借りは返すと決めていた。面倒事はできるだけ早く片付けるに限る。

#7 再犯と再捜査

 だから早起きするはずだったのに、いざ翌朝になってみればこのざまだ。目覚めたおれの視界は薄暗く、つまり太陽はもう空高く昇っていることを示していた。午前10時を回れば、おれの部屋には直射日光が入らなくなってしまうのだ。
 こうしておれの計画は最初からつまづいたが、それでも借りたことを忘れていたわけじゃなかった。今頃どこを検分しているのかは解らないが、とりあえず仕事にかかってはいるだろう監察官を探して、おれは階段を降りていった。眠いし、喉は痛いし、胃も痛い、三重苦を抱えた体を引きずりながら一階の廊下に差し掛かる。と、開け放たれた談話室の扉から、ちょうど人影が出てくるところだった。そしておれのほうを見た。

「……あー、おは――」
「マクシム・アンドレエヴィチ!」
 おれが無難に朝の挨拶から始めようとする前に、人影は――どの角度から見ても男子の鑑みたいに繕われた容姿の男、リュドミール・アレクサンドロヴィチは、おれの名を呼ぶと同時に早足で距離を詰めてきた。正直に言ってだいぶ怖かった。これで相手が普段どおりのプロパガンダ的笑顔だったらもっと怖かっただろう。が、今回は真剣そのものの表情で、何やらただならぬ気迫を感じさせた。
「ちょうど良かった、良いところにいらっしゃいました。見てください、いや、もうご覧になったかもしれませんが!」
 言うなり、そいつは手を伸ばしておれの右腕を掴んだ。ぎょっとして身を退く間もなかった。相手のリアクションなど気にしたふうもないプロパガンダ男は、そのまま見た目以上の力でおれを引っ張り、廊下を引き返していく。
 見ろと言われても、この共同住宅コムナルカに特別見るべきようなものがあるとは思えない。こいつは一体何の話をしているんだ? 新聞かテレビだろうか。もしかすると例の失踪事件に何か、警察やマスコミの側から進展があったのかもしれない。おれたちにとって有用な進展なら良いが、あまり期待はできない予感がする。公権力にとっての吉報は、しばしば祓魔師ヴェドマークにとっての凶報だからだ。
 どこまで引きずられるのかと思ったが、結局プロパガンダ男の歩みは談話室の前で止まった。おれはまだ何がなんだか解らないまま、21平米のそう広くもない(これでもコムナルカの全室中一番広いんだが)部屋に押し込まれ、やっとのことで一息ついた。中には誰もいない。テーブルを挟んで向かいにある古いテレビには、国営放送の無愛想なニュースキャスターが映っている――
「ほら、あれを」
 そのブラウン管を指さしながら、低くささやくような声で監察官が言う。 「ついさっき始まったんです」
 おれは目をこすって、画面の下部に表示されているテロップを見た。字体にしても色や大きさにしても、そこまで重大なニュース扱いはされていないようだ。けれどもそれは間違いなく重要な、深刻な一報だった。
 『あわや二度目の惨事:シュヴァロフスキー公園で女性襲撃』

