インクの匂いをかぐと、本屋よりも文房具屋を思い出す。この店のせいだ。

剣より強しと言いたくて -Automatic Autograph-

  日曜日の午前十時過ぎ、ラナンキュラス通り9番地。紺色のペンキがはげかかった古木戸は、手をかけただけできしむ音を立てる。その扉を開いて中に入ると、壁一面に細長い箱がぎっしり詰まっていて、手前にはガラス瓶に立てられた何百本という数のペン。よくある万年筆やボールペンだけじゃなく、普通の鉛筆やパステル、チョーク、絵筆と絵の具、古めかしい羽根ペンや葦のペンなんてものもある――ここに来るたびわたしは思う。この世にはどうしてこんなにも、書くためのものが溢れかえっているのだろうと。

「あの、ごめんください」
 売り場の中央、積み上げられた色とりどりのインクのそばから、わたしは奥のカウンターに向かって声を投げた。はいはい、と男の人の声がして、古めかしい木の台からにゅっと顔が現れる。人の良さそうな、明るい青色の目がわたしを見た。
「やあ、どうも、この間ぶり。色鉛筆、気に入ってもらえた?」
「おかげさまで」
 カウンターの前まで早足で向かいながらわたしは答える。ずいぶんすり減って削りきれなくなった青い色鉛筆を、ここで補充したのが二週間ほど前のことだった。
「それで、えっと、先生に頼まれて来たんですけど、注文してたっていう万年筆――」
「ああ! もちろん出来てる、ちょっと待ってて。ドクターの箱を置いたのは、確か……3Aの棚のこの引き出し。うん、よし、これだ」
 白いシャツの腕はしばらくカウンターの向こう、ずらりと並んだ木製の棚の前をさまよっていたが、やがてひとつの取っ手をさっと引き開けて、中から黒い紙箱を抜き取った。箔押しされた金文字で、「Mayer & Schreiber」と印字されている。マイヤー&シュライバー、それがこの店の名前だ。わたしの目の前にいるのはシュライバーさんのほうで、マイヤーさんのほうには一度もお目にかかったことがない。
「ドクターから注文をもらうたび、毎度思うんだよなあ、あの人自分で文字を書くんだ、ってさ。こう言っちゃ失礼だけどね」
「いえ、解ります」 わたしは頷く。 「誰でも思うんじゃないでしょうか」
 直筆の返事を出すのが面倒なばっかりに、マスター・スターンテイラーの厄介な訪問を断りきれないでいるような先生だ。世の中には「ペンより重いものを持ったことがない」なんて言い回しがあるけれど、先生ならもはやペンすら重くて持ちたくないって感じだろう。そんな先生でも一応、もろもろの事情から、筆記用具というものは持っているのだった。しかし言うまでもなく、筆記用具を自分で買いに行くなんて面倒は、弟子に全て押し付けたっきりだ。
「さてと、確認してもらえる? 今回はペン先が18金の太字ブロード、軸は銀無垢。あの人ちゃんと銀製品のお手入れ日常的にできるのかな、――もとい、けっこう重たいけど書き味は最高だよ。模様はご注文の通りにアラベスクを彫り込んである。代金はもう貰ってるから、受取証だけサインして貰って」
 シュライバーさんの手によって開けられた箱の中には、細やかな曲線の模様がきっちりと彫金された、太軸の万年筆が一本、いかにもうやうやしく鎮座していた。ペン先が金。軸は純銀。――万年筆なら学校で使うからわたしも持っているけれど、確か素材はステンレスとプラスチックの代物だ。普段使いの筆記用具なんてそんなものだろう。先生にとって筆記用具が普段使いのものでないのも事実だが。
「はい、確かに……って言ってもわたしにはよく解らないんですけど。とにかく、シュライバーさんの作るペンのことなので、きっと大丈夫なんだと思います」
「そりゃ有難い。信用ってのは大事だね、本当。ドクターにも大事にして貰えると嬉しいんだけど、……実際何に使うんだと思う?」
「それについては、はっきり解ります」
 受取証に「Cary Owl」とサインしながら、わたしは自信をもって答えた。
「お客さんの前でこういう領収書や契約書を作るとき、いやに格好つけて署名をするためだけに使うんです」
「……そいつは若干不本意だな」
 レンガ色の髪を掻きながら、シュライバーさんは少し力のない声で言った。わたしもちょっと申し訳ない気分だった。でも、先生が万年筆というものを日用していないのは事実なので、こればっかりは正直になるしかない。
「いや、でも、うちのペンは格好つけたい時に使うに値する、って思ってくれてるだけまだ光栄なのかもなあ……」
 言いながらも、化粧箱を閉じ直し、店名の入った紙袋に収めて、わたしの差し出した受取証と引き替えにするシュライバーさん。この人が物を扱うときの手つきは、いつだってきびきびとして、でも丁寧でとてもかっこいい。黒いチョッキや蝶ネクタイと相まって、まるで高級なデパートの文具売り場にいるみたいだ。……いや、先生が注文したこの万年筆は間違いなく高級なものだろうけど、この店でよく売れる商品は、一本5ユーロ以下の「普通の」筆記用具ばかりのはずだ。

