「あなた様にお届け物でございます、旦那様」


煮え切らない攻防 -Cook His Goose-

 壮年の従者がそう言って、しずしずと小包を運び入れてからというもの、ヘンリー・ロスコーはすっかり上機嫌であった。無論、従者は目を輝かせる主人を間近に見ても、何をお買い上げですかなどとは決して尋ねなかったし、主人のほうでも予測していた。仔細をあれこれ訊いてこない相手だからこそ、仕掛けることができるのだ。
 彼は居間の肘椅子にゆったりと腰掛け、傍の小卓に置かれた品をとっくりと眺めた。従者が立ち去ってから、いそいそ開けた小包の中身だ。それは曇り一つない白銀色の、蓋と脚がついた深皿だった――蓋には細かな刻み模様が施され、取っ手も宝石箱のそれではないかと思えるほど凝っている。四本の脚部も極めて優美な曲線を描く、いわゆる「フレンチ・カブリオル」だ。まったく、なんという芸術品だろう!
 彼はうっとりと溜息をつき、呟いた。 「これが調理器具だものなあ!」

 いかにも、これは調理器具である。深皿の下には、四本脚の間にぴったり嵌るようにして、もう一つ円形のパーツが付いている。こうして見れば、洒落たサイドテーブルのようでもある。だが実のところ、これは電熱器なのだ。側面に空けられた、プラグ用の穴を見れば一目瞭然だ。
 五番街にある百貨店でこの品を見つけてから、彼が小切手を振り出すまでにさしたる時間はかからなかった。生憎と在庫がなく、注文をかけて届いたのが今日なのである。迅速に品を調達してくれた顧客係に内心で感謝しつつ、彼はひとしきり待望の品を愛で、そして今は全く別の存在を待ち望んでいた。従者だ。
 もう何度、いつもは決して手を触れない呼び出し用のベル――最後に使用したのは、急な腹痛でにっちもさっちも行かなくなった聖金曜日の早朝のことだ――を、高らかに鳴らしてやろうと思ったことか。けれども彼はぐっと堪えて、ただ時を待とうとした。どのみち戻ってくるはずなのだ。ティーの準備が整ったことを知らせに、あるいは何かの報せを伝えるために。別段焦る必要もない。……それなのに、気付けば手はウエストコートのポケットから懐中時計を取り出して、ほんの数目盛りしか進んでいない分針を確かめているし、足は用事もないのに戸口まで行きかけては、また戻って小卓の周りをぐるりと巡ったりしている。ここ数ヶ月で発揮したこともないような注意力をもって、廊下の物音に耳を澄ませてみたりもした。そうしたところで、あの従者が明確な足音を立てることなどあるはずもないのだが。

