲れるのだろう? 動き回っているよりましなのかもしれないが、全身の感覚が次第に鈍り、投げ出した手足が寝椅子に沈み込んでいくような、物憂い気配がいつまでも離れない。かといって、気晴らしに部屋を出ていくつもりにもなれず、結局は寝椅子の敷布に顔を擦り寄せているばかりだ。布はひんやりとした手触りで、こうしているとほんの少しだけ気分が楽になる――とはいっても、溺れる者に投げつける藁程度のものでしかなかった。
 そうしているうち、周囲の空気はますます重たくなり、意識そのものがぬるんだ水や、濁った池に溜まる泥濘のごとくに淀みだし、自覚しているのも堪え難くなってくる――いつしか彼は抵抗をやめ、その身を沈殿するに任せていた。じっとり熱い午後の温度に溶け込んでから、果たしてどれほど経っただろうか、ふいに彼の時間は浮上を見せた。

 浮上といっても、それは別段喜ばしい浮上ではなかった。喩えるなら、溺死体だっていずれは浮かび上がってくるものだ。そうだろう?
「……うぇ」
 互いに張り付いていた睫毛が解れ、再び現世がまなこに映し出されたとき、彼の口をついた最初の一言はそれだった。声を発するだけ死人よりはまだまし、という塩梅だ。否、生きているからこそ悪いのだ。頭はずきずきするし、顔を上げたまま静止することもできないし、体中にぼんやりとした熱が滞っている。頭の下敷きになっていた片腕は、痺れてまるで感覚がない。そして周囲の何もかもはまだ全体的に重たいままだ。むしろ寝入る前より重さが増したような気がする――
 しょぼしょぼする目を動かして、ようやく彼は気がついた。胸から下を覆うように、薄い亜麻布のブランケットが被せられている。こんなもの必要ないのに、と回らぬ頭で思った。この暑さで身体など冷やすものか。
 さらりとした布を剥ぎ取りながら、彼は軋む肉体をなんとか動かそうとした。片肘をついて身を起こしかけたものの、力不足だった。仕方なしに頭だけを持ち上げ、やっと前方へ視線を向ける。居間の扉が開け放たれたままになっている。廊下は薄闇が蟠り、――その闇がふっと和らいだ。少し先で灯りがついたらしい。数秒の間を置いて、また明るく、さらに明るく……

「あ」
 彼の口から漏れた声も、先程よりはいくらか和らいでいた。戸口に覗いた大きな背中、黒い背広を纏ったその影が、ごく自然な動きで居間のほうを顧みた。目が合った。
「旦那様」
 低く、それでいてよく通る声が応えた。 「お目覚めでございますか」
「……うん」
 気の利いた受け答えをするには、彼の頭は未だ鈍ったままだった。 「今起きた」
 従者は頷き、足音という概念と切り離された歩みで、彼の下へと真っ直ぐやってきた。彼はできる限りの主人らしさをもって対応しようとした――渾身の力で上半身を起こし、乱れた髪をなんとか整えたつもりになった。息を吐き出してみると苦かった。
 視点が高くなったことにより、彼は周囲の様子をようやく把握し始めた。といっても、そこは変わらず居間である。日はもう大分と傾いたようで、広々とした空間は仄明るい。西側の窓にはカーテンが引かれている――彼は一瞬だけ訝しがり、すぐさま納得した。従者がそうしたのだ。さもなければ強烈な西日を受けて、この部屋はもっと暑くなっていたはずである。ともすれば、この寝椅子に直接光が当たっていたかもしれない。
「一声お掛けしようかとも考えましたが、今時分は寝室のほうが暑うございますから」
 模糊たる意識に染み渡るように、従者の声は落ち着き払って涼やかだった。
「そう、……そうだな。ここで寝たのは間違いじゃあない。なあ、ウィギンズ」
「お飲み物が入用でございますね?」
 彼は何も考えず頷き、ややあってから訊いた。 「なんで?」
「日来のご金声が、いささか本調子でいらっしゃらないかと」
