「まず何よりも」 おれは語勢を強めて言った。 「夜の0時を過ぎたら風呂には入るな」

#2 古家の主たち

 目の前には「好青年」を過度に理想化した、旧ソ連のプロパガンダ・ポスターみたいな顔つきの男が立っている。おれが意味するところを理解しかねているらしく、笑顔にはいくらか戸惑いが見えた。
「ええと、それはどういう訳なんです? 深夜だからって、水道代が高くなるってことはありませんよね」
 そいつが首を傾げながら言った。 「いえ、他のみなさんにとってご迷惑なのは解りますが……」
 まあ解るまい。ここがペテルブルクによくあるアパートならまだしも、おれたちの家はロシアの平均的な住宅とは事情が違っている。それに、「夜遅くに水を使うと迷惑になる」ことを認識しているだけマシだ。本当に、少なくとも外面だけは常識的なやつなのだ。
「風呂の精霊を怒らせるからだよ」
「風呂の精霊?」
 明るい灰色の目を丸くして、そいつは復唱した。二回も。 「風呂の精霊ですか?」
「そうだ。本来は蒸し風呂バーニャに住むもんだが、うちには普通の風呂しかないんでね、いつもここにいる」
 背後にあるガラス戸へ、おれはちらりと視線を向けた。この共同住宅コムナルカにたった一つしかないうえ、お世辞にもゆったりしているとは言えない風呂場に。
「白い髪と髭の爺さんで、だから湯気にまぎれて姿はまず見えない。見るもんじゃない。爺さんはちょっと変わってて、家族全員が入った後の風呂を使うのが好きなんだ」
「仕舞い湯が好き、と」
 プロパガンダ男はくそ真面目な顔をして、手元のメモ帳にいちいち書き付けていた。おれの喋った一言一句も漏らすまいという態度だ。熱心なのは結構だが、これが魔術師協会の査察だと考えれば、もうちょっと手を抜いてくれと思えてくる。
「だから、もし風呂の順番が一番最後になったときは、湯船にはちゃんと湯を残しておかなきゃならない。それで0時ちょうどになったら、風呂の精霊が――それ以外にも水にまつわる精霊たちが入る番になる。明け方の3時までな。その間は絶対に風呂の扉を開けない。邪魔するとひどいことになるから」
「具体的にはどのようなことが起きるんでしょう? ――つまり、誰しも入浴の邪魔をされるのは不愉快なものだと思いますが、特に何か酷いことがあるんでしょうか」
「そりゃあね」
 現代っ子の(おれだって26だから十分現代っ子だが)知りたがりに溜息をつきながら、おれは知っていることを説明した。
「よくあるのは、頭っから熱湯をぶちまけられるってやつだ。それだって十分厳しいんだが、最悪のところになると皮を剥がれたり絞め殺されたりする」
「それは酷い」
「だから決まりは守ってくれよ。つまり、『生まれたままの姿』で死んでいくってのは嫌だろ、お前だって」
 メモを取っていた手を止め、プロパガンダ男が顔を上げる。口元には朗らかな笑みを貼り付け直してあったが、あまり輝いていない目や視線の向きなどから推測するに、内心では「まあ、なんて野蛮な」とでも考えているんだろう。でも爺さんはこれで随分丸くなったほうだ。なにしろ昔は――ルーシの大地に正教が根付くより前は、暗くなってから風呂に入ること自体が禁忌だったらしいのだから。

  * * *

 言うまでもなく、おれだって初対面の人間全員にこんな話を口すっぱくして教え込んだりはしない。風呂の精霊バーンニクにしたって、その他の家付き精霊たちにしたって、21世紀の現代に一から十まで信じ込んでいるロシア人はまずいないだろう。
 ただ、そいつがこれから一ヶ月か、長くて半年はおれと同じコムナルカに住むなら話は別だ。宗教や魔法が弾圧された時代を長く過ごしたにも関わらず、この共同住宅は今や太古の幻想種たちが巣食う一大拠点なのである。何故そうなったかといえば大家が魔女だからとか、住んでる人間も全員魔法使いだからとか、それ以外にも色々と根も葉もない噂が飛び交っている。真実はおれにも解らない。
 そんなところに新しく越してきた男が、よりにもよって世界魔術師協会からの監察官で、実際に住み込みながら長期の査察をやるなんて言われたら、それなりの心構えで臨むしかないんである。人間の住民であるおれたちだって、我が家を隅々までひっくり返して詮索されるのはうんざりなのに、いわんや精霊をや、だ。ペテルブルクのど真ん中(よりはちょっと外れているが、一応は市内)で血みどろの怪奇事件に巻き込まれないためにも、自衛はしておくに越したことはない。巻き込まれなくても首を突っ込みに行く仕事だ、という事実は家の中でぐらい忘れたかった。