「さあ、これで良いかな。確かに預けたから、大事に持って帰ってくれよ」
「もちろんです、何かあったら怒られるのは当然わたしですから、……あの、シュライバーさん」
「何かな?」
「その、マイヤーさんのほうは、お元気にしてらっしゃるんでしょうか」
 紙袋を受け取って、わたしはやや控えめにそう尋ねた。明るい青い目が丸くなったかと思うと、たちまちシュライバーさんは口元を緩め、
「元気かって、もちろんフロイラインはいつでも元気で可愛い盛りさ! ほら、ご覧の通りだよ」
 と、カウンターの奥を片手で示しながら答える。そこには商品が入っているのだろうダンボール箱やらプラスチックのケースやらが積み置かれ、壁には伝票やスケジュール表やカレンダーが沢山留められているけれど、人影らしきものはただの一つもない。
「……ご覧の通りって言われても、わたしにはご覧になれないんですけど」
「ああ、そうか、そうだった」 シュライバーさんがいたずらっぽく笑った。 「ま、仕方ないけど」

 筆記用具専門店、「マイヤー&シュライバー」のマイヤーさんのほうは、幽霊だった。より正確に言うのなら、幽霊「だと主張されていた」。

  * * *

 いわゆる霊感だとか、死霊術師としての才能といったものがないわたしに幽霊が見えないのは当然として、シュライバーさんの言うところの「フロイライン」――この店のもう一人の経営者、マイヤーさんの姿を見たものは今までに誰もいなかった。シュライバーさんは彼女が幽霊だからだと、当たり前のように説明している。けれども、お客としてやってくる魔法使いの誰一人として、彼の言う幽霊を認識できないというのは、ずいぶん不思議な話だった。
 ただ、だからといって「そんな幽霊は存在しない」と断言するような野暮な人はラナンキュラス通りにはおらず(というよりも、そう言って話をこじらせるのを面倒がるような魔法使いしかラナンキュラス通りにはいないので)、この店の名前は五十年以上もずっと「マイヤー&シュライバー」だし、シュライバーさんはいつでも「フロイライン」ことマイヤーさんの近況について嬉しそうに聞かせてくる。たとえば、こんな具合。
「実は今日、午後のオープンをちょっと遅らせようと思っててね。フロイラインが久し振りに、おれの手作りの玉ねぎタルトツヴィーベルクーヘンを食べたいって言ってくれてさあ、これはお昼休みを長めに取るしかないなって――」
 わたしはそもそもシュライバーさんとマイヤーさんがどういう関係かすら知らないし(お嬢さんフロイラインなんて呼ぶぐらいだから一応他人同士なのだと思う)、彼らの昼食のメニューもさして知りたいとは思わないのだが、シュライバーさんはそんなことお構いなしだ。
「でも、その前に仕事を片付けなきゃならないのはおれもフロイラインも同じなんだ。さあフロイライン! 今日はどのペンを使って書こうか?」
 誰もいないように見えるカウンターの奥へ、シュライバーさんは手を差し伸べる。多分彼は「フロイライン」をエスコートしている。腕はすぐに引き戻され、首を傾げて少しの間。もちろん、わたしには幽霊は見えないだけじゃなく、声を聞いたりすることもできない。この国にそれほど心霊スポットと言えるものはないはずだけれど、とりあえず今までそういった心霊現象に遭遇した経験は皆無だ。
 やがてシュライバーさんは、足取り軽くカウンターから出てくると、わたしの横をすり抜けて、万年筆の売り場へまっすぐ歩いてゆき、試し書き用の見本のうち一つをさっと手に取った。深緑の軸の両端を、両手の指でつまんで掲げ持つ。
「ああ、これは実に良いペンだよなあ! ニブは14金の太字、軸はレジン、吸引式。握りやすいし重すぎもしないから、長い文を書くにはぴったりだ。インクはどうする? ――"ストラトスフィア"? 了解、今準備しよう」
 事情を知らなければ、彼は一人で空気と会話する、あんまりお近づきになりたくない人だ。いや、事情を知っていても、相手がたの声が聞こえない以上は、やっぱり何度居合わせても戸惑いしか感じない。そんなわたしをよそに、シュライバーさんは棚からインクの瓶を一つ取り上げる。ぱっと見ただけではただの真っ黒な液体だ。けれどもそれは、持ち上げられて店内の明かりに透かされたとたん、空の色をぎりぎりまで煮詰めたような深い深い青だと主張するのだった。成層圏(ストラトスフィア)だ。
「さてさて、昨日はどこまで書いたんだったっけ? このペースだったら、締め切りまでかなり余裕をもって仕上がりそうだ。まったく、フロイラインは速筆で素晴らしいよ!」
 カウンターの内側へと戻ってゆくシュライバーさんを、わたしは曖昧な笑みを浮かべながら見送った。
「あのですね、ええと、シュライバーさん」
「何かな、ケイリー?」
「その、わたし、美術の授業で使う絵の具をちょっと買い足したくて……お邪魔はしませんので、もうちょっとこのへん見て回ってます」
「それはもちろん! 何かあったら遠慮なく呼んでくれよ、お邪魔だなんて全然思ってないから!」
 ほがらかな声が返ってくる。カウンターの上にはペン立てとインク、それに分厚い紙束が用意されて、シュライバーさんも既に着席していた。座り心地のよさそうな革張りの椅子だ。やっぱりドイツ製だろうか。
 絵の具を買うと言った手前、わたしはアクリルガッシュの並んだ台の前まで移動するけれど、視線はやっぱり店の奥から外せないままだ。シュライバーさんはさっき選んだ万年筆を手に、リラックスした様子で目を閉じている。書き物を始める前に集中するため? 普通のライターだったらそうなのかもしれない。精神集中でなくても、書き始める前に何かしら考える事の多いタイプの人はいるだろう。けれどもシュライバーさんはそういう人ではなかった。彼には全く別の事情があるのだ。

