進路調査票の志望欄に、正直に「魔法使い」と書くかどうか、十五分ぐらいはずっと迷っていた。

はじめにのはじまり -Prologue-

 迷ったすえに「進学」と書いた。先生も両親も、反対こそしないだろうけれど、諸手を挙げて賛成してもくれなさそうだったからだ。三者面談で余計なことをあれこれ聞かれるのはめんどうだし、実際わたしも本当に魔法使いになっていいのかまだ悩んでいる。いや、魔法使いにはなりたい。ただ、今の先生にこれからもずっと教わって、そのひとを後見人にして正式な魔法使いになるのがいいことなのかどうか、それが今のところの問題だ。
 義務教育もあと一年とちょっとで卒業だから、あんまりのんきにしてもいられないのに、わたしの先生は未だにわたしを「魔法使いの弟子」ではなく、「雑用係のアルバイト」ぐらいにしか思っていないようだ。いや、アルバイトならまだいい。お給金が出る。わたしは無給で先生のパシリをやっているのだ。もうすぐ十五歳になるわたしにだって、この国の労働基準法がどういうものかぐらいは解っているというのに――この国の制度は魔法使いにあんまり優しくないということも、そのついでにちゃんと理解はしている。
 「人口あたりの魔法使いの数ランキング」では、イギリスやドイツや日本なんかの名だたる国に混ざって、トップ10には必ず顔を出すような国なのに、この国は魔法使いをあんまり珍重していないように思う。セントエラスムス市7区のラナンキュラス通りという、わりとグローバルに知られた魔法の名所があったとしても、それを特別推してくれる気配もない。ブロードウェイやウォール街やアキハバラとはえらい違いだ。魔法使いの免許を持っているぐらいでは、就職で有利になったりしないのである。
「ケイリー、もう帰んの」
「帰るよ書き終わったから。適当でいいんだよこんなの」
 スチールの机に突っ伏して、「でもぉ、決めらんないんだもん、地元居たくはないんだけどー」とかなんとか喚く友人を、わたしはその場に取り残して教室を出た。フランスへ留学した先輩の後を追うのが彼女の望みらしいが、昨年度の成績でそれができるかは正直かなり怪しい。

 春のぽかぽかした、を通り越してぎらつくような陽気から逃げるように、石造りの塀の影を渡り歩きながら、狭い石段を上ってゆく。まだ四月だというのに今日は夏日だ。シャツに汗がにじむのを感じる。前髪が額に張り付く。短くしてしまえば楽なのは解っているけれど、理髪店に顔を出すのがなんとなく邪魔くさくて、わたしのブルネットは二年前から伸ばしっぱなしだ。周りでは同じ中学校の生徒たちが何人も、大通りへ向かって行き過ぎてゆく。わたしの家もあちらにある。けれど、今のわたしの足はその先に向いてはいない。
 バス停のある角を右に曲がって、サンドイッチショップの前を通り過ぎ、曲がりくねる道をずんずん進む。歩幅が大きいと頻繁に言われる私が、早足で歩いて十五分。このあたりまで来ると人通りもまばらで、わたしのような中学生が歩いていることはまずない。そして道の左手に、小さなパン屋と煙草屋に挟まれて、そう広くもない通りが口を開けている。石壁の間に、古びた金属のアーチが掛かっている――「Ranunculus Street」。
 セントエラスムス市7区、ラナンキュラス通り。この国で一番魔法使いの多い(とされる)場所だ。

 魔法使いの通りといったって、見た目にはただの「閑静な住宅街」というやつで、坂道の両側に家が立ち並び、塀の上に猫がいて、クーラーの室外機がぽつねんと置かれていたりする。角のところで古い古いパブが――この国がまだイギリス領だった頃からここにあるらしい――カフェ営業をやっていて、そこそこ人が入っている。加えてどの建物でも、前庭や窓辺や吊るし棚で、絹のような花びらを何重にも連ねたラナンキュラスの花を、通りの名そのままに育てている。ラナンキュラスは今が盛りの花だ。赤、オレンジ、ピンク、紫……
 そして、そんな通りにたった一軒だけ、ただの一本もラナンキュラスを植えていない家がある。主人がひねくれ者らしく、代わりにこれも今が盛りの蔓薔薇を、見せびらかすように石壁へ這わせている家がある。
 わたしの先生の家だ。