 辛抱の時間は実に一時間と三十七分続いた。彼が正確な時間を確認し終えた正にその瞬間、黒い三つ揃えを纏った長身が、戸口に姿を現したのである。
「ウィギンズ!」
 彼は椅子から跳ね起き、声を弾ませて傍らの卓を示した。 「見てみろ、ほら!」
 従者は何か言いかけていたようだったが、すぐに口を引き結んで部屋に入ってきた。数歩離れた位置で立ち止まり、卓上の器を静かにうち眺める――明確な反応は見せない。それは彼にも解っている。この従者は主人と違い、思ったことや感じたことを何もかも即座に表出させたりはしないのだ。
 それだから彼もまた黙って、視線に熱を込めながら従者をじっと見つめた。やがて、色の薄い唇はゆっくりと開かれたが、彼の期待が報われたとは言い難かった。なにしろ発された言葉ときたら、
卓上加熱器チェイフィング・ディッシュでございますね」
 という、たったの一文だけだったからだ。彼がそこからどんなに間を置いても、続きが聞かれることはなかった。
「そうだ。……うん、そうだ」
 彼はいくらか言葉に迷い、とりあえず事実を肯定した。何か付け加えてくれないかと従者の顔を見遣ったが、どうやら何もないらしかった。
「なあ、……ええと、それだけか?」
 従者のほうはといえば、主人にそう尋ねられても、まさか怪訝な顔などしなかった。ただ沈着冷静な、何もかも承知と言わんばかりのしかつめらしい表情のまま、問いかけを聞き取っては適当な間を置いた。彼にとってはあまりに長い間だった。
「――随分と凝った品でございますね。米国での流通品を一見いたしますに、調理器具は外見より実用性が重視されているものと存じますが、こちらは実に洗練された造形で」
「うん、そうだろう? ぼくも初めてこいつを見たときには、なんて美しいんだろうと感激したものさ。だから買ったわけなんだが」
「まことに仰せの通りでございます。食堂の装いにも問題なく調和するかと」
「うん……」
 彼は暗色の瞳からそっと目を逸らすと、意味もなくクッションの縫い目など数えた。だが目を背けてばかりもいられない。求めていた反応はまだ引き出せてはいないのだ。
 主人がまごついていることには、従者のほうでも気がついているようだった。彼のみならず、数多の主人に仕えてきた熟練の使用人は、別方面からの意見を求められていることを敏感に察知し、こう付け加えてきた。ご丁寧にも謙遜の言葉を含めて。
「ああ、旦那様、――わたくしとしたことが見落としておりました。こちらは電熱式でございますね、固形燃料やガス火式ではなく」
「そう、そうなんだ! ここにコードを繋いで使うんだよ。これなら台所じゃあなく、寝室や応接でも使えるし、燃料の臭いがついたりもしないんだぞ!」
 彼はやっと勢いを取り戻し、再びその顔に視線を注いだ。が、その凪いだ表情から、驚きや感激は感じられなかった――この偶像じみた男の前に、不可思議なことなど何もないかのようだった。
「お前、お前は……本当に、何を見たって驚かないんだなあ!」
 とうとう彼は目論見を諦め、絞り出すようにそれだけ言うと、椅子にどっかりと腰を下ろした。視界の上方で、従者は平穏そのものの顔つきを保っていた。何も口にせず、直立不動の姿勢で。
「なあ、ウィギンズ――」
「はい、旦那様」
 声をかけたはいいものの、文句を言うわけにはいかず、かといって言い訳をするにも間が悪かった。彼は椅子の上で少しばかり身を縮めた。
「旦那様、――驚くことを要求される場面はわたくしにも解ります。今までいくつものお家にお仕えする中で、充分に経験してまいりました。主人の求めに応えることこそ、使用人の務めでございます。ですが……」
 ここまでのやり取りで、彼は既に己の敗北を察していた。完敗だった。拙い仕掛けでこの男を驚愕させようというのが間違いだったのだ。
「そうだ、……ぼくはそんなこと、お前に命令しやしない。驚くようなことが何もないなら、わざと驚いたふりなんかしなくていいんだ」
 彼は頭を振った。 「驚かそうとは思ってたけどな」
「恐れながら申し上げますが、旦那様、確かにマンハッタンの電化の発達については、わたくしも初めて訪れた折には感嘆いたしました。とはいえ英国でも、例を挙げれば、メイフェア地区やピカデリー地区には電化されていないタウンハウスなどございません。また各地方のカントリー・ハウスでも、大抵は自家発電機を一つは備えているものです」
「ああ、解ってる。ぼくだってお前たちを馬鹿にしようと思っていたわけじゃあない。英国も合衆国も、変わらず二十世紀なんだからな。ただ……」
 電気仕掛けの卓上鍋に驚いてくれるだろう、と思っていたことは確かなのだ。それは馬鹿にしていたのと何が違うのか? ――すぐさま答えを出すことはできなかった。
「ウィギンズ、……ぼくは馬鹿な買い物をしたと思うか?」
 先程まで高揚感に膨らんでいた胸が、力なく萎んでゆくのが彼には判った。対して、従者はやはり新品の定規のような姿勢を崩さぬまま、考えるような間を取った。
「もしも旦那様が、わたくしを驚かせるためだけにこの品をお求めになったのであれば、いささか分別を欠いておられたと申し上げるより仕方がないかと存じます」
「……そうだな」
「ですが」 と短く言い、従者はゆっくりと頭を振った。
「今しがたわたくしをお呼びになった折の、あなた様のご様子は――ただの企み以上のものがあるように拝察しましたが」
 言われて彼は、卓上にある美しい道具を一瞥した。調理器具としての流行自体は数年前に過ぎ去ったものの、電化されて世に出続けるぐらいには、依然として便利な代物に違いない。一定の温度を保ちながら、長い時間をかけて食材に火を通すことができる。完成した料理の「食べごろ」の熱さを、いつまでも持続させることができる。それだけではない、例えば人を招いて食事の会を催すとすればどうか。この大皿に料理を入れ、卓上に置いておきさえすれば、あとは客がめいめい好みの量を取り分けることができる。給仕の手間が一つは省けるではないか。
「そうさ、もちろん、ぼくは自分のためだけに買ったんじゃあない。これさえあれば、……お前の仕事が少しでも楽になるんじゃあないかと思って」
 いくらか調子外れな声になりながらも、彼は言い切って従者の顔を見上げた。
「さて、そればかりは――」 返ってきたのは穏やかな響きだった。
「実際に試してみないことには、なんともお答えいたしかねますが、旦那様」