 少しの前を置いてから、シュライバーさんの握るペンが静かに動き始めた。今まさにアイデアが降りてきた、といった風だ。ペン先は休むことなく紙の上を滑り、かなりのペースで文字を書き続けているのがここからでもよく解る。わたしたちが「作家」とか「文豪」と言われて思い浮かべるような、まさに文章を生業とする人の姿そのものだ。ただひとつだけステレオタイプと違うことがあるとしたら、シュライバーさんは手元を全く見ていないということだろう。単純に目を向けていないだけじゃない。彼は完全に目を閉じていた。
 自動筆記、と呼ばれる技術がある。魔法の一種だと言って差し支えないだろうし、もう少し厳密に言うなら死霊術とか心霊術のたぐいに入るのだろう。わたしたちのような子供がやるウィジャ盤遊びの進化系みたいなもので、幽霊が勝手にペンを動かし、人に代わって文字を書くのだ。死者に取り憑かれているとか、神がかりだとか、そういった仰々しい説明がついてくることもあるけれど、そういう仰々しい説明をつける人にかぎってインチキだというのは、魔法使いでなくとも知っていることである。
 そしてシュライバーさんのもう一つの仕事は、この自動筆記を使って小説を書くことだった。いや、彼の話をまるっきり信じるのなら、小説を書いているのは彼ではなくて「フロイライン」、マイヤーさんのほうだ。幽霊の作家だから幽霊作家、なんていうのはフィクションでも使い古されたネタだと思うけれど、現実でお目にかかったのはこのケースが初めてで、それはそれは驚いたことを覚えている。
「おっと……なあフロイライン、ここは『言うまでもなく』じゃなくて『言うに及ばず』とかに変えたほうがいいんじゃないか。さっきの段落と表現が重なってしまうから。――そう、そのほうが言葉のリズムも良くなると思う。悪いね、手を止めて」
 作家、ルートヴィヒ・シュライバーはゴーストライターを使っている――なんて響きだけ聞いたら一大スキャンダルのように思えるけれど、シュライバーさんは初めて本を書いたときからずっと、「自分の物語は幽霊が書いている」と主張し続けているのだそうだ。けれども、さすがに死人が雑誌に連載を持ったり新作で文学賞を受賞したりするのは不都合にすぎるので、名義はいつまでもシュライバーさんのままだ。つまり、マイヤーさんのペンネームが「ルートヴィヒ・シュライバー」だとも言えるかもしれない。考えると訳が解らなくなってくる。
「うん、どうかしたか? ――ああそうだ、できればここはなるべく削らないほうがいいと思う。おれの考えではなんだけど、フロイラインの書く文は、とびきり濃いところとさっぱり終わらせるところの抑揚がいいんだよ。強弱は大事だから……」
 となると、生身のシュライバーさん……という表現が正しいかどうかはともかく、作家でないほうのシュライバーさんは、さしずめ編集者といったところなのだろうか。もちろん現実には、ちゃんとどこかの出版社から担当の人がついて、幽霊が書いたと言い張る原稿をチェックしてくれているのだろう。書き手の気まぐれでインクの色も字の細さもころころ変わる直筆原稿を。
 想像してみたら相当読みにくい原稿だ。担当編集さんに幽霊の女の子への理解があれば良いのだが。

 「幽霊作家」とその代筆人の執筆風景を、ぼんやり眺めていたら後ろのほうで扉が開く音がした。そういえば絵の具のことをすっかり忘れていたな……と思いかけたとたん、
「げっ、ケイリー・オウル!」
 という、ほとんど声変わりしていない男子の叫びが耳に飛び込んできた。「げっ」はこちらの台詞だ。ああ、どうしてわたしはいつも、上手いタイミングでその場を立ち去りそこねるのだろう!