 話は一時間ほど前に遡る。このプロパガンダ男がコムナルカの一員になる、という圧倒的に不可解な現実について、もちろんおれはフセーヴァに説明を求めた。というよりも抗議したに近い。まだもう少し空室の検分があるらしい監察官を置いて、おれたちは集会室に腰を落ち着けた。
「マジで住むの? あれが?」
 声を潜めたままでおれは訊く。検分されている部屋と集会室は大分離れているが、なにしろ昔の建物なので、壁がそもそも薄いし防音になる何かしらも施されていない。大声を出せば筒抜けだ。
「住むんだと。もう書類も整って、あとは荷物を運んでくりゃ終いって寸法らしい」
 フセーヴァは完全に諦めがついているようで、納得のいかないおれの質問に淡々と答えるばかりだった。もともと鈍い緑色の目が、今日はいっそう鈍っているように見える。いや、これは単におれと同じく寝不足のせいかもしれないが。
「とにかく、決まったことだ。俺やお前にはどうしようもないことさね。ここはコムナルカで、俺たちはその住人。管理人や大家や不動産屋じゃない」
女王ダーマはどう言ってるんだよ」
「どうもこうも」 食い下がるおれに、返ってきたのは簡潔な言葉だった。 「判を押したのはナターシャだ」
 おれは黙った。ナターシャ、あるいはナターリヤ・ヴァシーリエヴナ、スペードの女王、おれたちの雇い主にして大家。あの婆さんが許可を出したなら、おれたちはどうあっても受け入れるほかない。
「新入りを毛嫌いしたって始まらんよ、マックス。まずは試してみることさ。もしかしたらあの若いのがものすごく有能で、一週間も経たずに報告書から何から全て仕上げて、気持ちよく出て行ってくれるかもしれないだろう。もしくは一年経っても何も変わらないかしれないが、誰でもそのうちいつかは居なくなるんだ」
 悲観的なんだか楽観的なんだか、フセーヴァは大分と心の広そうなことを言っている。「そのうちいつか」と言いながら何年ここに住んでいるのか、おれは考えたくもなかった。

 それからしばらくして、アリサがパーティーから帰ってきた。黒いレースと金刺繍たっぷりのミニ・ドレスを着たアリサは、大斎明けを祝う正教徒というより、卒業記念の舞踏会に出る小学生にしか見えなかった。おれが監察官に会ったかと訊いてみると、どうやらもう顔合わせをして、おれと同じような一通りの挨拶と説明を受けた後らしい。
「あれがこれから一ヶ月か半年か、ここに住むんだってよ。12号室ってことはお前の真下の部屋だ」
「あっそう」 おれの期待を裏切り、アリサの態度は酷く小ざっぱりとしていた。
「良いんじゃないの、悪い人じゃないみたいだし」
「お前マジで言ってんのか? なんか騙されてないだろうな。どう考えたって――」
「まあ、見た目ほど良い人でもないとは思うけど」
 椅子の上で脚をぶらぶらさせながら、チームの最年少者は素っ気なく言い、テーブル上の籐かごから個包装のキャンディをつまみ上げた。が、気にいるものが無かったのか、戻しては新しいのを取り、また戻しては底からかき回し、をしばらく続けていた。
 見た目ほど良い人。――確かにあれは、全世界標準的には良い人に見えるのかもしれない。ロシアに限ったとしても、支部の監察官なんていう常時ぶすっとした顔の、おれたち登録魔術師がどんなに丁寧に質問しても笑うどころか表情筋を緩めることすらない存在が、あれほど友好的な態度で接してくるなんて希少も希少だ。「笑顔を見せない」ってことは、つまり「真面目に仕事をしている」証なのだから――特に理由もなく赤の他人に満面の笑みを向けられるのは、外資系高級ホテルのフロントマンか詐欺師ぐらいなものだろう。