 映像が生放送中のスタジオから、ペテルブルクの空撮映像に切り替わる。昨日行ってきたばかりのシュヴァロフスキー公園。隣り合う二つの池は、まさしく「シャツ」と「帽子」に違いない。上空から撮れば形もよく判る――小さく黒々と見えるのは捜査関係者だろう。集まっているのは「シャツ」の側だ。
「どう思われますか? やはりあの……絡みでしょうか」
 プロパガンダ男は声のトーンを落としたままだ。灰色の目が注意深そうに視線を向ける先で、無機質なテロップが被害者の姓名と年齢を告げる。今回は観光客ではなく、市内に住む学生らしい。
「どうって言われてもな、全部見たわけじゃねえし。これ録ってるか?」
「ええと、録画の手順がすぐに解らなくて……とりあえずリモコンのそれらしきボタンを押したのですが、ちゃんとできたかは判りません」
「そうかい」
 おれは溜息をついた。こいつの世代じゃ、そもそもブラウン管のテレビなんか見たことすらない可能性もあるだろう。「録画できるとは思わなくて」だとか言われるよりは気分的にまだマシだ。
「まあ、『ロシア・ワン』が流したんだから、他の局でも後で取り上げるだろ。多分ネットでアーカイブ版も出るだろうしな。そっちを確かめりゃいい。……これ、被害者は助かったわけだよな?」
「はい。詳しくは公式報道に譲りますが、深夜3時ごろに女性が『ナポレオンのシャツ』付近で襲われた、と。背後から池に突き落とされたとのことでした」
「いや、ちょっと待て」 おれは遮った。 「深夜3時? 公園は閉まってるだろ?」
「そこはぼくも不思議に思ったのですが、調べてみたら公園自体の具体的な営業時間は決まっていないんだそうです。公園事務所が開いているのは午前11時から、最後の利用客が退場するまで、と書かれていましたが」
 なんて不規則な勤務だ。仕事を請けているときの祓魔師なみに面倒なシフト体系じゃないか。今後仮に転職を余儀なくされても、市の公園管理課にだけは就職するまいと、おれは固く決心した。
「で、その女性はなんだってそんな夜遅くに一人で……」
「一人ではなかったんですよ。大学の天文サークル十数名で、天体観望会が行われていたんです。彼女だけがはぐれてしまったのでしょうね、おそらく」
 なるほど、確かに昨晩は晴天で、ここ一カ月でも久々の星空が拝めたに違いない。ほとんどの学生はまだ春期休暇の最中だろうし、集まって活動を行ってもおかしくない。問題は、そうして集団行動をしている最中に、一人だけはぐれるなんてことが有り得るかだが――これは実際有り得る。街中ならいざ知らず、シュヴァロフスキー公園ほど緑豊かな場所、それも夜間であれば大いに可能性がある。人間の方向感覚の限界だとか、公園内の緑地が都市圏内にしては鬱蒼としているとかいった話ではなく、もっと違う原因が存在するからだ。

「リュドミール・アレクサンドロヴィチ」 おれは切り出した。
「あんたが昨日言った通り、もう一度調べをつけに行く必要があるかもしれない。『シャツ』や『帽子』だけじゃなく、公園全体について」
「本当ですか?」
 張り詰めていた口元がほころび、また不自然に朗らかな笑顔を作り出した。あまりにもあっさりとした表情の切り替えが、こいつの非人間的さというのか、人工物じみた理想的さをまた強調してくる。プロパガンダ的に考えると――さっきまでの面持ちに相応しいスローガンが「常に備えよ!」や「おしゃべりは利敵行為だ!」等だとすれば、今の顔立ちには「中ソ人民の友情は不滅だ!」とか「真実の道を進もう、同志たちよ!」といった、潔く華々しいコピーが似合う。どっちにしろ一般市民の日常には不相応な戯画的さだ。
「そう言って頂けるとぼくも安心です、マクシム・アンドレエヴィチ。昨日はその……ぼくの素人考えで、あなたを不愉快にさせたかと思ったものですから……」
 等と口先では述べているが、本気でそう思っているかどうか怪しいもんである。「素人考えであなたを不愉快にさせた」だって? 本当か? 内心「自分は何も間違ってないのに相手が勝手に怒った」ぐらいに感じてないか?