「……あんたがこの店知ってるなんてね、ビアンコ」
 視線だけをちらりと戸口へやりながら、わたしは低い声で呟いた。本心だ。
「ああ? てめえに言えた台詞かよ、このバタースカッチ! ――だあっ、違う!」
 そして、わたしの冷たい目を受けた、小学生にしか見えない中学三年生の問題児ことヴァレンティーノ・ビアンコは、馬鹿みたいに大きな声でバター飴の名前を叫んだあげくに頭を抱えていた。まだ例の、「何か汚い言葉を使おうとすると、それが全部お菓子の名前に置き換わる呪い」は解いてもらえていないらしい。当然だろう。
「カスタードプディングでもバタースカッチでもなんでもいいけど、あんたの声はお客さんの迷惑だし、黙ったら?」
「客なんて他にてめえだけだろ」 ビアンコが吐き捨てた。
「つまり、わたしが迷惑してるって言ってるの。そういうあんたこそ、何? 客だとしたら何しに来たの?」
「じじいのペンの修理だよ! 自分で行きゃいいのに休みの朝からこき使いやがって!」
 ビアンコは肩から下げていた黒い鞄に手を突っ込むと、おそらく本革で作られているのだろうペンケースを引っ張り出した。その年季のほどがひと目見ただけで伝わってくる、深いつやのある焦げ茶色の長方形は、子供の手の中であまりにも場違いなほど高貴に見えた。
「――えっ、何? いま修理って言ったかな?」
 店の奥からシュライバーさんの声が聞こえ、わたしはそちらを見た。二つの青い目がちゃんと開かれて、新しい来客のほうを見ている。まあ、これだけ大声を出していれば、さすがに無視して書き物をするわけにもいかないだろう。ビアンコもようやくそこで憎まれ口を叩くのをやめ、大股にカウンターまで歩み寄って、店主の前に姿をさらした。
「修理。連絡はもう行ってるから物だけ渡してこいってよ」
「ああ! じゃあマスター・ウィペットだな、確かに聞いてる。ということは、つまり君が、マスターの新しい見習いの子かな?」
「そうだよ」 不機嫌そうな返事。 「魔術師の見習いで、雑用係じゃねえからな」
「いやあ、おれの知る限り魔法使いの見習いってのは雑用係と同義だと思うけど。ともかく、じゃあ初めまして。おれが『マイヤー&シュライバー』のシュライバーのほう、ペン屋のルートヴィヒ・シュライバーだ」
 ぶすっとした態度のビアンコ、シュライバーさんはいつも通りの人好きのする笑顔で、握手のための手を差し出す。温度差の激しい二つの「よろしく」の後、店主はその手で自分の隣の空間をさして、
「で、こっちがマイヤーのほう……カトリーン・マイヤー。見えても見えなくても、仲良くしてやってもらえたら嬉しいよ、たぶん同い年ぐらいだろうから」
 と、ごく当たり前のような紹介を行った。ここからビアンコの表情は見えないけれど、きっと怪訝な顔をしていることだろう。そしてわたしは、マイヤーさんの外見が思ったよりずっと幼いらしいことを初めて知った。ビアンコと同い年ぐらいなら、少なくとも十五歳未満ってところだ。
「……それで、」
「そうそう、それで修理の話だった。とりあえず見せてもらっても?」
 何もないスペースを紹介されて反応に困ったのだろう、マイヤーさんのことには何一つ触れずに、ビアンコは本題に入った。シュライバーさんもそれ以上は幽霊の話をすることなく、問題の品をカウンターに置くよう言った。
「うん、やっぱり、いつ見ても立派なペンだ。よく手入れがされてるし、丁寧に使われていて――おれがペンだったらこういうペンになりたいね。そんな感じじゃないか?」
「さあ」 ビアンコの返事はつっけんどんだった。