 彼は落ち着いて息をし、向けられた言葉の意味を確かめた。それはそうだろう、道具そのものを理解はしていても、この家に馴染むかどうかまではまだ解らない。そして、従者がこれを使うためには前提がいる。
「ウィギンズ」
 なるべく自然になるよう心がけながら、彼は咳払いを一つした。
「そういえばさっき、つまりお前が入ってきたときだが、何か言いかけてなかったか」
「はい、旦那様。本日のティーをどちらのお部屋にご用意したものか、まだお尋ねしておりませんでしたので」
「そうか、じゃあ居間に頼む。それでだな」
「なんでございましょう」
「夕食は外で取ることも言ってあったよな」
「さよう伺っております」
「……明日の朝食はケジャリーにしてくれ」
「かしこまりました」 首肯が彼に向けられた。 「寝室までお持ちします」

 翌朝、彼は妙にはっきりした気分で起き上がった。昨晩あれだけ遅くまで騒いだのだ、もう少し重々しい目覚めでもおかしくはなかった。寝床で考え事もしていたし――
 思い巡らせながら前髪を払ったその時、視界の端で扉が静かに開いた。黒い三つ揃えを着た人影が踏み込んで、寝台の傍でひたりと足を止めた。
「おはようございます、旦那様」
「おはよう、ウィギンズ」
 彼が応えると、従者はそのまま身を屈め、携えていた銀の盆を差し出してきた。上に載っているのはもちろん温かい紅茶だ。吹き冷ます必要のないちょうどの温度。砂糖やミルクの加減も完璧な一杯が、それ自体何でもないことかのように存在している。
「いい天気みたいだな。昨夜は帰り道あたりで少しぱらついたが」
「先程まで庭に出ておりましたが、見事な上天気でございました」
「こういう日には、目覚ましのお茶も一段とうまいな。いや、別に雨が降ったからってまずくなりやしないけれど」
「さようでございますね」
 従者は慇懃に頷いた。そして、彼が待ち望んでいた言葉を続けた。
「ご朝食は間もなく出来上がります」

 従者の言葉に偽りはなかった。間もなく朝食は運ばれてきた。あのとびきり立派な器で。従者はプラグ付きのコードを壁の電源に繋ぎ、食器を載せた盆を彼の傍らに置くと、うやうやしく一礼して蓋を持ち上げた。
 とたんに立ち上る湯気、そして抗い難い香り――燻した魚の芳しさに、強すぎず心地よいスパイスの匂いが重なり合い、彼の胃袋を一瞬にして目覚めさせる。
 器に盛られているのは、一言で表すならば煮た米である。黄金色に炒めたタマネギに、程よい大きさにほぐされた魚の身、数種の香辛料やハーブの、旨味と香りをたっぷりと吸い込んで、柔らかく仕上げられた米だ。シチューやスープほどの汁気はなく、完全に水分を飛ばされてもいない、まさしく彼好みの塩梅だった。見事に整った断面の固茹で卵がいくつか、それにパセリと櫛形に切られたレモンが飾られていた。
「これこそケジャリーだ。……なんて言うと英国人は怒るかな。でも、ぼくにとってはこれがケジャリーなんだ」
 目を細めて暖かな匂いを嗅ぎながら、彼は感嘆の息を漏らした。朝食に米料理という風習には、従者がやってくるまで全くの無縁だった――もう少し早くに知りたかったという思いもあり、否、従者の手によって知ることができたのは幸いだった、とも思える。自分は運が良かったのだと。
 朝食用のボウルに取り分けてみると、器越しにじんわりとした熱を感じる。問題なく保温されているのだ。彼は満足げに文明の利器を見遣った。朝の光を浴びて輝く白銀の器は、どこまでも誇らしげだった。