 おれが一人疑いを深めていたところで、廊下から近付いてくる足音に気が付いた。これはフセーヴァだ。台所で洗い物をしていたか、飲み物でも入れて戻ってきたんだろう。振り向くと同時、戸口そばの床が軋みを上げ、今日も今日とて代わり映えのしない格好(おれが言えた台詞じゃないが)の中年魔術師が姿を現した。
「なんだ、やっとマックスも起きたか。おはようさん。ちゃんと食えよ、昼と一緒くたにしちゃ体に悪いぞ」
「フセーヴォロド・キリロヴィチ、ニュースはご覧になりましたか?」
 小脇に新聞を挟み、片手には陶器のカップを持ったフセーヴァに向かって、プロパガンダ男がはきはきと問う。
「ニュース、ああ、株か? 11.5%も下がったんじゃ、モスクワの金持ちは何億円と溶かしたんだろうな。対露制裁、ここに極まれり、だ」
「いえ、そうではなく――」
「冗談だよ。朝方の速報だろう。例の池でまた人が溺れかかって、今度は明らかに事故じゃなく事件性ありって話」
 くそ真面目な顔で訂正しかけた若者に対し、フセーヴァは頭を振って受け流すと、持ち物を全てテーブルの上に置いた。おれたちのリーダーは基本的におちゃらけないのだが、たまにこうして面白いのかも解らないような軽口を叩く。
「しかし、ますますヴォジャノーイだかチョルトだか解らんな。今回に限って言やチョルトか、単にネットに便乗した愉快犯の人間かもしれん」
「何故です? 状況としては前者の可能性も……」
「『突き落とされた』って言ったろ」 きょとんとする監察官に、おれは祓魔師として補足する。
「つまり、その女性を襲ったやつは池の外側にいたわけだ。ヴォジャノーイなら池の中にいるんだから、普通は『引きずり込まれた』ってことになる」
「ああ、なるほど」
「ヴォジャノーイが池から出てきて人の背後に回ることはない、とも言い切れねえけど。そう、だからそのへんも含めてもう一度、公園を調べに行こうって話だったんだ。昨日は結局、あの踵なしの邪魔が入って中断しちまったから」
 おれが少し前の話題を再び持ち出すと、フセーヴァも飲み物(匂いから察するにケフィール)に口をつけながら頷いた。
「そうさな、現場百遍だ。もっとも今回はお巡りさんがたも大勢だろうから、断られなきゃの話だがね。よし、昨日はお前さんらに任せきりだったことだ、今日は俺も一緒に行こう」
「いや別に、わざわざ出てきてもらわなくても」
 どちらかといえばフセーヴァには家にいて、自家製酒サマゴンをもう少し増産してくれたほうがありがたい――とはさすがに口に出せなかった。おれにだって一応、建前という考え方はある。
「つーか、アリサは?」
「学校だよ」
「学校? まだ春休みだろ? 昨日だってあんな堂々と家にいたのに」
公立学校シュコーラは4月1日からもう新学期ですよ、マクシム・アンドレエヴィチ」
 訝しがるおれに、プロパガンダ男が笑顔を向けてくる。かと思えば、その笑みは急に引っ込んで、
「……あ、いえ、失礼しました。私学に通っていらっしゃるかたは、その限りではないですよね。それこそあなたが仰るとおり、昨日はずっとぼくらと一緒におられたわけですし」
 と、神妙に自らの発言を撤回した。どちらにせよこいつはアリサを小学生か何かだと思っていやがる。無理もないことだが、あいつが通っているのは小中高一貫の公立学校でもなければ私学でもなく四年制大学ウニヴェルシチェートだ。そもそも、いくら身体能力が人間離れしていようが、魔法が使えようが、小学生を祓魔師稼業に駆り出すほどおれたちは鬼畜じゃない。
「そんなわけで、一番の腕自慢が不在なんだ。俺だってたまには働かにゃ、いよいよ協会から干されちまう。それに、どっちみち外には出なきゃならんからな……」
 言ってフセーヴァはカップを傾け、中身を一息に飲み干した。魔術師や聖職者というより退職間際のシステムエンジニアみたいな格好をした、このリーダーがお出ましになるのは決定事項らしい。まあ、ただでさえ後ろから監察官殿が目を光らせているところ、横からもアリサにどやされる、なんて状態よりはいくらか気が楽だ。おれたちは午後一番で公園へ乗り付けることに同意し、めいめい解散することとなった。
「そうだ、フセーヴァ」
 談話室から出ていきかけるリーダーに、おれは呼びかけた。
「どうした?」
「忘れるところだった。なあ、復活大祭パスハの卵って、まだ残ってるか?」
「残ってる。……そうか、そうだな、じゃあパンと塩も持って行かにゃならんな。ウォトカもだ」
「頼む。持つのはおれが持つから、準備だけ」
 勝手知ったるおれたちの会話に対し、プロパガンダ男は呑気に「お弁当の話ですか?」なんて首を傾げていたが、おれは無視した。今は説明するのが面倒くさい。それに、どうせ現場で必要になったときには、また一から質問攻めに遭うことになるんだ……

