「のっけからインターネットの話で悪いんだが」 フセーヴァは苦い顔で言った。

#3 セルフィーと都市伝説

 集会室のテーブルを囲んだおれたちの内心は、きっと同じではなかったろう。アリサは「ああはいはい、ネットの話ね」とばかり気のない目をしているし、プロパガンダ男ことリュドミール・アレクサンドロヴィチは、講義室の最前列に陣取った学生のように熱意ある視線を送っている。おれはといえば、もうソースがSNSだろうが動画サイトだろうが何だってよく、ただ睡眠と食事のことしか考えられなかった。おれの精魂尽き果てた様子を見かねてか、フセーヴァはアリサが着替えてくるまでの間にゆで卵を恵んでくれた(そう、復活大祭パスハといえば卵だ)のが、おれにとっては数少ない救いと慰めだった。
「SNSへの自撮りセルフィー投稿を最後に、旅行客が行方不明になったという話、聞き覚えあるかね」
 自撮り。――おれの脳裏に昼前の忌まわしい出来事が蘇った。あの観光客らしき二人組はその後どうしているだろうか。おれへの蛮行をすっかり忘れて、エルミタージュ冬宮の庭園やら聖イサアク大聖堂なんかを撮って回っているんだろうか。
 いや、例のやつらへの怨恨はともかく、フセーヴァが言う話には覚えがあった。といっても本当に聞きかじり、それこそタイムラインを流し見るうちに少々引っかかった、程度のものだが。
「あ、それ知ってる。一昨日かその前あたりバズってたやつでしょ。女の子の後ろに写っちゃいけないものが写ってる、とかなんとかってさ」
 おれよりはアリサのほうが、詳しいところを理解しているようだった。さっきまで心底どうでもよさそうだった金茶色の目がきらりと光る。
「まあ元画像もアカウントもすぐ消えちゃったし、コラだろ釣りだろ、ってことで収まったんだと思ったけど。違うの?」
 いつも通りにざっくりとした物言いだったが、その声には明らかに期待というか、事態を予測した結果生まれた勝手な興奮が見える。もしかしたらネットによくある嘘写真じゃなく、正真正銘の「何か」がそこにいるんじゃないか――そいつを手加減なしに張り倒したり串刺しにしたりできる機会があるんじゃないか、という物々しい興奮だ。アリサは紛れもなく現実世界の住人でありながら、多分にオープンワールド型アクションゲームの文脈で生きている節がある。もう少し暴力に対する自制心を身に着けてほしい。
「とにかく、まずはその画像からだ」
 落ち着いた態度でフセーヴァが続ける。 「たまたま支部職員が見かけてたらしくてな、元の投稿を」
「保存してた?」
「そういうことになる」
 手元のタブレットをあれこれと指でなぞり、おれたちのリーダーは件の画像を表示させようとしているらしかった。フセーヴァはもう大分と良い年なのだが(見た目以上に)、こうして最新のガジェットにも進んで対応していくのは立派だと思う。もっとも、おれたちに比べれば操作はまだまだ覚束ない。ちょっと代わってやりたいぐらいだったが、差し出がましい真似はやめることにした。
「これ、これだな。若干粗いが、まあ見て貰えるか」
 やっとお目当ての画像に辿り着いたらしく、彼はタブレットをテーブル中央に置いた。アリサもおれも身を乗り出して、液晶画面に表示された一枚の写真を見た。プロパガンダ男も興味深そうな顔をしているが、それが真実なのかフリなのかは察しがつかなかった。
 実際、それほど興味をそそるような画像じゃなかった。何ということはない、二十歳そこらの女性が一人、夜の水辺で自撮りをしている。動きやすく暖かそうなジャケットにニット帽。顔立ちからしてロシア人ではないらしい。きっと西のほうの……どこかだ。カメラに向かって満面の笑顔。夜にしちゃ明るく撮れている。
 いや、撮影者本人は置いといて、問題はその背後だ。場所がペテルブルクのどこなのかは解らないが、自然の水場であることは間違いない。コンクリート等で固めたり、柵や金網を巡らせたりもしていない、川岸か池の端か。顔を照らしている明かりが、波立った水面にも反射している。右半分を占めているのは立ち枯れたアシの茂み。そして、――その陰に。