 しみじみと幸福に浸りながら、一匙掬って口に運ぶと、まず感じられるのはぴりっとした刺激――胡椒とクミンやカルダモンの作り出す、華やかでありながら押し付けがましくない辛味だ。クリームの絡んだ米は柔らかく、口の中で仄かな甘みとなった。また魚の身も最高の状態だった。しっとりとして締まりがよく、ただ焼いただけでは決して達成できないだろう歯触りだった。
「これ、魚は鮭だよな? 燻し具合が強すぎなくていい。スパイスに合ってる」
「はい、旦那様。先だってハウストン通りへ出向きました折、質のよいデリカテッセンを見つけました。そちらの筆頭商品とのことで」
「あの辺りか! 確かにうまいデリやダイナーが多いよな。でも『カッツ』じゃあないだろう?」
「『J・ラス・インターナショナル・アペタイザーズ』と看板が出ておりました」
「知らない店だな――開店したばかりなのかな。とにかく、良いことを聞いたぞ。今度エミールあたりを連れて行ってみようか」
 偏食気味の友人の姿を思い浮かべながら、彼は少し大きめの身をもう一切れ、米と合わせて食べた。燻すのによい木を使っているのだろう、微かに甘くまろやかな薫りを纏っている。塩気もきつくない。
「しかし、いい仕上がりだなあ! 米料理なのに魚のことばっかり言うのもなんだが、今日のはいつにも増してほっくりした煮加減だ」
「わたくしには過ぎたる賛辞でございます、旦那様。あなた様のお力添えあってこそ完成いたしましたからには」
「ぼくの?」
 彼は目を瞬き、考えた。 「つまり、この鍋か?」
「はい、旦那様。――ケジャリーに限らず、魚や肉を柔らかく調理するためには、比較的低い温度を保ちながら、じっくりと熱を加えることが肝要でございます。電熱式のチェイフィング・ディッシュが持つ特性は、この調理法にはまことに好適です」
 卓上の器を片手で示しながら、従者は淡々と説明した。それから、ふと言葉を止めて彼の顔を見、
「それをご存知で、わたくしにケジャリーの用意をお命じになったものと……」
 僅かに首を傾げながら続けた。彼にとっては買い被りにすぎた。
「良いか、ウィギンズ」
「は」
「残念ながらお前の主人はそこまで賢明な男じゃあないんだ」
「さようでございますか」
「ぼくはただ、この手の器に入っているものといったら温製のオードブルかケジャリーだ、というイメージだけで注文してる」
「さようでございますか」
「さようだ」

 そこで会話は途切れ、主人と従者は互いにまじまじと見つめ合った。いくらか落ち着きのないダークブルーの目に対して、暗褐色の瞳は揺るぎなく真摯だった。
「つまりだな、……なあ、ウィギンズ、お前が言うように、今回のぼくはちょっとばかり軽率だったと思うんだ。買い物にしても朝食のメニューにしても、全く後悔はしてないが、お前に一度相談しておくんだったな」
 先に居たたまれなくなったのは主人のほうだった。彼は少しばかり眉根を寄せながら、締まりのない笑みを浮かべて言った。従者は静かに聞き終えると、やはり顔色を変えずに口を開いた。
「ご自身のお振る舞いを省みて、さよう判断なさるのであれば、わたくしからは何もお諌めすることはございません。わたくしは何一つ損を被っておりませんゆえ」
「まあな」 肩をすくめて彼は答えた。
「このケジャリーにはご満足いただけましたか、旦那様」
「もちろんだ」
「では、少なくともその点で、あなた様はよいお買い物をなさったのでしょう。いつでもまたお命じくださいませ」
 どうやらこの従者は、こちらがなんと言おうと的確な返答を用意できるらしい――であれば今は奇をてらっても仕方がない。そうするよ、と彼は言い、空になった皿に二杯目を盛った。先程よりも少し多めにして、茹で卵も二つ分乗せた。これもまた黄身のぱさついていない、絶妙な茹で加減だった。
「まあ、いつだって十点満点とはいかないもんだよな」
「旦那様?」
「いや、何でもない。――もう下がってもいいぞ。食べ終わったらぼくも降りるから」
「かしこまりました」
「昨夜言った帽子と靴を用意しておいてくれよ。今日こそパーシーのやつと決着を付けなくちゃあならないからな」
「既に準備してございます。ご健闘をお祈り申し上げます」
「ようし、じゃあ、以上だ」
「はい、旦那様」
 従者はうやうやしく頭を垂れた。 「ごゆっくりお楽しみくださいませ」