  * * *

 最高気温が19℃という昨日の暖かさに比べて、今日は主に悪い意味で「いつもの春」だ。薄曇りで風が強く、冷たく湿った空気が漂う、何となしにふさいだ天気。大通りでは誰もが冬物のコートの襟を立て、石畳を急ぎ足に通り過ぎてゆく、そんな昼下がりだった。
 シュヴァロフスキー公園の正門に立つ警察官たちも、ウィンドブレーカーを着込んでいながらどこか居心地悪そうで、できることならさっさと切り上げて暖かい部屋に戻りたい、という雰囲気を漂わせている。春らしい彩度に欠けた白黒の規制線が、場の寒々しさをいっそう強調していた。
「おう、今日はシーマにそっちのお若いのだけじゃなく、フセーヴァまでいるのか。さては男衆まとめて愛想を尽かされたな?」
 帽子やヘルメットを被った捜査官たちの間から、知り合いの警察上級中尉が軽く手を挙げ、おれたちに向けてにやりと笑ってみせた。隣には昨日おれたちを担当した、あの無愛想な軍曹殿も控えている。上官の軽口を咎めるでもなく、便乗して愉快がるでもない、判で押したような「お役人」そのものの姿だった。
「幸いまだ蹴り出されてはいませんでね、ゼレノフスキー上級中尉殿。昨日に引き続き、協会からの指示で捜査協力に参った次第ですよ」
「知っとるよ。こちとら待ってたんだ。魔法使いが来なけりゃ、俺とネスメヤーノフはただの息をする立て看板みたいなもんだからな」
 肩をすくめるフセーヴァに、上級中尉は冗談とも本気ともつかないことを言った。彼らが所属する「魔法魔術調整監督課」だかいう部署に、どの程度実体があるのか知らないが、サンクトペテルブルク市警の中ではそう珍重されていないことだろう。上級中尉はともかく、隣の軍曹殿には大分と「立て看板」の趣があるな、とおれは思った。たぶん太い赤字で「警察官立ち寄り所」とか書いてあるやつだ――おれの内心を知る由もない警察軍曹は、威圧感もはなはだしい直立不動の態勢で、むっつりと黙っているばかりだった。