 アリサの共感を得られなかったおれはいよいよ気力を失い、もう昼食はいいからとにかく寝ようと決めていた。ところがフセーヴァは、そんな傷心のおれに無情な命令を下したのだ。共用部をざっと案内してやってくれ、と。
「冗談だろ」 おれは強ばったような笑顔を作って言った。
「なあフセーヴァ、おれはたったの4時間しか寝てないんだぞ。4時間だ。本当だって……」
 人道的な観点から抗議しようとはしてみたが、おれの言葉はそのうち弱々しくなり、尻すぼみで終わった。引き合いに出す内容を間違えた。睡眠時間のことを言うなら、フセーヴァにしろアリサにしろ、今日は一睡もしていないはずなのだ。おれは観念したように呻き、せめて検分が終わるまではエネルギーを浪費するまいと、テーブルに突っ伏して目を閉じた。どうかあのプロパガンダ男が、いつまでも空室にかかずらっていてくれますようにと念じながら。
 忌々しいことに、そいつが戻ってくるまでには30分とかからなかった。

  * * *

「じゃあ、風呂のことはもう良いか。何か質問は?」
「浴室については特にありませんが、この……みなさんがお住まいのコムナルカには、他にも同じような精霊がいるんですか?」
 手元の書き付けとおれの顔を交互に見ながら、穏やかな声で監察官が尋ねた。思惑は穏やかでないかもしれない。
「そりゃあ当然、古い家にはあちこちに精霊が住んでるもんだ。たとえソ連時代のアパートでもな。納屋には納屋の精、食料庫には食料庫の精、それに暖炉があれば暖炉の精」
「暖炉の精! それには聞き覚えがあります」
 色白の顔に輝きが浮かんだ。 「確か、ドモ――」
「ああー、あ、あ、あ!」
 おれは頓狂な声を上げ、何度もわざとらしい咳払いを繰り返して、そいつの言葉を遮った。もちろん、何を言おうとしたのか察しがついたからだ。――ドモヴォーイ。スラヴ人の家を司る精霊、暖炉の下に住む老人、その正式な名前を。
「お前、馬鹿、やめろ」
 馬鹿野郎、と思い切り叫んでやりたいところだったが、それをやると色々なところから文句が出るのは解っていたので、切れ切れにこう言うに留めた。代わりに、きょとんとした灰色の目をきっと睨み付けてやる。
「マクシム・アンドレエヴィチ?」
「精霊を『正しい』名前で呼ぶな。ああ畜生、風呂よりも最初にそれを言っとくんだった。おれはてっきり分かってると思ってたんだ」
 こう言われても、プロパガンダ男はまだ目を丸くしている。
「本当の名前を直接呼ぶのはタブーなんだよ、精霊とか神とかそういうものの。相手を怒らせるからな。真名を隠してる魔法使いを名前で呼びつけたら侮辱になるのと同じだ」
「なるほど」
「なるほど、じゃねえよ」 おれは低く呟いた。 「お前、それでも本当に魔術師か?」
「いえ、魔術師ではありませんけど」