  * * *

 鉄製の門にわたしが近づくと、ひとりでに閂が外れてがちゃんと音を立てた。前庭に足を踏み入れると、また後ろでひとりでに閉まる。がっしゃーん、ぐらいの大きな音が、静かな通りに響き渡った。どうも先生はかなりご機嫌斜めらしい。面倒なことになってしまった。
 くらくらするような薔薇の香りをかき分けて、玄関扉までたどり着く。表札もなければノッカーもない。商売をしているのだから、「Welcome」とか書いたプレートでも掛けておけばいいと思うのに、先生はどうにも消極的な人だった。わたしは通学鞄から合鍵を取り出して、年季の入った鍵穴に突っ込んで回した。重たい響きがして錠前が外れた。
 木製のドアを開けたとたんに、中から冷気が流れだす。いくらなんでもクーラーが効きすぎだ。魔法でもうちょっと体に優しいかんじに冷やせばいいのに、先生はそういうことに魔力を使うのは無駄遣いだと思っているらしい。先生にとっては、かさむ電気代と魔力の消費なら電気代のほうがマシだってことだ。わたしだったらお財布の無事を取ってしまう。
 この広くもない、けれど小綺麗な玄関を抜けるのも、今年で三年目になる。その間、わたしはこの家の掃除をしたり、先生にお茶を入れたり、お客さんに応対したり、魔法薬に使うハーブをスーパーに買いに行ったり、タクシー代を立て替えたり、花の水やりをしたりしてきた。魔法らしいことをした覚えがほとんどない。先生はわたしを魔法使いにする気が本当にあるんだろうか。
 
 その先生は居間で、一人がけのソファに全身を深く沈め、ご大層に脚など組みながら、
「遅かったじゃあないですか」
 わたしの顔をじろりと見るなりそう言った。ご自慢の赤毛が(先生は「赤ではなくバーガンディーだ」と主張する)今日もなにやら凝った編み込み入りのお団子だ。二十一世紀の魔法使いはフードも三角帽子も被らない。ヘアスタイルにだってこだわるし美容院にも月二回行く。そんなに行く必要はないとわたしは思う。
「そりゃあ、わたしにだって、先生のパシリ以外にもやることがありますし」
 先生とは別のソファに鞄を置いてから、わたしも露骨に嫌そうな声を作って言い返す。もちろん先生は全く動じた様子も見せずに、さっさとお茶とデザートを持ってきなさいと、ぞんざいな態度で指図した。やっぱりわたしを何か、パートタイムの家政婦か何かだと思っているような気がする。だったらせめて、世間のティーンが週末の子守りでもらうぐらいのお小遣いを、わたしに対して支払ってくれたっていい。先生の食品用の冷蔵庫(秘薬や素材用の冷蔵庫はもちろん手出し無用だ)の中身を知り尽くしている人なんて、世界中にわたししかいない。先生もたぶん、自分の冷蔵庫に今なにが入っているのか完全には解っていないはずだ。
 ちなみに今の冷蔵庫には、昨日ご近所さんからいただいたレモンメレンゲ・パイが二切れ分と、冷凍室にキャラメル味のアイスクリームが三カップ入っている。戸棚の紅茶はアールグレイとキーマンがそろそろ底をつきそうだ。パッケージに惹かれて買ったはいいけど、封も切らずに置いてあるヌガー・バーが、もうあと二日で賞味期限を迎えることだって知っている。けれどわたしは先生の年齢も、経歴も、名前も、本当の性別すらまだ知らない。

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