若者は表紙の文言をしげしげと眺め、それから彼に視線を戻した。 「触っても?」


01. 安請け合い -Speak-easy Problem-

「どうぞ。少なくとも僕が触ったときには何も起きなかったよ、なにしろ装丁を除けばよくある欽定訳聖書だから」
「聖書でしたか。確かにこの表紙は――どこにでもあるとは言えませんが」
「正直に言って悪趣味だと思うね、僕は」
「趣味は人それぞれですけど、まあ、何がなし本来の信仰から遠ざかっているような気はしますね」
 ずっしり重たい冊子を矯めつ眇めつしながら、若者はどこか他人事のように応える。本人の中に「本来の信仰」とは何か、確固たる考えが根付いているようには思えなかった。やがて若者の指はページを閉ざす掛け金に伸び、部品それぞれをなぞったり押したり、細い鎖をちりちり鳴らしたりした後、おもむろに外した。少しばかり勿体をつけるような間の後で、祝福の言葉を刻んだ板が持ち上がる。
「これ――」
 途端、高くも低くもない声は驚きに僅か揺らいだ。開かれた本の扉には、そこから約一インチに渡る深さの、小さな孔が穿たれていたのだ。明らかに弾痕だった。
「あー……」
 若者は僅かに眉を顰め、もう一度金属板の表を返して見ると、短く嘆息した。
「覚えはありますね。確か――あー、防弾聖書でしたっけ」
「いかにも。昔からよくあるだろう。戦場に出た兵士が、たまたま胸ポケットだとか、雑嚢だとかに聖書を入れていたおかげで、敵の弾がそこで止まって命拾いした、というやつさ。西部戦線にいた頃、僕も同じ隊の連中から何度か聞いたよ」
 伝聞ばかりで、命拾いした本人にはついぞ出会わなかったけれど――彼はわざと軽い口調を作って言った。
「当然、これは主が邪悪なるドイツ兵から信仰篤きアメリカ人をお護り下さったのだ、神の恩寵があった証だというわけで、兵隊以外にも広く伝わったのさ。流石にこんなごてごてした装丁が付くようになったのは戦後からだろうけどね」
「この品の来歴は?」 若者は軽口を聞き流すことに決めたようだった。
「つい三十分ほど前に、さるご婦人が――僕の依頼人ということだが、引き取ってくれといって持ち込んだんだ」
 冊子をいじくり回す若者の手が止まった。出方を伺うような上向きの視線が、垂れがちな彼の目に注がれる。
「そのご婦人には息子さんがいる。陸軍学校を出たばかりの優秀な砲兵士官だそうでね、親心としては危険な任地に赴く前に、自分たちに代わる何かしらの心の支えを与えたかったようだ」
「それが聖書ですか」
「ああ。もちろんアメリカは一応……一時的に戦争をやめたけれどもだ、いつ何時また有事になるとも解らない。ご婦人はあれこれ探し回ったあげく、蚤の市でこれを買ったらしい」
「それなのに手放した。――日を置いて冷静になった結果、装丁の耐え難い悪趣味さに気付いたって訳ではなさそうですが」
「シンプルだよ。これを買って以来、夜な夜な不可思議な出来事が起きるというんだ」
 先の戦争当時は新品同様だったろう、白く滑らかな紙面に空いた穴ぼこを一瞥して彼は言った。
「息子さんが帰ってくるのは次のクリスマス休暇だ。それまでこいつは戸棚にしまい込まれたわけだが、その戸棚の段がある晩かさこそ音を立て始めた。ネズミでもいるのかと思って検めても、何か齧られたような痕はないし、ネズミ取りにも引っかからない。どころか物音は日ごとに大きくなり、とうとう開き戸がやかましくがたがた鳴るようになったというから、家人はみんな怪しんだ」