「その娘さん、帰る途中だったって言うんだな。公園の出口までは全員で移動するはずが、気が付いたら周りに誰もいなかったんだと。それで怖くなって、一緒に来てた友達に電話を掛けようとしたとき、後ろからやられたって訳だ」
 規制線を乗り越えて、目的の「ナポレオンの帽子」へ歩いてゆく途中、上級中尉は現在の捜査状況を一通り伝えてくれた。といっても半分以上は既に報道されていることだった。おれたちが聞き入るべきはもっと些細で、しかし実効性のあることだ。
「それが池の傍だった? 一体どういうルートで……いや、本人は迷ってたんだから判らねえか」
 白樺の立ち並ぶ遊歩道を進みながら、おれは考えを口に出しては引っ込める。と、そこで上級中尉がおれの顔を見て、
「そう思うだろ? ところがだ、現代ってのは便利なもんでな、被害者の詳しい足取りは解ってるんだよ」
「は?」
 おれは数秒の間考え込み、思い当たる節を探った。目撃者がいたとか? いや、それなら「現代の便利さ」みたいな話にはならないだろう。園内に監視カメラはそう多くなかったはずだ、とすると――
「……あ、携帯の位置情報サービス? でもあれは何か、細かく記録とかってのは……」
「あの、もしかすると」
 ふいにプロパガンダ男が声を上げ、おれと警官二人の間に割り込んでくる。相変わらず一挙一動が心臓に悪いやつだ。全体的に彩度の低い森の中にあって、赤いスカーフがまた強烈に主張してくる。
「フィットネス・トラッカーですかね? それを被害者が身に着けていて、夜の間じゅう稼働させていたおかげ、というのは」
「それだ、それ。何だったか、名前は忘れたが海外製のやつをな。その記録を提出してくれたもんで、かなり正確に把握できてる」
 おれとフセーヴァは顔を見合わせた。全く話についていけない。
「……フィットネス、何だって?」
「他にアクティビティ・トラッカーと呼ばれることもありますが、つまり高性能な万歩計ですよ、フセーヴォロド・キリロヴィチ。歩数だけでなく移動距離や移動経路、心拍数や消費カロリーも記録できるんです。インターネットと同期して」
 デジタルネイティブ世代の若者が、基本的なところをざっと解説したものの、戦前生まれのフセーヴァはあまり理解できていないような顔だ。「何故そこまでする必要があるのか」とでも言いたげである。おれも正直そこまでする必要は感じないが、今回ばかりは役に立ったわけだ。健康管理とは全く別の面で。
「うちでもかみさんが欲しがっててな、俺はそんなもん腕に巻くぐらいなら、代わりに重しでも巻いて歩いたほうが体に良いと言っとるんだが。まあ、それで問題の経路ってのが」
 上級中尉が横を歩く部下に目をくれる。今まで会話に一切口を挟まなかった警察軍曹は、黒い肩掛け鞄から薄型のタブレット端末を取り出すと、手慣れた様子で操作した。こちらに向けてよこされた画面には、経路を表しているのだろう赤い線が、公園の地図上に曲がりくねって示されていた。
「大学生のグループがいたのはパルナッソスの丘だ。天体観測は午前2時ごろに切り上げ、そこから徒歩で下山……ってほど山じゃねえが、まあ下山だな。グループの残りは正規のルートで公道まで出たが、そこで一人いないことに気が付いた、と」
「で、被害者のほうは……ずいぶん迷走したもんだ、これは」
 液晶画面を覗き込んで、フセーヴァが渋い顔をする。丘を下りるところまでは問題なさそうだが、その後が大変だ。遊歩道を逸れたり大きく回り道をしたり、明らかに道ですらないところへ踏み込んだり、同じ場所を何度も行ったり来たりと、誰が見ても判るような「遭難者の動き」だった。そして最終的に、「ナポレオンの帽子」そばまでやってくる――もとい、戻ってくる、と言ったほうがいいか。そもそも道にそって丘をまっすぐ降りれば、「帽子」の縁に出るようになっているみたいだ。
「それで、記録が途切れたこの地点で突き落とされた……か。そのトラッカーだかも一緒に沈んだんだろうに、データが残ったのもネット同期のおかげだな」
「クラウドの大きな利点ですね。端末そのものが壊れても、データは別の場所にあるから参照できるというわけです」
 シリコンバレーの起業家みたいな格好をした中年男が、ネット文化と縁遠そうな好青年からガジェットにまつわる講習を受けている光景は、おれの目から見ればかなり奇妙なものだった。そんな二人から目をそらすと、今度は仏頂面の軍曹殿と目が合う。おれは気まずくなって咳払いをした。
「被害者がこれだけうろうろしとること自体は、別に不思議でも何でもない。方向音痴の人間なんてのは、真っ昼間のネフスキー大通りでも迷子になるんだからな。今回は深夜で、明かりも標識も少ない森の中だ。ただでさえ平常心じゃあいられないところ、自分の居場所を正確に把握しろなんてのはお門違いだ」
「おっしゃる通りです、上級中尉殿。不可解なのは、なぜ集団行動の途中で彼女一人だけはぐれてしまったか、ですね?」
 おれたちの代表みたいな顔をして、勝手に場を仕切り始めたプロパガンダ男が言う。と同時に、場にいる全員の視線がおれへと集中した。今日は心臓に悪いことばかり起きる日だ。いや、こういう質問に答えるためにおれがいる、というのは理解しているが。
「マクシム・アンドレエヴィチ、なにか心当たりがおありなんじゃないですか?」
 プロパガンダ男の眼差しは期待に満ちていた。他人に多くを求めすぎるのはフラストレーション増加の元だぞ、と言ってやりたいのをぐっと堪えながら、おれは応えてやることにした。