 物柔らかな答えに、彼は納得したようにまた首肯したが、頭は依然として回らぬままだった。「じつらいのごきんせい」という音の響きが何を意味しているのかも、あまりよく解らなかった。
「ああ、うん。……お前の言う通りだ、ウィギンズ。喉がからからだ。持ってきてくれ」
 主体性のない主人の声に、従者は背筋を伸ばして一礼した。 「は、直ちに」

 あの従者が「直ちに」と言うのだから、当然そこに一切の誇張はなかった。飲み物は即座に運ばれてきた。その間に彼ができたことといえば、傍の小卓に水差しとグラスが置かれているのを確認したことぐらいだ。飲み物などはとうに用意されていたのだ――言うまでもなく従者の手によって。
 彼は感嘆の溜息をつきながら、再び戸口に現れた従者を見遣った。自分を主人と仰ぐこの壮年の男は、「そこに水がありますから後はご自分でどうぞ」等とは、間違っても言い出したりしないのだ。
「素早いな、お前は――普通の人間より五分先んじて生きてるって感じがする」
「滅相もないことでございます、旦那様」
 円筒形のグラスを銀の盆に乗せて差し出しながら、従者はしかつめらしい顔で言った。そして、推し量るような間を少しばかり置いてから、眉一つ動かさずにこう付け加えた。
「三十分は先んじております」
 重たい空気を和らげるための冗談だったのか、――否、これは紛れもない本心だろう、と彼は思った。職業意識というやつだ。もちろん、彼の気分が和らいだのもまた事実だった。彼は小さく笑い、手を伸ばしてグラスを受け取ると、サイドテーブルの電燈を点けて、中身を光にかざして見た。硝子に施されたレース模様の刻みが煌めいた。
 液体に満たされた器の中で、まず何より目を引いたのは、輪切りにされたレモンだ。自然と彼の顔が綻ぶ。それにミントの葉も見えた。夏の午後にはこれ以上ない演出だ。ところが、予期していたものは一つだけ欠けていた。
「良いね、レモネードか」 彼は言い、次いで疑問を口にした。 「でも、氷は?」
 投げかけた視線の先で、盆を引っ込めた従者は直立不動の姿勢を取り、まず黙った。一拍の間が置かれ、色の薄い唇がおもむろに開く。
「順にお答えいたします。――まず、レモネードではございません。ニワトコの花から作ったコーディアルでございます」
「コーディアル? ええと……何だ、ハーブとかをシロップ漬けにしたやつだっけ?」
「はい、旦那様。レモンも用いてはおりますが、花の風味を殺さぬ程度に過ぎません」
 淡々として語る従者の言にも、彼はまだ曖昧に頭を傾けたままだった。コーディアルのことはともかく、まずニワトコの花を飲み物にするという文化に馴染みがないのだ。きっと英国ではありふれた食材なのだろう――イングランドのどこかから来た男の顔を、彼はつくづくと見上げた。
「そして氷でございますが、お入れしませんでした。急に冷たすぎるものを飲んでは、お体に障りますので」
「……そうか」
 腹を下してもいいから、グラスに指が張り付くぐらい冷えたものが飲みたかったな、――彼はそんな台詞をそっと呑み込んだ。暴飲暴食によってはなはだ腹を壊し、苦しみのうちに終わった今年の復活祭期を思い出したのである。
 彼は大人しく従者の選択を受け入れ、椅子の上に身を落ち着け直すと、グラスの口に顔を近づけてみた。花のシロップ、という言葉から想像するような、例えばバラの花のリキュールやスミレの砂糖漬けのような香りはしなかった。もっと涼しげで瑞々しい、若く甘い白ワインにも似た香気が立って、彼の鼻をくすぐった。引き立て役のミントとレモンも相まって、懈怠を解きほぐすような清々しさがある。