「物音は夜だけですか?」
「ああ――少なくとも最初は夜に限っての異変だったようだ。そのうち異音だけでなく、いつの間にか戸棚が開いて冊子が床に落ちてたとか、すすり泣くような声がするとか、あるいは神に赦しを求めるような呟きが聞こえるとか――」
「その声というのは男性の? それとも女性?」
「婦人の主観によれば、成人男性のものだったというね。他にもある晩のことだが、婦人がふと部屋を覗くと、背の高い影が戸棚の側にあるのを見つけた。夫がまだ起きているのかと思ったら、急にその影がつんのめったように揺らいで、すっと真下の床に消えていったというんだね。あたかも何か――映画で見るような、人が撃たれた瞬間のようだったと」
 先刻の依頼内容を思い返しながら、彼は答えた。依頼人からの聴取は全て紙に書き取ってある。事件が無事に落着すればタイプ打ちされて、棚に並ぶ書類挟みに収まるわけだが――今はまだ保留段階だ。婦人のほうだって、書を押し付けた時点でまともな「解決」など望んでいないのか知れない。
「これに至ってご婦人も、旦那さんや使用人たちも震え上がった。どうもこれは神の恩寵あらたかなる品どころか、呪われた代物なのではないかと。はじめ地元の教会でお祓いを頼んだが、てんで効果はなかった。そしてマクファーレン探偵事務所に現物が持ち込まれ、僕は労せずして十ドルを得たわけだ」
「聖書に十ドルですか。……聖書に十ドル……」
「ちなみに、ここの家賃がひと月二十四ドルだ」
「破格ですね」 どちらを指して言ったのかは、彼には判然としなかった。
「僕はもちろん、何も聞かなかったことにしてもいい。この冊子から金属部分だけを引っ剥がしてくず鉄屋に売り、紙の部分はどこかのゴミ捨て場に放り投げてきてもいい。個人的には御免こうむるけれどね。――それ以外の解決策を君は思いつくか、そういう質問だ」
 若者はじっと考え込んでいる様子だった。指先が再び動き出し、ページを順繰りにめくり始めた。中身もやはり有り触れた活版印刷の産物だ。弾痕のほかには目立った染みや折れ、破れなどもない。
「――あの、ここに定規はありますかね」
 旧約聖書の部分を半分以上めくり終えたところで、若者がふと言った。あるよとジャックが答えると、「後でお借りします」と返ってくる。一体何の寸法を測ろうというのか、彼は想像を巡らしながら眺めた。
 やがて若者の手は再び止まった。ちょうど弾丸が留まった場所に行き着いたのだ。ヨブ記の中途だった。
「この弾は取り出しても構わないでしょうか」
「好きにしてくれ。保障はしないけれどね」
「今すぐ何か起きるとは思っていませんよ。それと、定規を頂けますか」
 彼は机の引き出しから古びた木の物差しを取り、若者の手元に置いてやった。神妙な目をした若者は、なるべく紙を傷つけぬよう心がけたのか、凹んだページから慎重な手つきで弾を取り出し、机上に置いた。先端のへしゃげた鉛玉は、それでもまだ「美品」だ。下底部はあまり変形しておらず、もともとの円筒形がはっきり判る。その円に若者は物差しを当て、しばらく何かを思い悩んでいるようだったが、やがて顔を上げた。
「おかしいと思いますよ」
 過度に咎めるような含みは持たない、ただ計算問題の誤りを指摘するのと同じ短簡さだった。
「これ、スプリングフィールドの弾じゃあないですか」