「まあ、こういうことをやらかす存在に心当たりがないって言ったら嘘だ。だからこうして調べをつけに来たわけだろ」
「それは例えば……チョルトのようなものでしょうか?」
「もちろん『踵のないやつ』の仕業ってことも有り得る。ただ、『道に迷わせる』ってことなら、あいつら以上の専門家がいるんでね」
 おれは軽く息をついた。白樺の並木が途切れ、目の前が開けてくる。強い風に吹かれて波立つ水面と、生い茂るアシやスゲの群れ、そして制服を着た警官たちが遠くに窺えた。あれは「シャツ」だ。「帽子」はそのまた向こうにある。
「その『専門家』というのは――」
「ここじゃ名前は呼べねえんだよ、リュドミール・アレクサンドロヴィチ。前に言ったろ」
「あ、……そうでした。正に自然のただ中ですからね、ここは」
「それもあるし、水の傍ってのがいけないんだ。おれのいう専門家と、『水のツァーリ』は仲が悪いんだよ。ちょっと名前を聞いただけでも怒り出すぐらいに。――なあ旦那、池のことは後回しにして、ちょっと林の中を調べたいんだが、許可が下りるか?」
 コムナルカで考えていた捜査計画の一つを口に出してみると、上級中尉は軽く顎を上げてこちらを向き、
「あんたがそうしたいって言うなら、どうぞ遠慮なくやってくれ。責任を取るのは俺じゃねえからな」
 と、良識的な市民が聞いたら眉を顰めそうなことを言う(冷静に聞いているおれは良識的な市民じゃない、ということではないが)。支部の監察官がいる前でこの物言いはまずいんじゃないか。いや、昨日のこともあるし今更か。
「本当にいい性格してるよな、旦那」
「なんでえ、ちょっとした冗談じゃねえか。責任は持つ男だぜ、俺は。刑事課を離れて今こうしてるのも、責任を持ちすぎた結果って次第だ。なあネスメヤーノフ?」
 ふいに絡んできた上官の顔を、軍曹殿が無言のままでちらりと見た。公的でない発言に対しては、あくまでだんまりを決め込むつもりらしい。そのハシバミ色をした目は、さっきより心なしか冷たくなったように感じる。
「とにかく――重ねて言うが、遠慮なくやってくれ。解明に繋がる何かが出てくりゃ儲けもんだ」
「格別のご配慮をありがとうございます、上級中尉殿!」 何故かプロパガンダ男がおれより先に礼を言った。
 おれも上級中尉の「格別のご配慮」に感謝の言葉を述べ、コートのポケットから折り畳んだ公園の地図を取り出した。片方はインターネット上の案内図をそのまま印刷したもの、もう一つは公園事務所から貰ってきた植生マップだ。142ヘクタールという広大な敷地の、どこに白樺が群生し、どの辺りにイラクサが生い茂り、水辺ではどんな植物が見られるかの概略が記されている。おれはその中からマツの仲間を探した――エゾマツやアカマツ、トウヒなどの名前を。
「できれば特に大きいやつが……さすがに樹齢がどうとか書いてねえか」
「何のお話でしょう、マクシム・アンドレエヴィチ?」
「その『専門家』に会いに行くって話だよ。お育ちのいい監察官殿には相応しくない山歩きだ」
「ああ、そんなことでしたら」
 プロパガンダ男は朗らかに笑い、握りこぶしを作って胸に当てた。 「お任せください。昨日も申し上げましたが、これでも見た目よりは力があるんです。腕力だけでなく、体力や脚力も!」
 おれは溜息をついたが、そこでふと視線を感じた。顧みれば、クレムリンの衛兵みたいな顔をした軍曹殿が、おれの顔に不信の目をじろりと注いでいた。言いたいことは解る。解るとも。この場にいる人間の中で、一番体力がないのはおれだよ。畜生。

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