 誘われるようにして一口含んでみると、さて、彼が思っていたほどぬるくはなかった。氷の冷たさとは比べるべくもないが、いたずらに額をじんと痺れさせたりはせず、ただ喉をするりと流れ落ちてゆく、ひんやりとした温度だ。思わず目を瞬き、彼はグラスをまじまじと見た。鼻へと抜けてゆく淡い香りは、刻み模様を透かして覗く、美しい彩りそのままだ。
「うん、……そうだな、一瞬で気分が変わるってわけじゃないけど、優しくていいな」
「寛大なご理解をいただき幸甚でございます」
 頭を垂れる従者を前に、彼はもう一口、二口と飲んだ。薄ぼんやりとした暑さから、急に身を切る冷たさの世界へ引き出されるより、これぐらい穏やかなほうが良いのかもしれない――器の中身が少しずつ減るにつれ、身体を押さえつけていた鬱陶しさもまた、次第に減ってゆく気がした。
「しかし、ニワトコの花だったか? 一体それはどこで、……花屋で買うみたいなものじゃあないんだろう」
「こればかりは野に出るよりございません、旦那様。先だって半休をいただきました折、ナサニエルと摘んでまいりました」
「というと、水曜日の――」 彼は口に出し、続いて渋い顔をした。
「つまり、お前は休みをもらって仕事をしてたってことか? そういうのはちょっと、ぼくとしては受け入れがたいんだが」
「仕事ではございません。彼が行きたいと申しましたので」
「ナサニエルが? 花を摘みに……」
 従者の遠い親戚にあたり、現在は使用人見習いとして住み込んでいる少年の顔を思い浮かべながら、彼は目を丸くした。子供らしいといえば子供らしい望みかもしれないが、マンハッタンにいれば他にも娯楽はたくさんあるだろうに、と思いかけた。
 だが彼は余計なことは言わず、続きを促すように従者を見守った。緩やかな間が空く。
「――むろん、生まれ育った地方によって多少は左右されましょうが……わたくしどもイングランド人にとって、ニワトコの花は夏の暮らしに息づいた存在なのでございます」
 その視線を受けて、従者は少しばかり温度の増した声で話を続けた。磨かれた鉱石のごとく硬い眼差しが、ずっと和らいだように見えた。
「それはつまり、ぼくらにとってのレモネードやバーベキューみたいに?」
「さようでございます。『生け垣のニワトコが咲いて初めて、本当の夏はやってくる』という言い回しもございましたか」
 あるかなしかの笑みを浮かべた口元から、ごく静かな調子で言葉が連ねられていく。彼はそこに表れたものを郷愁と取ったが、正しいのかどうかは解らなかった。
「そいつは素敵な言葉だ。マンハッタンなんかに住んでても、『季節らしさ』は感じるけれど、詩的さにかけては正直遅れを取る気がするよ」
 彼は肩をすくめ、目の前の男が寸分違わぬ黒ずくめのまま、夏向きのシャツを纏った少年と共に、緑の茂みから花を摘むさまを思い描いた。といって、彼はニワトコの花がどのような姿かたちをしているのかまでは知らず、想像はずいぶん不正確だったが。

「とにかく、息抜きができたのなら良しとするか。それも、こんなに粋な手土産つきで戻ってくるなんて。気に入ったよ、ウィギンズ」
「お褒めにあずかり恐悦に存じます」
「ナサニエルにも伝えておいてくれ。おかげで元気が出たって。――ところで、さっきお前は確か、急に冷たいものを飲むと体に毒だって言ったよな」
「確かに申しました」
「じゃあ、程よく胃の具合が落ち着いたところで、改めて飲むんだったら……」
 中身も残り少なになったグラスを手に、彼は軽く乗り出しながら従者の顔を窺い見た。微かな笑みはまだ消えてはいなかった。
「如何様にもお好きなものを、旦那様」
「うん」 ダークブルーの目が輝きを増す。 「そうだな、例えば何ができ――」