 すぐに返事はしないでおこう、と彼は思っていた。置き時計の針が再び室内を支配しかけた。こち、こち、こち、と硬質な音が机上を流れ、出し抜けに短いベルの音が鳴った。時報だ。午後六時。
「詳しいんだな。軍務経験があるようには思えないけれど……」
「ええ、従軍したことは一度も」
 若者がちらと時計を見た。 「撃っていたんじゃあなく、作っていたんですよ」
「なるほど、毎日触れていたなら納得だ。そう、つまりこれは敵弾じゃあない。この聖書を撃ったのはアメリカ人なんだよ」
「中央同盟国軍の制式ライフルは、これよりもっと径の大きな弾を使いますからね。――これは神のご加護とやらによって生まれたものではなく、人為的に作られた『奇跡』というわけです」
 書の閉じられる乾いた音が、机と空気とを微かに震わせる。熱量のあまり感じられない、静かでなだらかな語調のまま若者は続けた。次の瞬間、部屋を照らしていたおんぼろランプが一度二度と瞬き、ふっと消えた。

 ジャックは席から立ちかけた。若者は表紙からぱっと手を離し、何をするつもりか身動ぎしたが、すぐに落ち着いた立ち姿に戻った。
 灯りを点け直すよりも優先すべきことが、彼らの目前で起こっていた。ぼんやりと蒼白い光を帯びた、細い煙のようなものが一筋、書の中央付近から立ち上っている。人の吐息にも吹き飛ばされてしまいそうなそれは、最も身近なものでいえば火のついた煙草に似ていた。
 現れたものはそれだけではなかった。閉じたページの間から、此度は煙というより砂や塵と見える、細かな光の粒が次々にこぼれてきた。それらは机に満遍なく散らばったと思えば、一塊になって床へと滑り落ち、重たい動きで壁際に立ち上がった。「立ち上がった」という動詞が相応しかった。彼らが再び見たものは、間違いなく人間の姿を取っていたからだ。
「君が……」 努めて冷静な声を保ちながら、ジャックは尋ねた。 「本来の持ち主かな」
 曖昧模糊としていた輪郭は、次第にくっきりと背景から浮き上がり始めた。長身のジャックよりはいくらか小柄、年の頃はせいぜい二十歳そこらと見える男性だ。舟型の略式制帽を被り、襟の詰まった五つボタンの上着、肩には雑嚢の背負い紐、腿の膨らんだズボンに革の行軍靴――
 彼は重たい息を吐いた。十年ほど前には彼も全く同じ服を着て、泥まみれになりながらヨーロッパの地を這い回っていたのだ。アメリカ陸軍の歩兵が最もよく着用した戦闘服である。となれば、眼前にいるこの存在について――ほぼ間違いなく幽霊であることも、その死因も自ずと察せようものだ。
「自発的に喋れるでしょうか、彼」 若者がちらと見上げながら言った。
「特定の台詞を繰り返すことしかできない、なんて場合もありますからね、この手の存在は」
 そうだな、と手短に同意してから、彼は兵士の顔をじっと見た。実体のない、揺らぎに満ちた存在であることを差し引いても、その表情は歪んでいた。心と身体の両方をひどく痛めつけ、絶え間ない痛みと苦しみに苛まれているようだ。のみならず、ただでさえ虚ろな目は俯き加減で、寄せられた眉根と曲がった眉は、苦痛の原因が自分自身にあることを理解する者のそれだった。

 ややあってから影は何か言いたげに唇を薄く開いたが、彼らの耳に届いたのは掠れた呻き声ばかりだった。教師や親に呼びつけられた子供のようだと彼は思った。なぜ呼ばれたのか、自分は何を言えばいいのか理解しているが、後に待ち受ける非難や罰が怖ろしいばかりに、声も出せず縮こまっている姿だ。
「なあ、君」
 彼は今度こそ立ち上がり、あたかも当時の戦友に再会したかのような、親しみを存分に込めた声をかけた。
「そんなに申し訳なさそうな顔をしないでくれよ。君がそこに立っているだけで苦しいだろうことは解るんだ。僕たちは君を責めようとか、裁こうというつもりで呼んだわけじゃあない。ただ、これをどう取り扱ったらいいのか――どうすれば君を助けられるか、手がかりが欲しいというだけだ」
 横目でちらと若者を窺えば、同意するように頷いているのが見えた。ここでどのような出方をするかは、共に仕事をする上で確認しておかなければならない点だ。彼は少しばかり安堵した。
「ああ、もちろん……あの頃を思い返すのはちっとも愉快なことじゃあない。僕だってそうだ。でも、もし話してくれる気になったら……話せるところだけでいいから、聞かせてはくれないか」
 あまり相手に圧迫感を与えないよう、敢えて一歩身を引いてから彼は言った。存分に時間をかけるつもりだった。急いては事を仕損じるHaste makes wasteという言葉もあるではないか――なにより追われるほど多くの依頼を請けているわけでもない。悲しいかな彼の事務所は当座のところ暇そのものだ。
 彼は兵士の手元を一瞥した。だらりと下ろした両腕の先は、弱々しい握り拳になっていた。今にもそこから輪郭が溶け出し、空気に入り混じって消えてしまいそうなほど、頼りない震えを帯びている。これは一度「眠らせて」おいたほうがいいだろうかと、彼が思ったときだった。
「あれ……あれは、ぼくが、あのとき、」
 彼らのうち誰とも違う声が、うっすらと照らされた空間に木霊した。小刻みに揺れながらも、問題なく聞き取れるだけの確かさ、意思の込められた響きだった。
「フランスにいたときです、戦傷休暇をもらって、新しい聖書を……ぼくの銃で撃ちました。ぼくが作ったんです……」
 亡霊はもはや躊躇いを捨てたらしかった。彼は頷き、朧な顔を促すように見返した。