 会話を聞きながら、わたしは売り場から黄色と白のチューブを手に取り、カウンターへと向かった。もちろん買うと言ったものを買うためでもあるけれど、単純に、今話題になっているそれがどんなペンなのか気になったのだ。
 今日び、いくら魔術師といったって特別魔法っぽいペンを使っているわけじゃなく、たいていの人はそのへんのスーパーでも売っている五本入り2ユーロのボールペンとかだろうし、場合によってはうちの先生みたいに、自筆の署名が必要なとき以外はそもそも文字を書かない、なんて人もいるだろう。羽根ペンなんか日用してるのはマスター・スターンテイラーぐらい。例えばメルラさんは自分の店の領収書を黒い油性ペンで書くし、「ルサールカ」のマリンカさんはカランダッシュの鉛筆をグロスで買って愛用し、「ほら、『一方ロシアは鉛筆を使う』のさ」と言っている(何かのジョークらしいが、わたしには元ネタが解らない)。
 だからマスター・ウィペットが使っているのも同じ、何度も修理して使い続けられるほど上等なものだとしても、特別に魔法使いらしいところのない万年筆かなにかだと予想はしていた。そしてカウンターを覗き込んだわたしが見たのは、予想とちょっと違った「魔術師のペン」だった。
「ずいぶん、――古いかんじのペンなんですね」
 それは銀色の、たぶんメッキでなしにちゃんとした銀でできている、膨らみのある軸を持ったペンだった。万年筆じゃない、インクに直接ペン先をつけて書くタイプのペンだ。軸の表面は花や葉や羽根のような刻み模様で覆われ、溝の部分に黒ずみはあるけれど、全体的にはぴかぴかに磨かれた一本の宝物だった。
「てめえ、なんでまだいるんだよ」
「客なんだから、買い物が終わるまではいるに決まってるでしょ」
 ビアンコがじろりと睨み付けてきたが、その文句には長く付き合わずに、わたしはシュライバーさんのほうを見る。
「古いかんじ、というより本当に古いんだよ。イギリスのヴィクトリア朝時代の……確か1845年のモデルだったかな?」
「せんひゃっぱ――」
 事も無げに言われたその数字を、わたしは思わずオウム返しにし――驚きのあまり噛んでしまって、慌てて言い直した。
「1845年、つまり、170年前のペン」
「そういうこと。素材はスターリングなんだけどね、いくら毎日使うタイプの筆記具じゃないとはいえ、びっくりするぐらい綺麗だろう?」
 シュライバーさんは白い手袋をはめて、ケースから銀の彫刻品をそっと取り出し、じっくりと見た。どこを直さなければならないのか確かめているのだ。ペン先から部品同士の繋ぎ目、そして軸のお尻まで、何度かひっくり返したりしながら。
 一通りの見分を終えると、彼はペンをケースに戻し、それから穏やかにこう言った。
「これはね、真実の愛を書くペンなのさ」