 暗色の瞳を覗き込んだまま、彼はふっと声を途切れさせた。何ができる、だって? 何でもできるに決まっているではないか。この従者が「如何様にも」と言ったのなら、そこに誇張などあるはずがない。どんな難題を申し付けられようとも、問題なく叶えて差し上げますという宣言だ。椅子の背に再び体を預け、彼は頭を振ってから従者の顔を仰いだ。
「じゃあ、もう少し口の大きいグラスを使ってくれ。そこに同じコーディアルと、ジンも少し。――ぼくが言うのは本物のドライ・ジンのことだからな」
「心得ております」
「それに水じゃあなくてソーダを。レモンは入れて、ミントの代わりに……そうだな、タイムとローズマリーが良さそうだ。もちろん氷をたっぷり……」
 その時、彼の頭に閃くものがあった。はっとして言葉を切り、彼はその煌めきを思考からすくい上げた。
「いや、待て、そうじゃあない。氷は要るんだが、あんまり薄まってもほしくないから入れすぎないでくれ。それで――」
 もはや彼の頭には従者への信頼しかなかった。確実に応えてくれるだろう大切な相手に、素晴らしい秘密をそっと明かすような気分だった。
「一番上に、アイスクリーム」
 明らかな期待と、抑え込もうとして抑え切れていない興奮と、少しの後ろめたさとが綯い交ぜになった囁きを、従者はあくまで平然とした顔のまま聞いていた。この程度のわがままなら可愛いものだとでもいうのか、ややあって簡潔な返事があった。
「お望みのままに」

 運ばれてきたものは、果たして彼が望んでいた通りのものだった。
 ソーダ・ファウンテンでアイスクリーム・サンデーを食べるときのような、背の高い脚付きのグラスには、心和むようなグラデーションが現れていた。底には目にも優しいレモン色のコーディアル。立ち上ってゆく炭酸水の小さな泡を目で追えば、液体の色は段々と淡く、透き通ってゆき、ハーブの小枝が氷の合間にゆらゆらと見える。
 グラスの縁に近付くにつれ、そこには白く靄が掛かり始める――クリームの作り出す靄だ。それはやがて分厚い雲のようになり、天辺には彼が求めてやまなかった、美しいひと掬いのアイスクリームが……
 彼はふと思い立ち、傍らの電燈を消すと共にグラスを掴んだ。従者が何事かとばかり微かに眉を寄せたが、彼はそのまま席を立ち、閉ざされていたカーテンを半分ほど開けた。そして、差し込む西日に向かって手にした器を掲げた。
「見ろ、ウィギンズ!」
 日差しは器の中身をいっそう引き立て、また器そのものの優美な造形も、より鮮明に浮かび上がらせた。彼はその内に、夏の陽光を浴びて咲くニワトコの花を見た気がした。アイスクリームの表面で、氷の粒がいくつも煌めいた。
「きれいなもんだなあ――本当にきれいだ、英国の夏のかけらってところだな!」
「わたくしには過ぎたる賛辞でございます。あちらで過ごす『本当の夏』を映すには、いまだ力及ばぬ身でございますゆえ」
 従者は頭を垂れて答え、次いで尋ねた。 「そちらへ椅子をお持ちしますか?」
「そうだな、……いや、さすがにここじゃあ氷がすぐに溶けそうだから、あっちの窓際に置いてもらおうかな」
 南側にある窓を片手で示しながら、彼は答えた。しばし後には、その窓辺にスツールとマホガニー材の小卓が設えられ、柄の長いスプーンやナプキンもすべて揃えられた。

 窓縁に未だ残る熱に触れ、炎天下の外界に思いを馳せながら、彼は白いクリームの峰から最初の一口を掬い取った。しゃりっとした感触、舌を包み込む滑らかな冷たさが心地よい。だが何より彼を驚かせたのは味わいだった。
「これ、何の味だ? バニラだと思ったのに――ブドウだよな? でもそれだけじゃあない気がする、何か……」
 白ぶどうの一粒を皮ごと噛み締めたような、ふくよかな甘みと微かな渋みはすこぶる見事だった。加えて、果実やミルクによるものとは全く違う、膨らみのある香ばしさが感じられるのだ。ペーストにしたナッツだろうか? それともキャラメルか?