 ――1917年のことである。合衆国は正式にドイツ帝国へ宣戦布告した。四百万の兵士たちがヨーロッパへ、あるいは別の戦地へと赴くことになった。
 一人の青年は、この時を前々から心待ちにしていた――彼の望みはただひたすら、兵士として戦い、その勇敢さを認められ、英雄として戻ることに尽きた。故郷の誰よりも立派な男として、人々に名指されるのが夢だった。
 無論、青年も1914年の若者たちほど無邪気に、戦争に対して叙事的な幻想を抱いていたわけではない。先んじて戦火に身を投じた人々が、いかに悲惨な、正視に堪えない環境に置かれているかは、写真つきで広く報じられてきていた。青年も理解はしていた――理解した上で、しかし都合よく解釈した。自分なら生き延びられる、それだけの力があるのだと根拠なく信じていた。
 果たして、西部戦線は写真と文章で見る以上に過酷だった。青年は身を持って思い知ることになった。今まで考えていたほど自分は勇敢でも冷静でもなく、兵士としての活躍など望むべくもないということも。
 青年の部隊は華々しい戦果とは無縁だった。ソンムに駐屯するオーストラリア軍が、当時最高の撃墜王から永久に翼をもぎ取った頃、青年とその仲間たちは冷たい泥水につかりながら、ひたすらに塹壕を掘っては鉄条網を敷き、ドイツ軍の野戦砲が立てる轟きに怯えながら眠った。初めのうち、彼らが配属された前線はそれでも「静かなほう」だったが、1918年の夏にはとうに地獄の炉の只中となっていた。新たに内地から送られてきた兵士が、名前と顔を覚えるより先に死んでいった。
 部隊ではなく個人に着目しても同じだった。青年の闘いぶりはおよそ英雄的行為とかけ離れていた。激戦の最中で幾度となく銃を取り落とし、泥濘に足を取られて転倒し、敵兵の姿を見てもすぐには撃てなかった。この若い兵士が唯一挙げた功績らしい功績といえば、突撃を仕掛けてきたドイツ兵の一人を塹壕へ引きずり込み――あるいは格闘の最中に足を滑らせたとき、身体を支えるためとっさに掴んだのが敵兵のベルトだったとも言える――銃剣で突き殺したことぐらいだった。周囲ではまだ戦闘が続いており、今にも別の敵兵が乗り込んでくるか知れないのに、青年は遺骸を前にしてただ膝をつき、銃把を握り締めたまま身を竦ませていた。布切れを巻きつけた木の台尻から、指はいつまで経っても剥がれなかった。
 敵方の反撃が止み、連合軍がその場一帯を制圧した頃になって、青年はやっと自分が負傷していることに、それも同僚の一人に指摘されて初めて気がついた。恐らく手榴弾の破片だろう、何か鋭く尖ったものが背中に突き刺さっていた。
 これが「軽傷」と片付けられない程度には深い刺さり具合で、彼は一時的に前線を離れ、後方で入院することになった。幸いにも感染症などには掛からず傷は治癒し、同時に短いながら休暇も貰えることになった。けれども彼の心は焦るばかりだった。自分は未だ何もしていない――先日とうとうドイツ兵を一人始末した件だって、実際のことはほとんど何も覚えていないのだ。ただ気が付いたら目の前に敵兵の死体が転がっており、自分は戦闘を放り出して立ち尽くすばかりだ。こんな話を聞かされたところで、誰が自分を勇敢だと、立派な男だと思ってくれるだろうか?
 そして退院を迎える前日のことだった。青年が同じ病室の傷病兵たちから、「防弾聖書」の話を聞いたのは。

 実際、「神の恩寵」を手作りするのはそれほど楽な話ではなかった。フランスの書店で「練習用」として購入した何冊かの古本――どれも聖書と同程度の厚みを持っている――のうち、一冊目はあっさりと弾を貫通させてしまった。これでは何の意味もない。二冊目ではページの中途に厚さ一インチほどの板切れを挟んでみたが、これもライフルの弾を防ぐには力不足だった。結局、合衆国が誇る.30-06スプリングフィールド弾を止めるためには、射撃の的に使うような鋼板が必要だと判明した。要した犠牲者は四冊であった。
 休暇が終わる前日の午後、彼は一人で町外れへと出向いた。従軍神父から受け取った革表紙の聖書を、即席で組み上げた架台に載せ、今にもパンクしそうな心臓を宥めながら引き金を引いた。
 試みは成功だった。ついでに、撃てさえすれば自分の狙いはそれなりに正確なのだという嬉しい事実も判明した。青年は穴の空いた聖書を懐に、かつていた前線へと戻った。
 部隊の面々は概ね入れ替わっていた。復帰して初めての戦闘を終えた後、野営地で配給のパンを齧りながら、彼は勿体つけるように仲間たちの顔を見回した――
『なあ、ちょっと見てほしいものがあるんだ』