 聞きなれない言葉だった。ビアンコが顔をしかめて、
「あのジジイが真実の愛とか、マジかよ」
 と、相変わらず失礼なことを言っている。
「いや、別に愛限定って訳でもないんだけど……そうだな、まあ要するに、『相手に対する自分の本心しか書くことができないペン』ってことだ」
「そんなものあるんですか、いや、それって、魔法のペンってことですよね」
 この、目の前にある一本のペンが。わたしの問いかけにシュライバーさんは頷き、ペン先と軸を繋ぐ金具を指さした。そこにも軸の部分と同じように、細かな模様のようなものが刻印されている。
「肉眼ではちょっと分かりにくいかな、ここに魔法の呪文が刻まれているんだ。物に刻みつけることで発動する、ルーン文字なんかと同じ刻印魔術の一種。誰か特定の相手、自分が何らかの想いを抱いている相手に対しての言葉でないと、このペンでは書けないんだよ」
「じゃあ、つまり、ほとんど手紙ぐらいにしか使えないペンなんですね」
「そう。そして、書き手の意志にかかわらず、実際に紙に綴られるのはその本音だけ。思ってもいないお世辞やお愛想を文字にすることはできないんだ。逆に、本音でありさえすれば、どんな悪口だって書けるけど――」
 そこで一度、説明が途切れる。すかさずビアンコが話に割って入ってきた。
「それで、ジジイはそれを何に使ってたんだよ」
 いかにも面白くなさそうな声だ。持ち込んだ自分が無視されているようで、機嫌を悪くしたのかもしれない。ただ、ビアンコの悪態はともかくとして、マスター・ウィペットのペンの使いみちは、わたしも純粋に知りたかった。シュライバーさんはさっき「真実の愛を書くペン」と言ったけど、つまりそれは、あのイギリス紳士が誰かにラブレターを書くために使っていたということなのだろうか。
「そりゃあもちろん、ラブレターを書くために使っていたのさ」
 案の定、シュライバーさんの答えは実にきっぱりとしたものだった。ビアンコがあからさまに顔をしかめた。まあ、こいつに愛とか恋とかいうような話は早すぎるだろうなと思う。見た目だけじゃなく中身も小学生だから、そういうことを理解するのには抵抗があるんだろう。
「元々、マスター・ウィペットが若いころから師事していた人に譲り受けたんだそうだ。奥さんと結婚するときに、『真に愛する人ができたお祝い』としてね。――マスター・ウィペットの奥さんは魔法使いではなかったから、もちろんとうに亡くなっているんだが、それからもお子さんたちやお孫さんたちに手紙を書くときには、ずっと遣い続けているんだそうだ」
「……あ、そっか、そりゃあ愛ったって恋人同士の間だけで使われるものじゃないですよね」
 ラブレター用という勘は当たっていたけれど、それ以外のところでは少し思い違いをしていたらしいことに気がついて、わたしは少しきまりが悪くなった。それからふと、マスター・ウィペットには今、どれぐらいの家族が――もはや「子孫が」だろうか――いるのだろうと考えた。マスター・スターンテイラーによれば、現代の魔術師協会ができた時に「マスター」の号を貰ったそうだから、少なくとも七十年前には立派な魔法使いだったことになる。となると、当然それよりもかなり前から生きているはずで、この170年前のペンがまだアンティークでなかった頃にはもう生まれていたのだろう。それにしてはマスター・スターンテイラーと違って、現代にもよくよく適応しているみたいだが。