 今度はおれが目を丸くする番だった。いや、目を剥くと言ったほうが相応しいか。半開きの口もなかなか閉じられなかった。「魔術師ではありませんけど」だって?
 解ってる、いくら世界魔術師協会だって、正規職員の全てが魔術師じゃない。世界にはそんなに魔法使いがいるわけじゃないし、人口の多いペテルブルクでも、その中に占める人数は微々たるものだ。そもそも今日び、魔術師が魔術師として食っていくのは大変に難しく、わざわざ協会に就職しようなんて考える連中は少ない。諸外国の事情は知らないが(西欧やアメリカなんかじゃまた違うだろう)、少なくともロシアの都市部ではその傾向がある。
 でも、支部の監察官が魔術師じゃない、ってのは相当な違和感だ。管区の魔術師に不正や規則違反がないか、良からぬ企てをしていないかを見抜き、いざとなったら実力行使もするような部署に、ずぶの素人なんか置くわけがないだろう。確かにこいつは兵役から戻りたての入門生か、せいぜい昇級して一年ちょっとにしか見えないが、それでも魔術師には違いないと思っていたのに。まさかさっき名乗った「リュドミール・アレクサンドロヴィチ・ストレルニコフ」も、魔法名やその他の偽名どころか真名じゃないだろうな。監察局の新人教育はどうなってるんだ?
「マクシム・アンドレエヴィチ?」
 怪訝そうというほどでもないが、事情が飲み込めず困惑しているような声に、はっと我に返る。魔術師ではない監察官は、手元の書き付けから一旦視線を外し、風呂の戸とおれの顔を見比べては薄く笑っていた。
「もう……もういい、解った、今教える。とにかく、精霊の名前を知ってるからって、そのまんま呼ぶのは失礼なんだ。だからおれたちは『お嬢さん』とか『爺さん』とか、『あの人』とか、固有名詞を使わずに指すんだよ。どんなに人間に対して友好的な精霊でも、機嫌を損ねたら何をしでかすか解らない。家付き精霊が住人を襲うことだって十分ある」
 説明しながら、おれは先日もそんな案件に引っ張り出されて、さんざ苦労したことを回想していた。ちょうど1月の終わり頃のことだ。ペテルブルクの郊外にある、そこそこ年季の入った別荘ダーチャでの仕事だった。
「家付き精霊が人間に逆らう日ってのがあるんだ。古い暦では1月の28日ってことになってるんだが、その夜には精霊が気に入らない住人たちを脅したり、病気にしたりするわけで――その気に入らない住人ってのが、たとえば家を清潔に保たないやつとか、仕事を怠けるやつ、そして精霊をないがしろにしたり、失礼なことを言ったりするやつだ」
「言われてみると、確かにみな褒められた行為ではありませんね」
 分別くさい顔でプロパガンダ男が頷く。 「それを宥めるのも魔術師の仕事なのでしょうが」
「そうだよ。この間だって夜更けに呼び出されて、行ってみたら家中がしっちゃかめっちゃかで、途方に暮れたんだぞ。食器は叩き割られてるし、冷蔵庫の中身が上から下までひっくり返されてるし、鶏小屋は糞まみれだし……それでおれたちは、やれ小麦のカーシャを炊いて供えるやら、まじないを唱えて家の四隅を掃くやら、てんやわんやだ。なんせ三番鶏までに全部やり遂げなきゃならないんだからな。それで大急ぎで儀式を済ませたら、『こんなに早く終わるなんて、我々を騙してるんじゃないのか』みたいな目で見やがって」
 口にすればするほど、この国における魔術師軽視の風潮に憎悪が募ってくる。こういうのは止めたほうがいい。「査察中に余計なことばかり喋って本題に移らない」ってのは間違いなく減点ポイントだろう。プロパガンダ男は今もメモ帳を手放していない。おれの言動の隅々までを検閲し、容赦なく赤を入れてくるに違いない……

「おーい、お二人さん」
 陰謀論(監察局による無慈悲な減点は実在のものだが)に嵌りかけていたおれの思考を、廊下の奥から掛けられた声が現実に引き戻した。見れば片手に何か平たいもの、多分タブレットを持った中年男が、集会室からこちらに向かっている。フセーヴァだ。
「フセーヴォロド・キリロヴィチ」
 プロパガンダ男が馬鹿丁寧に反応し、その場でさっと姿勢を正した。今までも無駄に背筋の伸びた良い姿勢だったが。
「取り込み中にすまんね。説明はもうざっと済んだところか」
「風呂だけな」 おれは手短に答える。
「そうか。まあでも、そんならあの爺さんと、それから『暖炉の下の人』ぐらいは解って貰えただろう。差し当たってはそれで良しとするさ。適当に切り上げて、集会室まで来てくれ」
 タブレットのせいで普段より「スティーブ・ジョブズのなり損ない」感が増したフセーヴァは、おれたちの顔を順繰りに見ながらそう言った。おれの心に希望の光が灯りかける。これは昼食か。昼食ができたから皆で食べにこいという知らせか。普段なら間違いなくそうだ。時間的にも。
 問題は、そうだとすると何故その笑顔がいくらかくたびれて見えるのか、という点だ。一睡もしてないんだから多少は仕方ないだろうが、それにしたって――
「あー、えー、別に今すぐ行けるけども、食事?」 過度な期待を込めずにおれは訊いた。

 答えは間髪容れずに返ってきた。 「仕事」

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