「ああ、」 おれは思わず声を漏らした。 「ヴォジャノーイだ……」
 枯れ草を分けて今にも這い出そうとするような、むくんだ黒っぽい頭。ぎょろりとした大きな目。水草の絡みついた腕。確かに粗くはあるが、おれにはよく解った。とても馴染み深い存在だ。川の大旦那、深淵の人、全ての生きた水を司る精霊。女性の後ろに写っているのは、そのヴォジャノーイに違いなかった。
 頭を抱えたおれだったが、そこでふと、こちらをじっと見つめる視線に感づいた。顔を向ければ、例によってプロパガンダ男が灰色の目を据え、何か言いたげな様子で笑みを浮かべている。何がそんなにおかしいんだよ。
「……何?」
「あ、いえ、今しがたおっしゃった、その……」
「ヴォジャノーイ?」
「はい、その生き物……だと思うのですが」 明らかに言葉を濁した調子。 「呼んでもいいんですか?」
 一瞬そいつの意図を掴みかね、おれは黙った。が、本人の口から追加の説明がなされるより先に、何となく察した。呼んでもいいんですか? ――名前を、だ。水の精霊の正式な名を。
「こういう時にはいいんだよ。『風呂の爺さん』や『暖炉の下の人』はともかく、おれたちが今いるような所にヴォジャノーイは住んじゃいないんだ。っていうのは、ほら、あの旦那がたは生きた水のあるところにしか住まないからな。沼とか、川とか、……この写真みたいな」
 おれは答えたものの、さすがに言い訳がましさが拭えなかった。もちろんおれだって、そうした自然の水場に出向いたときには名前を直接呼んだりしない。相手が機嫌を損ねようものなら、たちまち水底に引きずり込まれて魂を取られるからだ。でも、ここはネヴァ川から離れた共同住宅コムナルカの一室だし――これは後でもう少し詳しい話をしておこう。今は写真が問題だ。
「フセーヴァ、この画像の元投稿……とか、その前の投稿とかは保存されてないのか?」 おれは尋ねる。
「ほら普通、自撮りってたった一枚ぽんと投げるやつじゃなくて、キャプションとかがあるんだろ。どこで何してるときに撮ったとかいう。あと、これが最後の写真だとして、その前にも流れみたいなのが……多分……」
「自撮り関連の知識ふわっとしすぎじゃない? マックスのおっさん」
 キャンディを噛み砕きながらアリサが茶々を入れた。解ってるよ、おれが自撮りはおろかSNS文化全般に対して知識不足だってことは。
「アリサ・ルキーニチナ、彼のことを『おっさん』と呼ばわるのは褒められたものではないと思いますよ。ぼくと同年代なんですから、マクシム・アンドレエヴィチは」
 おれが不貞腐れかける傍ら、プロパガンダ男はくそ真面目な顔でアリサに説いている。この監察官の実年齢なんて知ったこっちゃないが、魔術師じゃないってことは、大体見た目通りの年を想定して良いんだろう。少なくともおれより年下には違いない。

 おれたちが脱線しつつあるのを素早く修正するように、フセーヴァは軽く咳払いをして、タブレットを机上から取り上げた。操作のための間を置いて、再び戻された液晶画面には、一連の投稿をまとめたらしいファイル。
「撮影者はプロフィールによればカナダ国籍で――投稿を見ると一週間前にはロシア入りしてるな。オカルト話や都市伝説の類が好きで、今回ペテルブルクに来たのもそのためらしい」
「ペテルブルクに? 都市伝説を?」
 正直そこまで英語が得意でないおれは、フセーヴァの解説を頼りに文章を拾い読みする。何枚もの自撮り画像が並んでいる。運河そばのハリストス復活大聖堂、ネヴァ川に掛かるリチェイヌィ橋、おれが支部からの帰りに渡るブラゴヴェシチェンスキー橋、「大学河岸」のスフィンクス像……やけに水場が多いな。
「心霊スポット巡り、みたいなやつ?」 画面を覗き込みながらアリサが訊く。
「そんな所だろう。どれも英語で検索すると、何らかの『怖い話』がついてくる場所だ」
 なるほど、ハリストス復活大聖堂なんかは起源からしてそうだろう。なにしろテロリストが当時の皇帝を爆殺した跡地に建てられているわけで、「血の上の救世主教会」という俗称のほうが有名になってるぐらいだ。リチェイヌィ橋の改築工事で沢山の死人が出たのも事実だし、スフィンクス像にみだりに触ると呪われる、というのもよく聞く。サンクトペテルブルクは大規模な街、しかも古都だから、都市伝説が生まれるのは何もおかしな話じゃない。そこで死人が出たから心霊スポットだっていうなら、レニングラード包囲戦で70万人死んでるこの街は心霊のメッカか何かだ。