 そこで、シュライバーさんがまだ不機嫌そうなビアンコのほうに顔を向けて、
「マスター・ウィペットは仰ってたよ、もし自分の弟子にも真に愛し合う人ができたなら、そのときにはこのペンを譲ってもいいって」
 と言った。ビアンコが目を見張る。
「ああ、……それじゃあ多分、一生譲るの待たなきゃならないことになるでしょうね」
「おいオウル、てめえ何言ってやがる!」
 わたしが思わず口に出した言葉に、たちまち食って掛かるビアンコ。
「だって、まあ愛するほうはともかく、『愛し合う』っていう点ではあんたはちょっと無理かなって」
「なんだとこの……このクロ、いや、フィナ……っ、あのジジイ!」
 何事か(きっとお菓子の名前)を言いかけては舌打ちする中学生男子というものは、はたから眺めているだけなら面白くていいものだ。シュライバーさんはいまいち事情が解っていないらしく、笑顔のままで首をかしげている。
「クロカンブッシュとフィナンシェがどうしたのかは知らないけど、あんたに譲るよりは――シュライバーさんに譲ったほうが、ペンのほうもよっぽど本望なんじゃない?」
 そう言ってちらりとシュライバーさんのほうを見ると、彼は目をぱちくりさせた後、
「そうだなあ、仮におれがそのペンを譲ってもらえるとしたら……やっぱりフロイラインに手紙を書いてもらいたいな。ちょっと気になるんだ、その場合書く意志を持っているフロイラインの本心が文字になるのか、それとも実際にペンを握っているおれのほうが優先されるのか。あっ、そうだ、お互いがお互いのことを考えて何か書こうとしたとき、全く同じ文章が出てきたら嬉しいよな! それってつまり、二人の心は一つだっていう証拠だろ?」
 と、青い目を輝かせながら熱く語り始めた。正直彼の願望についてはどうでもいいのだが、それでもやっぱり、ビアンコの手に渡るよりはペンも本望に違いないと思ったので、一応頷いておいた。幽霊(それも、実在しているかどうか疑わしい)を相手にここまで思いの丈をぶちまけられるなら、それは間違いなく愛だと言えるだろう。
「うるせえな、ジジイのペンがオレのものになるかはともかく、てめえらのものには絶対ならねえよ! それで、」
「おっと、そうそう、修理の話だった。いや、マスター・ウィペットは丁寧に物を使う人だから、大きな修繕箇所はないよ。ただ、軸のジョイント部分を少し調整するのと、全体のクリーニングぐらい。ちょっと待って、いま見積書を作るから」
 しびれを切らしたビアンコが割り込んでくるまで、シュライバーさんの夢見るような語りは――悪い言い方をするなら「妄想」は――続いた。ペンの話となるとすぐに真面目になるのだから、なんだかんだで仕事人なのである。
 やがて、仕事モードに切り替わったシュライバーさんによって、ペンの修理の見積書はすぐに完成し、その後でわたしの絵の具の会計も終わった。店のドアを乱暴に開けて出ていくビアンコと、それに続いてちゃんと頭を下げたわたしに、彼は機嫌よさそうに手を振った。
「じゃあまた、それぞれ次に来てくれるときを待ってるよ。――さあフロイライン、お待たせ! 続きに取り掛かろうか……」
 弾むような声を背後に、わたしはきしみを上げるドアをなるべく静かに閉めた。