 部屋を出ていく後ろ姿まで一切隙のない、従者の深沈としたさまを見送りながら、彼は静かに溜息をついた。もちろん職務上、あるいは単に本人の性格上、あの従者にとって「驚く」などという行為は無縁でありたいものなのだろう。しかし、全く何の驚きもない人生というのは、それはそれで彩りに欠けるのではないか――彼は思った。否、もしかするとこれまでの人生では、後ろ向きな驚きに曝されるばかりで、すっかり倦厭してしまったのかもしれない……
 温かな朝食を一匙、また一匙と進めながら、彼は考えを巡らせる。従者が自分の生活に齎した、いくつもの変化と良い驚きを顧みれば、それだけケジャリーの味も良くなってゆく気がした。
 ――でも正直なところ、本当にぼくはお前の驚く顔が見たかったんだよなあ、あの時みたいに。
 ふっと頭を過ぎったかつての出来事と、その時に聞いた従者の声を思い起こし、彼は小さく笑った。まあ、無理に驚かせるのはよろしくない――そのうちいつか、心から驚くぐらいのことをしてみせるさ。もちろん良い意味で。

  * * *

 彼の中では、それは未だに「一年とちょっと」前の出来事である。
 ある秋の日を境にして、ヘンリー・ロスコーの生活は一変した。輝かしい二十代に足を踏み入れたばかりの、元大学生の気ままな一人暮らしに、封建精神の権化のごとき壮年の男が、我が物顔で闖入してきたのである。イングランド出身を自称するその男は、ロスコー家の跡取り息子に付けられた「従者ヴァレット」であると述べ、マンハッタンは東36丁目に聳え立つアパートメントに今日から住み込むのだと断言した。
 馴染みの紳士クラブから戻ってきたばかりで、寝耳に水の家主が目を白黒させている間にも、従者は自らの職分と今後の方針について、相手もとうに承知であるかのように淡々と語った。「規律」とか「品格」、「義務」等といった言葉をいかめしく織り交ぜながら。
 それだけでも彼にとっては辟易するような事態だというのに、この壮年の男は夕食の前に服を着替えるべきだと主張し、あまつさえ自分が着替えを手伝うとまで言い出した。赤ん坊じゃああるまいしとなんとか断り、シャワーを浴び――ここでもひと悶着あったのだが、最大限の力を尽くして解決した――、とにかく何か食べなければこの場を乗り切れないと彼は思った。それなのに、あろうことか男は「紳士ともあろうお方」が自ら食事を準備するなどありえないと断言し、若主人を台所から締め出したのである。
 辟易を通り越して、今や彼は静かに怒りを滾らせていた。そもそも自分は召使いなど頼んだ覚えがないのだ。否、これが父親の差し金であることは解っている――従者の口から「大旦那様」という単語が何度か出たからだ。あの強権的で、威圧的で、上流階級気取りで、端的に俗物としか言いようのない父が、「放蕩息子」をどうにかするために、お目付け役としてこんな男をよこしたのだろう。成金の嫡男を貴人さながらに「旦那様」と呼んでかしずき、使用人である自らを家具かなにかのように扱わせ、空気を和らげるための雑談には決して乗らず、冷たい彫像のように黙ってすましている男を。