「――なるほど、つまり功名心が君の動機だったのか」
 そこまで聞き終えて、ジャックは独りごちた。この手の「奇跡」を捏造する動機として、最も聞かれるのはやはり金儲けである。しかし名誉欲というのもまた、人を容易に大それた行動へ走らせるものだ。そして時に、金銭欲より遥かに残酷な結果を齎しうる。
 彼はもう一度、兵士の顔に視線を注いだ。体験を語るうちに、また当時のままの感情が沸き起こってきたのたろうか、先程よりも表情に濃く出ているものがあった。
「しかし君は……僕の勘違いだったらすまないが、君自身の行いを振り返って、とても悔いているように見えるんだ。その聖書を作ってから、きっと何かが君の心を変えたんだろうと思う」
 だとすれば、そこから魂を救うための端緒が開けるかもしれない。彼はあからさまに乗り出すようなことはせず、ただ言葉に微かな希望を滲ませながら訊いた。
「もう少し話せるかい。一番苦しい部分だと思うから、決して急かしはしないよ。ただ、もしその気になれるなら……」
 兵士は僅かな間だけ口を引き結んだが、彼の辛抱強い態度と柔らかな物腰を見、訥々と続きを話し始めた。

 ――たとえ作りものであろうと、「奇跡」という冠はひととき青年の心を上向かせた。激しい戦闘にも果敢に飛び込み、その勇気と信仰でもって神に加護を賜った兵士というのは、個人の箔付けとしてはなかなかのものだ。その証拠たる聖書が懐にあるだけで、何がなし普段の臆病さが引っ込む気がするのだから、人間というのは思い込みやすい生き物である。
 しかし、この稚拙な嘘からなる得意さは程なくして薄れてゆき、やがては消え去ることになった。何日か後、青年の部隊はある戦闘で壊滅的な被害を受けた――彼自身は辛くも生き延びたのだが、隊員のほとんどは重傷を負うか死亡し、任務の継続は不可能になった。
 青年を含む僅かな生き残りは、別の隊に編入されることになった。新しい上官らとの顔合わせが済み、やっと一息ついた頃合いで、ふと仲間の一人がこう言ったのだ。
『やっぱりそうだ、お前には神様が付いてるんだよ』
 それは今となっては本当に希少な、青年が従軍した当時から同じ隊にいた一等兵だった。彼よりは二つ年上で、大学を出てすぐに志願したのだと言っていた。
『今までお前がこれだけ長く、仲間のために命懸けで戦ってきたから、それに報いてくださったんだ。あれだけ恐ろしい思いをして、大怪我もして……お前の心がどんなものか、神様は全て見ていてくださるんだよ……』
 この述懐が、偽りによって生まれた英雄の陰から、青年の良心を日の下へと引きずり出した。人々の耳目を集めたい、否、耳目を集めるような人間になる必要があるという、一種強迫めいた観念がふと揺らいだのだ。同輩はしばらく何か話していたが、もはや青年はその顔をまともに見られなかった。
 その日以降も青年と「防弾聖書」は一行の語り草であり、隊に新しく配属される者があれば、誰かが「奇跡」について教えてやるといった具合で、語られるごとに勇ましさと有難みを増しながら、同じ方面を預かる兵士たちの間に広まっていった。わざわざ出撃の直前に、書の表紙を触らせてもらいに来る者がいた。また別の者は、青年の後ろにいれば生き残れるかもしれないといって、隊の配置を交換したがった。そうして青年の後ろめたさがいや増す中、ついにこう頼みにくる者がいた。
『もし宜しければ――ただでなんて言いません、お金なら払いますから、あなたの聖書を譲ってくれませんか』
 何度目かの補充でやってきた、まだ少年のような顔の新兵だった。聞けば、家族に男は自分一人で、故郷には母親と、年の離れた妹が三人いるばかりだという。彼女らは自分の出征を本当に悲しんでおり、だから何としてももう一度顔を見せてやりたい、自分は大丈夫だと安心させてやりたいのだと。
『でも、自分はあなたと違って臆病者ですし、体も小さいし、そのくせ動きはのろいしで……陸軍では務まらないってみんなが言っていました。それでも、今は戦わなくちゃならない時ですから――せめてお守りでもあれば、心の持ち方だけでも変えられるかもしれないと……』
 生来の性分なのか、それとも後天的にかは解らないが、兵役につくまではあまり人と話していなかったのだろう。どこかぎこちない語り口は、一秒ごとに青年の胸を苛んだ。
 誇り高く強い男の顔をしていなければならない、と思った。そうあれと何度も説かれ、自分自身にも言い聞かせてきた。それが何よりの望みであったはずだし、形の上では実現したはずだった。――無理だった。
『いや』 と青年は口走った。 『譲れなんて、そんなもの――そんなことに、金なんか出したって……』
 目の前の稚顔が口を噤み、たちまち俯くのを彼は見た。断られたのを残念がるというよりは、どこかで結果を悟っていたような顔でもあった。
『そう、……そうですよね。いいえ、自分が間違っていました。申し訳ありません』
 新兵は先達に対して、軍規に取り決められた通りの深い一礼をした。
『神のご加護を金で買おうなんて、――あなたの仰る通り、全く無駄なことです。いいえ、醜いことです。そんなことも忘れて自分は……』
 先達であるところの青年には、この後輩を怒鳴りつけて、すぐさま黙らせることもできた。けれども、それにも増して彼自身の良心が、声高に彼を叱咤し、その場しのぎの言葉を全て押し潰してしまっていた。
『自分は……なんとかやってみます、自分だけの力で。あなたに倣って、少しでも努力します』