 彼は好奇心を顔いっぱいに表しながら、従者の顔を見上げた。想像に委ねるような間が置かれた。
「カカオバターでございます、旦那様」
「……ええと、何だって? チョコレート・バターのことか?」
「いいえ、旦那様。カカオ豆に含まれる脂肪のことでございます。チョコレートを製造するにあたって、もともとの豆から分離され、牛乳から作られるバターのような淡黄色の塊となります――微かにカカオそのものの風合いを残した、甘い香りのバターに」
 聞いたこともない物質についての説明が、彼の好奇心と想像力をさらに掻き立てた。つまり、それだけ豊かな脂肪を含んでいるからこそ、チョコレートという菓子は滑らかで、香り高く、口の中で見事にとろけ、人間の身体に贅肉を蓄える助けとなるのだろう。
「でも、例えばココアみたいな香りとはまた違うよな。苦さはないし、他の素材を押しのけたりもしない、影の名脇役って感じだ」
「さようでございます。主役はあくまでもニワトコの花でございますから、単にココアやチョコレートを用いては、あっさりと存在を殺してしまいましょう。わたくしが必要としたのは、淡い風味を支えるための土台でございます」
「解るぞ、ウィギンズ、お前の意図がぼくにも理解できた――頭と舌とでな」
 大いなる満足と共に彼は頷き、次の一口へと進む前にふと手を止めた。
「で、一体どこでそんな代物を手に入れたんだ?」
「むろん、チョコレートの作られる場所で、でございます。わたくしが仕入れに用いる菓子店に掛け合い、少量をお譲りいただきました」
 彼にできたのは、ははあと感服の声を上げることだけだった。諸般の交渉事に著しく強そうな、沈着冷静の権化のごとき従者の顔が、いつにも増して頼もしく見えた。
 アイスクリームを舐め、ソーダを啜り、と交互に繰り返しているうちに、彼の口中で全ての味は一体となった。どれ一つとしていがみ合うことなく、優しい花の香りを引き立たせ、彼の神経をゆったりと宥めてくれた。夏の夕暮れに味わうものとして、この上なく適格だった。幸福に目を細め、彼は窓の外を眺め見た。そして気付いた。
「……今は何時だ、ウィギンズ?」
 さっと懐中時計を取り出して、従者は答えた。 「午後六時十一分でございます」
「つまり――ぼくは寝過ごしてティーを逃したわけだな?」
「さように表現することは不可能ということもございません」
 彼は肩を落とし、クリームと混じり合ったソーダをごくりと一口飲み下した。冷たい流れが腹の内をくすぐりながら落ちていった。
「すまん、ウィギンズ」 彼は簡潔に述べた。 「準備してただろうに――」
「お気になさるようなことは起きておりません。何一つ無駄にもいたしません、旦那様」
 従者はやはり顔色一つ変えず、語勢を強めることもなければ、声の温度を上下させることもなかった。あたかも全て予見していたかのように。
「むしろ、ティーをお取りやめになったことが却って幸いすることもございましょう。本日のディナーは、平時よりもいくらか量感がございますので」
「何だって?」
 惹かれないわけがなかった。彼はグラスを置いて顔を上げ、言葉の続きを求めた。
「かように暑い日を乗り切るためには、暑い国の食べ物を選ぶのが理にかなうかと推察いたしました。合衆国にお住まいの方にお出しした経験はございませんが、ここは一つカレーなどお作りしようかと……」
「カレー!?」
 彼の声はいきおい高く、大きくなり、双眸はいちどきに輝きを増した。両手を小卓について立ち上がりかける彼を、従者は宥めるような眼差しで見返した。
「凄いじゃあないか、お前、そんなものまで作れたんだな! 本物のインド料理なんて、リッツかアスターあたりまで行かなきゃあ食べられないものだと思ってたぞ」
 カレー粉で味付けしたぐらいの食べ物なら、ニューヨークのどこでも見つかるけれど――彼は言いつつ、期待にいよいよ胸を高鳴らせた。
「ようし、それを聞いてずいぶん元気が出た。暑さなんて知るもんか。いくらだって食べてやる。今からティーにしてくれたって構わないぐらいだよ――そうでなくても、こいつは実にいい食前酒だ」
 再びグラスを手に取り、彼は従者の眼前にさっと掲げて見せた。柄の長いスプーンが、縁に当たってちりんと涼し気な音を立てた。 「お気に召したようで、心より安堵しております。いかなる日であれ、旦那様の食欲を健全に保つことが果たすべき職責であると心得ておりますので」
「健全も健全だ! ああ、言った端からもう腹が減ってきたじゃあないか。まだ二時間あるわけだよな、ディナーまでは……」
 ちょっとばかり心もとないな――腹持ちなど考えられていない冷菓を前に、彼は苦笑する。従者はやはり温和な面持ちのまま、ゆっくりと頷いた。
「煮込む時間こそ、カレーの肝心要でございます。暫しのご辛抱をお願い申し上げます、旦那様。――ですが、せっかく食前酒を召し上がるのであれば」
 微笑があった。 「チェダー・チーズのビスケットもいかがでございましょう?」

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