 彼は台所の前に腕を組んで立ち、重たい扉を睨み据えた。中にはもちろん従者がいる。半刻ほど前に言われた台詞が頭をよぎった。こちとらは空腹の限界だというのに、あの男は平然とした顔で、「ご夕食は九時に出来上がります」と、こうだ。夕食が九時! やつは一体全体何を作るつもりなんだ? こんなアパートのダイニングに、十六皿のフル・コースでも広げる気でいるのか?
 主人がいなくなる気配がないことは、台所のほうでも察知しているらしかった。少し経って、扉が音もなく開いたかと思うと、黒いエプロンと袖カバーをつけた従者が姿を現し、無表情に彼の目を見た。
「なんでございましょう」
「なあ、お前、……ええと、ウィギンズとか言ったな」
「はい、旦那様」
「良いか、何度も言うようだが、ぼくは腹が減ってるんだ。もう限界だ」
「さようでございますか」
「お前のいた英国の大屋敷がどうなのかは知らないが、合衆国で、それもマンハッタンの若い男のうちで、ディナーが九時なんてどうかしてる」
「さようでございますか」
 彼がどれだけ語勢を強めようとも、従者は眉一つ動かさなかった。使用人として最もふさわしい表情のまま、顔全体が凍りついてしまっているかのようだった。
「お前――お前はほんの少しも疑問に思わないのか? ぼくならそんな規律やら何やら、本当に必要なのかどうかまず考えるけどな」
「さようでございますか」
「さようだ――ああ、もういい、どうとでも勝手にしろ!」
「仰せのままに、旦那様」
 従者は最後まで顔色を変えず、うやうやしく頭を垂れ、そのまま中へ戻っていった。
 ぼくは空気かなにかと戦わされているんだろうか、――彼は思ったが、引き下がる気にはなれなかった。あんな男の言いなりで送る生活など、早晩窒息するのは明らかだ。一体どれだけの賃金を約束されたのかは知らないが、使用人だからというだけで替えのきく道具扱いされることを、当たり前のように受け入れているのにも腹が立った。そうまで言うなら、いっそ本当に物のように扱ってやろうかとさえ考えた。そうすれば三日そこらで音を上げて、黙って出ていってくれないだろうかと。
 俯き、唇を引き結んだまま、彼はじっと扉の向こうに意識を向けた。中からは、扉や引き出しを動かしたり、何かを並べたりする音がしている。台所の備品を把握しようとしているのだろう。そんなことは一言も命じていないのに――

 その時だった。明らかに人の手によるものではない、機械のモーターらしき音が彼の耳を打った。はっとして彼は顔を上げ、扉をまじまじと見つめた。そして次の瞬間、
「なんとまあ……!」
 はっきりと聞こえたのだ。やかましい駆動音にも掻き消されない程度には大きな声、新鮮な驚きのありありと表れた従者の声が。
 聞いてはいけないものを聞いてしまった気がして、彼はとっさに背を向けた。心臓が少しばかり鼓動を早めたが、モーターの響きが収まると共に落ち着いた。
 あの機械音が何であるかは、むろん本来の台所の主として、彼にも解っている。電動式のスタンドミキサーだ。ほんの半年ほど前に発売されたばかりの、極めて画期的な品である。百貨店のカタログで広告を見つけるや、彼はこれに飛びついた。そうして彼は仲間うちで初めて、電気の力でパン生地をこねた男になったわけだが、その後も進んで活用し続けたかといえば、胸を張ってそうとは言えない節がある。ともあれ、そうした経緯で台所に鎮座していたあの文明の利器が、まさかこんな事態を引き起こすとは!
 彼は大きく息をし、閉じたままの戸を肩越しに顧みた。胸の奥底で煮え立ち、どろりとした塊になりつつあったものが、思いもかけないところから、すうと解れていくのを感じながら。
 あの男も驚くのだ――凡て俗世を見尽くしてしまったかのような、超然として揺らぎもしない暗褐色の目にも、神秘と見えるものがまだあったのだ。自分が初めてミキサーの電源を入れ、二十世紀の驚異を体感したときのように、壮年の従者が息を呑み、目を丸くしているところを彼は想像しようとした。残念ながら、これは極めて困難な行為であった。
 けれども彼には、ほんの僅かばかりではあるが、前途に希望が見えたと思えてならなかった。少なくとも窒息はせずに済みそうだった。本人が何と言おうとも、やはりあの男は自分と同じ人間なのだ。驚きを表に出すことができるなら、いずれは喜びや不満や、怒りや楽しみも見せてくれる日が来るに違いない。そうすればきっと、ただ監視されているだけよりも、ずっと居心地良く暮らすことができるだろう。
 ――まあ見ていろよ、ウィギンズとやら。ニューヨークのど真ん中で暮らすことが、どれだけ驚きに満ち溢れているか、お前にもじきに解るはずだからな。
 彼は挑戦的な笑みを口元に表し、扉に向き直ってふんと鼻を鳴らした――が、数秒後にはたいそう悲痛な声で腹の虫が鳴いたために、格好は全くつかなかった。懐中時計を取り出してみると、七時三十分を過ぎたところだった。

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