 それから新兵がなんと言ったか、どのようにして会話を切り上げたのか、青年は覚えていない。聞こえてもいなかった。
 その晩以降、青年が怯えるものは死や負傷ではなく、己がしでかした恥ずべき行いへの罪悪感に変わった。偵察機のエンジン音や砲弾の炸裂ではなく、自身の最も深くから聞こえる声が、真夜中に幾度となく彼を叩き起こした。以前の何層倍も臆病で、優柔不断で、落ち着きのなくなった自分自身に、絶えず失望しながら塹壕での時を過ごした。
 勇敢さなど――勇気という点で言うなら、お前よりもあの新兵のほうが遥かに立ち勝っているのだと、心の声は繰り返し彼に突き付けてきた。――自分の弱さを認め、過ちにすぐさま気付いて正すことが、どれほどに偉大な勇気の要ることか。それに引き換え、ただ周囲からちやほやされたい、価値を認められたいというだけのために、恐るべき冒涜を働いた挙句、いつまでもひた隠しにしているお前自身のどれほど卑小なことか!
 それでも一度だけ、青年は勇を鼓して己の罪を告白しようとした。大元の聖書を自分にくれた従軍神父にだけは、信仰の書を実際のところ何に使ったのか、せめて打ち明けようと思ったのである。しかし、聖職者たちが詰めている駐屯地のテントが目に入った瞬間、彼の足は一歩も前に進めなくなってしまった。またしても彼は勝てなかった。見咎めた上官に叱責されるまで、ただその場に立ち尽くしているばかりだったのだ。

 いつしか季節は夏から秋へと変わりつつあった。戦況が連合軍の勝利にほぼ固まりかけた中、青年だけが敗北を続けていた。
 そして、彼が認識できた限り最後の敗北が、フランス東部にある森林地帯で起こった。彼の部隊は厚い緑の中を行軍しているところだった。かつてフランスの王族たちが狩猟を楽しんだ小道を、彼らは撤退するドイツ軍を狩り出すために進んだ。
 風のためか人の力でか、へし折られたブナの木の側を通り過ぎた時だった。木々の間から一筋差し込む日差しよりも、なお小さく眩しいものが、青年の目前でちかりと光った。周りの音がふっとかき消えた。
 次の瞬間に彼が見ていたものは、曲がりくねった獣道や古い木の幹ではなく、青空を覆い尽くす分厚い葉の天蓋だった。瞬く間に全ての音が戻ってきた。ひどく騒がしかった。人の声、銃声、茂みが吹き飛ばされる音、散開と防衛を指示する叫び、自分の名を呼ぶ誰かの悲鳴――
 彼と同じ靴を履いた脚が、もつれ合いながら退がってゆくのが見えた。置いていかないでくれ、と言ったつもりだった。だが、彼が彼自身の声を耳にすることはなかった。