 でも、そのためにカナダからここまで? カナダ国内にしろ隣国のアメリカにしろ、オカルト話なんて山ほどあるだろう。ちょっとやそっとじゃ調べ尽くせないぐらいに。それを差し置いてロシアに来るってのは、よほどペテルブルクの怖い話が魅力的だったのか。こう言っちゃ悪いかもしれないが、いわゆる「西側」の人間は、おれたちが住む東欧の国々に対してホラーな幻想を抱きがちな傾向があるんじゃないか。
「そもそもさ、この最後の写真って結局どこで撮ったやつなわけ? えーっと……」
「シュヴァロフスキー公園の池だ。今日の昼前ごろ、女性が被ってた帽子と靴の片方が見つかったとさ」
 フセーヴァの言葉におれは目を剥いた。シュヴァロフスキー公園。深夜過ぎにおれとアリサが吸血鬼退治をしたばかりじゃないか。呪われてるのか。いや、実際に呪われてるかどうかは置いといて、あそこも心霊スポットだったのか? そんな話は聞いたことがない。確かにかなり歴史のある公園(元々は貴族の荘園だったらしい)で、古い教会やら地下聖堂やらが敷地内に建ってはいるが。
「見つかったってことは、一応もう警察沙汰にはなってるんだよな」
「そういうこった。ニュースやら何やらで報道されるかは解らないがね。帽子と靴が行方不明者のものかどうかも確定してないんだ」
「そうか、そのへん未確定なのか……んでも、もし本当にそれが彼女のもので、かつ行方不明がヴォジャノーイの仕業だった場合、」
「わたしたちが行って、やる」 アリサが拳をさっと持ち上げて見せた。

 ああ、「行って、やる」のは間違いない。間違いないのだが、おれたちの仕事はそれだけじゃない。祓魔師ヴェドマークにとって最も大事な使命は、むしろその前後だ。一体どのような経緯で、いわゆる「魔」が「人」に干渉するに至ったのかを探ること。原因を突き止めて排除ないし解決した後は、被害者(そして加害者が生き残っている場合は加害者)のケアもしなくちゃならない。再発防止策を講じるのだって役目の一つだし、それを広く啓蒙するのも重要なことだ。おれたちは断じて、たとえば邪悪な吸血鬼をちょっと行って滅ぼして万事解決、と格好つけるだけの存在ではないんである。
 おれは横目でプロパガンダ男の顔色を伺った。つまり、何かしら誤解が生じていないか、アリサの血に飢えた発言に引いていないかと。幸い、「善良な」監察官はいたいけな少女(実年齢は19)の発言を気に留めなかったか、気に留めたとしても隠しきれないほど不快ではなかったらしい。相変わらずにこやかで爽やかそうな表情のまま、「どうぞ続けてください」とばかり黙っている。
「ネットでの有力な……というか、読むに値しそうな情報はそれぐらい?」
「今のところは。支部のほうでも収集に当たってはいるそうだが、俺たちのほうでも調べはつけないとな」
「支部の情報収集って、それはうちにきちんと伝達してもらえるんですかねえ」
 いまいち信用ならない気がして、おれはフセーヴァの言葉に冷めた声で返した。監察官の見ている前で言うべきことじゃない、と気付いたのは口に出してしまった後だった。