「――話には聞いてたけど、マジでイースター……いや、キルシュトルテ……くそッ、フィルタリング厳しすぎんだろジジイの奴!」
 外に出るなり、ビアンコは大きく息を吐いて、そんなふうに毒づき始めた。大体言いたいことは解るけれど、やっぱりそれは口に出してはいけない言葉だ。弟子の言論の自由をどこまで保障すべきかというのは、大魔術師にとって頭の痛い問題なのかもしれないな、とわたしは思った。ビアンコの暴言は大いに規制してもいいと思うが。
「あんたが何を言おうとしてるのかはともかく、そんなこと言うものじゃないよ。シュライバーさんはああいう人だもん」
「ああいう人、で済ませられるレベルじゃねえよ」
 ビアンコが舌打ちした。 「いくら長生きした魔法使いだって、もっとまともな奴はいるだろ」
「なに、その、シュライバーさんがまともじゃないみたいな言い方」
 わたしは反論したが、シュライバーさんがまともかと言われると、素直にYesと答えられないのも事実だった。数秒間あれこれと考えて、わたしは結局無難なことだけ言うことにした。つまり、こうだ。
「あんたと違って、魔法使いの生活は普通の人といろいろ差があって当然なのよ。あんただって魔法使いの弟子なんだから、それぐらい解ってるでしょ。うちの先生だってとても普通とは言えない暮らしをしてるし、シュライバーさんだって普通の人ではないけど、でもまともな人だよ」
 これ以上食って掛かってくるようなら、相手がお使いの最中であることを持ち出して、さっさと話を切り上げて追い払ってしまうつもりだった。わたしだって先生の家に戻って、この万年筆を引き渡さなければならない。果たしてビアンコは食って掛かってきた。が、その言葉の調子はさっきまでと少し違っていた。
「……お前、マジでなんにも知らねえんだな、あのさっきの」
「シュライバーさんについて? あんたよりはよく知り合ってると思うけど」
「いや、全然。お前信じてんだろ? 幽霊と一緒に暮らしててどうこうって」
 完全に信じてはないけど――そう言いかけてやめた。シュライバーさんがまともでないという、ビアンコの主張を認めているように聞こえるからだ。目の前にあるビアンコの茶色い目は、せせら笑っているようにも、どこか哀れんでいるようにも見えた。だから余計に、本心を口に出すわけにはいかなかった。あのペンがここに無くてよかった。
「じゃあ、何? あんたはその、その代わりに何を知ってて、どう考えてるっていうのさ」
 わたしは言って、ビアンコの顔を睨む。鼻で笑う音がいやにはっきりと聞こえ、それからこんな言葉が続いた。
「シュライバー、っていうぐらいだからドイツ人だよな。前に聞いたぜ、七十年ぐらい前に――」

 そのとき、少しくぐもった響きのヒップホップが唐突に鳴り出した。ビアンコの鞄の中からだった。着信音だ。こいつは携帯電話を持っているのか――わたしは今のところ持たせてもらえる気配がないというのに。ビアンコが(たぶん最新型でない)携帯を取り出すまでの間、わたしは鳴りっぱなしの曲に耳を傾けながら、どこかで聞いた曲だな、というようなことを思った。多分、何かのCMか、映画の宣伝で使われていたんだろう。
「もしもし? ――だから言ったろ、ジジイが急にさ、……おう、今終わったから、だからすぐ行くって。十分あれば着く! 先に全部食うなよ、じゃ」
 相手は友達らしく、手短な会話だけしてビアンコはすぐに通話を切った。そして、店の脇に停めてあった自転車のロックを外し、さっと飛び乗った。
「ちょっと」 わたしは思わず声を上げる。 「七十年ぐらい前に、何?」
「お前のセンセイにでも聞けよ、『一応』弟子なんだろ」
 わたしの期待する答えはなく、代わりに憎まれ口が返ってきた。微妙にサイズの合っていない銀色の自転車は、あっという間に遠ざかっていく。「一応」は余計なんですけど、という文句は口から出ずじまい。日の高く上ったラナンキュラス通り9番地には、わたしだけが一人残された。
 肩ごしに振り返り、紺色のペンキがはげかかった古木戸をわたしは見た。七十年くらい前に、……ドイツ人が、一体何だと言いたいのか。立ち尽くしたまま想像して、なんとなく「ありそうなこと」が頭に浮かんだところで、頭を振った。そして、絶対に先生には確認するまいと思った。もちろんシュライバーさん本人にもだ。確かにシュライバーさんは普通の人ではないし、もしかしたらまともでないかもしれないけれど、いい人であることだけは真実だ。ラナンキュラス通りの魔術師たちが、誰もマイヤーさんの実在を(あるいは、実在しないことを)証明しようとしないのも、今のわたしと同じようなことを考えているからに違いないのだ。

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