「――それで君は死んでしまった、というわけか。そして、今に至るまで現世に留まり続けていると」
 亡霊が語り終えたとはっきりするだけの間を置いてから、ジャックは再び口を開いた。置き時計を顧みると、もうかれこれ三十分が経過していた。
「それからずっと意識はあったのかい? 死人に対して変な質問かもしれないが、君がここへやって来るまでのことは、全て覚えているのかな」
「いいえ。……長い間ずっと、真っ暗闇でした。ぼくは死んで――天国に行けなかったのだから、それも当然だろうと思いました。冷たくて、自分の声以外は何も聞こえない、とても怖ろしい何かの中にいるような。生きているうちに、地獄がどんなものか考えたことはありましたが、それとは全く違って……」
「地獄はどちらかといえば熱いそうですね」 若者が静かに言った。
「でも、寒かった。子供の頃、間違って物置に閉じ込められたときに似ていました。十一月の夕方の、あの数時間が永久に続いている気分でした」
 蒼白い輪郭がふと朧になり、また元に戻った。死者の魂はこんなふうに身震いするのだろう、とジャックは思った。こうして傍目に見ただけでは判らないが、きっと冷や汗をかいたり、鳥肌を立てたりもしているのだろうと。
「それで、どれだけ経ったか、……声が聞こえました。女性の声です。母の声だ、と思ったんですが――ぼくの母ではなかった。誰か別の、まだ生きている人の母親でした。息子が陸軍に入るから、何かお守りを買ってやりたいと……この聖書ならふさわしいと……」
 兵士の声は明らかに震え始めた。今までも多少は――それが感情によるものか、あるいは霊魂特有の揺らぎによるものかは定かでないが――帯びていた微かな不安定さが、いちどきに噴出したようだった。
「ぼくは――ぼくは止めなければと、今度こそ本当のことを言わなければと思ったんです。こんな作り物に、あなたの大事な人を守る力なんてないと……でも、もう死んでいるぼくにできることは何もなかった。ただ悔やむ以外には何も」
「正確なところを言えば、何かしらは起きていたんだがね」
 彼は依頼人の話を思い返しながら答えた。例の婦人が語った数々の怪奇現象は、当然この亡霊の思念が引き起こしたものと考えていいだろう。事実そのために婦人は考えを変え、聖なるお守りを呪われた品としてここに持ち込んだのだ。
「まあ、結果的に品は買い手を離れて、今は僕のところにある。僕たちは君の告白をすっかり聞いた。君とこの本にまつわる『伝説』は、全て嘘だと理解できた。あとは君の魂が何故、まだ大地から解放されずにいるか、だ」
「それは」
 兵士は間を置かず言った。 「それは、何故もなにも……ぼくのしたことを考えれば、当然のことです」
「どうして?」
「ぼくは聖書を、神様や主のお言葉を冒涜したんですよ。それも誰かに命令されたり、脅されたりしたわけじゃなく、ぼく自身の意志で。そんなこと神様がお赦しになるはずがありません。だ、だから」
 亡霊の顔にはもちろん色などなかったが、彼の目にはその頬に赤みが差してくるように見えた。羞恥や罪悪感から生み出される、身を焼くような熱い血潮の気配が。
「だからぼくは死んでしまったし、こうしてどこにも行かれないのです。全てぼくのせいです。ぼくの……」
 彼はどこから話し始めようか迷った。このままでは霊魂の重荷が増してゆくばかりだろう。しかし、死者の言葉を遮るほど無慈悲なこともない、とも感じられたのだった。

「あー……」
 その時、ジャックの対面から何か言いたげな声が上がった。例の若者である。体は兵士のほうに向けたまま、あるかなしかの微笑を浮かべた顔の横に、片手の人差し指を立てる格好だった。おかげで何やらダ・ヴィンチあたりが描いた宗教画のような風情さえあったが、若者自身にそのつもりは恐らくないだろう。
 亡霊は言葉を途切れさせ、唐突に割って入った者の顔を見た。ジャックも出方を窺うように軽く首を傾げた。二名の注目を受けて、若者は小さく咳払いをした。
「もし宜しければ、ちょっと発言したいんですが」
「僕は構わないけれども」
 彼が答えて暫し、おずおずとした様子で兵士が頷くのがはっきり判った。彼は再び聞き手の態度に戻りつつ、果たしてこの若者が何を言い出す気なのか、ここに来ていきなり相手を罵倒し始めたりしないだろうかと、いくらか過剰に心配をした。
「私はあなたが自責するような、あー、個人にとってどうしようもない不幸が起きたとき、自分自身の道徳性を理由にするのはあまり宜しくないと思うんですよ。つまり、自分が不道徳だったとか、信仰を損なったとかして、そのために神の罰が下ったという考え方はね」
 幸い、彼が思ったほど若者の言葉は攻撃的でなかった。否――亡霊を攻撃するようではなかったが、代わりにもっと大それたものに対して過激な言動ではあった。
「あなたが死んだのは、もちろん様々な原因が影響しあってのことでしょうが、最終的には『運が悪かった』に尽きるんじゃあないですかね。待ち伏せしていたドイツ兵だって、なにも明確にあなた一人を撃ち殺してやろうとは思っていなかったでしょう。近づいてくる米兵たちを集団で銃撃した結果、たまたまそのうちの一発があなたに当たった、それだけです。そして、死んだあなたがまだ現世にいるのは、『自分は天国には行けない』と思い込んでいるからでしょう」
 特別悲しんだり残念がったりするでもない、至って淡白な口調だった。
「まあ、ひょっとして、もしかしたら、あなたが死んだうえこの世に留まったのは神の意志だったかもしれません。でも、それなら悪いのは神のほうであってあなたじゃあない。今日びまともな判事なら、判決の前に一回ぐらいは被告に抗弁させますよ」
 良くも悪くも、この発言は死者の心を今までになく騒がせたようだった。亡霊はまるで生きているかのように瞬きをし、瞳孔の開いた目を泳がせ、やがてジャックの顔に視線を注いだ。彼にとってある意味では好都合だった――話し始める格好のタイミングを得られたわけだ。