「大丈夫だ、もし何も言ってこなきゃ請求すればいい。何の手がかりも掴めませんでしたという場合は仕方ないがね。――さあ、概要は以上だ。この件にヴォジャノーイが絡んでいるか突き止める、もし絡んでいるなら然るべき対処をする。取り掛かるぞマックス、アリサ」
「了解」
「なあフセーヴァ、まさかと思うけど、本当に今からやるわけじゃないよな? 今この瞬間から?」
 表情を引き締めて宣言したフセーヴァ、すっかり戦闘体勢のアリサに、おれは慌てて声を上げた。こいつらは使命感や暴力的衝動にかられるあまり、食事と睡眠のことを忘れちゃいないだろうか。いや、フセーヴァはともかくアリサのほうは。
 幸い、最低限文化的な人間の生活についてきちんと理解しているフセーヴァは、苦笑しながら首を横に振った。何故かプロパガンダ男も一緒になって小さく笑い声を上げていた。寝てないのはお前の対応に時間取られてたせいなんだけど、と言う気力さえおれには残っていなかった。
「そこまで非情なことは言わんよ。部屋に戻って少しでも寝てこい、マックス。休息が十分でなきゃ、どんな立派な食事も腹に収められないからな」
「助かる」 おれは呻いた。 「あと、卵もう一個欲しい」
「好きに取ってくれ。――それから、えー、リューダ。お前さんも他に何か、今日中に済ませるべき検分だの質問だのがあるなら、一応暗くなる前にやっておくといい。夕食は、……大体のところだが、8時前にはできるだろうから」
「ぼくにもご馳走してくださるんですか?」
 プロパガンダ男の目がきらりと光って、視線を聖人君子めいたフセーヴァの顔に注いだ。
「いや、毎日食わしてやれるとは思わないでもらいたいがね、無論。でも今日は復活大祭だ、めでたい日なんだから当然だろう。――何でもない日にしたって、お前さんだけは食堂を使わずに自分の部屋で食べてくれ、なんてことは言いたくないからな。何より、一人で飲み食いするのは縁起が悪いんだ」
 フセーヴァは言い、軽く肩を竦めて見せた。 「じゃ、俺は失敬。買い出しに行かなきゃならん」
「あ、ついでにアイスクリーム買ってきてよ、フセーヴァ小父さん。もうチョコ味なくなっちゃったの」
 パーティーでたらふく食ってきただろうに、アリサはまだ足りないとばかり言いつける。おれに対する「おっさんヂャーヂャ」呼ばわりと、フセーヴァに対する「フセーヴァ小父さんヂャーヂャ・フセーヴァ」の間には、どうしてこんなに温度差があるのか。――こいつも寝てないはずなのに、どうしてこんなに元気なのか。そのへんがおっさんとの違いなのか。ああ、いや、もうどうだっていい、早く寝なくちゃならない……
「そうだ、マクシム・アンドレエヴィチ、一つだけお伺いしたいのですが」
 後ろからそんな声が聞こえた気がしないでもなかったが、とにかく今は寝たかった。おれは完膚なきまで睡魔に打ちのめされていた。こんな極限状態でもコムナルカの急な階段を上り下りできるんだから、肉体の慣れというのは素晴らしいものだ。二階にある自室のソファ兼ベッドに倒れ込んだおれは、アリサが戸を蹴り開けて起こしにくるまで5時間、吸血鬼よりも死んだように眠り続けた。

  * * *

 珍しいことに、夕食は予告どおり8時に始まった。おれが身繕いもそこそこに食堂へ顔を出した時には、アリサもプロパガンダ男も平然とテーブルについていた。食卓にはもう「パンと塩」が供されていて、この食事が大切な客をもてなすものだと一目でわかる。誰がそう言い出したのかおれは知らないが、とにかく誰かを歓迎するときに「パンと塩」は絶対に欠かせないものなのだった。精霊たちへの供え物も普通はこの二つだ。
「さあ、もうずいぶん待たせて悪かったな。すっかり支度ができたから、まずはお祈りをさせてくれ。それから食べ始めよう」
 最後にフセーヴァが腰を下ろし、そう前置きをした。フセーヴァは四旬大斎どころか毎週水曜日と金曜日にもきっちりものいみをやるような、敬虔極まる正教徒ハリスティアニンだ。アリサも一応は教会に所属しているし、食前の祈りには参加している。おれは三位一体の神こそ崇めていないけれども、こっちはこっちで自然の恵みを精霊や豊穣の神に感謝する習慣を持っている。
 新入りの監察官は、――おれたちがめいめいに手を組み合わせ、こうべを垂れて祈りの姿勢を取るところを、例の社会主義リアリズム的笑顔でただ見守っていた。それ自体は別に咎められるべきことじゃない。信仰は自由だ。信じないことも含めて。