「そうだな、いや、僕の意見としては――君が死んだ理由については、君自身の善悪と無関係だろう。少なくともあの戦争にあって、善人はより生き残りやすく、悪人は死にやすいなんてことは無かった」
 ジャックはゆっくりと、自分自身の記憶を確かめるような調子で始めた。死者と真っ直ぐに向き合いながら。
「その上で、ここから先は彼と解釈が違うところだ。君がまだ地上にあって、魂の行き先が決まらずにいること、それは神様の思し召しだと思うんだよ」
 若者がほんの少しだけ眉と目を動かし、彼の表情を窺うような素振りを見せた。どうも宗教的なものの考え方には馴染めないたちなのだろう、と彼は察した。
「良いかな、人が死ぬと、普通その魂はすぐに行くべきところへ――人によって天国だったり地獄だったりするわけだが、とかく定めに従って導かれるというのが、広く伝えられている教えだ。もし君が本当に罪深い人間なら、君はとうに地獄に落ちているはずだ。でも……」
 彼は蒼白な人影を上から下まで眺め、再びその顔に視線を戻した。
「僕の考えとしてはだが、神様はとうに君をお赦しになっているんじゃあないかな」
「えっ?」 高く掠れた声が、震える唇から溢れる。
「君は確かに罪を犯した。けれども、それを確かに罪だと認め、ずっと悔やんでいた。誰かが聖書を譲ってほしいと言ってきたとき、君は断ったじゃあないか。既に得た名誉はそのまま、さらに金まで手に入るかもしれなかったのに、そうしなかった」
「それは……その通りですが」
「自分の罪を告白しなければならないと、君はずっと考えていた。間違った噂話が広く伝えられるままではいけない、どこかで正さなければと。残念ながら、その前に君の命が尽きてしまったわけだが……」
 記憶の中にあるフランスの光景が、彼の眼前にちらついた。――自分は生き延びたが、この青年はだめだった。二人の間にどれほどの道徳的差異があっただろうか? 死んでしまった仲間たち、あるいは殺してきた敵兵と比べて、自分はそんなにも善良だったか?
 もちろん彼は是と言わないし、また否とも思ってはいない。決めるのは自分自身ではないからだ。
「一度やってしまったことは、決して無かったことにはならない。穴の空いた表紙も、焼けたページも、潰れた弾丸も、どれだけ悔やんだところで元に戻りやしない。――だからといって、その過ちを償いたいという気持ちまで、全くの無意味ではないと僕は思う」
 誓いの言葉を述べるときのように、金属張りの表紙に手を置いて、彼はもう少し笑みを深くしてみせた。
「きっと神様も、そう願う君に慈悲を掛けてくださったんだよ。君が思い残したことをやり遂げて、心安らかに眠れるように、罪を雪いで元の君自身に戻れるように、最後のチャンスをお与えになったんだ。そのお計らいで、君の聖書は僕らのところにやって来たんだろう。……というのは、虫のいい考えかなあ」
 目の当たりにした青年の顔は、今にも泣き出しそうになっていた――死人にそんなことは有り得ないのだが、それでも彼には瞳の奥に、ささやかだけれども明らかな光を見たと思った。
「いいえ……いいえ……」
 青年は頭を振った。被っている略帽の縁が、その動きから逸脱し、大きく揺らいで消え去った。いや、帽子だけではなく全てが、死者をこの世に留めようとする努力を止めていた。ジャックは大きく息を吐いた。呪いが解けたのだ。青年が自分自身に掛けていた、最も大きな縛めが。
 今や輪郭も朧な青年が、その片腕を彼のほうに伸ばした。恐らく彼の手を取ろうとしたのだろうが、触れ合うことはなかった。彼が握手めいて差し出した右手の前で、青年の指先が音もなく崩れ、暖かな粒子となってこぼれ落ち、暗闇に溶けて消えていった。
 ――あえかな光が絶え入る刹那、青年は確かに、「ありがとう」と言った。ジャックは確かに聞き取った。決して幻聴ではなかった。続けざまに、ぱきんと硬いものが砕ける音がして、再び部屋のランプが点いた。

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