 それぞれの心の中で祈りが唱えられた後、いよいよ料理が運ばれてきた。前菜ザクースキから始まる正式なやつだ。キュウリやキノコ、ビーツを使ったピクルス――四旬節前に漬けたものだから、ちょっと酸味が強くなってきているが――や、そうした塩漬け・酢漬け野菜と牛肉、ゆで卵なんかを、マヨネーズで和えた「首都の」ストリチヌィサラダ。薄切りにした豚の脂身サーラや燻製のサーモンもある。
 ああ、後はウォトカがあればな。おれは心の中で溜息をついたが、それだけは叶わない話だった。フセーヴァがまだ次のぶんを仕込んでいないし、何よりアリサが食卓についているときには、酒はご法度だ。そりゃ実年齢はともかく、アリサの外見は11、12かそこらなわけで、そんな「子供」の前で大酒を飲むのは体裁がよろしくない、というわけ。おれたち「大人」は揃っての食事が済んだ後、酒とタバコのための部屋でひっそりやるのが習慣だった。
「にしても、フセーヴァ小父さんはさあ」
 深鉢に注がれた魚スープウハーを掬いながら、アリサが言う。
「これだけ好きなんだったら、仕事にすればよかったのにね、料理。祓魔師やるよりずっと成功した気がするんだけどなあ」
「おいおい」 とフセーヴァは苦笑する。 「それは買い被りさね」
「そうかなあ。いや、小父さんがそう言うんなら別にいいんだけど、でも味のことは本当に――凄いのは間違いないんだ。そう思わない?」
 アリサは向かいの席、つまりおれの隣に座るプロパガンダ男にも話を振っている。なんで隣なんだろうな。確かにこいつと見つめ合いながら食事をしたいかと言われると、正直落ち着かないから今のほうがまだマシかもしれないが。
「はい、とても美味しいです、フセーヴォロド・キリロヴィチ。ぼくは自分では料理をしないので、難易度や手間のことまでは言及できませんが、味も見た目も素晴らしいものですよ」
 サーラを乗せた黒パンに伸ばした手を止めて、監察官がカメラ向きのにこやかな笑みを顔いっぱいに広げた。どの角度からでも健康そのものな見た目にふさわしく、こいつは実に健啖で、ずらりと並んだ料理を平らげることに余念がない。いちいち「おいしさ」を口に出すことがないから気が付かなかったが、ちょっとの間眺めてみれば結構なペースだ。おれがイクラとスメタナを緩慢に消費している間に、さっき取り分けられたウハーをもう一皿食べ切っている。
「そりゃあどうも。お前さんがたのような若者向きの料理じゃないがね、口に合ったなら何よりだ」
「そんなこと! もちろんモダンな食べ物も好きですが、食事についてはどちらかといえば素朴な志向なんです。母が作る食事もこんなふうですしね、『シーとカーシャがぼくらの糧』、なんて――ところで、マクシム・アンドレエヴィチ?」

 その愛想が良すぎて心臓に悪い顔が、唐突にくるりとおれのほうを向いた。まごついたおれの手元で、フォークからイクラの粒が転がり落ちた。
「ほあ?」
「一つお尋ねしたいことがあるんです。先程はぼくの間が悪かったのか、お答えいただけませんでしたが……」
 おれが寝に行く前の話をしているらしい。そういえば声を掛けられていたような、いなかったような、何しろ眠かったので記憶も感覚も曖昧だ。おれがぼんやりしている間、プロパガンダ男は背筋を伸ばして律儀に待っていた。
「……えー、何?」
「ここには多種の精霊があちこちに住んでいる、と昼間のお話にありましたよね。そうすると、ぼくは人間のみなさんだけでなく、そちらの方々にも挨拶をしたほうがいいでしょうか?」
 いや、余計なことはせずに大人しくしててくれたほうが……という言葉を、おれはぐっと飲み込んだ。その家の住人である限り、相手の種族を問わず敬意を払うべきだという感覚があるのは良いことじゃないか。これでもし、「ぼくは人本主義者ですので、そちらの方々には挨拶をしなくても構いませんよね」とでも言われたら、夜中にドモヴォーイからどんな抗議を受けるか解らない。
「そう思うならしてくれれば良いんじゃねえの。特に『暖炉の下の人』なんかは、礼儀正しくすれば出てきてくれるかもな。ただの好奇心で覗こうとしなけりゃの話だけども」
 精霊は悪意にとても敏感だし、一度怒らせたら人の命も平気で奪う。けれど純粋な好意でもってやるのなら、そこまで悪いことにはならないだろう(全く悪いことが起きないとは言わないが)。おれが気のない声で答えると、目の前の顔は笑みを貼り付けたままで頷き、
「それは良かった。こういうものは初めが肝心ですからね」
 と満足げに言うのだった。おれとの接し方は初めから大失敗してたけどな、とは言葉にしたくてもできなかった。

  * * *

 諸々の前菜からチーズとジャガイモの包み焼きパイクレビャーカ、さらに豚肉のカツレツを経て「レニングラード風」ココアケーキに至る夕食を終え、おれは集会室へ移動した。今日出された料理から少しずつを取り分け、きれいに盛り付け直した皿を持って。
 21平米の集会室は、このコムナルカで一番広い部屋であり(そう、一番広い部屋でもたったの21平米だ)、唯一の暖炉が据え付けられていた。さすがに毎日薪をくべるわけでもなく、頻繁に煮炊きをするわけでもないが、間違いなく現役の、ちゃんと上で眠れるぐらい立派な暖炉だ。当然、「暖炉の下の人」ドモヴォーイもここに住んでいる。焚き口の下だという人もいるし、暖炉の裏にある壁のひび割れだという人もいるが、おれはとりあえず焚き口だと思うことにしていた。暖炉がない家だと、床下や敷居や屋根裏が居場所だったりするらしい。
「なあ、今年もなんか、春がまた来たよ、爺さん」
 すっかり冷え切った四角い空間の前で、おれは膝をついてそう話しかける。人前にはめったに姿を見せない、もう一人の家主へと。
「それでさ、新しいのがしばらく住むんだってさ。あんたに挨拶したいって言ってたけど、もう見たかな。……昼間のあれは別に、あんたを指さして貶めたかった訳じゃないはずなんだよ。名前を呼ぶのはよくないことだって、ただ知らなかっただけなんだ。別に悪気はなかったんだと思う」
 一体どうしておれは、精霊や魔法に不慣れな監察官の尻拭いなんかしているんだ? 「あいつは家付き精霊に対する礼儀も知らないんだ、ひとつ思い知らせてやってくれ」と言っても、ドモヴォーイの爺さんはきっと聞き届けてくれただろう。だけど、この家でそんな事件は起こしたくなかった――支部の監察官が巻き込まれたとなったら、いかな古株の精霊といえども処置の対象になる。それを思うと、できる限り騒ぎにはしたくなかった。おれはこのコムナルカが、そしてそれを一世紀守り続けてきた爺さんが好きなんだ。
「だから大目に見てくれよ、爺さん。おれからも散々言って聞かせるからさ。――ほら、精進落としだよ。フセーヴァが自家製酒サマゴンを仕込んだら、それもちゃんと持ってくるから、今年もおれたちのテーブルに、たっぷりのピローグを載せてくれよ!」
 
 昔から言い伝えられてきた、豊穣と家の繁栄を祈る文句で、おれは爺さんへの挨拶を締めくくる。答えは返ってこない。ドモヴォーイが話しかけてくるのは必要に迫られたとき、それもたいていは家族が大きな間違いをしでかそうとしているとか、何か危機が近付いている場合がほとんどだ。返事がないのは平和なことでもある。姿と同じで、無理に聞こうとするものじゃないのだ。
 だからおれは沈黙を良しとして、ペチカの反対側にある部屋の隅へと向かった。小さな作り付けのテーブルにはもう、教会からもらってきたロウソクと赤い模様つき卵が供えられている。これはフセーヴァだろう。おれはその隣に、料理を盛った皿をそっと置いて、低くお辞儀をした。
 これで一仕事終わった。が、家中すべての仕事が終わったわけじゃない。深く息を吐いておれは顔を上げる。まだまだ挨拶回りの先は残っている。食料庫にも、裏庭にも。そして夜の0時を過ぎる前に、湯を沸かして「風呂の爺さん」に備えなけりゃ……

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